2021年02月02日
〇.2009年1月2日
〇.2009年1月の頃
☆2009.1.2 謹賀新年
23:21、母の部屋のブザーが鳴りました。この数ヶ月は47.5度のwilkinsonのジンに嵌っている私はちょっとふらつく足取りで母の元へ駆けつけます。
「何?、どうした?」、と私。
「はい、おしっこです。・・済みません。・・いつも」、母。
前述の記事に書いたように、転倒して右手首を骨折、既に左手の握力はミカンの皮さえ剥けないほどに低下している母。私はそんな母をベッドから抱き抱えるように立たせはしますが、母の左足はぶら下がっていると表現した方が適切なほどの母。立たせたとしても両足が揃えば静止状態が保てずに倒れようとしますから、私は渾身の力で母の身体を支え、抱え上げるようにしてベッド横のポータブルトイレに座らせます。
既に母のオムツにセットしている中敷はオシッコで一杯。母の紙オムツを膝のほうへずらしながらいつものように手早く中敷をとり、母を便座へ座らせます。
「向こうを見ていてください。恥ずかしいですよ」、と母。
「ぬっ、あっ、はっ?。ごめんね」、と私は急いで母の部屋を出て半開きのドアの傍で様子を伺います。
つまり、今夜のこの瞬間の母は私の母ではなく、私より先に床に就いたいて一眠りした母が尿意で目を覚ました時代は2009年1月2日ではなく、遠い昔に戻っていて、母の世話をしている私は母よりも11歳も年上の兄の優しい勇さんなんです。いい時代の微笑ましい光景だと言えなくもありませんが、現実には悲しいものです。
でも、幼い頃の母は兄弟姉妹に囲まれ、皆に大切にされるほどに可愛い人だったんだなァ・と思うことができる私は幸せ者です。
「オシッコは終わりました」、と母の声。私は再び母の部屋に入り、「寒くはないね?」、と。「いいえ、寒うはありません。お陰さまでぬくぬくとさせて貰って感謝しています」、と母。
こんな時の母は自分の不自由な身体をどこかで自覚しながら、それを不思議に思い、その不自由さを支えてくれているのが勇兄ちゃまなんだ、という意識をもっているんだと思います。私は母のお尻全体を温タオルで拭き、新しい中敷に交換して紙オムツと寝巻きのズボンを一気に引き上げます。
「はい、済んだよ。気持ちよくなったよ」、と私。
「はい、ありがとうございます」、と母。
こんな日、つまり、中敷がグッショリと湿って目が覚めた時の母はオシッコが終わっても直ぐには眠りに就けない時があります。勿論、私も・・。母はずっと天井を見上げて眠らない日がありますね。。
何故、私は一人ではトイレができないんだろう?、どうして立つ事もままならないのだろう?、お尻まで拭いてもらう事に対してさえ瞬間的には違和感を感じる日があるようです。
「一体、私は何歳ですか?」、と母は私に聞く日があります。つまり、勇兄さんに聞いているんですが、「んっ?、えーと、幾つになったかなァ」、と私は白を切ります。我が母と私の伯父の勇さんが一緒に暮らした時期を私はよくは知らないからです。
きっと、母は今が辛いんでしょうね。でも、そんな母の気持が理解できる私も辛いんです。
「貴方は寒うはないですか?」、母。
「夜もまだ早いからね。冷えてくるのは今からさ」、と私。
「そうですね。でも、私は身体が強くなく、心配掛けて済みません」、と母。
「何でも自分でできると思っちゃ危ないよ」、「助けて欲しいと思ったら直ぐに呼んでくれよ」、「俺が何でも手伝うからね」、と私が言えば、「はい。そうします。ありがとうございます」、と母。
今夜の母はすっかり歌が浦に暮らした頃に戻っているようでした。多分、母が大好きな11歳年上の勇兄さんと暮らした頃は幸せな時期だったんだと思います。
このように、日によっては認知の進んだ母ですが、私はこれはこれでいいんだと思います。何も「あんたはおかしい事を言う」、とか真実を伝える必要などないような気がするんです。
☆2009.1.2 謹賀新年
23:21、母の部屋のブザーが鳴りました。この数ヶ月は47.5度のwilkinsonのジンに嵌っている私はちょっとふらつく足取りで母の元へ駆けつけます。
「何?、どうした?」、と私。
「はい、おしっこです。・・済みません。・・いつも」、母。
前述の記事に書いたように、転倒して右手首を骨折、既に左手の握力はミカンの皮さえ剥けないほどに低下している母。私はそんな母をベッドから抱き抱えるように立たせはしますが、母の左足はぶら下がっていると表現した方が適切なほどの母。立たせたとしても両足が揃えば静止状態が保てずに倒れようとしますから、私は渾身の力で母の身体を支え、抱え上げるようにしてベッド横のポータブルトイレに座らせます。
既に母のオムツにセットしている中敷はオシッコで一杯。母の紙オムツを膝のほうへずらしながらいつものように手早く中敷をとり、母を便座へ座らせます。
「向こうを見ていてください。恥ずかしいですよ」、と母。
「ぬっ、あっ、はっ?。ごめんね」、と私は急いで母の部屋を出て半開きのドアの傍で様子を伺います。
つまり、今夜のこの瞬間の母は私の母ではなく、私より先に床に就いたいて一眠りした母が尿意で目を覚ました時代は2009年1月2日ではなく、遠い昔に戻っていて、母の世話をしている私は母よりも11歳も年上の兄の優しい勇さんなんです。いい時代の微笑ましい光景だと言えなくもありませんが、現実には悲しいものです。
でも、幼い頃の母は兄弟姉妹に囲まれ、皆に大切にされるほどに可愛い人だったんだなァ・と思うことができる私は幸せ者です。
「オシッコは終わりました」、と母の声。私は再び母の部屋に入り、「寒くはないね?」、と。「いいえ、寒うはありません。お陰さまでぬくぬくとさせて貰って感謝しています」、と母。
こんな時の母は自分の不自由な身体をどこかで自覚しながら、それを不思議に思い、その不自由さを支えてくれているのが勇兄ちゃまなんだ、という意識をもっているんだと思います。私は母のお尻全体を温タオルで拭き、新しい中敷に交換して紙オムツと寝巻きのズボンを一気に引き上げます。
「はい、済んだよ。気持ちよくなったよ」、と私。
「はい、ありがとうございます」、と母。
こんな日、つまり、中敷がグッショリと湿って目が覚めた時の母はオシッコが終わっても直ぐには眠りに就けない時があります。勿論、私も・・。母はずっと天井を見上げて眠らない日がありますね。。
何故、私は一人ではトイレができないんだろう?、どうして立つ事もままならないのだろう?、お尻まで拭いてもらう事に対してさえ瞬間的には違和感を感じる日があるようです。
「一体、私は何歳ですか?」、と母は私に聞く日があります。つまり、勇兄さんに聞いているんですが、「んっ?、えーと、幾つになったかなァ」、と私は白を切ります。我が母と私の伯父の勇さんが一緒に暮らした時期を私はよくは知らないからです。
きっと、母は今が辛いんでしょうね。でも、そんな母の気持が理解できる私も辛いんです。
「貴方は寒うはないですか?」、母。
「夜もまだ早いからね。冷えてくるのは今からさ」、と私。
「そうですね。でも、私は身体が強くなく、心配掛けて済みません」、と母。
「何でも自分でできると思っちゃ危ないよ」、「助けて欲しいと思ったら直ぐに呼んでくれよ」、「俺が何でも手伝うからね」、と私が言えば、「はい。そうします。ありがとうございます」、と母。
今夜の母はすっかり歌が浦に暮らした頃に戻っているようでした。多分、母が大好きな11歳年上の勇兄さんと暮らした頃は幸せな時期だったんだと思います。
このように、日によっては認知の進んだ母ですが、私はこれはこれでいいんだと思います。何も「あんたはおかしい事を言う」、とか真実を伝える必要などないような気がするんです。
Posted by 濱野裕生 at 16:25│Comments(0)
│☆同居記録