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濱野裕生
濱野裕生

2022年06月13日

〇ちむ・どんどん

◎2022.6.13

〇ちむ・どんどん

 母との介護同居中の2003年から約10年以上、私は朝の連ドラなんか見ている時間はなかなか取れませんでした。母の場合、通所が基本であり、転倒などで骨折した時の入院治療やその後のリハビリの為の入所など、医師からの指示があって、私自身でもその必要を感じた期間だけの入所は確かに2回ほどありましたが、基本的に私は母の入所は考えたこともありませんでした。

 入所こそが認知の進行や人間性の崩壊を深める危険性があって、これは避けるべき。家族が一緒に暮らしてこそできる老いの看取り。一日の多くを家族と暮らさず、赤の他人で、しかも老人の世話を仕事として嫌々ながらにやっている若者と暮らして何が楽しいんだ、何が介護制度だと私は思っていました。特に勤務先として施設から施設を渡り歩くような介護士に真心なんて感じられませんでした。

 福岡大学構内にあるメディアホールでの私のコンサート中の出来事ですが、会場にいる看護士さん、若手の医師たちに「ここに天使は何人居ますか?」、と聞いた際、「そんなモン居るかい」、と女性の声の大きな合唱が起きました・・。確かに、口が尖って常に何かに不満を抱える看護師、介護士が増えていますが、理由は何なんでしょう・。 私は「皆さんは看護士が憧れの職業だったのですか?」、という意味で聞いたんですが・・。これってあのd有名なナイチンゲール財団の講演会での一シーンでした。
 看護師、介護士が自分にとって嫌な辛い職業だと感じているのなら、そんな奴等には大事な親は任せられません。辞めて欲しい。志さないで欲しい。これが介護家族の思いです。
 
 通所開始後の母の表情は暗い日が結構ありましたが、施設からの送迎を断って私自身が朝と午後に送迎をするようになってからの母の表情は見違えるように明るくなり、ハモニカを持たせるようになってからの母は行き帰りの車中でさえもプープーと吹き、「さてさて、明日は何の曲を演奏しましょうかね?」、と利用者の前で演奏する喜びを私に伝えて来ました。お年寄り同士は仲が良いんですが、ここに変な介護士が紛れ込むとその日の介護施設は全体的に回らなくなりますが、あれは何故なんでしょうか?。多分、介護制度に問題があるんでしょうね。

 介護事業所で明るく振舞って働いている介護職の人はほんの一握り。書類のデジタル処理に伴って、最近の介護現場ではお年寄りの世話処ではなくなり、多くの施設では介護職員個々が受け持つ事務処理が大変に増えており、母の存命中にとてもお世話になったある介護士さんに聞けば、「介護職に長い経験を持つ人達から順に職場を離れる傾向にある」、ようです。
 
 介護の世界で働きたいのに制度の変更によって働き辛くなって。パソコンの操作ができるかできないかで介護職に対する適応、不適応が決定されている。、と。古くキャリアのある人ほど働き辛い環境が作られている最近のようです。
 
〇人生に迷ったら、一度入り口に戻れ

 例え己の暮らしが逼迫してもそれはそれでその家族の運命ですが、運命なんて変えられるはずだという考えを私は常に持っていました。

 《人生に迷ったら、一度入り口に戻れ》、これは現在進行中のNHKの朝ドラの《ちむ・どんどん》の中で沖縄県人会の会長役を務める片岡鶴太郎さが呟いたセリフです。見ていて、「なるほど、そうだよなァ」と思いましたね。よく、「人生は振り返ってはいけない」と言われますが、私はそのようには思いません。人生って何度でも振り返り、己の生立ちや歩んだ道を回想し、周囲の意見を参考に現代を読み、時折々の軌道修正をしてこそだと思います。

 人生の入り口とは己の生まれた時代やその当時の社会環境。例えば都会で生まれたのか、或いは田舎町で生まれたのか。それに、その時の両親の職業や年齢、自分は何人兄弟の何番目に生まれたのか。父親はサラリーマンで転勤族だったのか、それともゆったりとした土地で農業を営んでいたのか・・等々。これが積み重なって性格や人生観が作られ、人は確実に老い、人生を終えていくんです。

 例えば、私の母は血圧が高く、その生涯に渡って心臓や腎臓に問題を抱える人でした。母の母であるライさんも腎臓を患い、腎臓病でなくなっています。長崎県北松浦郡にある佐々、歌が浦という母が生まれ育った地は古くから漁業の町であり、塩漬けの魚を干した食事がメインだった時代。当然のようにこの地で生まれ育った人々は心臓や腎臓になにがしらの問題を抱えることになります。 
 母は4人兄弟姉妹の末っ子。長男は14歳も上、次男は11歳上、長女は7歳上、次女は4歳上。母はとても可愛がられたお陰で、大人になっても強気で我が侭で思いっ切り甘えん坊さんの女性になったようです。
 やがて、母は強引に見合い話を勧める父親に嫌気が差し、既に博多へ嫁いでいた長女のフサ姉さんの家へ駆け込むように逃げるのですが、この博多の地で母の運命が大きく変わります。それはタイプライターという当時の文明の利器に出会ったことでした。

 母は英会話とこのタイプライターを習得する事で博多では引っ張りだこの英文タイピストとして活躍する事になります。当時では珍しいBG(ビジネスガール)の先駆者の一人ですから貰うサラリーも多く、余裕ができた母は休日にはおしゃれをして当時の優雅なカフェに通い、生花に三味線、大正琴と習い事の数も増えていきます。この時に磨かれた音楽センスが後々にこの女性の子として生まれる私の子育てに生かされ、私はいつも母の歌声を聞きながら育ったようです。

〇私の現職業の原点。

 現在、私は熊本テルサホールという公共ホールで照明や音響、映像送出機器の管理操作を20数年とさせて頂いていますが、この仕事をするようになった切っ掛けは何か?・と言えば、ある人から頂いた一通の手紙でした。

 その封書には「高橋(濱野)さん、覚えていらっしゃるでしょうか?私は〇〇荘で課長を務めていた〇〇と申します。この度、新設された熊本テルサホール勤務を命じられ、音響照明を担当して頂く業者さんを探しています。・・省略・・・・既に音響照明操作業務に関わる業者選択の入札会は終わったのですが、参加した業者さん達が出した金額は運営主体の熊本県が試算する金額とは大きくかけ離れたものでした。・省略・・・当ホールの開業も2週間後と迫った今、・・省略・・、是非とも私共の相談に乗って頂きたく思い、」こうしたお手紙を差し上げている次第です。・・・省略・・。
 文系の高校、大学を出た私には電気系、それも一部では重電を扱うこうしたホール。母のお陰で音楽に親しむ期間が長かった為か私には音質に対する拘り、それに楽器、その他の音響機器に対する知識はいつしか身に付き、照明に関しては高校時代に出入りした米軍クラブのイベントでの照明マンとしてアルバイトをしていた都合上から何でもないことでした。それに、熊本の鶴屋デパートの多目的会場のイベントではビデオカメラマン、その編集員としての経験も7年ほどありました。テルサホールの音響調整室にずらりと設置された機器群を見ても別段、「この操作は俺には無理だ」、とは思いませんでした。

 「どうですか?。県が示す予算内で取り敢えずは操作してもらえませんか?」、と。もう、ホールとしての開業が2週間後と迫っている中での決断でしたが、「分かりました。やりましょう」、と私は返事をしていました。これが切っ掛けでその後の20数年、現在の私に至るのです。

 やがて、ある程度の予算が貰える様になった私は社員に現場を任せて離れ、テルサ側から与えられていた事務所の空きスペースには録音機器を持ち込み、水をテーマにした詩と環境音楽を作り、録音し始めます。やがて、母の老いを知った私は介護ソングをメインにした詩作り、楽曲作りに専念するようになります。

 2006~7年頃、当時の流行の投稿サイトと言えば動画を使うYoutubeではなく、まだまだ音声のみの楽曲だけをアップするサイトが全盛でした。手始めに12~3曲をアップした処、介護ソングという分野が珍しかったのか、一晩の間に12,000というカウントが上がることに驚き、「曲作りが上手いのは元プロなんだろう」、「メジャー落ちが作る楽曲だけあって取りあえずは流石だ」、等々のいい加減なコメントは無視し、一気に80曲以上をアップさせた処、幾つかのイベント企画会社からの問い合わせ、みのもんた氏がMCを勤めるTV番組からの出演オファーやフジTV系列の出版社からのCD出版のお誘いが入るようになり、そして、2010年にはテイチクエンタテインメントからのお誘いで2011年デビューとなるのです。
 
〇何事にも小さな切っ掛けがある

 今日は朝ドラの《ちむ・どんどん》の中での片岡鶴太郎さんのセリフ《人生に迷ったら、一度入り口に戻れ》、というものを題材に、「己の人生を振り返れば、その節々に人生の転換点が見つかるかも知れない」、という記事を書いてみました。

 母と私が乗降りした人生の駅ですが、その降り立った駅では常に誰かに出会い、その人に支えられて母も私も生きてきたんだなァ、とつくづく思いますよね。貴方も自分の人生を振り返ってみませんか?。今の貴方が忘れかけている大切な友人や恩人をフッと思い出すかも知れません。そして、貴方を大切に育て、今は老いていく一方の貴方のご両親のことも・思い出せるはずです・。せめて、電話でもしましょうか。

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Posted by 濱野裕生 at 15:06│Comments(0)☆母没後の呟き
 
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