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濱野裕生
濱野裕生

2022年06月06日

〇実姉(長女)が死んだ。

◎2022.6.6

〇実姉(長女)が死んだ。

 去る令和4年(2022年)2月、姉が没した。膵臓がんに伴う呼吸停止だった。腹水の為に腹部の周囲は1mを越え、腹水が横隔膜を圧迫するようになってからは呼吸が苦しくなる(これは私にも経験あり)為、この呼吸困難を抑える治療・とは言っても鎮静作用のある薬剤で呼吸数を抑える治療が施されたらしい。前日には一回の呼吸をするにも額には汗をかくほどの苦しさだったそうだが翌朝には楽になり、ご亭主や娘との会話が出来るほどに落ち着いたらしい。そこで「寝汗でも拭こうか」ということで温タオルで身体全体を拭きはじめた処、身体を軽く左右前後に揺することがあったのだろうか、姉は再び三度と苦しみ始めてそのまま永眠したらしい。まァ、何事にも切っ掛けがあってその瞬間を迎えるものだろうが、呼吸を抑える処置の効果が失せる頃に拍車を掛けるように身体を動かした事がいけなかったのかもしれない。

 約二週間前、近々の体調不全を感じた姉が病院を受診して受けた検査の結果は膵臓がんの末期で既にステージ4という事だった。驚く間もなく入院したのだが、僅か2週間後に彼の地へ行くなど・、沈黙の臓器「膵臓の癌」、その病名からは理解ができても残された者にとっては唖然とさせられる出来事だった。

 コロナ禍の中、面会するにも順番と人数、時間制限があって姉家族や私や私の兄夫婦の戸惑いは相当なものだった。日立に勤める長男は米国勤務であり、成田到着後の10日間の待機拘束が辛く、母親の死を看取る事もなく、辛うじて通夜の席には間に合ったと伝え聞いた。私はと言えば、姉が膵臓がんだと兄から聞いた後の2週間はとても複雑な思いで過ごしていました。

 既に過去のこのブログ記事にも書いたように、私達3人兄弟(長女、長男、私)はこの2年の間は揉めていた。その理由は私の意見を聞く事なく長女と長男の二人だけで行なった佐世保市相浦にある霊園の我家の墓仕舞いとその熊本への移設に関して私の心が必ずしも穏やかではなかったからだ。私としては長女としての長男への指示は理解できるし、長男としての行動も理解できる。ただ気に入らないのはいつものように、これまでの長女や長男が何度も何度も繰り返してきた私を無視した言動だ。父が没した後に見つかった父名義の柳川の土地を長男の命令だという形で日付指定で従兄弟名義として「委譲しろ」、という際にも長男は「俺の言葉が聞けんのか」と。今回の墓仕舞いや移設の際にも「俺は長男だ」と・。因みに、佐世保の相浦にある市民霊園は全区画が当分に分割された墓地でしたが、我が兄が移設した熊本の墓地は営利目的の墓地であり、兄が選んだ区画は僅かの0.5坪の区画。兄夫婦に強制されるように足を運んだ私は余りの狭さに驚きました。「兄貴よ、お前が親に示す思いってこんなに小さいのか」って私は怒り心頭でした。この頃、私は英国製のトライアンフ社製のバイクを2台買っていて、その総額は約370万・・。せめて、私が長女と長男の計画を知らされていたら、そんな贅沢は辞め、もっと広い区画で父と母を過ごさせる事ができたのに、と悔やんだものです。

 ・・というより、熊本地震後、私は熊本市北区にあった半壊した我家を更地に戻して売却。それを頭金に国の融資を加えて見つけた代替え住宅は玉名郡。これは築23年で積水ハウスの軽量鉄骨製の立派なものでしたが、私はここを売却して佐世保の地に戻り住む思いがあって、佐世保市の相浦のお墓はそっとしておいて欲しかったんです。

 姉の話に戻し、コロナ禍の中で没した我が姉ですが、癌の宣告から僅か2週間でこの世を去ったのが如何にも姉らしい気がしています。・というのも、姉は常日頃から「歩けなくなってまで、我が子を我子と認識しなくなってまで、お腹に穴を開けて食事をさせて貰ってまで、・そんな歳の重ね方は怖いし、嫌」だと言っていて、今回の突然の死はある意味では姉の望む形だったのかなと思っています。そう思うと、私は姉を失った悲しみで泣く事はなかった。

 実は、この姉の死の約一年前に私は姉からの一通の手紙を貰っていました。「兄弟3人で意見が合わないのは仕方のないこと。互いが違った人生を歩いてきた結果が互いの人生観を持ってしまうわけだから仕方がないことです。特に私(姉)は早とちりで物事を勝手に進めてしまう癖があって、周囲には誤解を受ける事がありました。もう、そのことは許してもらうしかありません。だから、これからは互いが干渉しない形で生きていくようにしましょうね」という趣旨の内容の手紙でした。

 姉は、・末っ子の私が12年半の長きに渡って母の世話をしたことに対し、姉自身では多少の違和感、苦痛を感じていたのかな・、と私は思う瞬間があります。それは生前の姉が私に対して発していた様々な言葉から察する事ができます。まァ、短気で早とちりな姉のことですから当然。「あの時はご免。許してね」、「私は前後の見境なく瞬間的にポンと相手を傷つける言葉を出す悪い癖があるから・」、と。我が姉も兄も母の最期を看取る事はなく、母の死には間に合いませんでした。

 母が危篤状態になる度に姉と兄は病院には駆けつけるのですが母は取り直し、そうした事を繰り返した隙間時間というか、母は私と二人きりの時、あたかも母と私は見つめ合うような状態で母は私に頭(こうべ)を下げるように、まるで「これまで・ありがとうね」と言うかのようにその呼吸を止めました。この時の母の最期の様子を姉に伝えれば「そんな事はない。母はそんな死に方はしない」と・・。90歳で母を熊本へ移り住ませ、私と共に暮らした母は102歳、行年103歳で早咲きの桜に見守られて彼の地へ旅立ちました。この12年半の間、海外旅行三昧だった姉は己の人生を思い切り謳歌したのかどうかは私は知る由もありません。その姉はサヨナラも言わずに旅立ちましたが母同様に早咲きの桜は我が姉を優しく彼の地へ誘(いざなう)ったようです。この姉はいつも涙ながらに私のCDを聴いてくれいたそうです。

♫:金木犀



いつになく冷えた朝 窓の外は深い秋 
雪のように舞い落ちる金木犀 白い季節はすぐ・そこ
静かな寝息立て 今朝は母がまだ眠ってる 
昨日、届いたばかりのハーモニカ 枕のそばに置いたまま
窓を少し開けましょうか? 母の眠りを邪魔せぬように 
そして香り放てよ金木犀 今朝は君が母を起こせ
  今は秋? 母が聞く 春はまだ? 母が聞く・
  途切れ途切れの記憶の中に 忘れられない事がある  
  古びたアルバム 開く度に 破れた写真 継ぎ足す度に
  母の記憶が束の間・戻る
カーテン越しに朝日が射します 窓の外は深い秋 
庭の隅に積もった金木犀 白い季節はすぐ・そこ

92度目の冬が来る 辛い事など一つもなかった 
愉しい事だけ覚えているさ 私にいつも・母が言う
母が昨夜の夢を話します 幼い頃は近所のミッチャンと
川に水汲み、山には小さなビャラ集め みつえサンも同じ夢をみたかも
会いに行きましょうよ 貴方を慕うみつえサンに 
そして、姉のふじえサンにも会えるかも 歌が浦は・母の古里
  今は秋? 母が聞く 春はまだ? 母が聞く・
  途切れ途切れの記憶の中に 忘れられない事がある
  古びたアルバム開く度に 破れた写真継ぎ足す度に 
  母の記憶が 柄の間・戻る
厚めの布団に替えましょうか それとも薄手を重ねましょうか 
部屋に飾り続けた金木犀 今日で君とは・お別れ


 まァ、私のブログ記事の中心は母の世話を交えた我が兄弟の約13年間の矛盾を抱えた話ですが、皆さんのご家庭でも「よくあるある話」ではないかと思います。親に対するこうした兄弟姉妹の間の思いの違いですが、また別の日に別件を例に書いてみたいと思います。 

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Posted by 濱野裕生 at 15:40│Comments(0)☆母没後の呟き
 
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