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濱野裕生
濱野裕生

2022年06月09日

〇母に対する兄や姉の思い

◎2022.6.9

〇母に対する兄や姉の思い

♪:https://youtu.be/ooSGIM1A5gc



「あれは・何?」 母が私の袖を掴む  
あれは星 そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺 あんたの命を守る星
「私の母も・いるよね? あの夜空のどこかに 
私の事を見ているかしら」
「叫んでおくれよ!私はまだここで暮らすつもり」と 
「もう少しだけお前と居たいから」と

「私は頑張ってるよね  お前は分かっているよね」
母は私を振返る 
「叫んでおくれよ  あの夜空に向かってさ 
まだ私を迎えに来ないでと」 
「母に伝えてよ! お前ならそれができるはず 
私はまだ息子と暮らすつもりと」

「あれは・何?」  母が私の袖を掴む 
あれは星  そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺  あんたの命を守る星

「私は頑張ってるよね お前は分かっているよね」
 母は私を振返る 
「叫んでおくれよ あの夜空に向かってさ 
 まだ私を迎えに来ないでと」 
「母に伝えてよ! お前ならそれができるはず 
私はまだ息子と暮らすつもりと」

「あれは・何?」  母が私の袖を掴む 
あれは星  そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺  あんたの命を守る星

〇母に対する兄や姉の思い。

 ここの処、親と子や兄弟姉妹間の話題が続きますが、12年半にも長きに渡る同居で老いゆく親を観察した者にしか語れないモノってあります。
2003年2月26日に90歳の誕生日を迎えた母。その数日前までの母は長崎の長女の家で数週間を過ごし、それ以前は当時は佐世保の実家近くに住んでいた長男の家(現在は熊本)に数日間を同居。何れのケースも決して長続きもせずに己の現状を理解しない母の我が侭や姉や兄の起こす短気心から母との摩擦が何度も何度も生じていたようです。

 仕方ありませんよね。私自身、確実に老いを重ねていることはカレンダーを見る度にため息をつく事多く、加齢に伴う身体の異常とは言えないほどの僅かな変化は日々間違いなく感じます。でも、人間ってその変化をなかなか認めたくはありません。そのことを身近な子供から指摘された日にゃ、表面上では笑い飛ばして誤魔化すんでしょうが、腹の中では「やはり、・・そうか。そうなのか」と落胆するはず。

 私の場合、身長が180cm近くて痩せ型、頭髪はフサフサ(母方の血筋)で見た目は実年齢から二周りほど若く見られ、その上にバイクなんかを乗り回すから信号停止時など後続の車から「おい、兄ちゃん。ウインカーが点いたままだぞ」、と注意をされていながら、兄ちゃんと呼ばれることに何故か嬉しい時があります。確かに頭髪に関しては睡眠時間が連日4時間程度の母の介護で疲れ果てていた2011年デビューの頃よりもかなり増え、今では理髪店で髪を鋤いて貰うほど。しかし、目袋はぷっくりと目立ち始め、どうしても隠せないものがありますね。それに若い頃からの猫背が更にひどくなったようです。 因みに、50歳以下の人は車のウインカーがアポロという呼称の時代があったなんて知りませんよね。

 話を戻して、我が父は母よりも11歳年上で75歳で没し、母は64歳で独居生活を始めたわけです。そして、70歳を越えた頃から持病の高血圧による比較的に重い心臓病が原因でその後には眼底出血で左目は失明し、その後も白内障や痔の手術を受けていることは既に《母の介護録》のほうで書いている通りですが、こんな手術などが影響したのか買い物途中で転倒したり、母の日常は徐々に不自由さが増えていき、87歳頃から長男や長女の元を交互に行き来して面倒を見て貰うようになっていたようです。

 老いていく一方の親の介護、その介護をするほうもされる方も本当に辛い悲しい事だと悲観しがちですね。だって、それまでの自分達だけの生活の中に親という全く別な固体が介入し、存在するようになるんです。犬や猫の世話をするようにはいかない。ちゃんと人格を持った自分の親、相方の親なんだから・。それが時に、・まるで人格を失くした様な言動をとることもある訳です。これを最初から理解した上で許容力を以って介護同居を始めないととんでもない悔悟同居になりがちですが我が兄も姉も当時はその辺を全く分かってはいないようでした。

 ・・、と言うより、人間って自由気ままな暮らしを求め、世の中に対する義務感などというものを避けがちなんでしょうね。だから、介護問題は聞きたくない、頭が痛くなる人が多いんだと思います。そして、濱野裕生の作る音楽は聴きたくもない、と・・。

〇子供夫婦の家庭での同居に馴染まない母。

 86,87歳の頃の母と兄夫婦の暮らしの中で起きた事件の一例を挙げれば、兄夫婦と一緒に夕食を終えた母はついつい独居時の家での癖を出し、兄夫婦の前で入れ歯を外して食卓にあった使用済みの小皿の上に乗せたんです。勿論、兄嫁が「お義母さん、入れ歯を洗いますから外してください」、と台所から叫んだ事が切っ掛けでした。ここまで心を許す兄嫁ですから母はつい甘えますよね?。

 「では、ここへ置きますよ」、と母は入れ歯を外して目の前の小皿に乗せたのだと思います。この姿って何処の家庭でも普通にあり得ますよね?。何でもない微笑ましい夕食後の光景じゃありませんか?。
 処が、我が兄は違っていたらしいんです。兄は己の嫁と母親に向かって「何だこら。何で俺の目の前で汚い入れ歯を外し、その上に食事に使う皿の上に置くんだ」、と怒り猛ったらしいんです。我が兄はこの一瞬で母からの信頼を失ってしまった気がします。以来、母は兄に対しては常に警戒心が先立ち、兄の気紛れな冗談に対しても笑う事はなくなったようでした。こうして、母は兄を避けるようになり、兄夫婦の元へは行かなくなったようです。「あそこには怖い男が居るよ!」、と。

 そうした状況を悟った姉は、長崎のほうへ母を誘うのですが、ここにも建設業を営む短気で突然に大声で叫び始める長女(私の姉)の亭主が居たんです。私の姉は早とちりで短気、短気ゆえに勘違いで場違いの情の深さを持っていて涙もろく、相手の心の底までは理解できない人でした。それでも、数週間は仲良く暮らして居たんだと思いますが、ある時に事件が起きるのです。姉夫婦の住む家の浴室の床の段差が異常に高く、それでも当時の母は浴室へ続く壁に手を添えていれば何とか歩ける状態だった為、姉はいつものように母を一人で浴室へ向かわせたらしいんですが、この日の母は何かが理由で気持が落ち込んでいたようで注意力に欠けていたのか、その高い段差に足をぶつけ、浴室のほうへ身体ごと転げ込むという転倒事故を起こしてしまいます。頭部を打つことはなかったようですが、この転倒事故で母の右足の小指、薬指、中指の3本を骨折し、母の単身での歩行は困難となってしまうのです。
 この後、この指の骨折自体は治るのですが、この指が治癒する間の寝たり横になるだけの生活で母の下半身の力は失せ、歩行自体が全くできない状態になるのです。
 こうなると、姉夫婦の日常自体が狂い始め、姉夫婦の意識や関係にも亀裂が生じては母の傍での姉夫婦の口論も当然のように日常的になっていったようでした。要するに、私の考える介護視点から言えば、当時の姉夫婦が行なっていたのは老いた母との単なる同居であり老いた親の介護ではなかったこと。母には食事を作って与える、風呂が湧いたから一人で入りなさいと母に強制する、面白いTV番組があるから今日は寝るのを1時間ずらして一緒に観ましょう・と。
 つまり、姉は自分達夫婦の生活リズムを母に強要していただけの同居に過ぎなかったんだと私は思っていました。

 やがて、姉から私の元へは頻繁に電話が入るようになるのです。それまでの姉、兄は何事も彼ら二人で決定し、事後の私の意見など聞こうともせず、母を入所させる介護施設のチラシを集めていた癖に、こうした状況になって初めて母への対処を私へ相談してきたのです。我が姉と兄・、私は今でも彼らを卑怯な奴らだったと思っています。

〇兄夫婦に続き、姉夫婦もギブアップ。

 「裕生(直裕)、こんな状態になった母の世話はもう私には出来ない。こんな母を見ていて思うんだけど、母には母の人生があり、たとえ母の命がこのまま尽きたとしても、それはそれで母の人生だと思うし、私には私の人生があると思う」と。「もう、母は歩けるようにはならない。これから先、私と弘(ご亭主)さんとで将来に渡ってこんな母の世話をし続ける事はできないよ」、と涙混じりの電話を私に掛けてきたんです。最初から覚悟が足らないんです。感情の世界だけで生きている人間ってこんな感じなんです。

 そして、「これから私は母を佐世保の家に連れて行く」、「そっと置いて帰るけどその結果でそのまま母が亡くなっても、それはそれで母の運命だと思う」、というとても勝手な理屈の言葉で当時の姉は電話を切ったんです。

 この電話、姉は己の価値観だけで大切な母親の人生を決め付けていました。もう、理性さえなくし、狂っているような一方的な自分だけの理屈ですっかり弱った母親の人権さえ無視し、単に罵倒しているようにさえ思えましたね。 もう、姉夫婦の限界だったと思うし、姉夫婦としては話合った結果だと私は察しました。でも、私の身体の底からは表現しょうもない怒り、そして、「今しか俺の出番はない」、という思いが沸々と湧きあがってきたんです。震える思いでした。姉夫婦は何を被害者ぶっているんだと思いましたね。

 「俺は母ちゃんを見捨てんぞ」、「母ちゃんが歩かんのは寝てばかりいるからだ」、「姉は自分が楽になる為に母を一日中横にさせているだけじゃないか」、「俺が母ちゃんを歩かせてみせる」、と兄夫婦も姉夫婦の場合も母が徐々に駄目になる方向へいざなっているだけだと感じたんです。姉には冷静に考えて欲しかったんです。

 要は、普段から杖を使う事を知っている姉には母に屋内用の杖を与えようという思いがなかったこと。あの日、母が風呂場で転倒した理由は姉が母の身体を支えて誘導しなかったこと。つまり、動作介助という考えがなかったことでした。
 姉には母との同居意識はあっても、母の生活介助、動作介助をする配慮がなかったことが母の転倒事故になり、その事故の為に寝たきり生活が始まっていることを姉自身が全く思い反省していないことでした。親の老いやその介護に本心から関心があるのであれば、事前にどこかの老人施設を訪ねたり、常にどこかで行なわれている講演会に参加したりするなどの行動があってしかり。如何に姉夫婦が瞬間的に感情的なもので母との同居を決意したかが分かるような姉夫婦が出した結論でした。

〇母を迎えに佐世保へ~呆然と見送る我が嫁。

 「これから佐世保に行ってくる。お袋が腹を空かして待っている」、私は玄関先に居た嫁に告げ、車に乗り込もうとしました。 庭先で掃除をしていた嫁が私に向かってポツンと「貴方はお義母さんをこの熊本へ連れて来る気でしょう?」、と言いました。やはり、辛く寂しそうな声でした。この時の嫁、実は自身でも近くの病院に腎臓病で入院している実母の周辺介助の日々が数年前から続く日々を送っていたんです。

 私は「分からん、今は深くは考えんでくれ」、と嫁に告げ、私は佐世保の実家へと車を飛ばしたんです。人間は腹が減ったら駄目になるし、それ以上に排泄物の不処理は人格の崩壊に繋がると私は日頃から考えていますが、これは私自身が一人暮らしの中で大病と大手術を経験している故の拘りでした。「母ちゃん、待っとれ。俺が迎えに帰るよ」、とその時の私は車の中で必死に叫んでいましたね。「母ちゃん、待ってろ」、と・・。

〇実家の6畳の間に芋虫のように横たわった母が・。

 佐世保の実家に着いた私は家の裏手に回り、母が居るだろう6畳の間の窓にある隙間からそっと覘きました。長崎の姉は母をいつここへ連れてきたんだろうか?。昨日?、一昨日?。横たわる母の傍には湯沸かしポット、大鍋、お盆に載せたご飯茶碗、湯のみセットなどがありましたが、母はそれらを背にして向こう向きに横になっていました。

 私は窓を離れて車に戻り、泣きましたね。叫びましたよ。俺達兄弟は何をやっているんだと・。老いた親をこんな風に盥回しに扱って、世話するつもりが根をあげ、詰まる処、こうして歩けなくなった母を単身で家に戻して放置し、死んでくれても構わんと思っているのか?。

 姉は「もう、私がしてあげれることは全部やった」、と電話では言っていました。今から遡って思えば、2003年2月当時の姉は自分自身が異常な心理状態に落ち込んでいたんではないかと思います。世の孤独死の事件などの一部にはこうして起きるものも有るんだと思います。
 
〇久し振りの再開~母は感情を出さない人になっていた。

 母は私の姿を見て驚きました。でも、余り感情を出しませんでしたね。兄夫婦、姉夫婦の家への何度もの行ったり来たりの生活の連続で、相手に気を遣う癖が身についてしまった結果、湧き上がる感情を抑えてしまうようになっていたようです。確かに、私が知っている母親ではありませんでした。

 母が最初に言った言葉、それは「裕生(直裕)!、私を便所に連れて行っておくれ!」というものでした。前述したように、母が横たわる6畳の間に置かれた大鍋や湯のみセットは兄嫁が朝方に持参してくれていたようですが、母は全く手をつけていない事が直ぐに分かりました。私は母をトイレに連れて行こうと試みますが、母は起きること自体が出来ないほどに右側を下に身体が固まっていました。隣の部屋には布団さえ敷いてあるのですが、この3月の寒い夜を昨夜はこの6畳の間で横になったまま過ごしたことが理解できます。ただ、部屋に篭る異臭から、母が既に失禁をしている事は直ぐに分かりました。
 私は母を抱き上げてトイレに運び、便座に座らせると背中を支えて「母ちゃん、思い切りウンチしていいよ」と・。便座に座らせる一方で片手で母のズボンと下着をとり、「母ちゃん、これは俺が洗うし、気にせんでいいけんね」、と言えば母は「うん、分かった。サンキュー」、と徐々に本来の母に戻り始めるのです。

 トイレの壁に左右の手をつかせれば母は座ったままの姿勢が保持できたので、私は台所と6畳の間へ走ってポットからタオルにお湯を出し、洗面所で冷水を加えて適温のお湯タオルを作って母のお尻を拭きましたが、トイレからの帰りには母の左側から腰に手を回せば「痛い痛い」と言いながらでも母は歩く事ができる事がわかりました。しかし、母の体重の多くは介助する者が支えなければ無理・、姉にはできないだろう事も理解しました。

 一方、当時の母の不自由さの原因は右足の指3本の骨折にあり、その為に寝たきりや椅子での座位の生活期間が長すぎて全く歩けなくなっていただけ。では、何故に姉は入院と平行した歩行リハビリなどの相談を整形医にしなかったのか、という疑問も湧いてきました。

〇母に肉じゃがを作る~「私しゃ、ジャガイモは苦手。胸焼けがするとよ」、と母。

 トイレを済ませ、衣服も着替えさせた母は気持よさそうに、「どれ、お茶でも入れようかね」と・。でも、台所へ立とうにも立てないことを母はいつも不思議に感じるらしく、「直裕、私はなんで立てんと?」、と私に聞いてきます。これが老いなんでしょうね。
 そして、私が点てたお茶を飲みながら、
 「母ちゃん、この佐世保にはいつ戻ったと?」と私が聞けば、「分からん」、と母。
「紘子姉ちゃんが連れてきたと?」、と聞いても「ようは覚えとらんとよ」、と母。
「そっでん、紘子んとこにおったっちゃろたい?」と聞いても、「うーん、おったごたる気はするけど」、「うーん、何がどうなっとるか、・・ようは分からん」、と母・。 

 ただ、母は「あのネ、あそこの男はよーく大声で叫んで紘子を怒ってね。私しゃ、大声で叫んで威張り散らかす男は好かんたい」と紘子のご亭主のことを私に伝えたんです。「あそこじゃ私はやっかい者らしい」と言葉を続けていましたね。

 暫くして、「もう、紘子は長与に帰ったと?」、と私が聞けば、「確か・、まだおるよ」、と言いながら母は「ひろこーっ、ひろこーっ」と佐世保の実家の中で娘の紘子の姿を必死に探し、紘子が長与から佐世保へ母を連れてきて放置していることすら自覚がないようでした。

 冷蔵庫の中をみれば兄嫁が買ったのか牛肉があり、野菜庫にも数種類の野菜があった為、私は肉じゃがを作りました。処が、母は肉じゃがが苦手だったのを作りながら思い出しました。「ナオヒロ、何を作っとると?」と聞く母に「肉じゃが」と答える私。「あら、私しゃ肉じゃがは胸焼けがすっとだけど」と母が言います。でも、直ぐに「うーん、よか。あんたが作るモンなら何でん美味しかと思う」と言い直した母はご飯は食べずに肉ジャガのお代わりをしたんです。多分、少なくとも丸一日以上は何も食べていなかった様子でした。

 そして、翌々日の正午過ぎのこと。兄嫁が作ってくれた冷麺を食べ終わり、熊本への帰り仕度をする私に向かい、横たわる母は私のほうを向いて意を決したように「ナオヒロ、私を熊本へ連れて行っておくれよ」、「私はあんたと暮らしたかとよ」、と言ったのです。この母の言葉は私の人生の中で何にも勝る感動がありましたね。


この続きは後日に書かせて頂きます。

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Posted by 濱野裕生 at 16:49│Comments(0)☆母没後の呟き
 
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