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濱野裕生
濱野裕生

2021年02月02日

〇・2010年1月の頃

〇・2010年1月の頃

☆:2010年1月1日 謹賀新年。

今年もどうにか手造りの御節料理をお袋と嫁の口に届ける事ができました。近年はすっかり年末の紅白歌合戦が嫌いになったお袋は好きな民間放送の格闘技番組三昧でした。でも、後悔が一つありました。

「今度も知りもしない連中が唄う下手で退屈な紅白歌合戦かよ」と思っていたら矢沢栄吉さんが中継出演をしたんだって!。最近、何故か栄吉さんと布袋さんのギターが好きになった私としては見逃して残念でした。

それに、紅白歌合戦って昔並みに21:00開始でいいと思いません?。誰が出場しようが国民投票でもなく、レコード会社やプロダクション、民間TV局などに与えた出場枠があって、限られた歌手しか出ない事は国民の誰もが知っていることです。長崎出身の私としては前川清さんの影が薄くなった気がしますが、あれは鶴ベエの家族に乾杯をパクったような内容の民放の《旅好き》に出演しているからNHKからの「制裁」を受けているという見方もできますが・。 

処で、皆様のお宅では帰郷した子供や孫、ひ孫達に囲まれて賑やかな事でしょうね。我家ではこの数年は静かなお正月風景ですが、正直な処、このような静かな元旦が私は好きですね。日本人にはお祝いって言えば賑やかに・、というのが相場なんですが、やがては我家のようなひっそりとした静かなお正月を迎える家庭が増えて来るんだと思います。
実は、文化や伝統というものはそうやっていつしか少しずつアレンジされていっているものだと思います。何故なら伝える側には高齢化の波が押し寄せ、引き継ぐべき子供たちは少子化の一方ですからね。

★:やがて、老々や認々夫婦だけのお正月風景も・近い?

結局、文化や生活習慣なんてものは経済の変化、人口構成の増減や変化で簡単に変化せざるを得ないんですね。昔から語り継がれてきた村行事にしたって、その中での踊りにしても、廃止せざるを得なくなったものが各地でとても多くなってきていますね。人数が足りない、使い続けた飾りが使えなくなって新しく作るにも税収も減った村からの協力金がでない・、そんな理由からです。

太鼓の叩き手が居ない、笛を吹く人が居ない、唄で村の歴史を語る語り部が途絶えた・、そんな事が理由なんですね。時折、熱心な教師が太鼓を復活された、踊りを復活させた・、なんていうニュースを聞きますが、それがニュースになる事自体が侘しい気がします。

★:元旦。お袋、おめでとう。

そう言ってもいいよね?。2月には97歳ですよ。アンタのお母さんのライさんが亡くなったのが48歳というのを考えてみれば今という時代に生きられた事に対しても少しは感謝した方がいいのかもね。近所にあったクリニックの柴田先生に現在の菊南病院の室原先生、と研究熱心な良いお医者さんに巡り合えた事も元気でいられる秘訣かな?。

柴田先生は耳が遠くて患者の訴えを勘違いして診断したり、処方箋を間違えたりするけど、医者の世界にも間違いなく高齢化が進んでは医療過誤問題が水面下では起きているんだろうね。これからの時代、患者側は医者任せだけじゃいけません。戴いて帰った薬の効能・副作用や適量などを調べる必要があるかもです。今や医学は分業制であって総合医というべき医師が非常に少ないですからね。つまり、X線検査で骨折していることを診断できても、その骨の裏側で起きている激しい出血を見つけられない整形医が現実にいるんです。

私の高校時代の親友に脳梗塞後のリハビリに頑張っている柳井という奴がいるんですが、最初は肩から首筋が痛くなって整形医の元へ。ここで鎮痛剤や電気治療などをやっていた分だけ対処が遅れ、緊急搬送で運ばれた挙句の果て、既に脳梗塞を起こしていた事が分かったのですが、整形外科で電気治療をしている分だけ手遅れになってしまったんです。簡単に言えば、整形外科で湿布薬を貼って貰っている一方で脳梗塞が進行していたんです。

真剣に整形外科を開業している医師には申し訳ないけど、街中の開業している整形医にはまるで《大工》みたいな医師が多いですね。少しだけ辛辣な表現ですが私の友人はそうした大工みたいな整形医にかかっている分だけ脳梗塞の治療開始が遅れたのは事実です。整形医師には循環器系の学びが絶対に必須だと思います。

我が姉の紘子は「母は私や利彦の所に居たらこんなには長生きはできなかった」と言いました。多分、その言葉は言い得ていると思います。まァ、「水の流れの如く、人は遮るものさえなければ念の通い合う者同士、引き合う者同士がくっつくもんだと思います。長男だろうが末っ子だろうが神はちゃんと計算してくれているんだと思います。

殆どがスカで中に赤いタマが一つづつ入っている ガランガランと回転させるおみくじがありますね。あれって引いた者順に当るわけじゃなく、当る者にしか当りませんが、末っ子の私が赤玉を引き当てて親と暮らせるような運命を持っていたんだと思っています。


☆:2010年1月3日 

★:運命、人生

いろんな事を振り返ってみれば、その時々に思いつく夢を語り、愚痴を溢しながら人生を過ごすだけでは運命というものからはなかなか逃げられない気がします。運命という言葉の意味は人生という言葉の意味に近いものがあると思うんですが、人生ってのは意識さえ持てば変えられるものだと思うのです。でも、簡単には変えることはできません。

でも、日々の暮らしの中で人生を変える努力をしているうちに周囲の風景がすっかり変化していた、変わっていた、ギヤが一つ上がっていたという事は間違いなくあるようです。そう思えば、宿命ではないから運命というものは変える気がありさえすれば変えられる気がします。

日々の母を見つめ、日々の嫁の姿を見つめ、周囲を見つめているうちにそれまでの自分自身に向けられていた見方が変わっていくものではないでしょうか?。自分が背負った運命を変えようと思えば世間に訴える前にそうした「こと」をする必要がある気がします。


★:母は5人兄弟の末っ子

我が母・ツヤさんは河内松若、ライ夫婦の間の2男3女の末っ子で生まれ、一番上の進兄さんとは14歳違い。次男の勇兄さんとは12歳、長女のフサ姉さんとは7歳、次女のミツ姉さんとは4歳違いです。

何不自由のない炭鉱経営者一族のお姫様として生まれたのが我が母なんですが、母親のライさんは48歳で亡くなった為、その寂しさの中で母はお兄さん、お姉さん達からはとても大事にされて育っているんです。特にフサ姉さんなどは平戸の高等女学校を卒業後には実家の歌が浦に戻って朝早くから夜遅くまで河内家の家事を亡きライ母さんに代わって取仕切っています。その様子を描いたのが〈♪:母の童歌〉という作品です。

それに12歳違いの勇兄さんは母の父親みたいな存在だったようです。このように、私の母にとってのフサ姉さん、勇兄さんは特別な存在だったようです。母が高等女学校を卒業する頃にはフサ姉さんは電気工事店を営む向(ムコウ)家に嫁ぎ博多へ・・。そのフサ姉さんの代わりに母親役を務めたのは次女のミツ姉さんでした。

やがて、長男の進さんは祖父・濱野冶八の鹿町炭鉱の経営を一手に引受け、その経営を拡大させようと高等師範学校を卒業して数学の教員をしていた次男の勇さんを炭鉱経営に参加させています。

その後、フサ姉さんの後を継いで家事の一切を行なっていたミツ姉さんは平戸の青崎庄蔵という男性の元へ嫁ぎますが、この青崎庄蔵氏は後には平戸市長になった人です。そして、この後のツヤさんは父親の松若氏との二人だけの暮らしが続くことになりますが、松若氏が良かれと思って進めた縁談話にツヤさんが反発したようです。

父親の河内松若氏は高等女学校を卒業するツヤ(三女=私の母)にも「嫁に行け。見合いをしろ」、と四国で幅広く塩田業を営む人の息子との見合い話を勧めるのです。この塩田業者は父親の経営する平田山炭鉱の石炭の大口の顧客でしたが、ツヤさんは父親の強引なこのお見合い話を嫌い、既に嫁いでいたフサ姉さんを頼って父親の元から逃げるようにして博多に出るのです。

★:母は兄弟姉妹の愛を一身に受けている

腎臓が悪く48歳の若さで没した母親・ライさんの体質を受け継いだ我が母は平戸の高等女学校を卒業した後には山口県にある俵山温泉という所へ約一年間も投宿し、この滞在費用の全てを負担したのは長男の進さんでした。

この俵山温泉にはフサ姉さんが長男の浩巳を連れて訪れたり、父親抜きの兄弟姉妹との親交を温めあったようですが、私が勝手に推測する限り、母の兄弟姉妹達は母と父親との一定の距離を保たせたかったのではないかと思うのです。

そして、私の母は「お見合いは嫌です。博多のフサ姉と暮します」、という内容のフミを父親に残しては博多へ向かっっているのですが、「私はもう父親の顔は2度と見る事はないと思ったよ」、と母が時に述懐していましたね。実際に父の河内松若氏とは今生の別れになるのでした。

当時の日本社会で父親の意見に逆らう事への決意・。母は相当の覚悟をして博多のフサ姉さんの元へ行ったのだと思うのです。 現在でも母は父親のことの多くを語らず、兄弟姉妹の事を97歳になろうかとする2010年の今でも「進・勇兄さん、フサ・ミツ姉さん達には言葉にできない程にお世話になった」、と涙を流す理由がここにあるような気がするんです。

★:似ている・・、私と母。

「お父ちゃま(河内松若氏)は優しい人だったよ。タスキ掛けして魚を捌いては精進料理を作って見せたり、菊人形作りや盆栽が得意でね・。でも、私のお見合い話の事で怒らせてしまったさ。この時、私は親に逆らう事の意味を知ったよ。父親はフサ姉さんに手紙を書いても私にはよこさないほどに立腹していたそうさ」、と・。

勿論、この話を私の母がしていたのは母が94歳の頃までです。認知が進んだ現在の母は父親(河内松若)の存在も夫(高橋利三郎)の存在も忘れてしまった日が多いのです。でも。不思議に兄弟姉妹の事だけは感謝の表情で嬉しそうにいつでも何度でも話してくれます。

何故か、・この話を聞く度に私は私と私の父親(利三郎)との関係に結び付けてしまうんです。姉は「そんな見方をしてはいけない」、と私に注意しますが・。ここでは我が父と私の確執話は書きません。

★:そして、再び運命の話

親から子へ知らず引継ぐもの。自分の中で知らず引き摺るもの。避けようとしても必ずいつかは引き戻されるもの。そして、「あァ、やっぱり親子なんだなァ」、と思わずにいられないもの・。それが運命のような気がするんですね。例え親とは繋がらなくても祖父と繋がっていたり・です。

河内松若家を出た私の母・。博多に嫁いだフサ姉さん夫婦の元で多忙な姉さんに代わって向電気工事店の家事と浩美という男の子の世話を一手に引き受ける母ですが、こうした姿は母親亡き河内家ではフサ姉さんやミツ姉さんが母に対してしていた姿なんですね。

やがて、母(ツヤさん)は向フサ姉さんの家からタイピスト養成校に学んでは抜きん出る才能を発揮し、卒業前だというのに別な組織から教える側に立つようなスカウトさえ受けるようになるんです。母が専攻したのは英文タイプで当時の日本では貴重な技術だったようです。

しかし、向電気工事店一家は博多の店を畳み、米軍が基地を設けては戦後復興の著しい佐世保の町で新しく出店する事になり、母はこのフサ姉さんの家族と共に佐世保へ移り住み、母にはその佐世保の町でタイピスト養成学校を開設させる誘い話もあったようですが、母は再び単身で博多へ戻っては八幡製鉄所に鋼材を納入する高口(コーグチ)ハガネ店という所へ就職しています。

母に与えられた仕事は英語や独語で書かれた輸入鋼材の取扱い説明書を複数の小口の単位の注文に応えられるよう、同じ内容の説明書をタイプで何部も作成する事でした。当時はコピー機がない時代ですからね。母が持つタイプ技術は当時の我が国では希少な技術で高口ハガネ店ではとても重宝がられたようです。

★:河内松若、娘のツヤ親子の縁が溶鉱炉の中で・・。

母が勤めていた高口ハガネ店の主要な取引先は八幡製鉄所(現・日本製鉄所)。ここにはツヤさんの父親の松若氏が経営する平田山炭鉱から大量の石炭が納められ、燃え盛る溶鉱炉の中で河内松若-ツヤ親子の縁が激しく燃えて溶け合っていたんだと考えると感慨深いものがあります。

現在、高口ハガネ店というお店は当時の博多駅近くから場所を変え、社長も3代目の息子さんになり、大きなビルを構える程に成長しているようなんですが、私が[母に生命を返す時]というCD集を配布し始めた頃に「CDを聞きました。とても懐かしいですね」、という内容のお電話を頂いた事があって、母は「あァ、今の女性(会長さん)は恐らく私が勤めていた頃に生まれた女の子だと思う・」、と言っていました。

母が24、5歳の頃まで勤めた当時の高口家には子供が居なくて、その後に母が父と結婚して宮崎へ。その後に伊万里市大久保の地に転居した後に高口家のお手伝いの井上という女性から「ツヤさんが辞めた後で高口では女の子が生まれたんですよ」、と報告に来てくれたそうですが、その女の子が高口の現会長さんだとすると、まだ56歳くらいでしょうか?。

★:更に・・

実は、私も母がこの高口ハガネ店に何歳くらいまで勤めていたのかは分かりません。ただ、何が理由だったかは分かりませんが一度は退社して再び呼び戻されているんです。

母が夫となる高橋利三郎とお見合い結婚をしたのが30歳の頃。百田(モモタ)さんという方がお世話されたはずと姉が言います。利三郎は41歳の頃です。柳川の農家の三男として生まれた父が東大生に混じって受けた外交官試験(高等文官試験という)に見事に合格したのが苦学の末に入学した明治大学在学中の19歳の時。

この試験に合格した父は明治大学を中退し、高等文官として社会保険制度の普及していた英国を中心にした欧州への派遣をされるのです。何と19歳で外交官試験に合格ですから驚きですね。

父は現在の社会保険制度の基礎を作った人なんですが、欧州から持ち返ったはずの制度が日本国内で次々と変形して歪められていく過程にとても嘆いていましたね。「私はそんな制度を学んで我が国に持ち込んだのではない」と・。

実は、父は3年間の欧州暮らしを任じられていたのですが、祖国に住む医学を志す弟の実さんの学資、その他に気になることが沢山あったのでしょうか、1年早い2年間で帰国してしまったのです。この為に外交官としては失格。

その後、父(高橋利三郎)は国内勤務を任じられて大分県庁や宮崎県庁に赴任するのですが、上司と意見が合わずに辛い目に合ったようで、弟の高橋実氏が見事に外科医師に育ったのを見届けるようにして宮崎県庁を退職し、濱野一族から河内家へ委譲された炭鉱の経営に参加しています。しかし、我が父の実さんは医者になった直後にビルマ戦線で戦死しています。


☆:2010年1月5日 

★:石炭との縁・。

前述したように私は母の24歳頃から以降、30歳頃に父とお見合いをするまでの様子を知りません。母は「フサ姉しゃまの嫁ぎ先の向電気工事店で暮した後は高口ハガネ店で働き、結構な額の給料を貰うようになってからは高口の家を出て一般民家の2階に下宿していた」と私には語っています。

そんなツヤさんの独り暮らしを見かねた百田さんがお見合いをさせた、と・。勿論、父の41歳頃までの様子も私は僅かしか知らず、私が幼い頃には母も父も独身時代の写真が沢山あったのですが、残念ながらいつの間にか消失しています。

兎も角、我が父は大分県庁勤めの頃にツヤさんとお見合い結婚をし、宮崎県庁へと赴任しており、この宮崎暮らしの中で長女の紘子、長男の利彦が生まれたのですが、父が宮崎県庁を辞した後の暫くの期間は宮崎の地で石炭を売って生計を立てていたようです。今で言う、ガソリンスタンドですね。

やがて、高橋一家は濱野冶八の思いに引き寄せられるようにして河内家が経営する炭鉱を手伝う為に長崎県北松浦郡深江免江迎の地に転居しています。既に濱野冶八から鹿町炭鉱を引継いでいた河内進氏に経営を手伝うよう声を掛けられたからでした。そして、この江迎で私が生まれ、やがて佐賀県伊万里市へ私達5人家族は向かうのです。

こうして遠く思いを馳せると、私達一家は母の出身である濱野一族の縁というものに常にリードされている気がするんです。多分、今の姉も兄も・。勿論、今の私の暮らしも仕事も・。どこかで濱野冶八からの縁に繋がるような気がしています。

★:分析によって見えないものでも見える、かも・・。

父も母も、姉も兄も、今の私の暮らしもこうした運命の上にある人生だと思うんです。それぞれが別々な人生を送っているのですが、常に共通した何かに支配されている・・。それが運命ではないかと思うんですね。特に、あれほどに「高橋家から離れたい。生まれ変わりたい。こんな家族はウンザリだ」、と精神的には一番に家系依存をしていなかった私が母と暮らすようになるなんて・、とつくづく思うんです。

「あァ、どんなに拒もうが逃げようが、追いかけてくるもの、引き戻されるものが運命じゃないんだろうか」、と思うようになりましたね。あることがあって以来、私は父からは無視されて見捨てられていたような長い時期があるからです。

★:だからこそ、逃げてはいけない

逃げる者には天罰が下る。つまりは別な苦労を背負わされる・、という事なんだと思います。人間って全ての者がその前提で生かされているんじゃないかと思います。「楽あれば苦あり。苦あれば楽あり」、という言葉がありますが、あれは「楽あれば苦もあるのだろうが、苦から逃げても別な苦が待っている」、というのが私の持っている感慨です。



☆2010年1月7日

★:今年は新年参賀はしなかった

以前の旧ブログでは2009年暮れに不思議な夢を見た、と書きました。銀狐さんが私の健康を気遣ってくれた夢です。「今度の新年の参賀には来なくていいぞ。自宅でノンビリと身体を休めろ」、という意味に理解したんです。

実は、私が母を連れてよく通う神社には何故かお狐さん系が多いんです。近所にある代継神社もそうだし三宮神社などは阿蘇神社の分家で護国系のはずなのにお狐さんも祀ってあります。

お狐さん系というのは例の赤い鳥居で直ぐに分かるんですが、私の一族は戦後の炭鉱ブームで充分過ぎるくらいの生活を送る事ができた訳ですが、この炭鉱の至る場所、特に地下の坑道への入り口には必ず祠が作られ、その前には何故か赤い鳥居が建てられたものでした。このお稲荷さん系の神社は現在では商売の神様だと理解されていますね。

★:その神社

考えてみれば古い古い神社の多くは護国系かお稲荷さん系の神社ですよね。つまり、護国系は武家社会が作りだしたもの。そして、お稲荷さん系の神社は農家の健康と豊穣を祈念して作られた・、と解釈すべきなんでしょう。やがて、護国系は戦争犠牲者を悼み祀る・・と変化するのですが・。

★:私の家の近くには

北バイパス工事の際に作られたと思える小さな祠があって、この祠の前を車で通る際には必ず私は片手で会釈をします。近くに八景水谷公園という湧水公園があるくらいの私の住む清水地区はその名の通りに昔は相当な量の湧水が至る所に見られた地区だと聞きます。

多分、この地区の地下水脈の一部は北バイパスを作るために切断されたのではないかと思うのですが、私と似たような思いを持つ方が北バイパスのそばに小さな鳥居を立てて水神さん(龍)を慰めておられるようです。だから、そんな事を思い描いていると思わず手を合わせたくなりますよね。清水のウエストというウドン屋さんの近くです。皆さんも行ってみて下さい。

★:そこで正月早々の疑問

TVの国会中継ではよく政治家が「靖国神社がグジャグジャプンプン・・おまけでポンポン」、と言い合う姿を見受けます。言い合う理由の多くは「戦犯者を祀っているからいけない・とか、だからどうなの」だと思いますが、世界が狭い話だと思います。そんな想いは個々が心の中で葛藤しながら生きていけばいいんじゃないかと思います。
人によっては戦後は終わっているし、人によっては今でも戦後は続いている訳で、その括りなんて何処にもありません。

何故、靖国・ヤスクニと騒ぐのか戦後生まれの私には分かりません。あの言い合いは戦争責任の所在を巡る戦犯者問題であって、今のような語られ方だと一緒に葬られている他の戦没者が哀れな気がしません?。あるべき神社としての討論と戦犯者問題は別問題だろうと思いますが・。

野党の一部には中国、朝鮮系の帰化された方々が数多く居て、戦時中の日本軍部に導入された方々のご遺族ですね。戦後に日本国籍を取得した一族が日本政界へ進出した方々であり、彼等一族なりの戦争被害者への弔いの形があり、それがヤスクニを象徴として論争を繰り広げているんだと思います。

長崎には丸山公園がありますが、かつては丸山墓地とも呼ばれて朝鮮戦争で戦死した外国人兵士をも分け隔てなく葬られ、今では名所にさえなっています。ヤスクニ問題ももそのような形で収束する事を願っています。

★:それに

何故、あのヤスクニ問題にお寺さんが出てこないんですか・・ね???。私の友人で戦後生まれの外人野郎が言います。「裕生、俺は日本の文化が分からない。日本人こそがお寺と神社の区別がないんじゃないの?」とね。

「魂を安らかに眠らせるのはお寺さん。国の平和と豊穣を祈念するのは神社さんとでも区別してくれよ」と私は答えました。でも、我が国に於ける神仏の位置づけって歴史を振り返っても説明がつかないんです。それは常に戦乱の世が絡んでいるからなんです。

「この寺はA武将が戦さで死んだ息子を偲んで建てた・。それに、あの神社もそうだ・」なんてね。でも、元々は神仏一体としてその区別はないはずでした。でも、私も不思議に思うことがあって、それは年末になるとお寺が注目され、新年になると神社がモテモテになる我が国の文化です。

皆さん、原子力と原子爆弾を同列で語る人が居ますが、あれは間違いでしょ?。原子力は使い方次第では有効な資源です。でも、原子爆弾はウラン濃度を更に更に何十倍にも濃くして作られていて、原子力発電とは比較にならぬほどに危険なものです。


☆2010年1月10日

★:神社の話の続き

私にはお稲荷さん系がストレートで分かり易いですね。事実、このお稲荷さん系の神社は全国に20000杜近くもあってダントツなんですね。おキツネさんは「遊んでくれよ。可愛がってくれよ。その代わりに護ってやるからさ」、と近寄って来てくれますからね。多分、動物を人間のように可愛がる人の中にはおキツネさんの夢を見る事の多いと思いますね。

★:その証拠に我が家のチッチさん

「あァ、疲れた。あァ、腰が痛い」、と頭を抱えたり、床に横になっただけで我が家のチッチさんが「またなの?・・・、貴方も大変ネ」、って私のそばに駆け寄ってきますからね。時には、片手を伸ばして私の身体に触れ、「どうにかしなくちゃ」、とばかりにあっちこっち触るんです。

★:因みに、神社さんの種類

ちょっと調べてみたのですが、八百万(ヤオロズ)の神というように、キリスト教やイスラム教などの一神教とは異なり、日本では様々な神が存在します。昔の日本人は海や山、森や林、岩、滝、太陽、風・・等々・豊富な食べ物を与えてくれる自然への尊敬と地震や火山の噴火などの災害への恐れを感じていました。食べ物を与えてくれるのも災害を起こすのも神の意志であると考えるようになり、年によっては豊作になったり不作の年があったりするからですね。

だから「神様お願い」、と自然自体を神として敬うようになったんです。家を建てる際、山を切り崩す際など大地に塩盛りしますよね。それに、相撲で土俵内に入る際・・、私達は生活のいろんな場面で塩を使ってその場を清めようとします。酒だって使います。結婚式上でも塩は必ず神棚に置かれています。神社はこういった神を祭る場所で、古代では自分の生まれた土地を領有、守護する神である産土神(うぶすな)型神社や、奈良時代から平安時代にかけて八幡信仰などの特定の神の祭りを広めた勧請(神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)型神社、人間を怨霊として祀る御霊型神社などが建てられたんです。

このように尊敬や恐れを抱くものは全て神になり得ることから、勧請型神社や御霊型神社以外にも時代時代で流行した多様な民間信仰に基づいた神社がつくられるようになりました。

例えば、本来の神道にはない外来の信仰(仏教)が国民に広く受入れられる事で神道化すること によって作られた庶民設立型神社や寺院から転向した神社などがあります。

【主な神社の種類】
このように様々な経緯で設立された神社ですが、現在では多種多様な形で存在しています。主な神社を以下に挙げます。
                                                                                                                          
稲荷神社系(全国に約19800社)
 稲荷神を祭神として祀る神社を稲荷神社と呼び、全国各地に存在します。総本社は京都の伏見
稲荷大社で、稲荷神は穀物・農業・商売全体の神として信仰されていて、商店内、企業のビルの屋上、工場の敷地内などにも祀られています。

八幡社系 (約14800社)
 八幡神を祭神として祀る神社を八幡神社(八幡社、八幡宮)と呼び、全国各地に存在します。
総本社は大分の宇佐神宮です。祭神である八幡神は応神天皇を神格化したもので、農耕神あるい は海の神とされています。鶴岡八幡宮や岩清水八幡宮が有名です。

天神社(天満宮)系(約10300社)
 天満宮は、菅原道真を祭神とする神社で、政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格 られ化されるようになりました。天神とも呼ばれています。菅原道真が優れた学者であったことから天神は学問の神様として信仰されています。大宰府天満宮や北野天満宮が有名です。

諏訪神社系(約5700社)
 諏訪神社は、長野県の諏訪湖の両岸にある諏訪大社より祭神の勧請を受けた神社で、諏訪大社
の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神(たけみなかたのみこと)とその妃である八坂刀
売神(やさかとめのみこと)です。諏訪信仰は雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係
のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神としても信仰されて
います   


神明神社系(約5400社)
 神明(しんめい)神社は、天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社です。伊
勢信仰は伊勢の神宮に対する主として庶民の信仰をいい、元は祭神の天照大神が皇室の祖神とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき広く信仰を集めてきました。

熊野神社系(約3300社)
 熊野神社は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)より熊野権現の勧請を
受けた神社で、同名または熊野社など類似の社名の神社が全国各地にあります。

春日神社系 (約3100社)
 春日神社は春日大社から勧請を受けた神社で、全国各地にあります。祭神は春日神で、天児屋
根命(あめのこやねのみこと)、武甕槌命(タケミカヅチオ)、経津主命(ふつぬしのかみ)、
比売神(ひめのかみ)の四柱の神が本体となっていて、奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まります。

八坂神社系(約2900社)
 八坂神社は、素戔嗚尊命(すさのおのみこと)を祭神とする全国各地にある神社の名称です。
総本社は京都の八坂神社で、祇園さんの愛称で呼ばれています。平安時代の始め頃に都で流行した疫病による大災厄の発生を政治的に失脚して処刑された人の怨みによる崇りであろうと当時の人々は考え、最初はその御霊を祭りましたが、怒りは治まらなかったため、より強い神仏が求められたことが、日本神話でヤマタノオロチ(八岐大蛇=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらしたとされる素戔嗚尊命を祭った起源とされています。 

白山神社系(約2700社)
 白山神社は、富士山、立山とともに三霊山と呼ばれる白山の神を祀る神社で、石川県白山市の
白山比咩神社を総本社としています。祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)(白山比咩神)・伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)の三柱としているものが多くあります。
白山神社は全国各地にありますが、特に岐阜県・石川県・新潟県・静岡県に多く分布しています。
住吉神社系(約2100社)
 住吉神社は住吉三神を祀る神社で、祭神の住吉三神は底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称です。海の神、航海の神とされています。

日吉(山王)神社系(約2000社)
 日吉神社・日枝神社あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社よ
り勧請を受けた神社で、大山咋神(おおやまくいのかみ)と大物主神(または大国主神)を祭神とします。山王」とは、霊山を守護する神霊のことで、ここでは比叡山の地主神である大山咋神のことを指します。また、平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになりました。

金毘羅神社系(約1900社)
 金毘羅神社(こんぴらじんじゃ)は、香川県琴平町の金刀比羅宮を総本社とし、祭神として大
物主神を祀る神社で、全国各地に存在します。
金刀比羅宮は、元はその鎮座する象頭山の神を祀るものであった。古くから象頭山は瀬戸内海の航行の目印とされてきたことから、象頭山の神は航海安全の神として信仰されるようになった。また、航海安全だけでなく、祈雨の神として農民からも信仰されてきました。

恵比寿神社系(約1500社)
 蛭子神社(えびすじんじゃ、ひるこじんじゃ)はヒルコ或いはえびす或いは事代主命(ことし
ろぬしのみこと)を祭神とする神社です。「恵比寿神」とは元々、海の神で、海岸に流れ着いた見慣れないものを「えびす」と呼んで、それを海に神からの贈り物としてまつる習慣から起こったものです。ここから、豊漁、ひいては商売繁盛の神として現在に至ります。祭神がイザナギとイザナミの間の子であるヒルコや大国主命の子である事代主命であるのは日本神話が成立する過程で恵比寿神と結び付けられるようになったそうです。

 こうして、調べていくうちに幾つかの共通した目的で祀られた神がある事に気づきますよね。つまり、海や山に依存した生活の中で自然発生的に生まれた信仰。自分達が飢える事無く無事に暮せるよう、暮せる喜びを自然に感謝し、その一部を還元しましょう、と意味が基本なんですね。私は誰が作ったんだなんて事は余り考えません。
自然に支配された暮らしが良いのか、自然を壊してまで暮らしを追求した方がいいのか、は考えが違う処でしょう。でも、この地球上に住む者たちのあらゆるピークは既に過ぎ、これからは人口も確実に減少していくんですね。

「人類の歴史は創造と破壊の歴史」、だと言われますが大切な事が抜けていて、それは「元に戻す事が為されていない事」です。自然を変形させて作られた科学製品の多くは絶対に大地には還らないんです。

私に言わせれば植林だって不自然なんです。「自然が望まない特定植物を強制的に植えても・」、「我々が頭髪を切るように伐採を計画的に・」、と思います。

先日、TVで見た事ですが、「若い頃には暴走族のアタマ(リーダー)をやってて、カツアゲ(豚カツ屋で働いていた訳じゃありませんよ)やったり、婦女暴行を繰返し、サツにパクラレ、ムショに何度も入っていた俺がよ。オンナに子供ができた途端に大人しくなっちまって・、人生を考えるようになったのはそれからですよ・・」、と某俳優がアホ丸出しで語っていて・、TV局自体もその彼をヒーロー扱いするかのようなインタビュー番組だったんですが、「それを全国ネットで流してどうするのアンタら・・」、と私は呆れ返りました。こんな奴、誰か蹴り倒してくれよ。

結局、世界中に生きる人類の多くがこんな意識を持っているんだと思います。そこには信心も信仰もありゃしない・・。

私の知合いで申し訳ないんですが、指が3本ほど欠けた元ヤクザさんが居るんです。何かの切っ掛けがあって出家し、今はあるお寺さんで悩める人達の手伝いをしているんですが、この彼の説法は自分の昔話ばかり・・。「そんな世界の話自体が庶民には通用しないよ」、と私は言うと、「・・でも、俺にはコレしかないんだ」、と彼。「だから、まだアンタにはその[コレ]が染み付いてしまって忘れられない世界にいるのさ。出家していてもアンタは何にも変わっちゃおらんのさ」、と言ってやりました。

私が思うに・・、実は彼自身が寺で苦しみながら暮しているんです。「何十人ものお坊さんに囲まれて暮せばどうにかなるはず」、と思っているんです。こんな人は俗世を断つしかないと私は思うんです。あの宮本武蔵が何故独りで洞窟に暮したか・・。

そう考えれば、最近は話題の多い民主党の小沢さん・。政治の世界に拘るからああなるんですね。出番を伺っているうちに既に70歳間近ですか?。あの人は自分の手を汚さずに誰かが総理の椅子を作ってくれるのを待っています。畑を耕す努力をせずに芋を食う事ばかり考えていると、ああなるんです。

面白い事に、仮に小沢さんが畑を耕す気持ちになった時には、もう若手議員連中は新種の種芋を作付けしているんです。「もう、アンタの時代は終わった・・」、と。因みに、小沢さんが持っている種芋は[カクエイカナマル]という昔ながらの品種なんですね。

★:でも・・、
 文化って怖いものです。信仰だって文化の一つ。ある意味での時代の流行が定着したものなんですが、例えば、「頭髪の色だって茶髪がいい」、なんて文化が世界中で定着する世の中ですからこれからの文化・、つまり、自然や命(正確には生きとし生けるモノ全てのモノ)に対する考え方は修正できない気がします。 だって、「木を大事にしましょう/命を始末にしないで/親を大切に」、なんて標語が謳われる時代になってしまったんですよ。米一粒、芋1個を育てた事のない者達に命の大切さが分かるはずがない。



☆2010年1月13日

★:母が歯茎痛を訴え始めて1週間

この2年間ほどは歯茎の痛みはなかったのですが、最近はまた「歯が痛いよ」、と言い始めています。母には既に歯はなく、左下の歯茎なんですが特に傷はなく、以前にも何度か痛みが出た場所。
歯医者さんに言わせると「これ以上の入れ歯の調整のしようがない」、らしいのですが、「痛い、痛い」、と言っているうちに直るんです。多分、キャラメルを溶けるまで我慢して咥えている事ができずに思い切り噛んだのではないか、それとも、母の癖である入れ歯いじりでクッション部分が剥がれた為に徐々に噛み合わせが悪くなったのか・、暫くは様子を見てみたいと思っています。注意しないといけないのは、心筋梗塞の前兆として現れる肩痛、首筋や歯茎の痛みです。

★:だから、全てに圧力鍋を使用。

昨夜は酢の物の一部に使ったコンニャクを噛んで痛いといいましたからね。今日の夕食は15:30から下拵えをしています。刺身ばかりじゃ血圧に良くないですからね・。それに、どんなに柔らかく仕上げても嫌いなモノは絶対に食べてくれませんから、レバーなどは身体に良いからと料理に使っても絶対に食べません。ハンバーグも普通に作っては食べませんから、ボールの中で練りに練って肉の粒々が残らないように仕上げなければいけません。

レバーなどは挽肉の中に隠し混ぜてレタスやピーマンで包んで調理して誤魔化して食べて貰っています。
レンコンやゴボウなどもそう・・、そのままの硬さでは歯が痛くなくても食べません。だから、一旦は圧力鍋で柔らかくしてからミジン切りにしてから挽肉や魚のツミレに混ぜて料理すると気づかずに食べてくれます。レンコンなんてあの硬さがいいんですけどね・。

★:セロリ

母はセロリが大好き。意外な好物を発見する事があります。セロリなんて生で食べるのが相場なんですが、これを前もって圧力鍋で単独で柔らかく煮ておくんです。それを肉じゃがに混ぜて盛り合わせたり、スリおろしておいて玉ネギやニンジンなどの煮付けの隠し味に使ったり、温野菜サラダのドレッシングの隠し味に使ったりすると「おやっ?、直裕っ。これは風味があって滅茶苦茶に美味しいよ」、と言ってくれたりします。このセロリなんですが最近はミニセロリというのが出回っていて、使い勝手が増えてきていますよね・・?。我家の庭にも植えています。

★:お吸い物

お吸い物というと・・、和風味しか頭に浮かばない人は発想を広く持ってください。意外なお吸い物が作れます。メインは鶏の胸肉(安い)。まずは胸肉の肉と皮の部分を別々に外し、軽く塩を振っておきます。
沸騰したお湯に鶏の皮を入れて出汁をとり、それに事前に準備していた白ネギやシメジを投げ込んで酒や追い塩で味を整えるだけ・・。春菊もいいし、ツルムラサキを入れても美味いです。最後に肉の薄切りを入れます。モヤシやニンジンのスライスも合います。塩を控え目にミソを使い、その場合にはおろし生姜を使っても美味いと思います。

★:そんな処で・、今夜は・・

圧力鍋を使って煮込んでいたチキンを一旦は取り出し、この出し汁は幾つかのコップに分けておきます。その出し汁の一つに酒や醤油、砂糖を加えて煮詰めたところに再びチキンを入れて照りが出る程度にアマ辛く煮込んで1品(多分、母には無理かも・・)。
その残り汁に別な残り汁を加え、前もって同じ柔らかさになる程度に煮込んでいたダイコン、ゴボウ、ニンジンを煮込んで2品目。

それに、やはり、別な出汁をベースに茹でカボチャなどの柔らかい温野菜に茹で素麺を加えたサラダ。この麺入りサラダを母のご飯代わりにしてもいいと思っています。(色彩感を出す為に小ネギのミジン切り、卵の薄焼きを散らします)。この3品には必ず酢を使っています。そして、私と嫁の為に脂こってりのカレー風味の味付けチキンの唐揚げを作っています。そして、白菜とシメジの味噌汁・。

こんなものかなァ・・。お袋が歯が痛いと言う度に私は食事作りの原点に戻るようです。今日も頑張っています。



☆2010年1月13日

今年の元旦は例年通りに私の手作りおせち料理。でも、正月の雑煮だけは嫁が必ず作ります。まァ、2010年も無事に元旦の儀式めいたものを済ませる事ができました。嫁が台所に立つと母が落ち着く事は分かってはいるんですが、共働きの介護家庭ではなかなか無理な話ですね。要介護から要支援に回されたお年寄りの居るご家庭ではこの暮れからお正月の期間はとても大変だったのではないかと思いますね。

★:施設の労働待遇の改善の影響で・

母の通うデイ施設ですが、一昨年の2008年までは暮れの30日まで稼動していたのですが、突然に2009年からは29日までと・。これには困りました。12月30日まで勤務がある私はお袋を職場まで連れて行きましたよ。

★:最近のお屠蘇・。

何だか昔に比べると味が変わりましたね。そう思いませんか?。薬効のある数種類の植物なんですが、今年のは苦味成分があり過ぎたような・・。まァ、メーカー側にもお正月の味を知る人が次々と引退していくという社会事情が確実に増えてきている証拠なんでしょうね。日本から日本が消えているって事でしょうね。

★:このお屠蘇袋

以前なら、ホテルのフロントや煙草屋さんの店先。写真屋さん、個人タクシーの運転手さん、ガス屋さん、クリーニング屋さん、お米屋さん・・等々からタダで貰えましたが今年は買わなければいけませんでした。
この現象も流通の変化に伴って日本人同士の付き合いが希薄になっていっている証拠なんですね。来年のお正月はお屠蘇と同じような成分が入っている養命酒の方がいいかな、って思いました(冗談)。

★:出し入り味噌・・

最近はよくスーパーで見かけますが、あれは・・、嫌ですね。朝の味噌汁を作る時間さえ短縮しなければいけなくなったんですか?。我家の嫁も1回だけ買って帰った事がありましたが全部は使わずに野菜の漬物作りに目的を変更しましたね。

★:桜が恋しい・

私の1年の始まりはお正月ではなく、3月の20日前後。この時期が1年で一番、心がリフレッシュする時期になってしまいました。やはり、母の健康が気になるからですね。介護家族の多くの方が申される事ですが、「冬場に認知が一段と進行します」、よね。それに、冬場には交差点の至る所に[葬儀場への道のりを示す矢印]が目立ちますが、つまり、それほど冬場に亡くなるお年寄りが多いんだと思います。

2009年春頃からの母は発語障害が激しくなっていて、夜中のトイレの世話の際など「今、何時と思う?」、と聴いても、「えっ?、大豆がどうした?」、と聞き返したりして会話が一向に成立しません。成立するのは「寒くないね?」。「寒くはないよ」、程度。
仮に、私の言っている言葉の意味が分かっていても「はい、ベッドにはお尻から座って」、という私の言葉に「はい、ベッロにはオチリからね」、と・・。分かっていても正確な発音ができない・、これが発語障害なんですね。

2009年の今頃・・、詩や曲作りに於いて僅かなスランプ感を感じていました。母の夜間トイレの世話の内容が増えてくる中で次第に私自身の睡眠時間が短くなり、私の中の昨日~今日~明日の区別がどこにあるのかが分からない日が続くようになったからでした。

まず、母が就寝した後、嫁が1階の居間に居る間に風呂に入り、湯上がり後には翌日の出勤時の服に着替えます。私が居間に戻ると嫁が入浴するという・。常にどちらか一方が母のソバ、或いは母の部屋の気配を伺うという暮らし。これが我が家での在宅介護の原則なんです。

私が翌日の出勤服を着て寝るというのはこの数年は当たり前になっていて、最後にパジャマを着て寝ていたのがいつの頃だったか忘れてしまいましたね。風呂場で石鹸を使う事さえ躊躇ってしまいます。

昨年の2009年、作品作りに僅かのスランプ感を抱いていた私は、「いっその事、新たな作品を作る事より、昔の作品を思い出した方がいいかも・・」、と考え始めて発表したのが、[♪:佐世保メモリー]、[♪:まるでピエロのように]、[♪:Try to Remember]、[♪:愛のメッセージ]という作品。何れの作品も原曲は19~29歳くらいの時期に作ったものです。

夜間の母のトイレパターンは80~150分に1回。だから、その夜のトイレ周期を予測するのが大変。母の就寝に合わせて寝るか、夕食後、まだ食べている母と嫁が居間にいる間に1時間ほどの仮眠を取らせてもらい、その後は2時半近くまで起きていて、母の1回、2回のトイレの世話にスタンバイ。その後、4:30、5:30くらいまで眠れたら上出来・・、そんな毎日です。

この深夜のトイレ介助は冬場がとても大変なんです。「桜はまだか・・、桜はまだか」、と言うのは決して母だけではないんです。実は、私の叫びでもあるんです。サクラはまだか・・。

♪:春待ち人



☆2010年1月15日

★:お正月、ってのに2日から仕事だったんです・。

「どこ行くの」、と黒猫チッチさんが私のジーンズに爪を立てて引っ張るのですが、「今日から仕事ってさ」、と乱暴に返事して家を出ました。正月の2日、3日は嫁もゆっくりと家で母の世話をできると言ってくれましたが、この最近の母の身体と精神面の変化を嫁が知るには丁度いい機会にもなったようです。

ただ、ちょっと目を離した隙に例え座椅子からとは言え、一旦、床に滑り落ちたら最後、元のように座椅子に母をキチンと座らせるのは嫁一人の腕力では到底無理。座椅子からなら兎も角、床に転がってしまった母の両脇を抱えて立たせ、車椅子に座らせトイレに連れていく事などはもう女の腕力では無理・・。でも、それをやろうとしてくれる分だけでも嫁には感謝しなくては・・。

多分、母の身体に痛みを与えずに立ち座りをさせるのは今の姉にも兄にもできない事だろうと思います。そう、思うと、母は私達夫婦と暮らして良かった・。姉と兄には母の世話をさせずに良かった、と思うんです。

★:つい、さっきの母・。

居間で過ごす時の母は床上15cm程の座椅子に座ってコタツに入っています。勿論、コタツの四脚には私の手作りで角材を切って足を継ぎ足しています。トイレを催した時の母は「オシッコ」、と告げずに勝手に立とうとして座椅子から床に腰を落としてしまう事が多いんですが、これを立たせて車椅子に乗せるのは私にとっても大変な作業なんです。現在の母が取る動作の介助は動作次第では嫁だけではなく、私にも大変なものになっています。

★:仮に、立たせても立っていられない

ズボンのお尻の方を掴んで立たせようとしても、母自身の左足が股関節骨折の為にブラブラ・・。
この右足1本立ちの状態の母の身体のバランスを崩させないようにして車椅子を引き寄せて母の後ろに固定するのが大変・。炬燵の天板に両手をついていてさえ、片足状態と同じバランスで立っている為、母の身体はいつ左側に倒れても不思議ではないんです。

★:そして、その間の母は・

毎回ではないんですが、「何をする気ね。何をそこまでするのね。私は一人でできるというのに・・、一人で歩いていくと言ってるでしょうが・・!」、と。私に対してはこの程度なんですが、嫁に対してはこれ以外の言葉があって、それが嫁には辛いんだと思います。

認知の少ない日の母は「何をアンタは・、私をバカ扱いする気ね」、と。認知が深く出ている日には「川浪さん、立つくらいなら私独りでできますよ。ね、お願いだからやめて下さいって。川浪さん、川浪さんってば・・。もう・・、この人にはホトホト呆れる」、と嫁に向かって違う人の名を呼んでは嫁から受ける介助を嫌がるんです。嫁にとっては別な女性の名前で呼ばれるのがとても辛いようです。

★:一向に憶えてくれない嫁の名前

母は嫁の事を川浪正子さん、貞子さん、時にはフミ子ちゃんと呼ぶんです。処が、天然の嫁は母の言葉をまともに受けては猛烈に怒るんです。 でも、母にとっての川浪正子さん、貞子さん、フミ子ちゃんという人達は母にとっては親しかった友人、甥の嫁、姪・・と、とても大切な人なんです。だから親しみを持って呼ぶのですが、「♪私はそんな人は知りませーんが・」、と嫁は怒ります。

私の嫁の名はゲイ子なんです。ゲッゲロゲーのゲ・。濁音が入る名前って珍しいでしょっ?。でも、本当は芸の旧字体の藝という文字を使った藝子と書いてのり子と呼ぶんです。「ゲイコゲコゲコ」、と呼ぶ私がいけないんですが・ね。
私だって「オジちゃん/イサムさん/アンタは誰だったかね」、と母に呼ばれるんだから仕方ないのですが、我が嫁は物事に対する発想がとても狭い短絡人間、気分屋の激情人間ですから当らず触らずです。



☆2010年1月17日

★:洗濯物を畳む母が・・

「ね、随分と遅くなったよ。そろそろ出発しないといけないよ」、と母。
「どこにさ?」、と私。
「うーん、と。・・深江だったと思う」、と母。

「深江の義ちゃんにでも会いにいくのか?」、と私。
「うーん、義ボーに会ってもいいが、えーと、あれは誰だったかねェ・」、と母。
「俺はどこにも行かんよ。そんな時間がどこにある?」、と私。

「でも、この家にはいつまでも居る訳にはいかんだろう?。早くおいとましなきゃこの家の主さんに申し訳ないじゃないか?」、と母。
「この家の主は俺さ」、と私。
「そんな・、アンタにこんな大きな家が持てるはずがないじゃないか」、と母。

「持てたさ。ここは俺の家さ。俺達が頑張って建てた2軒目の家さ」、と私。

「へェー??。・・、で、1軒目は?」、と母。
「土地が102坪もあってさ。母ちゃんも65歳の時に祝いに来たじゃないか」、と私。
「へェ・・?。・・アッアッアー、道路の角、あの近くの信号の角に大きな店があって、私が買い物に行った所よね」と母。

「そうそう、ニコニコ堂という店だったさ。家の庭には築山を作って普通の梅と枝垂れ梅を並べて植えて、ブロック塀の代わりにと5mほどの貝塚伊吹という木で周りを囲ってさ。ツツジを一杯植えてね・」と私。
「あァーあはは、憶えとるよ。アンタ達は朝早くから晩遅くまで手入れをしてね、と母。

「うん、母ちゃんは買い物行って、夕ご飯を作ってくれとったよ」、と私。
「ホホホ、そうそうそうだった。・・で、あの家はどうした?。何でこの家に居るの?」、と母。
「イタリアンレストランを出して失敗してね・・、売り飛ばしたさ。その僅かな残り金を頭金にして建てたのがこの家さ・」、と私。

「あはァ、・・だったらこの家はアンタの家か・」、と安心したような母。
「そうさ、この家は母ちゃんと俺達夫婦の家さ」、と私は「また同じ説明してしまった」、とため息。
「処でさ、俺達夫婦って・・、アンタに嫁さんでもいるのか?」、と母。

昔の話をする際の母の脳裏には嫁の存在があるのに、話が現在に近づくにつれて嫁の姿が消えていくようです。これは、昨年から働き始めた嫁の姿が我が家の一日から消え始めた事と大いに関係があるんでしょうね。嫁が怒るはずです・。 でも、一日に19時間も母のそばに居るはずの私に対する認識でさえ、母は自分の子供だと理解できる日が少ないんです。憎むべきは認知です。

★:それどころか、最近の母の新しい症状

母をトイレからベッドへ移し、横にならせて布団を掛けている最中、フッと枕元にお茶が用意されていない日があったんです。嫁がお茶を置いておくのを忘れているんです。
気づいた私は「お茶を持ってくるから」、と母に告げ、台所からお茶の入ったコップを持ってきた際、「あれっ?、・さっきのオジちゃんはどこ?」、と母・。
「我家にはそんな人はおらん(いない)よ」、と言う私に、「アンタはいつ帰って来たの?」、と・・。
「俺はさっきからずっといるじゃないか」、と言うと「そんな事はない!。アンタとは今日初めて会ったさ・」、と・。

★:時に・・

「ねェ、利三郎(亡き亭主)さんは偉く帰りが遅いじゃないか」、と母。
「利三郎ってアンタのご亭主で俺の父親だろう?」、と言うと、「違う、私のご亭主様はアンタさ」、・・と。だから、時にはお見合いをさせてくれた百田さんには会いにいって挨拶をしなきゃいかん、と・。
最近の私はイサム兄さん、利三郎さん、松若父ちゃま・・、いろんな役を与えられ始めています。

★:失語症状に発語障害がひどい時の母

「寒くないね」、と私。「ん?。・・えーと、(寒う)なか」、。と母。
私が母の世話をした後、部屋を出る私に対して母がよく使う言葉に「ありがとうね」、というのがありますが、最近の母は「ありがとござす」、と言葉が短縮されたり、「あァ、あァ・・・ありがとう」、と言葉が直ぐには出なくなっています。

私と話す時、長崎の長女との電話では会話が成立しているようですが、実際にはそうでなく、母には部分的、断裂的にしか聴こえてなくて、従って姉が話している話の内容は殆ど理解していません。相手の話す言葉の中の理解できる言葉だけに母は反応しているようなんです。

例えば、「母ちゃん、今日は一日晴れていて気持ちが良かったよね」、と私が言うと、「良かったよね」、と。「お腹は減っていないね?」、と聞くと、「オカカは減って?・・あァ、あァ、お腹ね。お腹がどうした?」。「減っていないか?」。「・ないよ」、といった感じです。介護家族でない方には分かって貰いにくいですね。


☆2010年1月20日

★:母の定期受診日・。菊南病院の室原院長が・・。

1月7日は母の定期の受診日で菊南病院へは約束通りに行って前回の受診の際の血液検査結果が伝えられました。前々回の検査では血中アミノ酸(タンパク質)が減少気味だから脂肪分の少ない肉や魚を多めに食べるように、と指導されていましたが、今回の報告ではほぼ正常値に戻っているとの事。

「まァ、年齢を考慮して言えば医学的に多少の疑問譜がつく項目はあるのですが、96歳という事を考慮すれば良しとしなければ・」、という先生のお話でしたね・。それに、「要介護が5でデイに毎日。それにこうやって病院に息子さんと一緒に来る事ができるというのが素晴らしい」、とも言って頂きました。


★:そして、意外な話に発展。院長が「《[濱野裕生の母に生命を返す時コンサート》を開きましょうか!」、と。

前々前回の受診日だったか、病院指定の次回の受診日に対して、「すみません。その日は武雄市民病院看護部のご招待でコンサートを開いて頂く日なので来れません」、と言って受診日の変更をお願いすると、「エッ?、貴方がコンサート活動を?」、と驚いた表情をされたんですね。

そして、前々回の受診日に[母に生命を返す時]の短縮版をお渡しした際、「あァ、あれ以来、貴方のブログを読んでいますよ」、というお言葉を頂いていたんですが、今回の受診を終えて診察室を出ようかというタイミングで「この地区でも貴方のコンサートを企画しましょうか」、と言って頂いたんです。この言葉には嬉しかったですね。話を進めて下さい。室原先生、宜しくお願いしておきます。

★:・・で、帰りの車の中で。

「母ちゃん。俺・また熊本で唄う事になるかもよ」、と言うと、母は、「なんバね?」、と・。
「ホラ・、つい・この前も武雄や長崎で唄ったじゃないね」、と言うのですが、「知らんよ」、と・・。まァ、こんな母なんですが、武雄でも長崎でも母は必死に耳を傾けて聴いてくれ、拍手も(周りにつられて)していましたし、その瞬間瞬間では分かってくれているとは思っています。

その証拠に、車の中でCDを再生していると「ん?・んん・・?。これを唄っているのはアンタだよね?」、と・。


☆2010年1月23日

★:2月11日の夜中、またもや不思議な夢を・。

黒い袈裟を着たお坊さん達が、もう何万人、何十万人という集団で私に向って両手を合わせているんです。そして、私はある1名の高僧とその集団の前で対話をしている夢でした。
そして、彼らは去り、私は彼らの列を見送っているんです。

実に、不思議な夢を見たものですが、昨年末にもおキツネさんの夢を見たし、この現象って何を意味するんでしょうね。良い知らせなのか、はたまた例によって追突事故に遭う前触れなのか・最近は妙な気持ちになっています。

★:特定の信心はしないがその心は誰にも負けない・

私は信心に対する念というものは強く持っていて、法華経の中にある延命嘆願の部分や般若心経本をよく読むんですが、これらの本を読めば読むほどに特定の宗教というものへの関心を持たなくなるんです。
つまり、私は具体的な信心行為は全くしない人なんです。俗に言われる読経や写経なんて「それやって何の役に立つの?」、という程度にしか考えていません(済みません・・)。人間って立って歩き続けてこそ・というのが信念だからですね。

★:オシエ・、つまり道徳観なんて時代次第でどうにでも変わり得る・それこそが人間の作り出す怖さ。現代に生きる日本人の右往左往振り・・。

オシエなんて特定の人が説くものでも作り上げるものでもなく、集団の中、ひいては万人の中で[常識化されていくべき行い]だと思っているからです。例えば、この前までは自民党が支持をされ、今では民主党が支持されるように・・です。
このように、オシエとは時代と共に変化するモノ、と思うんです。だって、寺での一日の勤めを終え、夕ご飯には好物のタコの刺身でビール飲み、子供を連れてカラオケへ・、なんて坊主が居ても当り前の時代なんです。
△△宗の開祖様と職業としての現代のお坊さんとは全く違うんですからお寺さんだって普通の家庭人であっていいと思って私は書いているつもりです。

もっと簡単に言えば、釜戸に薪でフーフーと吹き竹に息を吹き込んでご飯を炊いた事のない人に「始めチョロチョロ、中パッパ。赤子泣いてもフタとるな」、なんてコトワザが通じる時代でもないんですね。「捻るとジャー」、って憶えています?。今なら「手を近づけるっとジャー」、なんですが・。

★:右往左往から始まるモノを見つけたい

私は「右往左往する時期があっていい」、と思います。私が詩作活動の原点にしているポイントは命。それにコンサート会場でのトークで大切にしている事は「米一粒の有難さ/命一つの重さ]・・、先ずはそんな事なんです。一枚の葉っぱにだって背負った役目と命がある事を言いたいんですが、そんな私の話でも2009年9月の武雄コンサートの終了間際には、「takassanの作品とトークはまるで法話を聞いているようです」、という有難いお言葉を頂きました。


★:例の大量殺傷の秋葉原事件・・。

おっと、忘れ掛けていました。再び目立ち始めた奴がいます。例の秋葉原の糞坊やの事です。[♪:命の重さ]という私の作品の中には「・・すっかり変わっちまってさ、人が人を忘れてさ、自分の世界で勝手にナイフを持って暴れてさ・・」、というのがありますが、この作品の2番の詩の部分は例の秋葉原事件を扱っているんです。

少子化のお陰で兄弟もなく育てられたから寂しかった・・、派遣先の会社からは居てもいなくてもいいような待遇をされているかも・と感じた、携帯の書き込み欄に書いた自分の「寂しい」、という記事への賛同が得られずに逆に馬鹿扱いされていると感じた・から、等々・・。

彼はその動機を少しだけ語りだしたと報じられていますが、彼は事件を起こすに至るまでに殆ど自分の疑問を言葉で相手に表現できず、全て自分だけの思い込みで行動をしているんです。 職場のロッカーから自分の仕事着が無くなっているという事だけで勝手に腹を立てては会社に問う事もせずにそのまま帰宅し、翌日からは無断欠勤をしていたとか・・。基本的に引き籠りで小心者の癖に妙に目立ちたがり屋です。

★:犯罪と生立ちからの環境の考慮・・。

[社会心理学]の中でも[犯罪心理学]という分野なんでしょうか?。・・。でも、こうした個別の犯罪にそれを適用して考察していたら全ての犯罪が「なるほど・そういう理由があったのか」、と哀れんで許してしまわなければいけません。そして、そういう意識が博愛主義だという国民性を育ててしまう事のほうが私は怖い。巨大な犯罪者国家はそうした過度の自由主義から始まるんです。自由を求める以上は果たすべき義務を負え。義務を忘れて権利だけを主張しても「馬鹿か」としか言われません。

私は犯罪の事実と心理分析とは別個のものと思うんです。犯罪者が犯した大きな要因が生い立ちや生活環境にあったとしても、その事実を元に戻すのは無理な話。息子が引き起こした犯罪の原因の一端を彼の両親や生きた時代に押し付けてはいけない。彼は36歳で、事件当時は34歳ですか?。この秋葉原事件では7人を殺しているんです。精神鑑定なんて甘い、「お前も7回は死ねよ」と言いたい。

交差点を歩く歩行者をまるでボーリングのピンを倒すが如く。彼はトラックで次々と轢き倒したんです。決して衝動的ではなく、計画的に冷静に己の犯罪を携帯ネットで予告し、「さァ、突っ込むぞ」、とまるでヒーローにでもなったかのように人を次々と殺し、その模様をネット配信さえしたんです。私はコイツは生きていてはいけないと思います。人を死に追い込んだ者は死でしか償えません。

★:社会との疎遠感、隔離感・・。全ては狂っている自分自身が獲得し、己の心の中で増長増殖したモノ。両親や生活環境とは無関係。

私じゃなくとも、誰にだってこの程度の分析ができる彼の犯罪者心理。こんな事件に心理学者の分析を持ち出す必要なんて皆無。この事件は現代を生きる者の多くが感じているはずの[疎外感]が呼んだ事件だと思います。彼の生い立ちまでさかのぼる必要なんてないんです。

犯罪者の心理分析は学問であって、殺人者の心理とその心理を育てた生活環境等々を分析し、「同じような事件が起きないように」、ではなく、「そうした社会環境の世の中を作らないように」、との本来の趣旨の学問に戻すべきです。世の中を、政策から見直すべきです。

★:疎外感は克服する対象。

確かに兄弟が多ければいい事もあります。兄ちゃんにぶん殴られ、泣かされ痛さを知る事もできます。その兄ちゃんが居ればこそ親に言えない悩みを打ち明ける事も・。姉ちゃんが居れば風呂場を覗く事もできるでしょうね。 多分、その一つ一つが自分を成長させるものとは思います。でも、私の世代なんてマジで高校や大学受験の際の倍率は高かったんです。だから、必死に勉強しても振り落とされる者は確実に今よりは多かったんですね。つまり、世の中からの疎外感です。今の世は高校も大学も競争率は低く、定員割れで全員入学が可能。入試なんて意味はなく、むしろ全員を入学させた後、卒業試験を設けるべきです。

今のように受験期の子供の総数より迎える学校側の席数が多いというのは誰でもが簡単に学歴だけは確保できる訳です。その意味での疎外感は今の次代が少ないんです。問題は社会に出てから感じる疎外感なんですが、少子化の影響で兄ちゃん、姉ちゃんがいない、兄弟喧嘩の経験もない、といった環境が狂人を作り出しているんです。

★:スポーツを例に・。

私が育った頃のスポーツなんて柔道、相撲、剣道、空手、バスケットボール、バレーボールに野球程度・・。その多くが学校内でしかできない時代です。処が、今はやろうと思えばできないスポーツを探した方が早いくらいに何でもアリの世です。仲間なんて幾らでも作れるはずなんです。

★:結局・・、疎外感を持つのは心の弱さから。人間なら誰もがどこかに持っている。

親が居ようが居まいが。兄弟が多かろうが少なかろうが・・、その事と疎外感とは必ずしも同期しない気がします。例えば、恋愛がその証拠。誰かに恋をしてしまうと、もう・・ホホ。その人だけが常に目の前に居てくれたらいい・・。クラブの仲間も兄ちゃんも姉ちゃんも、母ちゃんも父ちゃんの顔も忘れるくらいに夢中になって、世の中には彼女(彼氏)と二人だけが居ればいい・・、なんて思うのが人間なんです。昨日まで感じた疎外感はどこ行ったの・ってね。でも、この事だけで疎外感は語れません。

私なんか兄弟が居るのに疎外感を感じる瞬間って幼い頃からいつも付き纏っていました。野球したいのにさせてくれない。柔道するにも柔道着がない。仕方なく、裏山から掘ってきた赤粘土に水混ぜて練り、ボール大に丸めて一人で投げて遊んでいました。幼い私なりに感じた長男偏重主義の父の言動が私に対して与えた続けた疎外感でした。私と父の関係・、ついつい思わず書いてしまいました。

それに、恥ずかしい話ですが熊本に来て一文なしになった後、食事代もなくて腸が割り箸の大きさくらいに繊維化してしまい、切除するという大手術を受ける羽目に・。切除手術が済んだら済んだで今度短くなり過ぎた小腸の消化力が不足してはヘルペスまで発症しては左目の視力を失うほどの栄養失調になった事があります。この頃の私・・、もう、生きる意味がない、例えどんなに生きようと頑張っても身体が勝手に衰弱していく・・、という疎外感の極みを知りました。とても辛かったですよ。この話、父も母も知りません。言ってしまえば甘えがでます。

★:私の山篭もり生活

実は、こんな状態で始めたのが私の山篭もり生活の始まりだったんです。「そんなに死にたかったら山にでも行って鳥の餌にでもなってみろ」、と言うH老医師の言葉にどこか心惹かれて宮崎との県境いにある原始林へ私は向ったのです。
ドングリを粉にして水に晒して乾燥させてデンプンを作っては沸かした湯で練って頬張り、川の小魚や虫や土鳩や蛇さえも煮て焼いて食っては1年近く暖かい風呂にも入らずに川で水浴しては下宿と山を行き来していました。

結局、私は自らを疎外感の中に求めていたんですね。池に写る自分の姿を相手に必死に話し掛ける日々を過しました。私の中の誠意・・、それは両親とも姉、兄ともコンタクトを取らぬ事。生きるも死ぬも自分で決めてやる・・、例え朽ちてもこのまま生きていくより楽な事かも知れない・・。そんな決心をして私は自問自答を繰返すうちに次第に生きる力、自分の特性を把握していくのです。全てが自然から学んだ事でしたね・・。

秋葉原事件のアイツのように周囲のせいだ・なんて思った事はなかった。「見返してやる」、と思ってもナイフを持ってどうにかしてやるなんて思った事などありません(ただ、ナイフで自分の両手、首筋を少しだけ傷つけた事はあって・・、そのせいで今でも長袖シャツと真夏にはハイネックを着る始末ですが・・)。でも、母との暮らしの中で棄てたはずの音楽が私自身を救ってくれるとは思いもよらない事でした。

この時期の頃を作品にしたのが[♪:四畳半の檻の中で]なんですが、生きていてよかったと心から思っています。こうやって自分の欲望を制御して母親の命を護ることのできる人間に私はなれたんですからね。私は今初めて人間らしい暮らしをしているのかも知れません。


☆2010年1月25日

★:疎外感?・、いつの世にもある空虚感。

私がコンサートでのトークのメインテーマにしている事・。介護という世界に生きる専門職から介護家族に至るまで。その中に互いに潜む様々な問題の根底にあるはずの疎外感というものを言いたいんです。勿論、老いゆく者の疎外感も・。

余りにも早く駆け巡る情報に振り回される現代社会を生きる私達・。知っている事が知識で知らない事の方が劣勢に立たされるような社会。知っている事でも理解していなければ知識でもないし何の役にも立たない事の方が多いものなのに・・。そして、持っている知識が実は虚偽であったことに気づかないままに生きていることさえある現代社会なのに・。

通り過ぎる時間が余りにも早過ぎ、親子や兄弟である事を噛み締め感じ合う時間もなく大人へと成長しては「俺の親はどこだ?」とばかりに親を探してうろたえる若者。

或いは子育てを途中で放棄するかのようにせわしく時代に引き回され、余りにも早過ぎる老いへの道を急ぐ親。2年前まではカラオケ喫茶でリモコン片手に曲集を見ていた人がフッと気づけば自分の為の介護施設案内を読んでいたり・・。

特急列車に乗リ合わせたばかり人生の休み所、骨の休ませ所も知らずに駆け抜ける人生・。何れもが現代を生きる私達の姿なんです。人生なんて鈍行列車のほうが味があっていいに決まっているのに、人より先がいいとばかりに目的も目標もなく、ただただ人より早けりゃいいと走り抜け、どこに止まり木があるかも知らぬまま、息切れをして立ち止まり、知らぬ地の駅舎の鏡に写る己のすっかり老いぼれた醜い姿に驚きいては「俺は誰だ?」、「私は何をしに何処に行こうと思っていたんだ?」、と周囲に訊ねれば、彼等が答える返事が俺には聴こえない。彼等は「何だ?この老いぼれ爺いは」、と言っているのが私には聴こえない。

「そうか、若い頃から周囲の意見を無視して走り続けたせいで、俺の耳の機能は退化してしまったのか」、とようやく悟るという・、寂しく侘しい末路にようやく気付く・。現代の日本がやがて迎える姿のような気がします。

★:古い落語の小話から。

落語大好き人間の武雄市民病院のM丸さんが知っているかも知れない話なんですが・・。小話を一つ・・。慣れないお忍びの一人旅に疲れ、投宿する宿の温泉で疲れを癒した武家の奥様に「今日は奥様には私どもの宿にお泊り頂き、誠にありがとうございます。処で、お食事を先になさいますか?。それとも隣のお部屋にお床も作っておきましたが・・」、と女将が挨拶すると、その言葉を遮るように「あら・・嫌ですよン。男なんて」、と嬉しそうな表情で勘違いをしている話・・。

これは人としての常識の中の「道徳観には優先順位があるんだ」、という・、このお武家の奥様の心の中には[男]という言葉の順位が[床=寝床]よりも先にある事を教えているんですね。私は私生活では坊さんみたいな禁欲的日々に憧れる割りには色っぽい話題が結構好きでして・いつか[間男/夜伽ぎ]の語源も話してみたいと思います。この話、後述する[思い込みと疎外感]に繋がっていくんです。


★:不誠実な国会討論。・・でも、あのイビリ合いが楽しい?

最近の国会討論を聴いていると民主党も自民党も同じものを左右から、或いは上下から突付き合っているだけの違いのようなような気がしませんか?。

それもそのはず、今の日本の社会制度というものは既に考えられるありとあらゆる問題の部分まで入り込んでいて、その意味で言えば世界でも先端をいくほどに諸制度が設けられているんですって。それなのに、建国後の歴史が浅い米国のスカスカ制度だけを何故必死に真似るのでしょうね?。その点、欧州には様々な民族や文化が入り混じる中で構築されていった産みの苦しみを知った制度がありそうですよね。我が国は欧州型の諸制度を学ぶ必要があるんだと思います。

つまり、我が国では明治以降に制度が先に作られ、その普及の実態の検証がされていないだけの事をああだこうだと言合っているだけなんです。それも、制度自体が経済が常に右肩上がりで発展していく、という前提で作られている事に現在の日本の苦しみがあるんです。

つまり、日本人の[ノボセ上がり]の部分。世界に冠たる勤勉さ、学問好きの国民のはずだったんですが、今や結果だけを求めて何の努力もしない国民性、国家がどうにかしてくれるだろうという国民性にスライド始めた気がして仕方がありません。

第一、民主党の多くが自民党からの離脱組で構成されているんだから仕方ない事ではあるんです。ある意味で腰の軽い我慢強くない連中が自民党の古いしきたりが嫌で飛び出し、試行錯誤、剛柔合体の末に作られた党が民主党ですからね。簡単に言えば、戦前から引き摺る日本人集団と大陸からの渡来・帰化人集団の民族、思想闘争なんです。

★:処が・・、

制度自体は湧き出る湯水のように作っておきながら国民の多くはそうした制度の存在を殆ど知りません。それは[申請主義]、という古きお江戸の時代の精神性が政治家、官僚の心の中に心地よく存在しているからなんです。「志し高く、叶えば並みの男かな」・・。

皆さん、相談に行った役所の窓口で知るはずもない制度を突然に知らされた事ってあるでしょう?。 窓口のカウンターいっぱいに冊子を広げては、「これはこうこう、これこうこう。あれはスーハースースーハっっ」、ってね・。最後には「あら、イヤダ。こんなの制度があることを知らないんですか?」、と窓口の担当者。

庶民の方から「これこれこれにはこの制度。こーこれこれにはあの制度があるじゃないですか。だったら、これこれこれはこうして下さい」、なんて言える庶民はそうは居ないんじゃないかと思うのです。それほどに、我が国の諸制度は国民の生活現場を知らずして役人が一方的に卓上で書いただけの面倒くさい制度が多いんです。

友人が無事にNPO法人を立ち上げたのですが、手続き窓口の役人の態度の悪さに嘆いていました。分厚い書類の1枚だけに数箇所の筆記ミスがあったのですが、その書類だけの差し替えでは済まず、全ての書類を最初から書き直させられた、とか。

そして、再提出を終えた途端、今度は2枚目の別な箇所の筆記ミスを指摘してきた・と。何故、最初から「こことここの2枚には2箇所にミスがあります」、とは教えないんでしょう。この体質はいろんな役所にあると思いますが、我がニッポン人が持つ体質のような気がします。

★:それに、あの国会で「議長ーっ」、と叫ぶ習慣!。いい加減にやめろよ。

あの大声で叫ぶ奇声・・。その日の国会討論の終わりを提言する際の古き慣習なんですが、
あの奇声を聞く度に「ウルセーっ、バカ野郎っ」、と思いますね。あの古き幼稚な習慣を民主党の時代になった今でも誰も「アホらしい」、と思わないんでしょうか?。それとも、私がアホなんでしょうか?。今の自分の存在、その在り方に常に疑問を持つ私の意見なんですが・・。指名された議員・、あれは所属する党へ忠誠心を試されているんですって。

★:ついでに・・。

最近、お相撲の世界の[呼び出しさん]の質がとても悪いと思いませんか?。私が小学生の頃には[呼び出し:コテツ]という方が評判を呼んだ時期があります。私は幼いながらも彼が「ヒガシー~、若乃花~。ニーシ~、栃錦~」、と両横綱を呼び上げる声を目を瞑ってはうっとりと聞いたものでした。兎に角、お上手な呼び出しさんでした。それに、その頃には今のようにNHKの独占中継ではなく、民放でも放映されていたんですよ。呼び出し小鉄さん、今の世・・、周囲をこんな思いにさせる人は居ませんね。これこそが癒し人(イヤシビト)だったと思うんです。

☆2010年1月27日


★:再び、疎外感。

「お母さん、元気してる?、お父さんは?」、とつい先月までは遠い街から毎日のように電話で気遣ってくれた息子や娘達でしょうが、いつしか情報の裏側へと飲み込まれてしまい、「近頃はどうしたの?」、とこちらから手紙を書けば、「ゴメン・、携帯失くして」、と・。私達はそんな薄っぺらな情報世界に生きているんでしょうか・ね?。携帯失くせば親への労りも消えるのか?。手紙くらいは書けよ!

「子供達が・離れていく。・・フフっ、昔が良かった。子育ての昔が懐かしい」、と幼い頃の子供に唄ってやった子守唄を唄いながら洗濯機を回すついでにフッと覗いた鏡には背中が丸くなり始めた己の姿が・・。

「お母さん、お母さん」、と言ってくれた子供達がやがて別な女性や男性の名前を口にし始めた頃に感じる疎外感・・。勿論、喜びもあるのでしょうが・、一人の人間としては老いをまともに感じる瞬間でしょうね。

★:やがて、便利だったはずの家庭用の各種の電気機器が嫌になります。

「あらっ、この洗濯機の調子が・・」、と奥さんが・。「おららっ、・何だこいつ」、とご主人は動かなくなった車を蹴飛ばして・。でも、「まァ、いいか。明日には息子が里帰りで戻ってくるから見て貰おう・」、と。或いは、「れれっ?、パソコンの走りが急に重くなって・・。まァ、いいか、夕方には娘も帰ってくるし」、と、こんな暮らしをしているんじゃないですか?。つまり、[(息子や娘に)見てもらおう生活]です。これだと5年後の貴方達夫婦の暮らしは辛いものと思いますよ。

私達は日本という国の余りにも早い経済成長のサイクルに乗せられ、便利グッズの使い勝手だけを求め、その製品が動く理屈を知ろうとせずに使うだけ(買わされ、使わされる)の暮らしをしてきた事に今になって気づき始めるんです。

★:「スローペースだった昭和が好き」。

よく、「子育てにはTVは害になる」、とばかりにTVを買わない家庭がありますが、あれはTVの内容を問題にされているんですね。「父親も子供もTVのお笑い番組ばかりを見て、我が家では食事の楽しみがない」、という声はよく聞きますよね。

処で、現代世界に生きる私達が己の暮らしの中の一つ。例えば、洗濯機1台、或いは、炊飯器1台でも失くした生活に切替えたとしたら・・、多分、日常に大きな遅滞を生じさせる事と思います。

私が言いたいのは、「情報伝達の速さはヒトを幼いままで大人にしてしまう」、という事。その便利さだけを求めた結果、使い方だけが妙に詳しい人がいますね。オタクという名の人です。私達が如何に情報の波に操作洗脳された暮らしをしているか・・。

熱い一夜を過したカップル。翌朝、女性が気だるい表情で愛する男の為に手料理をするシーン。・・女性はキッチンの棚からはデッカイ缶詰を出し、冷蔵庫からは独特の形状をした美味そうな牛乳ボトルを・・。ミキサーに野菜やフルーツを投げ込み、片手ではトマトを口に運んでムシャムシャと・・。

こんなアメリカ映画の一シーンを観た方は多いと思います。アメリカ映画が趣味の人なら理解できる事ですが、アメリカって大雑把に言えばこんな文化を持つんですね。これはこれでアメリカの文化として尊重しても構いませんが、何も繊細な文化を持つはずの日本人がこうした暮らしをマネする必要はありませんね。私が言いたいのは情報社会に生きる者はどこかで本来の人間性を棄てる必要がある、という事。


★:再び電気製品の話・。

例えば、今や多くの電気製品の修理の場合「奥さん、この故障を直すにはユニット(数種類のパーツで構成された回路的一区画、1単位の製品)を交換しなければいけませんよ」、と電気屋さんに言われた事があると思います。

本来、電圧測定器などで回路を調べれば壊れたパーツが発見でき、その交換だけで直る可能性が大なんです。
これは、電気製品に対する消費者側のある種の無知という疎外感を利用した言葉なんですね。処が、最近の電気屋さんには電気製品への知識がない人が多く居るんです。

壊れた箇所を調べる訳でもなく、「これはメーカーに修理させます」、とだけしか言わない電気屋さんがそうですね。売るだけの人で電気に対する知識が全くないんです。

むしろ、昔風の電気屋さん的な方々は中古電気製品の回収屋さんの側に多く居るんです。回収した電気製品を修理してロシアや東南アジアで再販売するんですって。「年収が廃品回収で500万、輸出で500万。修理出費は僅かに50万」、と自慢する知人が実際に居るんですね。彼が乗っている車も廃車上がりです。

必要な生活備品は全部買わされ、使わされ、壊れたら何にもできない。こうした姿こそが現代に生きる私達の姿なんです。そして、使えない者だけが味合う疎外感。この姿は必ずしも正しいとは私は思いません。私は貧困の薦めをしている訳ではありません。力強い人生を生きる為には常に自己反省、戒める心を持ちたいんです。そして、「これが本当に我が家に必要なモノなのか」、と考える余裕を持つ国民でありたかった・と。

★:でも、資本主義的発想で言えば・・。

国とすれば現在のシステムの方が「国民の中でお金がよく回り、経済発展に寄与するんだ」、「お金はドンドン使え、ドン使え」、となってしまうんですね。今になって我が日本が何故、急に国としての老いを早めているのか・・。これは好景気に支えられて大量生産&大量消費を国策として行なってきた結果なんです。つまり、高所得&多消費です。でも、その構図が崩れ始めましたね。今後の日本はどこをさ迷うんでしょう。

結婚して子供を作るヒマがあったら働け働け・と独身生活を煽るような番組や週刊誌の番組や特集記事ばかりの時期がありましたね。未婚の母をヒロインのように扱ったものも・・。

私達は情報を丸呑みにするのではなく、選択をしなければといけないと思います。・・と、言う私ですが、職場には使えて使わないパソコンモニタがゴロゴロと転がっているんです。


☆2010年1月28日

★:不自然な慈善行為・。そんな事より隣同士の連携。

よく子供たちが集団でお年寄りの家を訪問したり、自治会活動の一環だといっては団地のオッサン達がゾロゾロとお年寄りの家を集団で訪れては(押し付け的な)世話をする場面をTV等で見ますが、私はあのような事は好きではありません。

「おい、婆ちゃん。洗い物はどこだ?/包丁を研いであげるから出してくれ/おい。婆ちゃん、この洗濯機はどうやって回すんだ?」、・・と。「おい、婆ちゃん、婆ちゃん」、と。形だけの自治会の活動だから、お年寄りを手伝おうとした途端、実は自分自身が洗濯機を回した経験がないオッサンばかり。

「うるさいよ!。一体、アンタ達は何しにご老人宅を訪問しているんだ?。婆ちゃんの日常を壊すなよ」、と叫びたくなります。今の日本の家庭に一番必要な事は団体行動で何かを為すのではなく、軍国主義の名残を棄て、まずは両隣り同士のご家庭族が付き合える雰囲気を作る事だと思います。つまり、10対1ではなく、1対1の関係が基本。それに相手に望まれてもいないことを押し付けるな・です。

★:全国の自治会長に言いたい。市からの活動助成金。

我が団地は常に自治会内の揉め事が絶えません。自治会長以下に網の目のように張り巡らされた組織があって、班によっては5世帯に3世帯が何らかの役を与えられています。

つまり、ある一定数を満たした活動員で構成される事業に対しては熊本市からの活動助成金が交付される為、自治会長が改選される度に新会長は旧会長に勝る活動部会を作るんです。次々と・・。

この団地に住む以前、次のような事がありました。私が27歳の頃です。「貴方は野球が出来るようだから団地内にソフトボール部を作り、貴方には体育部長をして貰います」、と・。野球とソフトボールは全く異質の球技であって、「私はソフトボールが大嫌いですから」、と断ると、「それは許さない。総会で決めた事。若造が横着を言うもんじゃない」、・・と。

幾ら私が若いとは言え、一軒の世帯主に「この若造が」、と言う事自体からして自治会の体をなしていない証拠。その頃の私は直ぐにカチンと来るタイプでしたから、言い返しました。「おい、そこからもう1歩の足を踏み入れたらアンタがどうなっても責任とらんゾ」、と言い返しましたね。
「このオイボレ、我家の時間と俺の人生に集団で入り込むな」、と拒否すれば、「君には相互扶助・助け合いの精神がないのか?。この精神は戦後の日本を支えた精神なんだぞ!」、とまるで私を左翼扱いをするんです。

結局、無視をしたんですが、実は団地というもの市が交付する活動助成金目当てに次々と活動部会を増やしていくんですね。

★:腹立たしい事に・・。

「団地内の皆様、おはようございます~。日曜7時になりました。団地内の一斉清掃を行ないます。お集まりください~」、と拡声器で怒鳴るのが我が団地の日曜朝の様子。実は、これも自治会の自主活動とみなされて市からの助成金が出ているんです。

「ネッ、Fさん、Rさんのお宅は奥様がパートでコンビニの夜間店長をされてるから今日もおサボりよっ。ヤーネ」、って。←「アンタら余計な事だろう」、と思います。

現代の多種多岐に渡る雇用形態があり、雇用自体も不安な時期に[日曜の朝7時からは団地住民全員での草むしり]、という決め事を作る事自体が変なんだと、何故、気づかないんだろう。それに参加できない人からは¥500、¥600の不参加費を徴収していながら、「不参加費を払ったからって、不参加が許される訳ではない」、と・。「だったら徴収せずに陰口を言ってろ!」、と思いますよ。

「takassan、代表して自治会長に抗議をして下さい」、と数名の方に何度言われた事か・・」。
実は、現在の団地内に20軒程度の家しか建っていない時期。まだ自治会というものが無かったのですが、「周辺の団地を取材して自治会の草案を作って下さい」、という方々の要請で一生懸命に動き、団地草案を作成したのは私なんです。私なんですが、その後にその草案を元にして大きく変化させられてしまったのが現在の団地住民規約というものなんですね。

移りゆく時代、変わりゆく人の心というものを知るには団地の[自治会会則の変化の過程]を読み直すのも一つの方法かとつくづく思いますね・。

こうした活動助成金に加えて月々の自治会費を加え、我が団地には数千万円の余剰金があるんですよ。そして、自治会長が代わる事に常に管理不明金騒動が起きてきたんです。

★:何故、起きる管理不明金騒動

我が団地では自治会費収納者の預金名義違いなどで引き出しを許さない肥後銀行との間に裁判沙汰も起きているようですが、一事が万事。この我が団地の自治会の設立時からの使途不明金で解明されていない部分が他にも相当額がある事を私は知っています。でも、面倒臭いから言わない・。結局、それを巡ってまたまた騒動が起きるんです・多分、ブンブン。
キーワードは[大蔵⇔日本環境保全]、[ダミー会社]、[代理受領」。我が団地、本当に揉め事と白アリの多い団地です。

因みに、我が熊本県の使途不明金は2007年が1億円だったと昨年騒がれましたが、2008年は懲りずに1億2000万円ですって・・。公費で購入して与えられたパソコン類を自宅に持って帰っては我が物として使用しているんですって。日本人体質でしょうか?。



☆2010年1月29日

★:老いる事で感じる疎外感、隔絶感

誰だって老いを意識する度に感じる疎外感って沢山あるはずなんです。老いた私の父は相手方の「只今、留守にしています。ご用の方は・・」、と何度も何度も繰り返す留守電の自動音声ガイドに、「分かった。君は私に何度同じ事を言えば気が済むんだ?。第一、そこに君は居るじゃないか!、私が君に用件を言うから聞けばいいじゃないか」、と本気で怒鳴っていました。

「これは留守番電話というヤツさ」、と私が説明すると父は・ガックリと・。多分、晩年の父は世の文化に対する疎外感を感じていたんだと今に思うのです。19歳で外交官試験に合格し、欧州に社会保険の基礎を国費で学んだほどの先進性を持ったはずの父の晩年の姿でした。

「直裕・、私は歳を取り過ぎた。もう、世の中についてはいけんよ」、と。その後、私は父に自動販売機でタバコを買う方法を教えましたが、父は徐々に釣銭を取らずに帰宅するようになり、それに気づくと再び・ガックリと。せめて、「有難うございました。お釣りをお忘れなく」、くらいを言う自動販売機があれば・、と当時は思ったものです。

★:でも・・。

今になって思います。私の父は素朴な人だったんだなって・ね。柳川の農家の三男で生まれ、三男だから進学は無理だと自分で判断したのか、父は闇夜の灯りで猛勉強しては大学へ・。

私の親父・、明治35年生まれですよ!。昔の人って蛍の光、窓の雪で本を読むのは珍しい事でもなかったんです。父が残した蔵書には血糊の痕があって、「私はネ。寒さで眠リ始めると針が膝に突き刺さって起こしてくれるようにと竹製の尖った針を膝に立てて勉強したもんだ」、とよく言ったものです。
「痛みに耐えて・・勉強か・・」。そう言われれば私の青春も手術後の痛みとの闘いの連続でした。

★:検察よ。マスコミよ、日本人達よ・・。

私の好きなタイプでもありませんが、ホラ、最近話題の石川議員の逮捕。彼は小沢流の武士道の政治学を学びたいが故、学生時代にはマージャン漬けや男女の出会いコンペ狂いの周囲の学生達の様子を横目で見ながら小沢家に書生として住み込む程の努力家ではあったとか・。

この石川議員は36歳、秋葉原事件の殺人者は27歳。多分、孝行者の石川議員の方が日本人的な心を持つ人ではないかと思うのです。検察よ石川議員の心理分析でもしたらどうだ、と言いたい。

「金が絡んでいるから」、というだけで事件の根元を見ようと何故しない?。大金を動かせる奴がそんなに憎いのか?。それとも、羨ましいか?。「流石だ/大した人だなァ」、と感心していた人がミスを犯したから[お笑い沙汰]の主人公に祀り上げたいのか?。「どっちなんだ、どうなんだ」、と私は思っています。

★:我が国民が作り上げ、許容してきた曖昧な政治・制度システムこそが悪。

小沢さんは己と己の部下を信じようとし、検察はその調査の正当性を主張しようとする・・。小沢さん自身も秘書達の供述も刻々と変化して当然。理由は、当初は事件の関係者が互いに庇い合うからなんです。でも、関係者全員が逮捕されるとなると[庇い合う理由]がなくなるんですね。そこで初めて独りの人間としての保身が始まる・・。だから、供述にひび割れが生じてくると・。

でも、今回の事の良し悪しとは別に、小沢さんの政治力には日本人を感じますね。好きではなくとも会ってみれば魅かれてしまう気がする人は多いんじゃないかと思います。


☆2010年1月30日

★:ミュージックフェアー

1月30日、TVで九州出身の歌手特集があって、南こうせつ、甲斐バンドを見ました。普段の私は南こうせつという人には無関心なんですが、この人って10曲に1曲は何とも言えない味のある作品を書きますね。[♪:赤ちょうちん/神田川/夢一夜]しか知りませんが・・。もう、昔から大好きなシンガーです。

それに、甲斐バンド・・、というより甲斐よしのり、というんですか?。久し振りに聴いた甲斐バンド。[♪:安奈]という名作は知っていましたが、今回の[♪:ブルーレター]、という曲は初めて知りました。どちらかと言うと甲斐バンドは演奏も唄も荒っぽいな、と記憶があったのですが、・私は否定し続けたラブソングに対する見方を変えないといけないのかも知れません。甲斐さんが唄われる[♪:ブルーレター]はグーッっと胸に響きますね。

アドレスを書いておきます。このような詩を甲斐さんが書いていた事に感動しています。
是非、皆様も読んでみてください。
http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=4041  

★:感動繋がりついでに・、3Dのイメージを持たずに行なう読経は意味がない

私の家の傍には某宗教団体に熱心な方が住んでおられて、よく熱心な勧誘を受けるのですが、私は宗教という文字が嫌いなんです。宗教の勧誘というのはいけませんね。「知ってる私がお利口さんでホトケに護られ、知らない貴方は哀れな方でホトケに見棄てられ・・」、みたいな誘い方をしますね。座って拍子木叩いて念仏唱えて・・私にはそんな時間が勿体ない。

宗教・・、今日これほど罪深い言葉はないと思っています。例えば、欧州の歴史は宗教戦争の歴史。ゲルマン民族の移動に伴う戦争、抗争こそが宗教観の違いから起きた事・・。勿論、異文化の融合、拡大の役目も果たしてはいるのですが、その異文化が更に戦いを引き起こし、・・この宗教観の違いこそが戦争のモト、民族分裂の原因である事は事実なんです。現在でも世界の各地域で続く抗争・・、全てが宗教観の違いが原因なんですからね。
私の知っている阿蘇の天理教布教所の方などは別棟の自宅にはフランス料理のシェフを入れて毎晩のように豪勢な食事をしています。多分、糖尿病でポックリ逝くでしょうね。

★:ついでに

我が国の引き起こした戦争にしたってそう・。全てが天主様の為・・、そう・・、天皇を神と崇める歪んだ精神を持つ者達が天皇の名を借りてどれ程の罪を犯した事か・・。これだって見事な錯誤の世界なんです。天皇は神ではなく人間なんです。神のような大切な存在ではあっても、誰も神だなんて思ってもなく、それを戦争の理由にする事の方が卑怯。

だから天皇というものの存在の位置づけ、意味づけを今後の国際政治の交流の中で国際的に認識させる為にも天皇を制度的に語る必要はあっても、天皇を否定してはいけない気がします。英国、カナダ、オランダ、モナコ・・、とこの日本に似たような国は幾つもあります。

★:3Dの読経

物事をタテとヨコという面だけでしか理解しない人間が幾ら経を読もうが何の意味もないんです。実は、宗教の話が大嫌いな私は誰よりもお経本を読みます。我家のトイレにだってお経本を置いている程。母と同居のこの7年は殆ど使う事のなくなった2Fの私本来の部屋には幾つものお経本があって、以前は就寝前には1行1行の意味を分析したものです。

3D思考とは、タテ、ヨコで作られる面のど真ん中に新たな軸を通して面を作る事です。丁度、障子4枚を十字に立てたような形。こうした脳ミソ回路を設定しておくと何かをしようとする際、外部から何かの刺激を受けた際、・・いろんな出来事に出合った際に過去の自分を振返る事ができるんです。そして、今の自分の立ち位置の左右、つまり、ある考えとそれを否定する考えが頭に浮かぶようになります。

この過去を振返る事と現在の自分の力を瞬間分析する事で自分の今日からの残り人生での残り打数とヒットの確率を数値化する事ができます。これが、予想力、予知力と言われるものであって、「過去でのある種の達成感/誇り」、「現時点でのわきまえ」、「これからの(自分)らしさ」、が見えてくる気がするんです。私の言い方、分かりにくいですね。

★:般若心経

般若心経というものがありますが、このお経はまさしくそうした世界を常に頭の中に作っておきなさい、と言っているんですね。

今日できた事は少なくとも昨日だってできた可能性があって、明日だってできるはず。
だったら、昨日思った事をどうして今日になってやるんだ?。もしかしたら、今思っている事でも明日やればいい・くらいに思っているんじゃないか?・・となります。そして、大事な事は一昨日の事は明後日ではできない事の方が多い、と・。

つまり、「持ち続ける事は[欲]とも表現でき、今しかできない事は[生]なんです。だから、欲ではなく、[今を素直に生きてみろ」、となるような気がするんです。

過去を振返る事ができる者は、最低でも昨日の自分の善悪くらいは判断できる。そうであれば、せめて明日は今日の失敗の1つを繰返さないようにしようぜ、という事。

それに、若い頃なら難なく行なえた事ができなくなったってかい?。考えてもご覧よ。あれから何十年が過ぎたと思うんだい!。老いて芽生えるモノあれが、老いてできなくなる事の方が多い事って当り前じゃないか。・・・、と優しくなれるんです。

この般若心経っていろんな悩みを解決する糸口をいっぱい持っている気がします。私の作品の中の[♪:人生万歳]という曲の詩や[♪:老い、そして俺達]という曲の詩などはこの般若心経を読み続ける日々の中で作った作品でした。

日常では朝晩の儀礼的なものに使われるが多いお経本。そして、神官や坊主だけが手にし口にする事ができる儀式的に読まれたりするかのように思われがちな祝詞(のりと)やお経の世界ですが、それは誤った認識。

喜び/贅沢の日々の中で迎える悲しみには[驚き/戸惑い]が伴います。でも、悲しみ/苦しみに耐える日々を送る者にとっての突然の喜びは、[極みなき感激/尽きる事のない喜びになる]、事を私は言いたいんです。

一切の信心をせず、宗教心などは持たない私の場合、数種類の祝詞やお経なら教本なしで口にしています。もっと自分の日常の為に使うようにしましょうよ。きっと、多くのモノが見えてくるかも・・。


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