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2020年12月01日

♫:老い人達の哀歌


♫:老い人達の哀歌 https://youtu.be/h5_InDuT_uU

カタカタ・カタカタ・はた織り機  これは私の宝物
私が嫁いだ頃の事  母が私にくれたもの  
だから私も機を織る  母が私にしたように
せめて冬場の襟巻きを 娘に織ってあげたくて 娘に織ってあげたくて
ドレドレ娘はいつ来るの?  私の娘はいつ来るの?
もしや私の居所を  娘が知らないからかしら  
否々、知らないはずがない  私を忘れるはずがない   
日長暮らしで待つけれど どうやら今日も日が沈む・どうやら今日も日が沈む
どなたに尋ねましょ 娘の居所を
どなたに尋ねましょ  娘は元気かと
そして・せめて便りでも 私におくれよと 
どなたか伝えてよ 娘に伝えてよ

娘に都合があるのなら  せめて手紙(フミ)でも欲しいもの  
日長・娘を待つ辛さ 思いしたため・返すのに
カタカタ・カタカタ籠の鳥   籠を揺らして泣いている 
羽根をもがれた籠の鳥 私は老いた籠の鳥  私は老いた籠の鳥
否々、私はそうじゃない  ここへは遊びに来たつもり  
娘が必ず来てくれる   今日は必ず来てくれる
娘が迎えに来てくれる  そして、一緒の帰り道 
娘に手渡す襟巻きを  私はこうして織っている  
今日もこうして織っている

どなたに尋ねましょ 娘の居所を 
どなたに尋ねましょ 娘は元気かと・・ 
そして・せめて便りでも 私におくれよと 
どなたか伝えてよ 娘に伝えてよ

どなたに尋ねましょ 娘の居所を  
どなたに尋ねましょ 娘は元気かと・・ 
そして・ついでの時でいい お前に会いたいと 
どなたか伝えてよ 娘に伝えてよ  

2020年12月01日

♫:立田山自然公園にて




ユラユラ ユラユラ陽炎の中  ユラユラ ユラユラ母が杖をつく
ユラユラ ユラユラ陽炎の中  ユラユラ ユラユラ母が歩き出す・・

雨上がり 夏も近いある日の早い朝 今日は母がいつものデイを休む
たまには息子と一緒に どこかに出かけたい・・母が言う
そうだね 雨上がりのミドリが綺麗かも・・私は即座に答える
たまには母と一緒に  同じ時間を過ごすのも・いい

立田山自然公園遊歩道  私の家から車で僅かに・5分
車椅子はいらない  母は急げ・急げとせかす
立田山自然公園遊歩道  母のお気に入りの場所
訪ねる度に色を変え  四季折々の自然がそこにある

ユラユラ ユラユラ陽炎の中  朝日に輝く芝生が綺麗だね
裸足で歩いてみようかしら  ユラユラ ユラユラ母が歩き出す

立田山自然公園遊歩道  母の見つけた安らぎの場所
育った家の庭にも  大きな池があったと・母は言う
立田山自然公園遊歩道  母の記憶を呼び起こす場所
こんな所に住めたら  さぞかしいいだろうねと・いつも言う

立田山自然公園遊歩道  母がいつも口にする場所
菖蒲池の真上に  いつしか虹が架かりだす
母には虹が見えているのかしら  虹に向かって母が歩き出す
車椅子を片手に  私は束の間の奇跡を見る

ユラユラ ユラユラ虹に向かって  ユラユラユラユラ母が杖を棄てる
ユラユラ ユラユラ母が虹の中を ユラユラユラユラ今・歩き出す
ユラユラ ユラユラ虹に向かって ユラユラユラユラ母が杖を棄てる
ユラユラ ユラユラ母が虹の中を ユラユラユラユラ今・歩き出す  
歩き始める・・
  

2020年12月01日

♫:代継神社へ続く坂道


♫:代継神社へ続く坂道 https://youtu.be/xDtnJSzl2hA

母:この代継神社へ続く急な坂道 ここを普通に歩いて登ればきっと日が暮れる。
母:でも、この長い坂には意味があるのよ お前にそれが分かるかしら?   
「この代継神社へ続く急な坂道  ここは天へ繋がる道だよ」 母は・言ってた
「でも、長い坂なら誰もがいつも歩いてる  生きていくって事はそんなことだ」と

「いつまで通えるかしら この坂登って これも私のお勤めしら・」
「でも、お願いするよ 私はこのままここで ずっとお前と暮らしたいってネ」  
神には・届いたのかしら・・ 母の言葉・届いたのかしら ・・      
でも・あの日の母は何を祈ったのかしら・ 自分の言葉と裏腹  旅立ち支度
もしや「私はもういい そろそろ向こうに・」 神は母の祈りに涙で 応えたのかしら・

お袋・、今日は神社で説教されたよ 「 いつも願い事ばかりじゃいけませんよ」と
「生きてる今への感謝が先ですよ」と でも今の俺にはそんなの無理だよネ   
そして、お袋・宮司さんから訊ねられたよ  近頃、アンタの姿を 見掛けないねと  
だから、俺は答えてきたよ辛かった・けど  「先日・母は、 旅立ちました」と

思えば、あの日の神社の帰り道  母は何度も振り返ってた  
「 これでお別れですよ」、「これが最後の詣でよ」 まるで、母は・そう言うように・  
神には・届いたのかしら・ 母の心届いたのかしら ・ 
母は幸せだったかしら私との暮らし 代継神社の境内 私は佇む 
そして、お袋・俺は決めたよ この町を出るよ 思いが一杯詰まった町だけどね      
過ぎ行く季節の中に・ 私は・独り取り残されてる・ 過ぎ行く季節の中に・・・
  

2020年12月01日

♫:長崎メモリー

♫:長崎メモリー https://youtu.be/sQHtNosb7yo

ゆらり ゆらら・揺れる あれはランタン灯り
恋も・夢も  愛の歌も 今では遠い・お伽話
ポツリ ポツン・浮かぶ あれは九十九島
涙の数だけ思い出秘めた そこは私の愛しいふるさと

今更だけど・・すべてが懐かしくて
人は誰もが ふるさとへ思いを巡らす
それは私も・同じ事
だけど・悔いてばかりの私の人生  
まるで・素顔を見せないピエロのように
今も涙を隠し 生きている・・

ゆらり ゆらら・陽炎 あれは港へ続く線路
古い石畳 長い坂道 そこは私の愛しいふるさと
・・・・・・・・・・・・・・・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
ゆらり 揺れる・心 あれはオランダ屋敷
回る風車に 季節は巡り 人は幾度も夢を・見た
ポツリ ポツン・たたずむ 誰もが孤独な旅人・・
届けるあてない思い出背負って この街へ逃れて来る

もしも・もう一度 あの街に帰れたら
誰もが・無くしたものを思い出すかも
それは「夢のつづき」・・人はそう言う  
だけど・悔いてばかりの私の人生 
まるで・素顔を見せないピエロのように
今も涙を隠し 生きている・・

ゆらり ゆらら・蘇える あれは・長崎めもりぃ
古い石畳 長い坂道 そこは私の愛しいふるさと
  

2020年12月01日

♫:いのち

♫:いのち https://youtu.be/ooSGIM1A5gc

「あれは・何?」 母が私の袖を掴む  
あれは星 そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺 あんたの命を守る星
「私の母も・いるよね? あの夜空のどこかに 
私の事を見ているかしら」
「叫んでおくれよ!私はまだここで暮らすつもり」と 
「もう少しだけお前と居たいから」と

「私は頑張ってるよね  お前は分かっているよね」
母は私を振返る 
「叫んでおくれよ  あの夜空に向かってさ 
まだ私を迎えに来ないでと」 
「母に伝えてよ! お前ならそれができるはず 
私はまだ息子と暮らすつもりと」

「あれは・何?」  母が私の袖を掴む 
あれは星  そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺  あんたの命を守る星

「私は頑張ってるよね お前は分かっているよね」
 母は私を振返る 
「叫んでおくれよ あの夜空に向かってさ 
 まだ私を迎えに来ないでと」 
「母に伝えてよ! お前ならそれができるはず 
私はまだ息子と暮らすつもりと」

「あれは・何?」  母が私の袖を掴む 
あれは星  そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺  あんたの命を守る星  

2020年12月01日

♫:2001年、母からの手紙

♫: 2001年、母からの手紙 https://youtu.be/gzMVuCLK2lw

いつの事かしら走り書きで書かれた 母から私へ宛てた手紙がここにある
多分、母はその頃、88を越えた頃 まだ独りの暮らしに拘った頃
いつかお前が私の老いに気づいても そして・そんな私の様子を周りが囁きだしても
お前は心静かに私を見守ってね 私はもうすぐ施設へ入るつもり 
繰り返しになるけど私を心配しないで 子供には子供の人生があるのよ   
でもお前はとても優しい子だから 私を必ず迎えに来ようとするはず
もう一度言うよ私は施設へ入るよ 決して子供の重荷になる気はないよ
だから最後まで読んでねこの手紙 私はもうすぐ施設へ入るよ  

そしてこの際だから言っておくよ いつかお前が施設を訪ねた時に
もしも私の様子に変化があっても 決してお前は戸惑わないでね 
たとえ私がお前に背中を向けても そんな私を許しておくれね
たとえ私がどんなに変わり果てても 私の肩に手を置いてね 
 
私が生まれた佐々には綺麗な施設があってね 深江の兄もそこで暮らしてるらしい 
だから私もそこへ入りたいと思う もう一度、甥に相談しようと思う
本当は深江の家で兄と暮らしたかったさ でもそれは無理な事だと甥に言われたよ
ゴメンねこの手紙私の都合ばかりを書いて  正直言って人恋しいんだよ
誰だってやがては老いを迎えるものだよ この歳になってつくづく思うよ 
自分でも分かるんだよ私の中の何かが 日々の暮らしの中で崩れ落ちていく
それがいつの事なのか・何の話なのか 私の知らない事が次第に多くなったよ
買い物帰りの坂道でまた転んでね お前の所へ電話なかったかしら    
自分ではいつでもしっかりしているつもりさ でも去年までの暮らしと何かが違うよ
もう無理かも知れない今の私の暮らし 近頃・役所の人もよく訪ねて来るし
これが老いだと思うつくづく思う 誰もがいつかは迎える歳の取り方かしら
だからこうしてお前に手紙を書いてる 私はもうすぐ施設へ入るよ  

だからお前に言っておくよ いつかお前が施設を訪ねる度に
もしも私の様子に変化があっても 決してお前は驚かないでね    
何にもできなくなった私を見て 決してお前は嘆かないでね 
お袋!アンタはよく頑張ってるよと 私の事を褒めておくれよ

もしも突然私が旅発った時には 心静かに受け止めておくれ
そして冷たくなった私に言ってね 「お疲れ様」と声を掛けてね
いつの事かしら走り書きで書かれた 母から私へ宛てた手紙がここにある
古い便箋に書かれた手紙は 平仮名だけで書かれた右肩下がりの文字
読むのが辛い・母からの手紙 私はもうすぐ施設へ入るよ


   

2020年12月02日

♫:施設にて

♫:施設にて https://youtu.be/vqJB-d6E0Ms

〔20015年9月:再録音)

窓越しに見える夕焼け空 施設の外は車の波 
遅かったじゃないか 何してたんだと 私を激しく叱る
買物に行くよ これから直ぐにさ お前と一緒にさ
何も分からない今が分からない 施設を自分の家と思ってる 
ベッドを揺らし立とうとする そして私に倒込む 
施設の壁のチャイムが響く ここはどこ?・・母がつぶやく
どうしたんだろう私は何故ここに居る 歩けないのは何故なんだと 
首を傾げてる私に聞く 深いため息をつく
窓の外・・夕陽が動く 私の心も揺れている
気紛れな梅雨空は 突然、涙を流したり 
真っ赤な顔で怒ってみたり 母の記憶を曇らせたり
WOO・私は憎む WOO・時の流れを 
WOO HOO  WOO HOO

覚えているかい ほら・いつもの散歩道 あんたと俺をいつも待ってる
足を引きずる 年老いた犬 今日も居るかしら
負けちゃいけないよ あの犬だってさ 必死に生きてるじゃないか
悔やんじゃ駄目さ 嘆いちゃいけないよ あんたは立派に闘っているよ  
今は兎も角 歩けるようにさ そして家に戻る事さ 
頑張ってくれよ 退所まではと 私は母を励ます
帰りなさい・もう、遅くなる お前は仕事で疲れただろうと
明日もおいでよ 待ってるからねと 母が母に戻りだす
送っていくよ せめて玄関まではと 母が急に騒ぎ出す
気紛れな梅雨空は 突然、涙を流したり 
真っ赤な顔で怒ってみたり 母の記憶を曇らせたり
WOO・私は憎む WOO 時の流れを 
WOO HOO  WOO HOO  

2020年12月02日

♫:佐世保めもりぃ

♫:佐世保めもりぃ https://youtu.be/NBcG2MCcn_U

思い出に君は独り誘われて 涙ぐむ事があるだろうか  
過ぎていく時が君を泣き虫にするのだろう
時の流れに逆らいもせずに 生きてきたつもりだけれど  
過ぎていく時が俺をあの頃に戻す事がある
アルバムに残るあの石畳 坂道から見えた米軍(きち)の様子 
風に乗って漂っていた 軍艦が流すオイルの匂い
グラス(大麻)とガムを一緒に噛んで 兵隊達がたむろしていた 
あのブラックローズは 今でも佐世保にあるのだろうか 
軍艦が出ていくベトナムへ向けた 必ず生きて帰れと叫んだ 
だけど死んだよ あいつは死んだ 俺に彼女を預けたままで
あの町にもう一度帰れたら 確かめてみたい場所がある 
外人墓地に 眠るあいつ(米兵)の隣に植えた桜の木を 


恋なんかさらさら知らず ビートルズを聴く気もなく 
ただ兵隊達と罵り合っていた メリケン通りのあの橋の上
一人いつも通った外人酒場  あのブラックローズは今もあるだろうか・・ 
誰もが人を人と思わず デモクラシーだけで色分けしてた 
いつの間にか子供のままで 大人になった俺が居た

俺の目の前でパンパンが死んだ 将校野郎に撃ち殺されたよ ジャップの癖にジャップの癖にと 奴がわめいていたよ  
「日本人なのよ、所詮、私達は」、と パンパンが息絶えたよ 
腕の中で・・ 見ず知らずの 俺の腕の中で
皆が見てた見ぬ振りをした 日本人達が下を向いてた  
俺は泣いたよ 睨みつけたよ そして殴り掛かったさ
ヤンキー野郎は怯えていたよ 舗道に流れる赤い血見てたよ 
横たわる天使が居たよ パンパンの目に空が映ってた
あの頃、誰かが噂になったよ 海軍橋の真ん中で  
兵隊達を 呼び止めて  喧嘩を売る奴が居るってさ
下手な英語で話し掛けながら   突然、殴りかかると 
そして、そいつは いつの間にか 基地の中へ姿を消したと

※ 繰返し→転調:半音上げ

これを見てみろ俺の女だと 二ガーが俺に言ったよ  
写真をくれたよ 財布と一緒に いつか彼女に渡してくれと
今度は3度目のベトナム行き 俺はこれまで運が良過ぎた 
今度は佐世保にゃ俺は戻れない 死んだ仲間が夢で言ったと
彼女に写真を渡せないなら 親父が眠るあの外人墓地に  
せめて桜の 苗木を一つお前が植えてくれと・・
やがて、聞いたよそいつの噂 爆弾踏んで粉々に 砕け散ったと 
骨も残さず 天国へ行ったと・・
港に映る 揺れる街灯り 港の隅のオイル溜りは 
あの日のままにあの場所に 今でもあるのだろうか
今でも思い出す青春のひとコマ あのブラックローズはあるだろうか・・ 時の流れが連れ戻す 苦い思い出がある  

2020年12月02日

♫:綿 雪

♫:綿 雪 https://youtu.be/fntZ9tWxUs8

「ホラ・綿雪が踊りだしたよ 青く澄んだ空から」
デイへの途中のいつもの交差点 貴女は空を指差す・・
「雪を掴んでみようかしら・ちょっと窓を開けておくれ」と
まるで子供のように貴女はハシャギ出す 窓に顔を擦りつけてる 

ホラ・ご覧よあのビルの角 身体寄せ合う鳥が居る
3羽の鳩が寒さに首を縮めてる きっと家族だよね
「もう・何度目の冬を過ごすのかしら」 貴女は静かに呟く
そして・「こんなに晴れた冬の日なんて久し振りだよ」・私に言う

母が両手を出す 綿雪が舞う中に
やがて雪が溶けていく 母の手の平で 
まるで雪は自分の命を 母に与えるように

ホラ・綿雪が踊っているよ 貴女を励ますように
だけど無口な冬はなにも応えない 母は今日も施設へ向かう 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
去年までなら ずっと見とれていた 施設の庭の紅鶯宿
今年の貴女は振り向きもしない 小振りの梅の事・・
ホラ綿雪が蕾の頭に乗ったよ 冷たさにクシャミをするかも・
でも雪は消えたよ 直ぐに姿を消したよ これが命の儚さだってネ

「こんなに晴れ渡る青空なのに 雪はどこから降るんだろうね」って
そんなに急ぐ道でもないはずなのに 母は何でも知りたがる
そして、ホラ春はすぐそこなのに 何故か貴女は急ぎ足
だけど無口な冬は何も応えない 母は今日も施設へ向かう・・

母が両手を出す 綿雪が舞う中に
やがて雪が溶けていく 母の手の平で 
まるで雪は自分の命を 母に与えるように

ホラ・綿雪が舞い始めたよ 貴女を励ますように
だけど無口な冬はなにも応えない 母は今日も施設へ向かう
  

2020年12月02日

♫:白い冬

♫:白い冬https://youtu.be/OP0VQIEDWWQ

ふとした・弾みで   言葉を失くして
あの人と・別れました  凍てつく夜でした
雪が・降っていました  暗く遠い空から
その夜は泣き通しました  白い夜でした   

忘れましょう・こんな暮らし  もう・沢山ですと
言い出したのは私でした   まだ・若過ぎたのですね

あの人は寂しそうに  言葉も返さずに
窓の外・見ていました  白い夜でした
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ふとした・弾みで     言葉を失くして
あの人と・別れました  凍てつく夜でした
白い季節が来る度   思い出す・貴方を
壁に残ったイニシャルが   涙を呼び戻す

幸せですか?今の貴方は   何もかも忘れて
我侭でした・あの頃の私    もう・遅過ぎるけれど・・

雪が降って来ました    あの日と同じように
今夜も泣いて・います   あの日と・同じように
幸せですか?今の貴方は   何もかも忘れて
我侭でした・あの頃の私    もう・遅過ぎるけれど・・

雪が降って来ました    あの日と同じように
今夜も泣いて・います   あの日と・同じように
あの日と・同じように・・・  

2020年12月03日

♫:金木犀

♫:金木犀 https://youtu.be/z2PzMRoHcZI

いつになく冷えた朝 窓の外は深い秋 
雪のように舞い落ちる金木犀 白い季節はすぐ・そこ
静かな寝息立て 今朝は母がまだ眠ってる 
昨日、届いたばかりのハーモニカ 枕のそばに置いたまま
窓を少し開けましょうか? 母の眠りを邪魔せぬように 
そして香り放てよ金木犀 今朝は君が母を起こせ
  今は秋? 母が聞く 春はまだ? 母が聞く・
  途切れ途切れの記憶の中に 忘れられない事がある  
  古びたアルバム 開く度に 破れた写真 継ぎ足す度に
  母の記憶が束の間・戻る
カーテン越しに朝日が射します 窓の外は深い秋 
庭の隅に積もった金木犀 白い季節はすぐ・そこ

92度目の冬が来る 辛い事など一つもなかった 
愉しい事だけ覚えているさ 私にいつも・母が言う
母が昨夜の夢を話します 幼い頃は近所のミッチャンと
川に水汲み、山には小さなビャラ集め みつえサンも同じ夢をみたかも
会いに行きましょうよ 貴方を慕うみつえサンに 
そして、姉のふじえサンにも会えるかも 歌が浦は・母の古里
  今は秋? 母が聞く 春はまだ? 母が聞く・
  途切れ途切れの記憶の中に 忘れられない事がある
  古びたアルバム開く度に 破れた写真継ぎ足す度に 
  母の記憶が 柄の間・戻る
厚めの布団に替えましょうか それとも薄手を重ねましょうか 
部屋に飾り続けた金木犀 今日で君とは・お別れ
  

2020年12月18日

〇.始めに

♪:https://youtu.be/vlpK4ZKobds

〇.始めに

悔悟なき介護の為に・。

私にとっての介護記録というものは母との暮らしの記録。その中身というものは既に90歳になっていた老いた母が我が家へやって来てから102歳で没するまでの約13年間の記録。決して「親の介護をしていた」という意識は特に持ってはいませんでした。だから、母がどう受取ってくれていたかと考えるより、まずは私自身がとても幸せで充実した”人間的な時間”を過ごすことができた期間だったと思っていることです。そうした意味では介護記録、介護日記等々というプロ現場で使われる業務記録などとは違ってあくまでも「己の母親との同居記録」と表現したほうが妥当だろうと思います。

 でも、この平成の世に蔓延る常識で言えば、「えっ?、老いた親との13年間もの同居?。亡くなったのが102歳だって?。それで介護した側の息子が幸せな期間だったって?・それ冗談言ってんでしょう。長過ぎるほどに長い同居。よく頑張ったよ」、と思う方が多いことでしょう。しかし、私にとっては「母はもっと生きれるはずだった、6日前には滅多にしない咳をコホッとしては私にウインクをする余裕があったほどじゃないか」という思いを今も持っております。
それに、母が突然に彼の地へ逝かなければいけなかった理由が何となく推し測れるからです。母の死因は表向きは老人性肺炎というもので誤嚥性肺炎とも呼ばれます。しかし、肺の炎症の特徴的な痰が母の日常にはなく、従って熱もなく、ただただ呼吸困難の中で絶命した我が母でしたが、私的な素人診断で付けたい死因は肺に於ける真菌の異常増殖による窒息死と言いたいほどの苦しく壮絶な死でした。

 従来から書き続けていたブログ《母に生命を返す時》は母が存命の頃の同居記録、或いはある時期の母の闘病記録であり、母と私の日常の喜怒哀楽を単に記録していたものですが、2014年3月17日に母が彼の地へ逝った事で過去のブログ記事への加筆修正を行ないたいと思っています。それは医療・看護から介護施設に対する感謝だけではなく批判をも・。更には介護家族自身に対する大いなる批判をも含めて私なりの思いを語らせて頂きたいと思っております。

 はっきりと言えることは「先ずは老いた親を抱える家族自身が親に対する思いが軽すぎること。そして、そのような高齢者を引き受ける介護施設や医療施設で働くプロの介護人や医師・看護師に至る者までがやはり老いた者に対する思いが軽いことを指摘しなければいけません。恐らく、今後の記事には読んでいただく方次第では随所に無礼な表現を含む記事を伴うことが容易に想像できますが、約12年に渡る在宅での母の様子や数度の入院、入所の模様を正確に書くにはやむを得ない事と思います。どうぞ、寛容の思いをもってお読み頂ければ幸いです。

★:母の死因は,
肺での真菌の異常増殖による呼吸機能低下・の気がしてなりません。 母の死亡時には残念ながら主治医さんの立会いはなく、当直医さんだった故か母の死因についての説明はありませんでした。その後、病院を葬儀車両で出る際も主治医さんの姿を見ることなく、従ってこの記事は私の推測で書いています。死亡診断での母の死因は日常的な誤燕の連続を原因する老人性肺炎・。そのような診断名が付与されるとすればそれまでですが、実際にはその誤燕による肺炎には効果があるとされるペニシリン系のユナシン(アモキシリン等の別称あり)を始めとしたセフェム系の何か、そしてオフロキサシンという3種類の抗生剤が試みられましたが残念ながら我が母には全く効果がありませんでした。

 主治医のAさんも「何故だかお母さんの肺炎に効果のある抗生剤が見つからない」と申されていました。私の感触では主治医さんが申されるほど多くの抗生剤は試みられてはいません。抗生剤には元祖ペニシリン系からテトラサイクリン系、ニューキノロン系、マクロライド系、アミノグリコシド系・、更にはそれぞれの系統に第一世代から第四世代と実に数多くの抗生剤があります。ただ、主治医さんなりに頑張って頂いたのは事実ですが、正直な処では私は心中激しく反発をしていたんです。

 「肺に炎症があるとは言え、抗生剤投与の前後で肺の画像に全く変化がないのであれば、画像では肺炎のように見えていても実際には肺炎ではないんじゃないか?。何故なら、既に投与した数種類の抗生剤の効果がなく、抗生剤自身が「肺炎ではありません・」という答えを出しているじゃないか・」と。「医者として、もっと別な発想の引き出しを開けてくれよ」と必死に願っていました。
この時、使用された抗生剤はペニシリン系のユナシン、セフェム系の何か、それに最後がオフロキシサンという一般的なもので、以前に風邪を拗らせて肺や気管支に炎症を起こした際には確かに効果があったもの。でも、以前には効果を発揮したものを使っても今は全く効かないのです。「何やってんだ。時間ばかりが過ぎるよ」、と思っていました。

 様々な抗生剤を投与してはその後の様子を診る・、というこの非常に無駄な時間が母の命を決定的に奪っていったような気がしているのです。何故、母の肺炎には効果がないのか・・、結局、説明のないままに母は《絶命》という表現ができるほどの苦しい最期を私の眼前で迎えたのでした。
「多分、母はA医師が考える肺炎ではなかったんだ」と時が過ぎれば過ぎるほどに私の思いは強くなっていくのです。 医療側、主治医さんへの非礼を承知で私の推測を言えば、「肺炎だという前提が強すぎたのではないですか?」ということ。若しかして、我が母の肺の中では真菌が蜘蛛の巣のように増殖していて、Ⅹ線撮影画像にはその様子が写り、それはまるで肺の炎症を撮影した画像と同様に見えていた可能性があるからです。 何故なら、既に母の足の爪は真菌の影響によって変形し、白い爪の上には更に白い爪が山のように盛り上がって重なり増殖するという異様な症状が数ヶ月前から発現していたはずです。看護師さんは一向に主治医には伝えてくれません。だから主治医さんも母の足の指の変形までは気づかない・、という状況だったのです。
つまり、この非常時に試されなかったのは真菌治療剤だったのではないか・、と私は今も思っています。水虫菌(真菌)は放置すると手足の爪から指間の皮膚へ、皮膚から血管へと進入し、血液の流れに乗って全身へと広がっては臓器にも住み着くようになります。肺に定着して網の目のように増殖した画像を見ると肺炎のような状態を呈しています。

★:それにもう一点、母の死去から遡る約二週間前、
 病室内のエアコンの調子が悪いという事で点検とフィルターの清掃が行なわれました。本来、入院者を別室に移動させた上で行なわれるのでしょうが、作業は直ぐに終わると判断されたのか母を含む患者達は在室のままで行なわれたんです。それも意外に時間を要した点検とフィルターの清掃でした。その2日後に母の隣のベッドのYさんに咳と発熱を伴う血尿が・。Yさんの主治医の最初の診断は「導尿管装着時の不手際による出血による発熱」という診断でしたが、咳が収まりません。

Yさんのご主人は「導尿管の挿入ミスは仕方ないが、咳が出るのは変だな、変だな」と首を傾げておられたんです。 エアコンの点検の件はこのご主人はご存じなかった為、「多分、血尿と咳は関係がないでしょう。実は・」と私はエアコンの点検修理が行なわれていたことをYさんに教え、恐らくはカビ(真菌=水虫菌)による咳と発熱であって、血尿で咳をすることはないと思うのですが・」と伝えると、Yさんは顔を真っ赤にさせて怒り、看護師長を通じて主治医さんに再度の診察を依頼されているようでした。その結果、私の推測通りにエアコンから出た真菌がYさんに咳と発熱という風邪と似た症状を起こさせていたことが分かって事なきを得たんです。処が、母の主治医のA医師にはエアコンの点検修理の件が伝わっていなかったようでした。母のコホン・コホンという咳が始まったのはYさんの状態が回復しかけた頃からでした・。

医師同士というものは情報を共有したがらない、つまり、自分が下した診断を同僚の医師には教えたくないという心理があるようです。個人情報の何とやらかも知れません。そうであれば、このエアコンの件は看護師、看護師長からの報告として全ての医師には為されるべきでした。私は母の主治医は既に知っているものと理解していた分だけ母の死を早めたのだと、そのことには現在でも独りで苦しんでいます。取り返しのつかない悔いです。

☆:抗生剤と抗菌剤は似て非なる物。
 本来、エアコンから大量に出たはずの真菌が原因だと分かっていれば抗菌薬だけを点滴で投与すべきです。母の主治医のA医師だってそう判断したはずです。しかし、その事実を報告されずに抗菌薬治療の前に抗生剤を使ってしまえば真菌治療薬に協力してくれるはずの有益細菌までもが死滅し、抗菌剤の効果を薄くしてしまいます。あの場面で欠けていたのは吸痰の上で真菌の有無の検査。主治医さんはそれを指示すべきだったのでは・、と思うのです。

 独特の日本文化だと評価されていた伝統的指揮命令システムというものは現在はどの医療機関でも崩壊しているような気がします。現在の医療システムというものは看護師長が主治医に対して指示を出すような場面が多く見られます。主治医が主治医足り得ない勤務構成になっているからです。よく言われるカンファレンスの際にもA医師は不参加だったし、私自身にしても己の疑問を主治医さんに直接問う勇気がないままに母を見殺しにしてしまったような気がしてならないのです。

 実は、濱野裕生の本業の会社は設立して既に34年。今でこそ大小のホールの音響、照明機器のプログラムや操作がメインですが、以前は西日本の幾つかの総合病院、脳外科、消化器外科病院と契約し、Ⅹ線画像やCT・MRI画像等をMOディスクやDATなどに外部保存と管理を行なうという業務をやっていた時期があって、未熟ではあっても私自身でもある程度の画像を理解できるんです。勿論、過去には医師が見落とした重大な疾患を見つけたことは何度もあります。だからこそ、どうしてもこのような見方をしてしまうんだと思います。A医師を庇うとしたら、医師だって人間ですから体調不全や悩み事で物事に集中できない瞬間ってあるはずです。だから、濱野は医師に完全さを求めているのではありません。医師には用意周到さと病院側には入院患者の日々の状態の主治医への報告です。

★:母の死~頼んでいたAEDが準備されてなかった。
 また、事前の書面で交わしていた「肋骨を骨折させるほどの心臓マッサージは不要だが2回を限度とするAEDだけはお願いしたい」という約束も実行されず、今際の時の母の部屋にはAEDが準備されてなく、当直の看護師さんは「AEDの件は聞いていません」と・。そんなの・指示があろうがなかろうが看護師である自分自身の判断でAEDの手配ができなければ単なる傍観者に過ぎません。約束が履行されなかった家族次第ではこの段階で裁判沙汰かもしれません。兎も角、全てが私の勇気のなさが母の死を早めたのでした。

2016年3月17日には母の死から2年が過ぎました。ずっと悔いたままに私は今を生きています。母が突然に逝った最後の6日間のより詳細な記述はこのブログの最終章でしか書けません。兎も角、母はよく頑張りました。感謝こそすれ誰も恨まず母は生き、私を見つめながらまるでフッと風が吹きやむかのように息を引き取っては彼の地へ旅立ちました。本当に慈悲深い仏様のような死後の母の表情でした。頑張って頑張って目には見えない大きなものを私には残してくれたのは事実です。それに「ありがとう。ありがとうね」と母は全てを受け入れる大きな人でしたから、私もこれまで通りに母を見習って生きていこうと思っています。


♫・ 代継神社へ続く坂道 https://youtu.be/xDtnJSzl2hA   

Posted by 濱野裕生 at 15:17Comments(0)☆.はじめに・

2020年12月18日

〇.始めに・②

蝉しぐれ~老いゆくいのち

デビュー後、一年でのコンサート活動中止について。

 この件ではテイチクエンタテインメントを含む各方面へは大変なご迷惑を掛けてしまい、申し訳なく思っています。その他、 デビュー前から活動していた西日本各地の福祉団体さま関連で決まっていたコンサートも完全には消化できなかったことに対し、現在でも申し訳なく思っています。また、テイチクエンタテインメント以前、介護録を本で出版し、その巻末にCDをつけて売るという企画を持ち込んで戴いた某出版社系の放送局に対しても非常に申し訳なく思っています。結局、当時の私は母親の介護という籠の中で暮らし、その籠の外の世界が見えてなかったし、吸っている空気さえもメディアの皆さんとは違う空気を吸っていた訳です。

 デビューの約3週後には日本有線放送総合チャート1位になりながら、その後のコンサート活動をコンスタントに継続できなかった理由は明らかでした。母の傍に付き添ってこその濱野裕生であって、母に対する己の誓いを破ってまで世に出る必要は全く感じていなかったこと。  そして、そのことはスカウトを受けた時点でテイチクエンタテインメントに対しても明確に申し上げていたこと。テイチクからのお言葉は「活動はできる範囲で構わない。しかし、貴方の作る音楽だけは西日本地域だけではなく、北海道から沖縄に至るまで響き渡らせたいとは思いませんか?」だったことです
 
 「大ヒットしていながらCDは全く売れない。何故、濱野裕生はコンサート活動をしない?」、とずっと思われ続けたはずです。 少なくとも、母が没した2014年以降は活動ができる状態ではありました。しかし、地元メディア界では著名なある方は「♪:蝉しぐれ~老いゆくいのち、 に関しては必ずしも介護ソングのイメージは強くなく親孝行ソングだ。しかし、濱野裕生のコンサート会場を覘く限りで言えば、♪:施設にて、♪:いのち、♪、母よ・、♪:ホッホ、に代表されるように非常に聴く者を重く辛い気持にさせる作品ばかりだ」、と言われます。
 結局、濱野裕生の作る音楽は商業音楽の世界には不向きだったのかも知れないと自虐的に納得しています。 元来、福祉団体の主宰する各種資格取得者に対する講習会や研修会の場に呼ばれて活動していた訳ですからノホホンとして暮らす一般世間に聴いて貰えるような種類の音楽ではなかったのだと思うしかありませんね。でも、私の作品が注目を集めた頃はまだそれぞれの家庭ではさして大問題視されてはいない頃・、まだまだ1km先のお宅の問題でした。しかし、この2020年には介護問題は制度だけでは語れないほどに肥大化しては老々介護どころか老々自殺が当たり前のように起きる時代になっています。・・、大変な時代になったものだと感じています。

 私の作る音楽は母との暮らしがあってこそ。そこへの理解とサポートがなければ全国的なコンサート活動は無理だという事はデビュー前から分かっていた事です。私のデビュー前というものは母の体調のいい日を選び、私が母の傍を離れる代わりに私の近所に住む兄嫁が、長崎からは実姉が、時には介護師2名が出張で自宅へ来てくれて母の傍につく、という状態で私のコンサートが成立していました。 
 例えば、早朝の8時過ぎに新幹線で熊本から博多へ25分、コンサートが終わるのが14:00としても夕方の15:30には私は母の傍に戻る事ができました。逆に天草の牛深の介護家族の会からコンサート依頼があっても列車も通わない為に車で行くとして、コンサートを終えて熊本市内に帰ってくるには大変なことです。こんな無理なコンサートでは私と嫁の二人でCD売って帰ってくるなど絶対に出来ません。つまり、母親の介護と私の音楽活動は最初から矛盾があったんです。それとも、「歌手になれる」と私が飛び跳ねて喜び、母の介護を放棄するとでも思われていたのでしょうか?。

 当時、ある福祉関係の方がこんなとんでもないことを言われたことがありました。「もう、貴方をメジャーの世界へ送り込んだのだから、私の役目を終わった」と・。私は「えっ?」と・、全く意味が理解できませんでした。「私は今夜も明日も・ずっと母の傍に居続けますが・」、と応えれば、その方は「えっ?・」と・。


勿論、デビューが決まる一ヶ月前にはマネージャー兼音響機器の操作係としてUという男性が名乗りを上げてくれました。ギャラ+会場売りCD+介護録の売り上げの中から燃料費、フェリー代金等の経費を差し引いた残りを等分するという取り決めです。 最初はいい感じでした。 Uを全面的に信頼した私は毎日のように我が家へやってくるUに対して指示をし、母中心ではありますが柔らかい食事を多めに作ってはUを含めて母と嫁、私とUの4人で夕食を囲む事が多くなり、「ほら、Uさん!これも食べなさい」と母とUとの関係も非常に良好だったんです。
  

Posted by 濱野裕生 at 16:00Comments(0)☆.はじめに・

2020年12月18日

〇.始めに・③

〇.始めに・③

Uマネージャーの裏切り・

このUとの連帯活動が半年を過ぎた頃、私はUマネージャーの知人だという数名の方から「彼は時に飛んでもないことをやってきた人間だから注意した方がいいよ。むしろ、関係を絶ったほうがいい」、「温情を掛けると大変な目に遭いますよ」と忠告されたのです。 この忠告の言葉は既に幾人かの方々からは嫌というほど聞かされていました。
「奴が朝鮮人だということを貴方は知っているんですか?」という言葉も・。そして、「濱野裕生も朝鮮人かも知れない」という言葉も聞いたことがありました。やがて、こうした誹謗中傷が大嘘ではなかったことに私は気付かされるのです。

「裕生さん、今回のギャラは〇〇です」と言うUマネージャーでしたが、実はそのコンサートはUと知り合う前に既に複数回行なっている会場、同じ主宰者でした。「あァ、分かった。ありがたいことだよ」と私はUへいつものような返事をしていました。 しかし、その主宰者からは嫁に既に事前連絡があって、〇〇〇という金額が出ていることは事前電話で分かっており、自宅を出てコンサート会場へ向かう前から嫁は領収書を作っていたのです。 

つまり、いつ頃からかは定かではありませんがマネージャー氏のUはギャラの大半を我が物としていたのでした。濱野裕生のテンションはこの件で一気に下がったのは事実ですが、こんな不愉快な出来事がありながらも私とUマネージャーとは2012年10月まで一緒に行動しました。デビューが2011年7月ですから僅か一年ちょっと・。差別する気はありませんが、Uは日本人の心を持ってはいませんでした。ある意味、彼は濱野裕生よりもエンタティナーだったのかも知れません。

また、デビュー直前からこんなこともありました。それは「S学会に入信しなさい」という言葉です。「貴方の作る作品にはお坊様の法話のような効果がある」と評価されたのです。それに「Sの家に入りなさい。ブラジル支部まで入れれば600万人の信者?が居て、動員を掛ければ、数十万枚、数百万枚のCD売り上げが望める」、と・。
逆に、「多分、入信しないなら最初は話題だけで売れても、結局はメディアも取り上げなくなってそれで終わりだよ」と・。 「現在の日本文化は中国、朝鮮大陸からの派生であって、純粋に日本文化と呼べるものは非常に少ない」、「メディアだって中国、朝鮮系の誤った日本観を踏襲するものが多く、逆に濱野裕生の作る音楽は戦後の瓦礫の中から生き抜いてきた日本民族の苦しみや強さを描いていて、それが中国人や朝鮮人の心情を害している」と言われ、「彼等に受け入れて貰うためには彼等の文化を土台としたS学会に入ったほうが無難だ」と忠告されていたのです。

私は思想的な何かを抱えて作品作りをしているつもりは皆目ありませんが、《♪:佐世保めもりぃ》に至っては何度も何度もyoutubeからは警告を受け、削除されてはアップ、削除されてはアップを今でも繰り返しています。♪:佐世保めもりぃ の詩からは戦争批判や連合軍べっ視が意味取られ、パンパンという言葉自体が放送倫理上の問題があるとyoutube側は言います。 しかし、濱野裕生は純粋に若い兵士の死やオンリーの死を見たまま感じたままに「それが当時の佐世保にはあった」と伝えているつもりです。「そんなこんなで・人は老い、何も解決できないままで命の終わりを迎えるものだ」、「人生って何もやり遂げることなく終わるんだ」、人って決して誰も恨まず、誰も憎まず、誰もが死の直前になれば「ありがとう」って言いながら死ぬのではないかと思うし、「それもアリだ・」と濱野裕生は言いたいんです。

  

Posted by 濱野裕生 at 16:38Comments(0)☆.はじめに・

2020年12月18日

〇.始めに・④

〇.始めに・④

現在の私・。

 2020年12月、母を亡くして既に7年目を迎えようとしています。母親の介護を巡っては当初から最後の弔いに対する姿勢に至るまで意見の疎通ができなかった我が姉兄の二人とは一線を引いています。 その理由は、12年以上に渡る母との同居、その介護暮らしによって私自身の死生観、人生観が彼等の考えるものとは大きく乖離してしまった事です。 墓を移設して現世の見栄(世間体)に拘るのは確かに常識的で長男なら間違いのない考えと行ないです。それを、「そうあるべきだ」と指揮を執る長女の気持も理解できます。

 しかし、母亡き後にそれをしてどうなるんだという思いが私にはあります。「それはアンタらの今後を考えてのことだろう」・と。 墓の移設の前に「生前の母に対して示す何かがあったはず」・と。「墓に向かって為すべきそれより、生前の母に示す何かがあったはずだ」・と。 それと、長女、長男として私に示すべき何かがあるはず」・と言いたいのです。 

 この12年半の間のあんた等は海外旅行にゴルフに時間を割き、家では仏壇に手を合わせていた以外に「何をしていたんだ」と末っ子の私としては言いたいのです。仏壇に手を合わす暇があれば、せめて母親の手を握りに来れなかったのかと・。母のいる病院と兄の家との距離は車で僅かの10分、母は最後まで我が長男を理解できずに「裕生、あの大きな男は誰?」と私に尋ねていたんだぞ、と言いたいのです。 このような考えしかできない私ですから姉と兄には会わない方がいいのではないかと思って濱野裕生は日々を送っています。 多分、老いた親を介護する方々の中には私のような考えをお持ちの方はいらっしゃるのではないかと思います・。今や老いた親と老いの始まった長男の介護を弟夫婦がするケースも決して珍しくはありません。

また、先の熊本地震では母と12年半を過ごした住まいも失くし、代替えの家を郡部に入手したとは言え、移住の決意もできないまま、私は今もみなし仮設住宅に住んでいます。

現在の濱野裕生、1200ccの大型バイクに乗り、竹林に入っては菜箸や健康足踏み器、耳掻きや花瓶を作っては周囲の人にプレゼントし、その方々からの「ありがとう」という言葉を戴くことを唯一の喜びとしています。

 音楽・・、既に抜け殻になった私に何が残っているかと言えば、私の代わりになって歌い続けてくれる人材探し、そんなものでしょうかね・。 いつの間にか音楽は見るものと理解され、その大きな誤解のままで突っ走る時代はやがて破綻します。音楽は耳から入るものであって決して目からは音や言葉は伝わりません。耳から伝わるものでなければ音楽とは言えません。 残念なことに目から入る刺激の多くは脳にいつまでも留まっては人を強欲にし、まさに現代社会がそうです。今や世界中が目から入る商業音楽に猛り狂っているはずです。これは洗脳とも言え、痛ましい結果を呼ぶ紛争や戦争の前兆だと思えるほどです。
 
 耳から入る音楽は聴く者の心に響き、心を豊かにさせ、想像力を培っては絵を描かせます。 こんな風に思う濱野裕生の音楽に付き添ってくれる人がいつか現れることを願い、今も創作活動だけは維持しています。

  

Posted by 濱野裕生 at 16:39Comments(0)☆.はじめに・

2020年12月18日

〇.独り言:01

親の介護を楽にするにはその生い立ちや当時の時勢を知ろう。

 親との同居やその介護に際し、私達が楽にこなす為には老いた親の二代前にまで遡り、親が生まれた時代背景、育った環境や地域情勢、受けた教育、兄弟姉妹の数、成人した後に関わった職業等々、を知る必要があります。長男長女で生まれた者と末っ子で生まれた者とでは親や世間からの期待が全く違ったはずです。
「母ちゃんが生まれた頃の佐々やその後に引っ越した歌が浦はどんな所だった?」、「平戸の高等女学校での寮暮らしはどうだった?」、「ライ母ちゃまの腎臓の具合が悪くなって夜中にお医者様を迎えに行った時は怖かったろうね」などど、私はよく母に訊ねました。聞かれることによって母は嬉々として話し始めるのでした。

 私の場合、生い立ちから現在に至るまでの母の概略を知った上で接していた為、母との約12年間の同居は非常に楽なものだったと振り返っています。母の生い立ちを知る事は母の中で徐々に形成されていった性格や育っていった考え方を理解することが出来、私の方が一歩だけ下がって接する事ができたからです。 また、私は老いた母の世話をする一方で母の日常を文書で記録し、余力で詩にし、老いた母と暮らせる喜びや分かり合えない辛さを音楽で表現するという試みができたからです。
 多分、僅かに残る母の親族や遠くで暮らす姉や兄に対する報告の意味もあったのだと思いますし、姉や兄に対する僅かな抗議でもあったんだと思います。同居記録と平行するように書き進めるこの[裕生の独り言]ですが、徐々にページを増やしていきたいと思っています。  

Posted by 濱野裕生 at 16:47Comments(0)☆裕生の独り言

2020年12月18日

同居記録:01

同居記録:0001
〇.濱野冶八、鹿町炭鉱、河内家。

 我が母、高橋ツヤ(旧姓・河内ツヤ)は・、
大正二年に長崎県北松浦郡佐々の地に男2人、女3人の末っ子として生まれています。当時の北松浦郡一帯には大小の多くの炭鉱が存在し、中でも際立って大きかったのが濱野冶八という人物が創業した鹿町炭鉱でした。 その娘は濱野ライといい、後に河内松若なる人物に嫁いで我が母を生んでいますから我が母は濱野冶八の孫ということになります。。その我が母、河内ツヤは7人兄弟の末っ子とはいえ、長男の進(ススム)とは14歳、次男の勇(イサム)とは11歳、三女のフサ姉とは7歳、次女のミツ姉とも4歳違いだった為、我が母ツヤは兄達からも姉達からもとても可愛がられて育ったそうです。

 本来、濱野冶八には後継者として鹿町炭鉱を引き継ぐはずの清(キヨシ)という男の子が居たのですが幼くして没し、そのショックからか鹿町炭鉱が最盛期を迎えていたにも関わらず冶八は引退、その経営を娘濱野ライの嫁ぎ先の河内家の長男・進に任せ、島原一帯で豪遊していたと聞き、また晩年は島原時代に知り合った芸者と関東の地で暮らしていたともいうお話しも聞きましたが、その最期を知る者はいないだろうと言われていたそうです。

 この濱野冶八が経営した炭鉱の多くは後々には別な経営者に売却されたり、戦争の激化によって国に差し出すことになるのですが鹿町炭鉱系列の幾つかの炭鉱は河内進、勇氏兄弟によって昭和35年くらいまでは経営されているようです。また、河内進氏は既に師範学校を卒業して数学の教師を務めていた次男の勇氏を事務の責任者として抜擢。文字通り兄弟で濱野冶八の意志を引継いで経営に勤しんでいたようです。
 遡って、河内進氏が24歳、勇氏が21歳の頃、我が母・河内ツヤが10歳の頃にはその母・河内ライが持病の腎臓が悪化して没します。最愛の息子の清に続いて娘のライまで失くした悲しみから濱野冶八は鹿町炭鉱を河内家に譲り、自身は酒に溺れていったのではないかと私は受け止めています。誰にも責める事はできません。一人の人間の人生ですからね。

 その一方、洗炭という掘り出した石炭にこびりつく泥を落とす作業では周辺を流れる川を尽く汚し、地下を掘り巡らしたトンネルの為に地区のあちこちに陥没事故を起こしたことを詫びる為、学校にはグランドピアノを寄贈したり、昭和16年には佐々にある東光寺の本堂を建替えたり、各地の神社には実に多額の寄金をしていた記録が鹿町町の記念館の蔵書に残されていました。だから、「小さい頃には濱野シャマと呼ばれ、大きくなったら河内シャマと呼ばれたもんだよ」と我が母はよく言ったものです。まァ、濱野冶八という人は豪快でお人好しで思いやりのある人物だったことには間違いがないようですが、生きた時代が混沌として、行方定まらないある意味でヒーローが生まれやすい時期だったんだと思います。

 因みに、佐々の東光寺にはこの濱野冶八の像というものが建立されていて、その傍に寄り添うように当時のご住職の像があり、お寺の正面の階段口右横の家には濱野の門札があり、つい数年前までは濱野千代さんが娘さんと一緒に住まわれていて、私は母を連れて2度ほどお訪ねしたことがあり、「清が住んでいたのはこの部屋だよ」と母に案内されたことを今でも私は記憶しています。
 我が母の事、その兄弟の事、育った頃の世の中の風景etc・・今後も折に触れ、画像を交えて書いてみたいと思っています

♬:いのち 濱野裕生https://youtu.be/ooSGIM1A5gc
  

Posted by 濱野裕生 at 16:52Comments(0)☆同居記録

2020年12月21日

同居記録:02

同居記録:02

夫・利三郎が75歳で没した後の母は・・、
 まだ64歳。子供との同居などはまだ眼中にはなく、佐世保の地で約24年間を独居で過ごしています。その独居の始めた頃の母の元へは4歳上の実姉・ミツさんの訪問を受け、佐々から歌が浦に移り住んだ頃の暮らした頃の幼い記憶に浸ったり、久しく途切れていた古い友人達との親交を復活させたりしては自分なり喜びや日々の生き甲斐を見出していたようです。しかし、そうした古い友人達に次々と先立たれていく中、母自身にも幼い頃からの持病の心臓の悪化が徐々に滲み寄ってくるのです。

最初は長男夫婦が同居を試みますが・・、
 母は全く受付けません。とても言い辛いことですが、我が兄は自分の言動に対しては「まァ、いいじゃないか」と言い訳し、周囲の者には「それは絶対に許さん!」と言いながら「世間では・」と言葉を繋いで常識を強制するという相矛盾した性格があって、そのことに気付かないという不幸を抱えています。少なくとも兄と私の常識は大きく違っていて、これは人生の多くを「坊や、坊ちゃん」と呼ばれてスポーツ特待で進学し、世に出た者ならではの独特の習性だと思っています。 例えば、食事を終えた母が入れ歯を外して不用意に食卓の上の皿にチョンと置きでもしたら「汚いじゃないか!。その入れ歯捨ててしまえ」と、これは実際の出来事です。。が、これって笑っては済まされないことです。これだと妥協点が見出せず、何も始められません。

 日常の万事にこのような兄ですから母には恐怖心しか芽生えてはこず、仕方のないことでした。皆さんのご家庭でも起こりえないことではないですね。しかし、こんな兄だからこそでしょうか、この兄のお嫁さんが母にはとても気に入られたもので、料理から衣服に至るまで、母の好みを理解しようと努力する女性で「私は長男とは暮らせんけど、お嫁さんとなら暮らせる」とよく言ったものでした。 こうして母が兄の家で暮らすのはいつも3~4日程度。実家が兄の家から近くだったという理由もあって、「私は帰る。タクシーで家に戻る」ということを繰り返していたようです。

やがて、長崎に嫁いでいた姉が・・、
 兄に助け舟を出すように母を長崎へ。しかし、この姉の家でも母との同居は2ヶ月と続きません。「ご亭主がさァ・、普段は静かなのに大酒飲みでね」、「突然に真っ赤な顔で大声出して怒って叫ぶのよ」、「訳が分からんから仲裁しようがなくてさ」、「それに、嫁の嫁いだ先のご主人は他人だしね」と・。 それでも比較的に穏やかな暮らしができてはいるなァ、とは私は感じてはいたんです。しかし、これが宿命というんですか、姉の長女が出産帰省を希望し、姉はそのことを最優先に考えたんだと思っています。計画性がないというか、こんな感じて結局は姉と母の同居も失敗に終わりますが、姉と同居中のお風呂での転倒による左股関節の骨折というものを抱え、自力では殆ど歩けない身体になって静まり返った佐世保の実家に母は戻されたのです。2003年3月26日、当時の母は要介護度2、左股関節骨折。また、高血圧ゆえの眼底出血による左目失明という身体状況でした。

 《老いゆく母をみつめて》・、全国の介護族の皆様に我が姉と兄と私達夫婦の母との関わり、介護模様をお伝えする事で多少なりとも心休まる場面があればと念じ、脚色することなくありのままを書いています。「あァ、濱野裕生の家庭も我が家と同じ、似たような悩みを抱えて葛藤していたんだなァ」と思って頂ければ幸いです。


♬ ・https://inoti.up.seesaa.net/image/Try20to20Remember.mp3 (ライブ版)  

Posted by 濱野裕生 at 15:00Comments(0)☆同居記録

2020年12月21日

同居記録:03

同居記録:03

私の人生を変えた姉からの一本の電話・。

 「裕生!、今の私の体調や家庭状況では母を世話し続けるのは、もう無理。母には母が望む通りに佐世保の実家に連れて戻って独り住まいをさせるつもりよ・」、 「どんな形であれ、母には自分の拘る実家で好きなように生き、そして、そこで最期を迎えたとしてもそれが母の人生かもしれない」、と。
 姉の体調、・それは数ヶ月前に受けた左脳の一部にあった動脈瘤の切除後の体調を指し、一過性だとされた術後の頭痛が継続していたこと、それに家庭状況とは嫁いだ長女が出産の為に帰省するという状況を指します。我が姉は複数の悩み事案を抱える事のできない人で、ついつい「あァ、面倒くさい」とばかりに直ぐに投げやりな言動をするタイプで男勝りの面があります。
 現実問題として、「母には左股関節に骨折があって介助なしでは歩けない」、「あァ、術後の私は頭が痛い」 、「でも、娘は出産で帰省する」、「今更、長男の所へは戻せない」、「こんなはずではなかった」、と頭を抱え込んでいたはずでした。でも、私に言わせれば冷静に考えれば全てが予知できるものです。 2003年3月24日のことでした。


  

Posted by 濱野裕生 at 15:04Comments(0)☆同居記録

2020年12月21日

同居記録:04

同居記録:04

嫁の目を盗むように車に飛び乗り・、
 私は母を迎えに佐世保へ向かいました。2003年3月26日のことです。
「やっぱり、・行くの?」、嫁は決して不満な表情ではありませんでしたが、私に先んじて玄関外に出て庭の掃き掃除を装って私の気配を感じていたようでした。「俺が迎えに行かんなら誰が行く?」、「お袋は死んでしまうぞ」と私は語気を荒げて言ったことを憶えています。姉からの電話から既に約36時間が経過していました。 嫁は右手にホウキを持ったままでポカンと口を開け、下を向いたままで私の言葉を聞いていました。 あの2003年3月26日、私はある種の激しい怒りをと絶望感を感じながら、何の準備もできず、誰にも相談できずに嫁の目を盗むようにして我が母を迎えに佐世保へ向かったのです。そして、この頃の嫁、既に実母が腎臓病の悪化の為にデイ施設から病院へと転院、昼間は訪問介護、夕方からの病院での周辺介助にと大変な日々を送っていたのです。

家族って何だ、兄弟って何だ、覚悟って何だ・、と。
 この頃の姉、姉も、勿論私も認知症という気まぐれ症状というものを全く理解してはいなかったのだと思います。 姉や兄は「貧乏暮らしの裕生には母の世話は無理だと」一方的に決めつけて蚊帳の外に置き、3年間というものは姉兄で母を盥回しに連れてきては連れて帰り、いよいよ万策が尽きた段階で歩けない母に対して「母には母の人生があるから」、「「実家で独居させるよ」、「それで母が最期を迎えても仕方がない」という理屈・。そして、それまでの3年間は蚊帳の外に置いていた私に対して「何と言う通告の仕方だ!」と思いました。  「母ちゃん、待ってろ!」、「母ちゃん、待ってろ!」、「何てことだ!」、「これから佐世保に向かうから頑張れ」・と。私は車の中で叫んでいたんです。 

  

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2020年12月21日

同居記録:05

同居記録:05

実家で芋虫のように転がったままの母・、
 熊本から佐世保の実家へ着いた際に見た母の姿・。それは目を疑うほどに哀れな姿でした。僅かに漂う便臭があり、母は右腕を下にして横たわっていました。「母ちゃん、帰ったよ」、「あれ、裕生?。アンタは裕生ね?」、「うん、そうよ」、・と。短い会話でしたが涙脆い私の声は・。しかし、怒りと失意に振るえ何ともし難い感情が私の全身を走ります。突然、「裕生、オシッコ」、「私を抱えておくれ」と母。

 私は母を抱き抱えてトイレへ。 実は我が実家は元々が和便器だったのですが、数年前に帰省した際に私の得意な木工で洋式の便座に改装し、当時の母からはとても喜ばれたことを記憶しています。
 そうであっても、兎に角は立てない母だから幼子にオシッコをさせる体勢で便座に座らせてオシッコをさせますが、オシッコが終わるや否や大量の便が出ました。その間を縫って小走りに風呂場へ走り、数枚の濡れタオルを作って母の元へ・。排便が終わった母に「母ちゃん、前は自分で拭いてくれ」と紙を渡し、「俺はお尻を拭くからね」と、母には返事もさせぬ間合いでサッサとお尻をタオルで拭き、新しい下着とズボンに穿き替えさせながら心に誓うものがありました。「絶対にお袋をもう一度歩いて貰う」と。「アンタは人の世話が巧いもんだね」と・。 「その為に帰ってきたんじゃないか」と言えば、「昨日も一昨日もおったじゃないと?」、と母・。

 改めて室内を見渡すと、
横たわる母の傍には車で10分ほどの距離に住む前述の兄嫁が作って置いて帰ったと思われる一日分の料理とご飯が入った炊飯器。それに湯が入ったポットに茶の葉が入った缶と幾つかの茶碗類が・。でも、母は起き上がることさえできず、炬燵に手をつく事さえ出来ず、湯飲みにさえ手を伸ばす事が出来ない状態で数時間は放置されていたようでした。「姉もドライだなァ」と思ったものです。こんな状態になった母を独居させると決意して実家に放置して長崎へ帰ったのか?、という驚きです。

私の作った肉ジャガをお代わりする母・。
 「母ちゃん、あっちこっちが痛いと感じるのは生きとる証拠」、「生きているからこそ感じる痛みや感謝さ」と言えば、母は「・そうね」と。支えれば立てるし、立っても支えがなければ崩れ落ちるように倒れるようでした。この日、夕食にと作った肉ジャガをお代わりした母。炬燵の上に右腕を辛うじて乗せた後は手首だけを動かしてスプーンで起用に食べる母。箸を使うのは無理なようでした。実は、我が母はジャガイモは苦手なはずでした。

  

Posted by 濱野裕生 at 15:11Comments(0)☆同居記録

2020年12月21日

同居記録:06

同居記録:06

鍼7本で奇跡?
 その翌々日の昼間、兄嫁がやって来て、冷麺を作ってくれたのですが、その食後に私が母に「母ちゃん、スポーツ鍼を打ってあげるから痛い所を教えてくれ」と言えば、「あァ、痛いところは一杯あるよ」、「右手がこれ以上は動かんからどうにかしてよ」と・。私は母を起こして石油ストーブの傍で座椅子に座らせ、肌着から右上半身だけ露出させて首傍、肩口、肘、手首と7本の鍼を打ち、「ちょっと痛いけど我慢我慢」と言いいながら最後には鍼を立てた状態で少しずつ腕全体を揺らすのです。「うん、ちょっと痛いけど我慢我慢」と母が私の言葉を復唱していましたが、約10分後に鍼を抜くと母は驚きの声をあげたのです。
「裕生、とってもいいよ。腕が上がるよ。ホラ」、と母の右腕は天井に向かってオーという感じで上がり、グルグルとさえ回すほどでした。そんな嬉しいこともあったのですが、私が熊本へ戻る時間は刻々と近づいてきていたんです。

「裕生、私もお前について行っていいね?」・と、
突然の母の言葉でした。そして、更に「私を熊本へ連れて行っておくれよ」と母が言葉を続けたんです
。横たわったままで左手で顔を隠し、しかし、指の間からは間違いなく私の表情を確かめるように右目でしっかりと私を見つめていたんです。因みに母の左目は既に失明し、右目だけが辛うじて視力がありました。「母ちゃん、その言葉を待っとったよ」、「大げさじゃなく、ドライブ気分で気軽に熊本に行こうよ」と私は即座に返事をしていました。傍に居る兄嫁の手前、私は母の意志で「熊本へ行きたい」という言葉を母には言わせたかったのです。因みに、母が何かを周囲に懇願したのは2度目。最初の懇願とはヤンチャ時代の長男に土下座して言った「お願いだから、大学だけは出ておくれ」という言葉・。
今日の母は気のみ着のままで、まとまった衣類や日用品は後日に郵送して貰うという約束で私は母を車へ運び、熊本への帰路に着いたのです。2003年3月28日の午後のことです。


  

Posted by 濱野裕生 at 15:13Comments(0)☆同居記録

2020年12月24日

〇.独り言:02

◎老い、信頼

 いろんな方のお話を聞く限り、人は老いが進むに従って自分の先々への不安や焦り、それに近寄って来る周囲の人々への疑いを強くする傾向があるようです。否、これは動物たちだってそうだと私は確信しています。つまり、人であれ、動物であれ、それまでの日常の食事から身の回りの世話まで・、それまでに自分をお世話してくれた人に対する感謝の念を持つ一方、その己の死の瞬間に身を委ねていたい対象が日常の世話をしてくれていた人とは必ずしも一致しない・というのが私の以前から持つ印象です。

例えばペット。私はたとえペットであろうがペットとしては扱わず、あくまでも共同生活者として扱っていました。「オハヨウサン」、「ただ今、帰りました」、「今日はどんな一日だったネ?」、等々と本当に犬や猫とはいえ、普通に接していました。こうした思いで動物たちと接していると、ある時期から人間と動物の関係であってもある種の共通言語に近いモノが生まれてくるものだと思うようになりました。

それは正確に言えば気配・というモノでした。空気の揺れ・と表現できるものかも知れません。この空気の揺れ・みたいなもので意思の疎通ができるようになるのだと思っています。

我が家ではペットの食事や散歩は殆ど嫁の役目。でも、私がたまに散歩に連れて出た際でも帰宅してからは嫁同様にシャンプーやウンチをした後のお尻洗いなどもきっちりとやっていました。が・・、ある時期に気づいた事ですが、過去に飼ったペットであれ、現に目の前に居るペットであれ、身体に変調をきたした際には必ず私に気づかせるかのように私の目に触れるように奇妙な動きで己の体調不全を訴えるのです。嫁には助けを求めず、私に求めるのです。そして、過去に共に暮らしたペット達の多くの最期は必ず私の手の平の上で逝き果ててしまっていました。長い間、私はこの動物心理を考えました。

ペットらは己の近まる死期を気配として私に伝え、それを理解した私は「お疲れ様、これまでありがとう」、というようなコミュニケーションが何故か完全に取れていたようでした。その事を改めて私に自覚させてくれたのはチッチという1匹の黒い雌猫でした。

このチッチという黒い雌猫は戴いた獣医師さんの説明では欧州系ということでしたが、飼い主は親猫を優先させてこの黒のメス猫が生まれた直後に親猫から引き離して獣医さんのもとへ・・。獣医さんとしても副業でペット販売をされていた事もあって牛乳を温めて飲ませるなどして大切に育て、飼い主(買い主)がつく事を期待しておられたようですが、檻の中で大きくなる一方・。そこへ当時はポメちゃんを飼っていた私が現れて「あら・可愛い」、と声を掛け、避妊手術代金を支払うだけでロハで貰ってきていたんです。

この黒猫は親猫の愛を受けていない為、猫としての自覚を最初から持ってなく、オシッコの仕方もウンチの仕方も完全ではありませんでした。「お腹が張ってポンポン痛いよう」、と私に擦り寄り、私はお尻を指で揉んでウンチを出すことを教えたりもしました。こんな風だから寝る時だって私の布団に潜り込むや人間のように天井を見て仰向けに寝るような子猫でした。でも、やがて、私が面倒臭がりでオンナ嫌いだと分かると、直ぐに嫁の方へネェネェとくっついていくようになるのですが、当時の我が家にはオスの安(ヤス)というポメラニアンが居て、これがまた猫好きな犬だったんです。

話が飛びますが、これは以前の記事でも書いたのですが、このポメちゃんは近所の山本さんという方から戴き、実はこの山本さんはあのスザンヌの実家。スザンヌ・ことサエちゃんは小学生の頃から歌手になる夢があって、ずっと我が家へ通って嫁からボイストレーニングを受けていました。「あの子・、唄は××よ」、と私は言うのですが、天性の光るモノは確かにありました。周囲に気を使うこと、優しい、人の立場を直ぐに察する・、そうした周囲の気配を感じ取る能力は間違いなく持っている子供でした。しかし、気を使い過ぎてついついお喋りが多くなるという・、根っからの善人ですね。

さて、猫チッチさんの話に戻りますが、我が家で約21年間を過ごし、平成13年12月に亡くなったチッチさんは私には多いなる動物心理を次々と伝えてこの世を去りました。
このチッチさんは亡くなる5年ほど前から軽度の腎不全と診断されていて、体調を落とす度に近所の動物病院で背中からのリンゲル液の皮膚下点滴を受け、その中には抗生剤が混ぜられる瞬間を見ていた私は、ある時期からその抗生剤がオフロキサシン(じゃなくてもいい)という事を知り、インターネットで調べて数種類の抗生剤入りの目薬を常に冷蔵庫で保管してはペットたち専用の薬とするようになっていました。ペットに限らず生き物の最期って殆どが腎不全を発症しますよね。人間が使う抗生剤入り目薬はインターネット価格で¥2000程度。インシュリンだってネットで手に入ります。動物病院でこの手の点滴を受けると1回で¥4000は徴収されます。3日間は通って下さいと言われますからね。「医者が医者でなくなる瞬間だってあるはず、医を業としないのなら素人が医学を学んでも絶対に変ではない」、というのが私の持論ですからね。但し、目薬にはパラベンという物質が入っているから本当は使わないほうが賢明だと思うのですが、静脈注射で使わずに筋肉注射であれば緊急時にはペットの抗生剤として目薬を使っていました。

既に獣医さんからは何度も「もう、21年も生きたんですよ。死なせてあげるほうがいい」、と言われたチッチさんでしたが、そこはドッコイ・。濱野裕生は簡単には死なせない。具合が悪くなるとダラダラと涎を流しながら咳き込み、オエオエとカラ嘔吐を始めるチッチは「貴方、どうにかして頂戴」と言わんばかりに・・。ただオロオロするだけの嫁の横を通り過ぎて私の元へヨタヨタと・・。

我が家で約21年の老猫でしたからね。「また具合が悪くなったね」、と言いながら私は冷蔵庫から抗生剤入りの目薬を取り出して決められた量を背中から注射します(点滴キットは動物病院で売ってくれますが抗生剤は売ってはくれません)。あれほどに状態が悪かったチッチさんは翌朝になればシャキン・と。「裕生、昨夜はありがとう」、と。慢性腎炎ですから季節の変化には弱くて、世を去る前の5年間は年に2回は必ず危篤状態になっていました。

でも、こうした処置のお陰もあって、我が家のチッチさんは我が家で暮らすことで7~8年は命を永らえる事ができたのではないかと思いますが、多分、私の命への拘りがチッチさんへ伝わり、「生きていたい&生きていて欲しい」、という互いの思いの気配がこのチッチさんの寿命を延ばしていたのだと思います。気配って言葉ではありません。抱きしめる、顔と顔をくっつけて「チッチさん、頑張って」と念ずるだけでいいんです。

 しかし、結局は私のミスで平成25年11月に彼の地へ旅立ってしまいました。結局、医療行為というものは一定程度の体力が残っていなければできないんです。薬だって受け入れる体力があってこその効果なんですね。普段は2階に居る嫁の布団で寝ていたチッチさんが私のベッドに入り込むようになったのはチッチさんが亡くなる5日ほど前から・。「具合が悪そうね。注射しようか?」、という私の言葉を嫌がり続けた5日間でした。多分、「もう、いいです。これまでありがとうございました」、と言いたかったんだと思っています。

寝る際でも絶対に掛け布団には潜り込まずに頭を布団の外に出した姿勢でないと寝付けなかったチッチさんでしたが、この5日間というものは布団の奥深く、私の両足の脛の間でハァハァ・と苦しそうな息をしては私を寝かせませんでした。夜中の4時過ぎに注射をしようとするとやはり拒否するのです。
その後、私はチッチさんの様子を気に掛けながらも激しい睡魔に襲われるのですが、やがて、私は左足の脛に激しい痛みを感じるのです。でも、その後は痛みも続かずに私は眠ってしまったようでした。私はただならぬ空気の揺れ=気配というものをこの時ばかりは感じることができなかったんです。「そんなに重態だったとは」。これは私のミスでした。

このチッチさんが私の元を去ったのは平成25年11月6日。私が目を覚ました早朝の6:00にはチッチさんの身体は既に石のように硬くなっていました・。不覚にも私は熟睡してしまっていてチッチさんの最期を看取れなかったのです。

ただ、私の左足の脛には深さ5mm位の噛み傷があって、多少の出血痕もありました。「裕生、サヨナラね」、というチッチさんが残した私への思い・の噛み傷だったのだと今も反省しています。私のミス・・、それは「もう、私は十分に生きたよネ?。21年も生きたんだからね」、という余りにも刹那的で安易な私の判断・人生観だった・と思っています。
あの噛み傷・・、「やっぱり私は生きていたい。いつものように私を助けて」、というチッチさんの思いだったのではないか・とも思うのです・。それとも、「私のことを忘れないでネ」という意味だったのか・。

冒頭に、《気配=空気の揺れ》と書きました。周囲の者が「もう、いい。十分に生きたよ。このままでは生き地獄で可哀想だよ」、などという思いや発した言葉が気配となって本人に伝播し、空気の揺れとして部屋中に伝わるものだとすれば、それが介護師、看護師や主治医にまで伝わってしまうのではないかという恐怖感・は多くのデイ施設や病院で時折感じることがないとは言えません。奇麗事ばかりを謳い文句にしている介護施設や病院って・、ありますよね。決してシステムじゃなく、そこでヒトの為に働くヒトの質ですよね。

医療に関わる皆さん、これは決してペットの最期の話だ・とは受け取らず、どうかヒトの最期には己の人生観の押し付け意識は持たずに勤しんで欲しいと思います。「もういい。十分に生きました」、と判断するのは患者本人の側。その時点ではまだ神さえも死への決定権は持っていないと思うからです。チッチ、本当にごめん。そして、21年の間、ありがとう。君が私の足を噛んでまで伝えようとした死の瞬間は絶対に忘れません。

  

Posted by 濱野裕生 at 17:14Comments(0)☆裕生の独り言

2020年12月24日

〇.独り言:03

下関市認知症を支える会(キャッチボールの会)の皆様、

活動10周年をおめでとうございます。福祉活動には様々なものがありますが、中でも介護関係に身を置く方々の多くは自らの辛く悲しい出来事がその後の活動参加の切っ掛けになる事が多いと言われます。医学の進化によって長寿&高齢社会が同時進行する今、老いた父や母の介護を続ける中で気づけば介護者自らがいつの間にか高齢者の仲間入りへと・。あるコンサート会場での質疑応答の際、ある参加者が「私は三男。最初は兄が親の世話をしていたが、今では三男の私が親と長男の世話をしている」、と話されました。これは決して稀有なケースではありませんよね。福祉活動参加への動機がそうした事が切っ掛けのケースが多いだけに組織を構成する者自らが高齢者である場合が会の存続のネックになっている事が多いのも事実です。

 私は世間では介護シンガーと呼ばれるようですが、2003年から同居を始めた母の老いに付き添う中で感じるものを次々と楽曲にして発表しているのがその理由のようですが、活動を始めた2006年当時の会場で私のトークや歌に泣き笑いしていた各地の介護家族の会の方々の多くが60~80歳の方々。その各々の方々が私の唄う我が母の老いゆく様子の歌詞の内容と施設や自宅で横たわる自らの老いた父母とを重ね合わせていた訳です。しかし、2014年の現在ではそうした会場で泣き笑いしていた方々が次々と介護される側になっていく現実がある事は辛いものです。

 2003年3月に来熊、そして、この約11年の間(9年の在宅+脳梗塞後の2年半の入院)、と常に私は在宅で病院内で母を看続け、入院後でも必ず「母ちゃん、絶対に家へ戻るよ」、と在宅介護への復帰を願っていましたが、我が思い届かず母は2014年3月、急性肺炎を発症。最後まで生きる意思を示しながら壮絶な闘いの果てに息を引取りました。

 母の病床横に設置されたモニターは赤いランプが点灯して既に心肺停止を示しているのに我が母は酸素マスクで塞がれたままであっても必死に私を見つめて何かを語ろうと喘いでいました。そして、「母ちゃん、もういいよ。よう、頑張ったね」、と言う私の言葉に大きく頷きながらの最期でした。多分、皆様も私と少なからず似たような経験をもって会に参加されているのだと思っています。

 母は俳句や川柳が大好きで、88歳の頃までは一日一句が常。”短命を知るや知らずや蝉しぐれ”という母の句が動機となって作った書いた作品がメジャーレーベルにスカウトされる切っ掛けになりました。
母は実に多くのモノを私に残してくれました。私のデビュー曲の《蝉しぐれ~老いゆくいのち》、《母に生命を返す時》が高玉さんとの出会いを作ってくれました。これも母から私への贈り物だと思っています。
会の更なるご発展を祈念したいと思います。
                                  濱野 裕生/テイチクエンタテインメント            

Posted by 濱野裕生 at 17:18Comments(0)☆裕生の独り言

2020年12月24日

〇.独り言:04

前略、お便りありがとうございます。
 お手紙を頂いてからは随分と日数が経ってしまいました事をお詫び致します。
6枚組の手作りCDを聴かれ、どのように感じられた事でしょうネ。アップテンポで唄う詩の内容は必ずしも楽しいものではありませんが、母に対する日々の介護生活の中で泣いたり辛く感じたりする事を正直に歌詞として書いているつもりです。介護の大変さって笑って話せる事は少ないものです。私のコンサートでは「辛く聴こえたら隠さずに正直に泣いて下さい。そうした涙を共有する事だって癒しになるんではありませんか?」、「あァ、濱野裕生の家庭でだって私達と似たような出来事が日々起きているんだ・」、「辛いのは私の家庭だけではないんだ」、と思ってホッと胸を撫で下ろして頂ければいいんです。

 Nさんの場合、ご自身も病で苦しんでおられ、更には87歳で入所中のお母様の事を気遣う日々には大変な心労があるんだとお察しします。でも、この濱野裕生だって9歳の時には重度の腹膜炎で生死を彷徨っていて、その時の手術では小腸の約50%、上行結腸と脾臓を失い。膵臓、肝臓の一部も失っています。ですから、食べたいモノを我慢し、まずは己の身体を労わった生き方をしてきました。柔道に野球にテコンドーに励み、山を歩き身体にいい山菜を求め、海を見ては長い人生を思いながら老いていくだろう父や母の姿を思っては「まずは両親よりも先には死んではいけない。そして、「強くなって自分の命と引き換えにでも親の命を護ってみせる」、と思ったものです。

 そう決心させた理由は私の手術中にオペ室のドアの外からずっと聴こえていた母の叫び声でした。当時は今のようなガス麻酔による全身麻酔はなく、私には己の身体を切り刻むメスの痛みよりも母親の叫び声を聴く事の方が心に痛く響いていたのを今でもはっきりと憶えています。その意味では私は母親の叫び声を聴く事で2度目の生命を貰ったんだと思っています。

 施設に関してですが、要は施設で働く介護士さん達の質の問題が常に付きまとっている気がしています。感じのいい施設は探せば幾らでもあるものです。ただ、制度的には人手が不足してきたという理由だけで在宅介護に戻そうとする方向へ向かっていて、私も多いに不満を持っています。在宅に戻せばパートで働くこともできなくなりますね。それに、介護施設側も「当施設では要介護3までしか受け入れません。要介護4・5のお年寄は特養にでも入所して下さいと。その一方では介護施設が次々と増えているのに、と疑問を持っています。

 Nさんも「姥棄て山」、と表現されているように、入所中の父母を見舞う家族は本当に少ないと私も思います。人間と言うものは我欲の塊りですからね。そうした事をも唄っているのが「人生って老いてからのほうが辛いことが多いネ、ホッホ、母が笑う」という唄い出しで始まる「♪:ホッホ」、という作品です。

お蔭様で全国の有線放送リクエストで総合1位になった「♪:蝉しぐれ~老いゆくいのち」ですが、私は有線リクエストで一位を取ったことは決して偶然ではないと思っていて、介護生活に悩みを持ちながら生きている方々が如何に多いか、を示した結果ではないでしょうか。既存の音楽では癒される事の少なかった介護家庭の思い・。私は日々の暮らしをストレートに書いているつもりです。きっと、そうした事が全国の介護家庭の皆様からのご支持を得たのだろうと思います。

 この度はこの暮れか2012年初頭に新しいCDアルバムが発売される事になりました。これからも「老い・命・人生」をテーマにいろんな作品を作ってみたいと思っています。まずは、ご自身の健康あってこその親孝行です。悩みは健康にはよくありません。縁が遠くなったご兄弟の事も考える必要はありません。まずは、お母様の前では愚痴は零さず涙は流さずに笑顔で両手を握ってあげて下さい。
 現在のお母様にとっては目の前の貴女が全てです。きっとお母様と貴女の命が通い合い、補い合っていい方向へ向かうような気がしています。笑顔・笑顔・笑顔・、そして、涙は布団の中で流しましょうよ。もし、貴女の涙を誰かに見られたら「濱野裕生のCDを聴いたら泣けてきた」、と言い訳をしましょう。次のお便りをお待ちします。神戸在住の
T.N様へ   
                                              濱野裕生          

Posted by 濱野裕生 at 17:21Comments(0)☆裕生の独り言

2020年12月24日

〇.独り言:05

独り言:05

★:認知に対する私の無知。

佐世保から母を熊本に連れて来たのが2003年3月28日。翌29日から始めた母と私達夫婦の同居生活、それは私の覚悟を上回る凄まじいものでした。介護とは無縁の暮らしをしていたそれまでの私達夫婦ですから全く予想もしない事の連続・。第一、子育ての経験もない訳ですからね。己を制御する、犠牲心や奉仕心・などは思いもつかない頃でした。

母が來熊する直前まで同居していた長崎に住む長女の紘子からの母の身体状況の情報入手の必要性も考える事もなく姉や兄の考え方に反発するように本能的に熊本へ母を連れてきた事を悔いたものです。
 何せ、熊本に着いても玄関から居間までは毛布に母を座らせて引き摺り運ぶほどですから、当時の母の状態が如何に悲惨だったか・。車の助手席からは嫁と私の二人掛りで杖を使う母を挟むように玄関まで運ぶのですが、玄関までが精一杯・。一旦、上り口に座り込んだ母は二度と立とうとはしません。 嫁に毛布を持って来させて母のお尻の下に敷き、毛布の四隅を袋包みのように一点で結んではまるで重いタンスでも運ぶかのように母を居間まで運んだものです。

 この時、これ以上のものはないというくらいの哀れみや怒り。そして悲しみ、辛さ・、とありとあらゆる感情が私を襲ったのを記憶しています。そして、その責任から私の顔は青ざめ、嫁の愚痴にも戸惑い、ただオタオタと・。振り返れば、ポータブルトイレの準備すらなく、慌てて義弟夫婦から借りたものでした。そんな準備のなさで気持ちだけで母を熊本へ連れて来ていたのです。

この当時、私には月曜から土曜の変則的な勤務に加え、日曜日は経営する会社が所有する2つの草野球チームの4~6時間の練習や隔週ごとの試合がびっしりと組まれた状態・。それに嫁は某介護事業所から任される居宅訪問介護の日々と夕方からは腎臓病で入院する実母の食事介助や洗濯等々の周辺介助があり、よくよく考えれば我が家は長男や長女よりも母親との同居は条件的に困難な日々だったのでした。
  

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2020年12月24日

同居記録:07

同居記録:07

★:來熊翌日の3月29日、同居早々に認知が出た時の母の姿に呆然・。

 客間として常に空き室にしていた和室に設けた母のベッド。この和室が母が使った最初の部屋でしたが、この部屋で最初の問題が勃発します。便意を催した母が「お義母さん、これを使って下さい」、と嫁の勧めるポータブルトイレの使用を拒否するんです。今思えば床の間があり、仏壇さえある畳の部屋で「トイレなんかできない」、と母は感じたのかも知れません。 [床の間や仏壇を横目にウンチ・]、なんて普通だと考えられませんからね。でも、当時の私にはその辺の古い考えを持つ母の心理を思い遣る気持ちなんてなかったのです。しかし、母にも譲歩しなければいけない事態が起きてしまいます。

 ポータブルトイレの使用を拒否した母が嫁の介助を受けながら和室から4mほどの距離にある風呂場横のトイレに向かう母が我慢できずに途中で失禁してしまったのです。 
「あッあれ?・ホホ。オホホ」、と母が照れ隠しに笑う度にオシッコがピュッピュッと・。
嫁の叫び声で驚いた私の目には立ったままの母の身体から放出されるもの凄い勢いの尿でした。そして、尿が終わると今度は大便が噴出し始めたんです。でも、嫁も私も思わず母の便を掌に受けましたね。

 今でこそ思うことが出来るのですが母は母なりに迷惑を掛けたくない一心で我慢をしていたのだろうと思うのです。「あはは、あはは。・私もつまらん女になったもんだ」、と母は自虐的に自分に呆れ、責めているんです。本当に自虐的な表情でした。母は、「私が片付けるからいい。貴方達の手は借りない。ごめんよ、ごめんよ」、と。 でも、次の瞬間には片付けようとする私達の姿を見ていた母が猛烈に怒り始めるんです。
「何故?・。何故、貴方達はそんな汚い事をするの?。何故、私に片付けさせないの?」、と・。

そして、「お義母さん、お風呂場で身体を洗って綺麗にしましょう」、と言う嫁を母はあらゆる言葉を使って罵りました。 心身喪失と言っていいのか、自分が何をしているのか、何を言っているのかが全く分からなって半狂乱になっている母・。熊本の我が家で最初に目撃した老いた母の最初の姿でした。

★:母が転倒

そして、この日は母にも私達夫婦にとっても最初の大きな試練が訪れるのです。

 嫁が訪問介護の仕事に出掛けた後の私は仕事を休み、和室のベッドに横になった母を背中にしながら居間に転がっては春の選抜高校野球大会のTV中継を見ていた時の事です。いつしか居眠りを始めてしまったのか私は背後のもの凄い音で目を覚ますのです。母が和室から出ようとしての転倒でした。ベッドで退屈した母が居間で横たわる私の居眠りに気づき、毛布を掛けようとベッドの柵を掴みながら立ち上がった末の転倒で、和室と居間の段差で足を踏み外して転倒をしたのです。以前からの左足股関節骨折に加え、この転倒で右足の動脈を損傷した母は完全に寝たきり状態になるのです。

 この後、私は長期の職場離脱をして完全に勤務ローテから離れる事になります。自分で経営する会社とは言え、私自身でも現場に立ってきた身です。私の不在時間の職場を埋める為のパートさんへの出費は必須ですから私の収入は大幅にダウンする事になるのです。
 [居眠り]という私の不注意で母を転倒させ、完全に歩けなくなった母の処遇を巡っては嫁は一言も言わなくなりましたが、ヒシヒシと寄せてくる生活苦が堪えないはずがありません。でも、ここは無視するしかありません。私は介護機器リース会社から車椅子を借りて足の腫れの残る母を連れて立田山自然公園に連日のように向かうようになるのです。
  

Posted by 濱野裕生 at 17:26Comments(0)☆同居記録

2020年12月24日

〇.独り言:06

独り言:06

★:車椅子散歩&ドライブ

 最初のうちは車椅子での公園内の散歩だけ。やがて、母は杖を持たせれば車椅子からの立ち上がりが出来るようになりました。多分、散歩場所の立田山自然公園に向かう自動車の助手席に座ったり車椅子での移動だけでもその揺れで腹筋や背筋が自然強化されていたのだろうと思います。
4月、5月と母の散歩リハビリは殆ど連日続けました。時には益城町や御船町にまで距離を伸ばしてはドライブ好きな母の一面を確信します。本当に母は車窓の風景を楽しみました。
帰宅すれば私の介助で入浴させ、入浴後はウトウトとする母に1時間のマッサージ。マッサージが済めば中国鍼を使ったスポーツ鍼を施術し、最後にはお灸さえも・。

 湯上り直後の母の身体を観察すると、最初の頃には血流が良くなっても赤くなる部分が限られてまだら模様になっていたのですが、頭部から背中、両足へのスポーツ鍼をするようになってからは赤くなる部分が全身に広がり、確実に血流が良くなっていくのが分かります。 この鍼と灸ですが、「あァ、臭い臭い」、と帰宅する度に嫁が嫉妬と皮肉交じりによく言ったものですが、「やって良かった」、と現在でもつくづく思います。

5月後半から梅雨時期になる頃の母は杖を使い、左手で私の腰のベルトさえ掴めば立田山の丘陵地の芝生地を身体を左右に揺らしながらでもヨイショヨイショと歩けるようになっていましたが、左股関節に骨折がある為に左足の上りが一瞬でも悪いと芝に足を取られて転倒の危険があった為、常に私が左側から歩行介助する必要がありました。 更に驚いた事にはこの頃からは母の失禁が極端に減ってきたのです。やはり、歩くという行為が内臓筋を始め全身の筋肉を強化するのだと思います。

★:やがて、入浴も一人で

 入浴も私の手を離れ、嫁の簡単な介助でできるようになります。嫁も一種に風呂の中でキャアキャァとハシャギ合っているんです。
「お義母さん、お風呂に入る時には身体を洗ってからですよ」、と嫁が・。
「我が家ではそんな入り方はしていなかったよ」、と母。

「お風呂には綺麗に洗ってからじゃないと、後から入る人に失礼でしょ?」、と嫁。
「湯に浸かる前に身体を洗えば寒いじゃないか・」、と母。

我が家の嫁は思った事はストレートに言ってしまう天然の部分が多いんですが、苦労知らずの正直者なんです。この頃の母と嫁はまるで姉妹のように思える日がありました。
  

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2020年12月24日

〇.独り言:07

独り言:07

★:食事作りは私の役目

 実は、私の母が熊本へやって来る9年も前から嫁の実母は施設暮らしをしていて、最初の頃は銀杏の里よいう介護施設への入所でしたが、持病の腎臓病が悪化してからは我が家から7分ほどの所にあったOという病院で入院中でした。だから、私の夕食作りはその当時からの事。

嫁の訪問介護は1日に2件がベース。多い時でも3件ペース。一旦、帰宅後に仮眠をとった後で入院中の実母の食事、洗濯などの周辺介助に出掛ける・という、私の嫁は「おい、お前はそんな風だと人生を損するゾ」、と私に注意される程に寝るのが好きな人・。本当に眠るのが好きな人なんです。

今考えてみると・・、この頃に私が作っていた夕食は豪華だったなァ、と思います。必ず魚と肉の両方があって、どちらか一方を母が食べ残しても構わないような作り方。それに温菜類として根野菜に葉野菜が必ずあって、海藻類を使った酢の物も必ず1品。それに生野菜としてのサラダに汁物。漬物類も複数。私が長い間、プロ野球並みの日程で草野球をしていたからでもあるんですが・。
 食費に関しては「2人が3人になっても対して変わらないよ」、とは言いますが、あの言葉は絶対に違いますね。魚パックだって2匹パックで¥298だとすると3匹パックだと¥398はしますからね。

★:母の昔話を嫁がノートにメモ

 この頃、母はよく北松浦郡の歌が浦に暮らした頃や平戸の高等女学校時代の友人の話。それに父親や母親の事、兄弟姉妹の話を・。嫁はノートを片手に母と私達は夜が更けるまで話し込んだものです。
  

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2020年12月24日

〇.独り言:08

独り事:08

★:母が「オジちゃん、オヤスミ」。

 やがて2003年10月末のある日。ついさっきまでお風呂場で嫁と一緒にキャアキャアと笑いハシャイでいた母が湯上りの赤らんだ顔で車椅子に座っては私の傍を通り掛った際の事でが、突然に母が私に「おじちゃん、オヤスミ」、と言ったのです。 つい昨日の立田山での歩行訓練の途中では「今度ここに来る時にはアンタにオニギリでも作ってやるよ」、と言っていた母が・。

この「おじちゃん」、という私を呼ぶ声・。悲しいことですがこの日を境に頻繁に母が使うようになるのです。 「この野郎!。お袋が俺を『おじちゃん』、と呼びやがった」、と私は嫁に愚痴をこぼした瞬間を2011年の今でも憶えています・・。
これ程の犠牲を払って母の為に頑張っているのに、と。私はまだそんな事を考えるレベルの人間だったんです。
 嫁と一緒に入浴を済ませた母が車椅子に乗って私の傍を通り過ぎる際、「おじちゃん、お休みなさい」、と言ったのを切っ掛けに私は数十年振りにギターを手にし、「母がピエロになっていく。母がピエロになっていく」・・、と唄い始めたのです。嫁は覚えているかしら・・?。

この[♪:母がピエロになっていく]、という作品は母が話してくれた幼い頃の話や博多で英文タイピストとして働いていた頃の事を書いていますが、詩の中にピエロという文字を使った事を嫁が責めるかも知れない・と、曲としては出来上がった後でも2ヶ月もの間、嫁にさえ披露できずにいました。作品の主な内容は「母は当時では珍しいタイピストでキャリアウーマンだった」と称えているのですが・。
  

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