2021年01月06日
〇.独り言:27
〇.独り言:27
☆: 我が父のこと。ミツ姉さん。母との同居の切っ掛け
《遊走腎》と書くのでしょうか、父・利三郎には身体の中で腎臓が勝手に位置を変えるような病気があって、私が知る限りでは一度だけ。母によれば10年に一度は高熱で一週間ほど寝込むことがあったようです。
でも、柳川の農家の三男で小さい頃から「田畑へ与える水汲みをやっていた」、と言っていたように父の両肩には3Lサイズ卵1個半程度の瘤(力コブ)が盛り上がった体格の大きくて頑丈な人で徴兵検査では軍服が合わないということで失格。万一、連合軍が本土へ上陸するようであれば騎馬兵要員として採用するという通知をもらっていたそうです。
でも、その父は74歳頃から深夜になると度々の身体の変調を訴えるようになります。そして、軍医として戦死した弟と学友だったという富永氏が総院長を務める当時の佐世保中央病院で入院検査を受けています。
我が父はその検査の最中に息を引き取ったのですが、享年75歳。その時の母は64歳でした。父の葬儀の際のエピソードと言っていいか・、父の肩幅が広すぎてレギュラーサイズの棺桶に納める(納棺)際、葬儀社の方が父の胸の部分に膝をあてて鎖骨をポキン・と折っていたこと・。これは強烈な印象として残っています。
★:葬儀の翌日から始まった母の読経
母の実家は先祖代々から禅宗でしたが嫁いだ父の実家が真宗だった為に我が家は東本願寺系の真宗となります。しかし、父が炭鉱を経営していた事もあって神棚もあり、鉱夫達の安全祈願にと坑口にはお稲荷様を祀り、ここに神主さんを呼んではよくお払いをお願いしていました。勿論、我が家にも。まさに神仏が常に我が家の暮らしの中心になっていました。
父・利三郎が存命の頃には仏前にお坊様を呼んで節々のお弔いをする事はありませんでしたが、起床するなり神前と仏前には必ず炊き立ての白いご飯とお水を差し上げて手を合わせていた父と母の姿を憶えています・。
この父亡き後の母は仏前に座って読経を始めています。でも、肘や膝に痛みを抱える母には長いお経を読むのは無理だと感じた私は、「母ちゃん、これを読みなさいよ。これなら神仏の両方に喜んで貰えるからサ」、と《般若心経本》を渡します。
以来、母は10数年とこの般若心経を中心とした読経を続けることになるのですが、80歳を越えてからは流石に正座をする事自体が難しくなり、座椅子を使いながらも読経を続けるのですが、眼底出血や白内障の悪化等々の理由で母の身体が読経自体を許さないような状態になっていくのです。
そして、母は一大決心の後に突然に毎朝のお勤めであった読経を辞めるのです。でも、家の庭に母自身が植える数々の季節の花は相変わらず我が家の神仏を飾り続けるのです。
☆: 我が父のこと。ミツ姉さん。母との同居の切っ掛け
《遊走腎》と書くのでしょうか、父・利三郎には身体の中で腎臓が勝手に位置を変えるような病気があって、私が知る限りでは一度だけ。母によれば10年に一度は高熱で一週間ほど寝込むことがあったようです。
でも、柳川の農家の三男で小さい頃から「田畑へ与える水汲みをやっていた」、と言っていたように父の両肩には3Lサイズ卵1個半程度の瘤(力コブ)が盛り上がった体格の大きくて頑丈な人で徴兵検査では軍服が合わないということで失格。万一、連合軍が本土へ上陸するようであれば騎馬兵要員として採用するという通知をもらっていたそうです。
でも、その父は74歳頃から深夜になると度々の身体の変調を訴えるようになります。そして、軍医として戦死した弟と学友だったという富永氏が総院長を務める当時の佐世保中央病院で入院検査を受けています。
我が父はその検査の最中に息を引き取ったのですが、享年75歳。その時の母は64歳でした。父の葬儀の際のエピソードと言っていいか・、父の肩幅が広すぎてレギュラーサイズの棺桶に納める(納棺)際、葬儀社の方が父の胸の部分に膝をあてて鎖骨をポキン・と折っていたこと・。これは強烈な印象として残っています。
★:葬儀の翌日から始まった母の読経
母の実家は先祖代々から禅宗でしたが嫁いだ父の実家が真宗だった為に我が家は東本願寺系の真宗となります。しかし、父が炭鉱を経営していた事もあって神棚もあり、鉱夫達の安全祈願にと坑口にはお稲荷様を祀り、ここに神主さんを呼んではよくお払いをお願いしていました。勿論、我が家にも。まさに神仏が常に我が家の暮らしの中心になっていました。
父・利三郎が存命の頃には仏前にお坊様を呼んで節々のお弔いをする事はありませんでしたが、起床するなり神前と仏前には必ず炊き立ての白いご飯とお水を差し上げて手を合わせていた父と母の姿を憶えています・。
この父亡き後の母は仏前に座って読経を始めています。でも、肘や膝に痛みを抱える母には長いお経を読むのは無理だと感じた私は、「母ちゃん、これを読みなさいよ。これなら神仏の両方に喜んで貰えるからサ」、と《般若心経本》を渡します。
以来、母は10数年とこの般若心経を中心とした読経を続けることになるのですが、80歳を越えてからは流石に正座をする事自体が難しくなり、座椅子を使いながらも読経を続けるのですが、眼底出血や白内障の悪化等々の理由で母の身体が読経自体を許さないような状態になっていくのです。
そして、母は一大決心の後に突然に毎朝のお勤めであった読経を辞めるのです。でも、家の庭に母自身が植える数々の季節の花は相変わらず我が家の神仏を飾り続けるのです。
Posted by 濱野裕生 at 14:55│Comments(0)
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