2021年02月08日
〇・2010年3月の頃
〇・2010年3月の頃
☆:2010年3月1日
★:久し振りに新作[♪:綿 雪]
2010年2月、久しぶりに作れました。これから数日を掛けて保存用の仮録音を始めますが、詩だけは結構前から書いていて、メロディ自体は浮かんだり消えたりしていました。それに今回は和音付けにも工夫をしていて、いろんな箇所にツーファイブの和音を使用しているのが特徴です。つまり、従来からの濱野裕生とは違った和音構成になっています。
最近はマスコミ、メディアとの接触も多く、私の日常の時間配分が正常ではなくなっていて、その慌しさに我が母が異常を感じないはずもなく、この環境の変化に母の体調の変動は激しく、その母の状態に合わせるかのように私自身もドンドンと同じレベルでモノを思考するようになっていました。
これまでは自分の精神レベルを比較的冷静に保ちながら母の心に入り込む事ができていたのに、この約2ヶ月間はずっと沈み込むような思いで暮しています。でも、皆様からの励ましの書込みを読みながらいろんな事を考えるうちに次第に自信のようなものが蘇ってきたんです。
姉は「プレッシャーを感じちゃいけないよ」、と言ってくれていましたが私の場合には違うんですね。「次はどんな作品?」、と期待を感じれば感じる程に「よし、やってやる」、と思う性質(たち)なんですが、一旦、何かがあって考え込むようになると、その後に解決すまでの半年や1年の間はずっと考え込んだままなんです。だから、そんな時の私の一年間なんてあっという間に過ぎています。
♪:綿 雪
ホラ・綿雪が踊りだしたよ 青く澄んだ空から
デイへの途中のいつもの交差点 貴女は空を指差す・・
「雪を掴んでみようかしら・ちょっと窓を開けておくれ」と
まるで子供のように貴女はハシャギ出す 窓に顔を 擦りつけてる
ホラ・ご覧よあのビルの角 身体寄せ合う鳥が居る
3羽の鳩が寒さに首を縮めてる きっと・家族だよね
もう・何度目の冬を過ごしたかしら 貴女は・目を伏せる
そして・「こんなに晴れた冬の日なんて久し振りだよ」・私に・ 言う
母が両手を出す 綿雪が舞う中に やがて
雪が溶けていく 母の手の平に まるで
雪は自分の命を 母に与えるように
ホラ・綿雪が踊っているよ 貴女を励ますように
そして無口な冬はなにも答えない 母は今日も施設へ向かう
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
去年までなら 貴女はずっと見とれていた 施設の庭の紅鶯宿
今年の貴女はすっかり忘れてる 小振りの梅の事・・
ホラ・綿雪が蕾の上に乗ったよ 冷たさにクシャミをするかも・・
でも・直ぐに消えたよ 雪は姿を消したよ これが命の儚さだってネ
こんなに透き通った青空なのに 雪はどこから降るんだろう・って
そんなに急ぐ旅でもないはずなのに 母は何でも知りたがる
ホラ・春はすぐそこなのに いつも貴女は急ぎ足
冬よ母にもっと掛けてよ だけど無口な冬は何も答えない
母が両手を出す 綿雪が舞う中に やがて
雪が溶けていく 母の手の平に まるで
雪は自分の命を 母に与えるように
ホラ・春はすぐそこなのに いつも貴女は急ぎ足
冬よ母にもっと語り掛けてよ だけど無口な冬は何も答えない
★:[♪:綿 雪]の制作背景
この2010年の2月初旬には私達が暮す熊本でも雪のちらつく日が結構あって、朝から抜けるように晴れた日の遠い青空から白い綿雪が降って来る中を母を伴ってデイ施設の鶴翔苑へ車で向かっている最中の出来事をこの作品に描いています。
綿雪ってフワフワと落ちてくるかと思うと僅かの風でも上へと舞い上がったりするんです。皆さんも青空から舞い落ちてくる綿雪ていてそうした光景を見た方は多いと思います。綿雪って大気が乾燥していて温度だけがやたら低い日によく見られますね。乾燥しているから溶けずによく積もります。
その日が曇っていようが晴天だろうが風が弱い日の綿雪はフワフワとフワフワとトメドなく舞い落ち、時には地上から吹き上げる風に煽られては天空に舞い戻るかのように思え、とても感動的な降り方をしますよね。
小春日和の青空‐お日様‐風‐雪と、この揃い踏みって近年のひと冬の中では滅多にありませんが、昭和の頃にはそんな日が多かったんです。だから、とてものどかでヤッコ凧の凧揚げなんてヤッコさんの赤化粧と黒ヒゲに白とネイビーのハッピ姿が青空にくっきりと見えたものです。これ理解できます?。理解できる人は昭和の20年代中頃の生まれですね。
私は兄貴が買ってきた凧に4mほどの紙の足を継ぎ足して数百mも上空へ上げている凧を「わわっ、わァ、わァ」、と叫んではピョンピョン飛び跳ねながら見ていたものです(私には凧は買って貰えなかったから・・)。
さて、熊本市大江の鶴翔苑。母が月曜から土曜日まで通うデイ施設です。身体がちっちゃいのに大方さん、それに名前も身体も大きい緒方さん。介護に従事する人達が次々と入れ替る事の多い時世なのにこのお二人はよく頑張って鶴翔苑の通所部門で働く介護士さん達をうまくまとめてくれています。
介護に従事する人達の朝は大変です。晴れた日は勿論、雨の日も風の強い日も、天から懲らしめのヤリが降ってきても、まずはご老人達を自宅まで迎えに行くことから始まります。よく、雇用対策の一つとして介護現場への雇用を叫ぶ政治家がいるんですが安易には語れないのが介護の仕事・。こればかりは志を持つものしかできないのではないかと私は思い知らされているからです。
この鶴翔苑という施設の1Fはデイ通いの方々、2Fには通常入所者。それに、3Fには錠前が必要な入所組の重度の要介護のご老人達が居て、我が母も骨折で西日本病院に3ヶ月間入院し、その後の歩行リハビリを行なう為、この鶴翔苑には3ヶ月間の入所の経験があります。勿論、2Fです。
そして、常に鍵の掛かった3Fには多少の凶暴性を持つご老人も・います。また、介護保険は使えませんが施設によっては勤務中の事故や交通事故などで身体の不自由になった若者達が入所しているケースもあります。
皆さん、介護って自身では縁が遠い事のように思われるかも知れませんがそれは誤りです。介護をするもされるも明日の貴方や私の問題でもあるんです。事故で不自由な身体になる事、突然の脳梗塞で倒れること・、これは年齢には無関係に襲ってくる災いなんです。今、もう一度、真剣に自分の人生観と現実の自身の人生を振り返ってみては如何でしょうか。修正すべき考えや行動が沢山見つかるはずですよね。
自分自身が辛く悲しい思いをするのは仕方のない事ですがそれだけでは済まないのが人生です。周囲に対しても辛く悲しい思いをさせるのもそうした人生なんです。私は老いゆく母を見ていて8年、ようやくそんな事が言える人間になったのかも知れませんネ。
☆2010年3月4日
★:「これがウナギってネ・」、と母が貶す
最近、あの薬剤使用で話題になった中国産のウナギがスーパーに出るようになりましたね。報道以後ですから今回のウナギには大量の薬剤は混入してはいないとは思うのですが・。日本文化の典型の喉もと過ぎれば何とやら・でしょうか。我が日本では奇麗な清水のプールで養殖されるのですが、中国では田んぼのような養殖池で繁殖されるケースが多いんですって・。だから、除草剤や殺虫剤の中で育てているようなものです。ウナギにとってはどちらが快適なんでしょうね。「水清き所にウオ住まず」、なんて古い言葉にあるくらいですが・・。
実際の処、我が国でさえもウナギに関してだけではなく、タイからブリ、エビからカキに至るまで養殖池にはいろんな薬剤が投入されているんです。問題はその薬剤が人体に有害か否か、あるいは限度を越えているか否か・、日本と中国の養殖の差なんてその程度ではないのでしょうか?。
あの水俣病で有名な水銀だって微量であれば例の赤チンキに含まれていた時代がありましたね。適量の水銀は強力な殺菌効果があるんです。私が摂っている米国製のサプリメントなんて堂々と水銀含有サプリで、人体の免疫力を高めるとされています。それに脳を侵すと言われる銅だって入っています(だから私は変なのかも・・)。
さて、本題ですが、昨日の夕食に出したウナギの蒲焼を母が見た途端、「ヘッ、・・これがウナギってネ。はは、私は笑ってしまうよ」、と言うなり、箸でテーブルの隅へ押しのけてしまったんです。一瞬、「このヤロウ」、と思うのですがグッっと我慢です。
「ウナギさ、ウナギ。久し振りじゃないか」、と言うのですが、母はまだ「嫌ーな表情をしています。
あれほどに「美味しい美味しい」、と言っては食べてくれていたウナギでしたが今日の母は食べませんでした。1パックのウナギを母と嫁のそれぞれに食べさせる程に気を使っているのに・。
「ウナギの蒲焼というものは焼きたてはジュウジュウとテカテカとツヤのあるものでございます。こんなウナギなど私は食べたくはありません」、とこの母の皮肉だけは1流なんです。多分、この言葉は認知が言わせているんだと思うんですね。母は随分と変わリ始めた気がしています。「お袋よ、もっと奇麗に生きられんのか?」・・。
☆2010年3月6日
★:以前、菊池から農家の方が収穫物の直販に来られた際の話・。
最近はお百姓さんが軽ワゴンなどに自分の畑で収穫した米やいろんな野菜を軽トラックに積んで私の住む清水地区にもやって来ます。ジャガイモ、サトイモ、キャベツに白菜、ニンジン、トウモロコシ・・、と一般のスーパー価格の30~40%くらいですね。米は菊池米で玄米状態で30Kg¥7800~8000程度ですからやはり格段に安いですね。
「あのさ、安うして貰いたかっさね(貰いたい)」、と言えば、「おやっ、アンタは長崎の人じゃなかカイタ(ないですか)?」、と言います。
「うん、佐世保さね」、と言うと、「うちの娘が長崎の大学に行って2年目の帰郷の頃から『サーサー』と言い出したもんだからネ」、「ホー(ほら)長崎の人間ちゃ、言葉の最後にサーサー言うでしょうが。そいけん(だから)分かったっサ」と・・、このオジさんも気づかずに長崎弁を使い始めています。多分、娘の言葉に釣られとっちゃろね。
★:るんるん、その米を持って近くの精米機の所へ。
玄米に水分を保たせる為、「食ぶる分だけ精米すっとよかけんね」、という農家の方のアドバイスに従って10Kgの玄米を持って団地から500mほどの熊本北高近くに設置してある精米機の所へ行ってブィ-ン、ブィ-ン・と。10Kg単位で¥100の精米料金でした。
★:精米が済んで立ち去ろうとすると・・。
精米したての米ってポカポカと温かいですよね。鼻歌を唄いながらお袋の待つ車に乗り込もうとすると、私の後から精米しようとする女性が、「ちょっとちょっと貴方!、ヌカを持って帰りなさいよ。奥さんにヌカ床作って貰って野菜を漬け込むと美味しいんだから・・」、と言います。
「はァ、でもヌカってどこにあるんですか?」、と聞けば、「貴方が精米した分のヌカは機械の中に入ったままだけど、貴方が精米する以前のヌカはほらここに」、と言って精米機のそばのプラケースを教えてくれましたが、何と驚き、ケースの中にはビニール袋に小分けして入れられたヌカがギッシリ・・。この精米機を設置した人の精一杯の誠意だと思うんです。
「いつもはこんなに入っている事はないんだけど・、貴方は運がいいんですよ。好きなだけ持って帰りなさいよ」、とその女性は自分でも5袋くらいを車に放り込んでいます。本当は「一人1袋の事」と買いてあるんですが・・。人間って自分の都合で目が見えなくなったり、文字が読めなくなってしまうようです。
「ここはネ、通りのすぐ傍で立ち寄り易いから、精米をしない人でもこのヌカ目当てで来る人が居てネ。ちゃっかり持って帰るから箱の中はカラの日が多いのよ」、と自分の事は棚に上げています。
「・で、貴女も精米しない日でも立ち寄る事が多いんですか?」、と聞けば、「ウフン、実はそうなのよん。我が家ではヌカヅケにも使うけど庭によく撒くのよ。花壇に植えた花と花の間のウネの溝の部分に筋状に撒いておくと花がよく育つんです」、と言います。へーっ、土壌の改良剤に使われるんですね。
「それに、花壇にヌカを撒いておくと米の匂いがするからスズメが寄ってきて花や野菜についた害虫を食べてくれるのよ」、と。実にいい事を教えて頂きました。
★:そして、車の助手席に座る母を見ていて・、「・・あらっ、あらあらっ、貴方・裕生さん?」、と。
「あれ~、あの子はまァ、普段は無口な癖して相手が女だとこんなにも喋るのかい」、といった顔つきで母は私を睨みつけ始めたようだったので、「済みません、お袋がオシッコしたいようなので家に帰ります」、と言うと、その女性は目を細めて母の方をジイーッと見ていたかと思うと、「あれっ?、あれっ・・??。あらイヤダ。貴方は若しかして・・・エーッとハマノさん?」、と。
「確か・、何年か前に貴方とお母さんの様子をNHKが放送しましたよね。見たんですよ私・」、と。「それにパソコンで介護の音楽を発表されていますよね?・・家族全員で読んだり聴いているんですよ」、と言われます。
最初は左手を口に当てて大ハシャギだったんですが、やがて、目には涙を一杯溜め、「貴方、よくやっていると思いますよォ~。ホントですよォ~」、と妙な涙声に変わっていくんです。
この女性、教師を退職されたばかりの方で、4年ほど前に学校で[母に生命を返す時]のコンサートを開こうと話した時期があったと言われました。でみ、お話を聴く限りでは、まだ私が人前で唄うという事に抵抗があった時期です。さて、次は精米した際に出る糠(ヌカ)のアイデア利用法を提案したいと思います。
☆2010年3月12日
★:前回の精米の話に続いて。
玄米を30Kg詰めで農家から直接買っては団地近くの精米機で精米するようになって数ヶ月・。我が家にはヌカの入った幾つもの袋が台所と玄関の靴箱の上にあります。玄関にあるのは花壇用。台所にあるのは料理用です。
このヌカですが、実に使いようが多い事に気づきました。そこで、持て余し気味のヌカを使ったアイデアを書いてみます。
★:簡単ヌカ床作り~思い切ってミソと合わせてみよう。プラス酒かすも効果があった。
味噌とヌカの配分は適当に好みでどうぞ。味噌が多ければ味噌風味、ヌカが多ければヌカ風味、酒かすが多ければ酒風味。
ニンジンなどの硬い物は何枚かに切り、キュウリなどは丸ごと。ちょっと早く食べたければキュウリも丸ごと&半分に切る・などの工夫をしましょう。ナスもいいですね。生漬けと一夜干しのナスを両方試してください。
安かっただけで衝動買いしたうまくなかったメロンもいいですね。キャベツなどは8×8Cm程度に切って輪ゴムをしといてください。山芋の輪切りも直ぐに漬かります。漬け込む前にそれぞれの野菜に擂り込むようにして軽く塩をしといて下さい。漬け込みが終わったら唐辛子を2本。小さい輪切が理想です。
塩と砂糖を1対1で入れ、最後に料理酒を軽く注いでおくと、[味噌ヌカ風味の酒の粕漬け]になります。ニンニクを何粒か入れておくと、[キムチ風・味噌ヌカ風味の酒の粕漬け]になります。このヌカの効用は試してみる価値ありですよ。
★:肉類は別に
チキンや豚などの保存にも味噌ヌカを使いましょう。魚にも合います。
★:小麦粉とヌカを合わせて天ぷらの衣作り。
ヌカは前以てフライパンで多少は焼いていて下さい。これがまたヌカの油分が出て美味いんです。掻き揚げにしても最高。我が家ではイワシやキビナゴ、アジ、サバ等々の安売りパックを買ってきて、このヌカ衣にカラシを練り込んで(パン粉を使ったり使わなかったり)して冷凍庫で大量にストックしています。コロッケの衣にもヌカ・で風味抜群になります。
コロッケ作りの際のジャガイモですが、水茹でせずに蒸して下さい。蒸したジャガで作ればメークインが男爵イモに早変わりしますよ。豚カツの衣にも我が家ではヌカ味噌&カラシを使います。
★:ヌカはそのままで使ってもOK.。フライパンで炒ってから使えばヌカ風味に深さが出るような気がします。
★:母の血液検査結果に主治医がビックリ
「お母さんの検査結果は医師の私より良い状態です」、と主治医の室原先生のお言葉。母は冬場には食欲が落ち、血液検査でもその事を指摘されるのが常でした。でも、実際の事を言えば、この冬場の母の食欲はやはり例年と同じように落ちているんです。落ちてはいるんですが、血液検査の結果は例年の冬場とは違っていて正常なんです。「はて・・、何でだろう」、と考えていると行き着く先は昨年には目もくれなかったヌカという食材の使用ではないか、と思うんです。
★:私自身にも変化が
私の場合、幼い頃の柔道事故で内臓破裂による小腸の約50%、大腸の一部を切除している影響で冬場には下痢などが多くなって体重がゴンと落ちるのが常なんです。冬場には消化器官の動きが鈍り、私のように消化管の切除手術などをしている人は冬場には必ず体調を落としますよね。 それが、この冬場の母の夜間トイレの介助が昨年のようには辛くないんです。まァ、母を守る気合というか慣れというのもあるんでしょうが、これも若しかしたらヌカ食の影響かなァ、と思うんです。このヌカ食ですが、皆様に勧めるのは勿論ですが、私自身でももう少し実践検証してみたいと思っています。
☆:2010年3月15日。
★:「母ちゃん、オシッコはしたくない?」、「大丈夫よ」。
「今日は買物をして帰る日だからオシッコ・しといた方がいいんじゃない?」、「いいや!、大丈夫よ。せんでいい」・と。これは私が仕事を14:00に切り上げ、14:30には鶴翔苑へ母を迎えに行った際の会話です。
暫くは施設で時間を潰し、15:20頃に帰路につき、新南部(しんなべ)町にあるスーパーACE(エース)で冷凍カレイ、赤魚、トマト、サラダ玉ネギ、シメジ、ワカメ、鳥の胸肉に豆腐、薄揚げなどを買いました。これだけあれば冷凍庫にある半端素材と合わせて4日はもつかなァ、と思います。
冷凍庫にある半端素材というのは余り物の事。例えば1パックで3匹入りのもち魚などは1度で使いきってしまいますが、25Cmもあろうかという3匹入りサンマパックなどはまずは3匹共に半分に切り、内臓のある方を先に料理して半分から尻尾に掛けては軽い塩をして保存しておきます。
本当を言えば私も嫁も1匹ごと食べても足らないほどにサンマが大好きなんですが、母には1匹丸ごとは無理なんです。・・かと言って、嫁と私が1匹食べて母だけが半分・という訳にはいきません。だから、我家では皆が半分ずつしか食べません。私は不公平感というものを一番嫌うからです。 でも、イワシなどの場合、母は刺身で1匹。焼いて1匹は余裕なんです。。
★:・で、実際の今夜の夕食のオカズ・・。
①:鳥胸肉の薄アゲ巻き
ボリュームの割りに安い鳥の胸肉・・、味が淡白で決して美味しくはないんですが血流に難がある母には鶏肉は胸肉か笹身を・と指示されています。
屋台では串刺しの焼き鳥として使用され、タレで誤魔化されて食べているケースが多いんですが、胸肉のほうがタレが凍み易くて美味しいそうです(ウナギだってタレ次第ですよね)。
この胸肉を前もってバターと黒胡椒で軽く炒め、更にレンジで火を通して置き、これまた別鍋で湯引きしない薄揚げを甘辛タレで煮つめておいて、この薄揚げで胸肉を包んで爪楊枝で弛まないようにし、更にフライパンに移して甘辛に煮つめたタレで乾煎りして出来上がり・・。これを1cm厚程度に切り分けて母用に・。
②:圧力鍋で柔らかくなった大根の湯を切らずにフライパンに移し、前もってチキンの皮で作った出し汁に砂糖、日本酒、醤油を加えてトロ火で煮つめて出来上がり。この場合、大根の苦味をとる為、大根だけを前以て湯通ししておきます。
③:ワカメの酢味噌和え
④:キャベツ&モヤシ炒め
⑤:ホウレン草の味噌汁
☆:2010年3月17日。
★:今日の本題:老いを支えるには予知能力。
最近の私はコンサートでも自分の意見をようやく強く前面に出すようになりました。それまでの私のコンサートではどちらかと言うと数多くの歌を発表する事に主眼点を置いていて、トークには今ひとつの内容がなかったと指摘される事がよくあったのですが、その辺の事を真剣に考える時期がありました。
歌だけではどうしても理解して頂けないモノは言葉で、つまりはトークで会場の皆様に問い掛けるしかないなァ、と思うようになったのです。まぁ、90歳を越え、介護を受ける母親の日常と70歳で家族介護を受けている方の家庭の状況は共通点は多くても相違点は沢山ある訳です。
★:介護する側、される側の生きた時代が違えばいろんな考え方が違っている。
まず、たとえ親子であっても介護される側、介護する側のそれぞれに蓄積された人生があります。我が母の場合は大正生まれであり、私は昭和生まれ。母は男2人、女3人の末っ子・。炭鉱経営者の娘。高等女学校卒業。第一、母は戦争経験者etc、私と母とは生きた時代、積み重ねた経験など全く違った環境で育っていて、モノの価値観に至るまで大きな隔たりがあります。それは皆様のご家庭でも同じ事。つまり、親子の関係であっても、モノの考え方が違っていて当然であり、そこに在宅介護の難かしさがあり、施設での赤の他人から施す老人介護では更に困難なものとなっているはずです。
親は我が子を育てる義務・責任があった故、時に厳しく、時には手を上げたこともあるはず、一方、子は子でそんな我が親には愛の証しだと感謝した者もいれば、そんな親を憎んだ者もいるはず。私にでも覚えはあります。
一方、似たような家庭状況で育ち、大人になっては介護職を選んだ者は目の前のご老人を「己を育てた実親」と勘違いをしては「あの頃の仕返しだ」とばかりに厳しく対応することがあるかも知れませんね。「ない」とは言えないはずです。
今日の介護現場でこのような各種介助が行なわれているとすれば、・それは限りなく悲惨で哀れなことであって、我が国の高齢者に対する介護の倫理観の欠如といわなければいけません。否、現実に医療界でさえ昔から精神的な欠陥医師の存在への指摘は数多くあります。言葉を変えれば、これらは医療過誤、介護過誤と表現できるものであり、人間が人間に対して示しあう誠意の欠片はそこにはなく、単なる「うさ晴らし」でしかありません。
老いに対する理解がない家族や他人が、この「うさ晴らし」を日常の介護現場で行なっていては、それは真の老人介護とは言えません。敬いや、尊厳とは何なのか?。一体、何処にあるのか?。
それらは探して見つかるものではなく、他人から学ぶものでもなく、あなた自身の心の中にしか見つけることは出来ません。あなた自身が自分自身を見つめ、何度も何度も見つめ直し、どこにも探すことができないのなら、貴方は老人介護には向いていないんだと思います。勿論、子育てにだって不向きです。
★:我が母に対する姉、兄と私との違い。
恥ずかしい事ですが、我が家でもそうでした。我が姉、我が兄には我が母親の介護をさせなくて良かったと心の底から思っています。
「彼等にはその資格がない」、という意味ではありません。彼等には目の前の命が「次には左に動くのか右に動くか」に対する予知能力がなく、従って「気付き」が後手に回る傾向があるからです。ここで言う「後手」とは周囲から指摘されて始めて気付くことです。命には「今度からはそうします」は通じません。
決して、私は人間性を否定しているのではなく、普段からの発想や対処能力の違いを言っているのであり、その点、私の持つ老いた母親に対する介助心というものは、我が姉や兄が持つ思いよりも「遥かに強い」と確信を持って母と対峙しているからです。
考えてみれば、私の存在なんてごく僅かの方々の強力な理解や推薦を頂いた上での存在に過ぎないんです。具体的に言えば介護家庭の方々、それにコンサートを企画して頂く社会福祉協議会や看護・介護関係の組織・・、私の存在はそうした方々のお陰であり得ているんですね。だから、数少ないコンサートの機会の一つ一つを大切にしないといけない・、と思うようになったのです。
★:介護、人生に関心ある方しか振り向かない
コンサートを企画してくれる方々がそれなりの広報をしてくれてこその私の存在があるんです。つまり、「母親と同居、介護暮らしをしているシンガーが出るよ、来るよ」、という事前広報がなされていない場で「母が~・・」、なんて唄いだしても、「何じゃ・、このオッサンは」、に過ぎない存在ではないだろうか、と思います。
それにもう一点、聴く側の心の余裕がなければ私がどんなに介護の歌を唄い、トークをしてもそれは余興の一つ、単に時間潰しにしかなっていないケースもあるんじゃないかと思っています。
★:知らない世界を知り、新たな思いを獲得できる大切さ・・。
でも、本当は知らない世界を覗いた瞬間の反応・対処ができる種類の人間かそうでないかで大きな違いがあるはずだ、と思って頑張っています。
介護の世界という、これまで知らなかった、考えた事もなかった世界(人生)を理解し、その思いを共有しようとする努力こそがやがて訪れる両親の老い、我が老いを冷静に捉える事ができる絶好の機会ではないかと思うのです。だから、私と出会い、私の歌を聴ける人は人生を真剣に考え直す切っ掛けを掴める運のいい人ではないかと思っています。だって、要介護5で97歳になってまで在宅で暮す老人の話をその家族から聞けるんですからね。
★:でも、反応は様々・・。
でも、コンサートを終わった私の耳に届く皆様の声は様々なんです。大まかに言えば「良かった/感動した/原点に戻れた」、という声が多いのですが、中には、「あからさまに描きすぎていて生々しい」、「もっと、美しくは描けないのか」、という声もあります。
私としては要介護度が2から5になるまでの母、5になった後を唄ってはいるのですが、要介護の4から5の母を唄う作品がどうしても物議を呼んでしまうようです。
実は、作った私でさえも思います。「あァ、そうだったなァ。要介護の2~3の頃の母には母の部分が相当に残っていては百人一首の上の句下の句を詰まりながらでも詠んでいたしなァ・」、「立田山の遊歩道を車椅子で進む時には道の左右に咲く花の名前を言ったり、時には車椅子を離れて杖を使って歩いたりもしていたし・・」、と思うのです。
要介護の3の頃までは幼い頃の両親や故郷の話、博多で働いた事、結婚後の宮崎での暮しなどを薄っすらとは話す力はあって、♪ホッホ、♪弓削神社にてなどの悲しくも軽快なリズムの作品が作れていたんですが、要介護4になって暫くすると母の様子がガラリと変わりましたね・・。
両親のうち父親の名前を思い出せない日が多くなり、嫁いだ相手(私の父)の名もなかなか出なくなります。そして、自分が産んだ子供の名前と産んだ順番も何人の子を産んだのかさえ・・。第一、私の名前が出ずに、「オジチャン」、「イサムさん」、と呼ぶ日が当り前のようになります。
要介護5になった母を見て要介護2の頃のような詩が書けるはずがありません。常に冷静な目で母を見ようと努力しようとは思うのですが・・、無理な話ですよね。
★:聴き方だって、その方の環境によって違って当然。
私達が暮らすこの日本という国。この国の文化・・、貧しさへの1歩を踏み出しかのような最近ではありますが、TVでは相変わらずお笑い系の趣旨を強く持つ番組ばかり・・。
私達はいつの間にか物事を真剣に捉える習性がなくなり始めたような気がするんです。無責任に無関心・・嫌ですね。介護問題は他人事ではないはずなのに・・、特に日本の男って実母の世話を女房にさせといて「いやァ・・、昨夜がお袋が夜中にさァ」、ってふざけるんじゃないよ。日本のオトコが真剣になる日は一体、いつなんだ?。
☆2010年3月18日
★:先日、ご紹介した美味くないと言われる比較的に安い鳥の胸肉の料理法ですが、簡単に言えば稲荷寿司のアゲで肉を包んだだけ・なのに、数名の方から「美味かった/もっと具体的に」というメールを頂いたので調子に乗って書いてみます。
稲荷寿司や巻き寿司って出来立てより、甘酢がご飯に凍み込んだ頃が美味しいですよね。この料理・、要は鶏肉の身の部分はサッパリ味、薄アゲのほうにチキンの皮脂を凍み込ませて・という味覚が売りなんです。
①:鳥の胸肉の皮の部分を剥いで肉と別にする。肉には竹串(爪楊枝)で数十箇所を刺して出汁が凍みこみ易く
してから軽く塩&胡椒をしておく。
②:鍋で鳥皮を暖める程度のほんの少量の油の中に入れて鳥オイルを抽出する。
③:②の鍋から鳥皮を除き、酒を加えて醤油・味醂・砂糖を入れて煮詰めておく。
④:薄アゲは湯引きをした後で③の鍋に入れ、火を止める直前に少量の酢を入れ(酢が決め手)。火を止めて冷
えるまで放置。
⑤:①の胸肉をオーブンのトロ火でゆっくりと焼く(火を通すだけ/強火だと肉が硬くなる)。
⑥:⑤で焼いた胸肉を④の薄アゲで包み爪楊枝で封をし、食べる直前に④の鍋に戻して暖める。
盛り付ける場合には1Cm間隔に切ります。これは鳥のささ身だと本当に美味しいものです。食べる直前に④の鍋で再加熱する代わりに、チーズを巻いてオーブンで焼くのもいいかもです。味が濃いか薄いかは胸肉をどの程度の厚さに切ってから料理を始めるかによって違ってきます。
私の場合、母が噛み切れる肉の柔らかさ・が前提で面倒くさくなりますが、皆様はもっと簡単に作れるはずです。隠し味に味覚糖(原料に醤油が使ってある)という飴玉を2個ほど入れるとテカリも出ていいですね。
★:今日の母
「母ちゃんはサ、酸っぱいのは好きな方じゃないよね」、と私。
「うーん、どっちかと言うとネ」、と母が言います。そして、「でも、酢は身体に良いからと私は食べているじゃないか」、と母。母は最後まで酢の物を残しますが、結局はお茶を飲みながらでも食べてくれてはいるんです。今日の酢の物はワカメでした。
この3日間、母は洗濯物畳みがド下手。畳んでは開き、開いては畳み・。結局は今日も全く片付きません。老いの進みは私が思っている以上に早いものです。
「あのう・・、このところお父ちゃまは家にお帰らんネ?」、と母。
「えっ?、お父ちゃまって誰の事?」、と私。
「アンタはおかしいっちゃなかとネ?。お父ちゃまと言えばエート・松・松・ありゃ?」、と母。
「えっ?、松若さんの事?。松若さんは俺の父親じゃなくてジイちゃんさ」、と私。このように発語障害が少ない日の母には言っている事に一貫性がなかったりします。母のお父ちゃまは松若さんであって、私にとってのお父ちゃまは母の夫の亡き利三郎さんですが、母の言葉の意味を私が理解していないだけかも知れません。
★:さて、音楽の話~母が私に再び楽器とペンを握らせてくれた
私はタレントではありませんからパフォーマンスなんてどうでもいい事(皆様から見れば違うかも・・)。限られた時間の中でどれだけの介護ソングを唄い、どれほどの制作背景を語ることができるかが勝負だと思っています。つまり、母の要介護2の頃から現在の要介護5へ移行していく老いの過程を如何に語り伝える事が出来るかが大事だと思っています。
だから、最近は一つのコンサートの依頼があってからの日々は介護生活を語るトークの原稿書きに多くの時間を割くようになりました。そして、その原稿書きをしているうちにいつの間にか私自身が自分の人生を考え直すようになっていくんです。
「この人生。。母にやるしかないなァ。夢。。そうだなァ、次に生まれ変わってからにするか・。待てよ、夢って所詮持っていない奴、叶えられそうもない奴ほど口にするもんじゃないのかなァ・。あれは方便で口にするもんじゃなかなァ・・俺の人生って例え貧乏暮らしに落ち込んでしまっても・・、結構、充実しているんじゃないだろうか・」、なんて事を自問自答するんです。
☆:2010年3月19日。
★:「貴方達・・、自分らの老後は考えているの」、と姉は言いますが・・。
結局、今を生きる事ができない奴には明日もないんです。今を不満に思う奴は昨日までの自身の努力が少なかったから。今を生きるには目の前の現実と自分の立ち位置を知る事。知れば遣るべき事は僅かしかないんです。ただ、物質的な充実感を裕福だと捉えるか、精神的な充実感を求めるかの違いはありますが・・。
母と暮す事で失くしたモノもあれば、逆に得たモノもあるはず。何れにしても悩んだ分だけ成長するのが人間なはず・。第一、モノって何なんだろう?・ってよく考えるんです。お金?、時間?・・。
じゃ、お金で夢や人生が買えるのか?、時間を与えられていたら俺はどこで何が出来ていたと言うんだ?・・。そんな漠然とした過ぎた事を考えるより間違いなく得られた事を考えてみるんです。
あァ、歌が浦には何度も行ったじゃないか!。佐々では墓参りも・。民宿から見た霧に霞む平戸島だって、長串山にだって2度も行ったさ。義ちゃんの手料理だって食ったさ。こんな経験は母と暮してこそじゃないか!。それに、忘れていた音楽が我が家にやってきたじゃないか!。オマケに俺の作リ出す音楽で多くの人達が両親や自身の人生を考えるようになっているじゃないか!、これこそが母が俺にくれた時間じゃないのか?・・、あまり・お金にはなってはいないけど・・ホ。
俺はいいさ。要は耐えている嫁や協力してくれている姉夫婦、それにMさんやFさんに恩返しができる程の何かを残せたら・・。せめて、そう思うのです。
私ですか・?、私は周囲が飛びはねて喜ぶ姿を見れたら幸せな気分になれる単純人間ですからネ。私が9歳の時に見て来た世界はそんな世界だったんです・・。何もない・・無の世界。但し、安らぎもない世界でしたよ。人間って、生きていても死んで行った先でさえ、いつも何かを考えてウロウロ・オロオロしているんですね。
☆:2010年3月20日。
★:デイからの帰路、
コスモスというドラッグ店で¥1999のトリスウイスキー4L入りを買い、10個で1パック¥145の卵、焼きソバパック、モヤシ、ミリン、数種類のソーセージ類、手作り豆腐、貼るカイロ・。
ウイスキーだけを買いたかったのですが、このコスモスにはいろんなモノが売ってあるんです。安いから熊本在住の東南アジア人が一杯。中国人が一番多いようでしたね。
帰宅した直後、母に洗濯物を畳むように言い、「デイから帰ったらお義母さんに食べさせて」、と嫁に言われていたイチゴを台所で洗っていると・、母がもう狂い始めています。「直裕っ、直裕っ・。どこにおるとゥ」、と母。
「ここに居るさ。アンタの後ろに居るよ。急に何ネ」、と私が言えば、「あっ、おるネ。そう、それならいい。アンタにさ。今、私が学校(デイ)から帰ったよと言いたかっただけさ」、と母。。。
「えっ?、俺と一緒に帰ったばかりじゃないか」、と言うと、「いいや、私はアンタとは帰っちゃおらん!」、と母。
こんな時って、なんか悲しくなりますよ。皆さんのご家庭でも似たような事があるんでしょうね。
★:兄夫婦はタジタジ・。
こんな母の状態ですから尚更に縁が遠くなってしまうような気がする母と兄夫婦。第一、長男夫婦がこの母の現状をどこまで理解しているやら・。姉の所へは毎日。兄夫婦の所へは週に1度は電話をしているんですが、兄夫婦の場合、電話の最中に母の妙な会話が始まった途端、ガチャンとその事実から逃げるように電話を切ってしまいます。これに耐え切れなければ親の介護は所詮無理ですね。我が兄貴・・絶対にどこかが緩んでいます。
★:右手首の骨折の影響でお手の物だった洗濯物畳みが・。
骨折後のリハビリで入所していた2006年の頃は夕方になると入所者の女性達(中には男性も・)の日課だったタオル畳みですが、その頃の母は畳んだり畳まない日があったり・・。
「こんな事を私にさせて・・。若い者(介護士)が何人もいるというのに、『はーい、皆さん。皆さんで畳みましょうね』、って毎日カゴで持ってきてバサッと広げていってさ。だらしがない・」、とよく言っていました。つまり、母は畳む事が出来るのに畳まない日が多かったんです。我が家で畳んでいたからかも知れません。。
「母ちゃん、あれはね。腕や手首や指を今よりも動くようにするトレーニングの一つな訳さ。畳み方の早い人、遅い人・・いろいろ居るだろう?。訓練さ、訓練。毎日やってこそ早くやれるようになるもんさ」、と言いながらテーブルの方へ母を連れて行って実際に畳ませると母は普段からやっていない分だけ遅いんです。畳んでからロール状に丸めるのですが、この丸めるのが母は苦手でした。骨折後の後遺症で右手の手首が多少ですが不自由みたいです。
★:その退所後・。
我家での生活に戻ってからの母には歩行訓練を重視した為、こうした作業を手伝わせた事もなく、2008年暮れに右手首を骨折してからの母は骨折が治っても手指、手首、肘周辺の筋肉が硬化してしまってグー握りさえできない状態になった為、この1年近くは「リハビリだ」、と洗濯物畳みはデイから帰宅後の母の仕事だと言い聞かせ必ずやって貰っていました。
★:いつの間にか上手くなっていた洗濯物畳み
リハビリって本当に大切です。最初の頃には「あァー、もう嫌よ」、と途中で放棄しがちでしたが、「何を甘えているんだ。それじゃ、いつまで経っても自分の尻も右手じゃ拭けんじゃないか。恥ずかしいだろうよ」、と母の自尊心を傷つけてみれば、「うん。よし、やるよ!」、と発奮させると母は頑張っていました。
実際の処、洗濯バサミ(例のクリップ)のバネの強さに負け、洗濯バサミから乾いた洗濯物を外せないくらいに指の力がなくなっていたんです。それから約1年後の現在、母はテキパキと洗濯物を畳んでは、「他には畳むものはないネ」、と言うほどに機能が回復していました。こんな母の頑張りを見ると嬉しいモンです。
★:でも、最近はちょっとだけ、認知が出たり引っ込んだり。
でも、この1週間ほど前からその作業のテンポが極端に落ち始め、この4日間を言えば全く畳む事ができなくなっています。手の具合がではなく、脳の機能の問題です。
畳んだものを再び広げたり・、途中まで畳んだかと思えば放り出して次の洗濯物を三角に畳んだり丸めたり、外したハンガーに再び掛けようとしたり・・、支離滅裂な状態が続く時が増えました。
「お義母さん・、最近はかなり変ネ」、と帰宅早々の嫁がこっそりと言います。働く事で精一杯の嫁は母の変化に驚くんです。「うん、3月10日を境に一気に歳を取ってしまったように感じるよ」、と私。
★:脚力が一段と低下
昨日も今日も坐椅子やトイレの椅子から立たせた際に母は崩れ落ちるようにお尻から倒れ込みました。昨日の転倒は私が辛うじて母の身体を支えたものの、今日はデイから帰宅して玄関の段差を1段上がろうとして1歩を踏み出した途端に左足から崩れ落ちるように左肩から倒れ始めました。途中で私が支えた為、段差部分で顔面を打ったもののどうにか・・。
そして、夕食後の母を部屋に向わせようと車椅子に座らせる為に嫁が坐椅子から立たせたまでは良かったのですが、母はいつものように炬燵の天板に両手を置いてバランスを保っておく事ができずにドスンと左肩から床へ・・。丁度、私が隣の部屋で横になっていた時の事でした。
「はい、お義母さん。立ちますよ」、という嫁の声で「嫁には無理だ」、と飛び起きた私の目の前で起こった母の転倒です。幸い、何れの転倒も大丈夫ではあったんですが、この3~4日間の母の状態は決して良くはありません。
★:母の性格が危険を呼び込んでいる~集中心のなさ
この居間の座椅子に座る際、立つ際の母には一つの大きな性格的な欠点があるんです。それは、[一度はコタツの天板についた手の片手を外して何かをしようとする癖です。座る前に天板に置いたタオルを再び掴み寄せようとしたり、天板の剥げかけた塗料の部分を指でなぞったり、テレビのリモコンを引き寄せようとしたり・・、です。それに、私や嫁が必死にバランスをとって母の体重を支えれば支えるほどに母は左右をキョロキョロと見ながら身体を揺らします。
「ハハハ、アンタは真剣な顔して何をしとるのネ」、とまるで、オンナ親分のような言い方をしたり、「アンタはさ・・そんなに身体を私にくっつけんでおくれよ」、と・・・。誰かに支えられ、抱えられるように歩を進めている、という自覚が母にはないようなんです。
★:新しく出始めた幾つかの症状・・数例
①:入歯着脱の意味が分からなくなっている。
デイに出掛ける前、「はい、入れ歯を洗ってくるから外してくれ」、と言うと、「そんなものはしていない。自分の歯だから外せない」、という日が多くなりました。この、「入れ歯を外してくれ」、というのを私が言う場合には比較的に母は素直に従うんですが、同じ言葉を嫁が言おうものなら母は滅多にストレートには受け取ってくれません。
「あァー、うるさいネ/はァー、悔しい!。貴女みたいな女には言われたくはないよ」、と言いながら出したり、絶対に出さなかったり・・。過去には、床に入れ歯を床に投げ捨てた事もあります。歯医者さんのアドバイスではあるんですが、寝る時にも入れ歯は入れていたほうが口蓋の形が崩れないで済む、というものです。でも、違和感から
眠れないようであれば入れ歯は外したほうがいい、ということで我が家での母は入れ歯をしたままで眠る時もあって、そんな時の翌朝によく「嵌めている、いない」のトラブルが起きていました。
②:病院からの薬やサプリメントを飲み込まず、噛むようになった。酸っぱいのもあれば苦いものも あるはずなのに、母はムシャムシャと・・。
③:トイレでオシッコを拭くはずのロールティッシュを水道の水に流す癖が・。直ぐに溶けて丸くなってしまうんですが、永遠と何度も同じ事をするんです。「デイに間に合わんよ」、と言っても「ちょっと、お待ちよ」、とティッシュを水につけています。
④:服の着脱が全くできなくなった。もう、現在は完全に出来ません。
「はい、寝巻きに着替えるよ」、と肌着1枚にさせて脱がせたセーター類をハンガーに掛け、ベッド上の寝巻きを掴んで母の方を振向いた際など、・・母は肌着やパンツまで脱ごうと必死になっています。時々ではなく、原則的に日常化してしまっていて修正は無理です。
⑤:以前から時々はあったんですが、食事の際に私達が目を離した隙に醤油刺しを引き寄せ、醤油をお茶碗に注いで飲むんです。「やめろ」、と取り上げると激怒します。多分、醤油さしとお茶の急須との勘違いだとは思いますが、お茶と醤油の味は違うはずなのに、それが分からないようです。
★:他人扱いの嫁・・でも、私の姿が見えない時には一転して気を遣い、嫁に依存し始める母・。
寝不足が続いている上に酒の量が多かったりすると夕食後には「ちょっと、1時間くらい横になるよ」、と母に伝えて居間の続きの和室で休む事がある私。横になったままで私は母と嫁の気配を調べる事もあるんです。
「オジちゃんはどこ?」、と母。「オジちゃんじゃないでしょう。ナオさんですよ。貴女の産んだ直裕さん」、と嫁。
「レレっ、そうキャア?。否、イサムオジちゃんよ」・、「いいや、貴女の子供の直裕さんです!」、とそんな会話が延々と続くんですが、母はだらしがない私を起こせ、起こせと嫁に言っています。
「直裕さんはいつも貴女を世話していて疲れているんです。少しでも寝かせてあげて下さい」、と嫁が言おうものなら大変。母は急に激怒して「私がいつ誰の世話になったと言うんだい」、と母の本音?が出始めるんです。この気性の強さが長生きの秘訣でもあるんだと私はつくづく思います。
★:嫁がミツさん、フサ姉さんになる瞬間も・・。
でも、嫁がお茶を炒れたり、甘い物を出して二つに切って一緒に食べたりしているうちに次第に打ち解けて来るのが[女性特有の甘い物繋がり]なんでしょうね。
「はい、お義母さん。そろそろ寝ましょうね」、「はいはい。分かりました」。「寝る前にトイレをしましょうね」、「はいはい。しましょうネ」、と・・、母にはそんな矍鑠(かくしゃく)とした瞬間もあるんです。
でも、この突然の矍鑠振りは認知故の言動なんですよね・。この時の嫁、母にとってはミツ姉さん、フサ姉さんになっているんです。幼少の頃の母の過ごした時間・・、母の傍にはいつも兄弟姉妹の誰かが居てくれ、このような感じの日々を過ごしていたんだろう、と思うんです。
★:母の頑張りも限界に近づいているような・・。
以前、「私には母の命が見える」、とブログに書いた事があります。私が書く記事にはそのような内容の時がある事を気づいている方もあるはずです。決して、望むはずもないのですが、母を必死に看ているだけに見えるもの、聴こえる声が間違いなくあるんです。
それは、漁師やお百姓さんが潮の満ち干きや、陽の入り沈みが分かるようなものですが、私流に言えば自然がキシム音のようなものです。
これまでの母にはあった[周囲からの期待に応えよう]という気概のようなモノが確実に消えていっている最近ですが、母は今年も夏の蝉しぐれの声も聴くでしょうが晩夏の花火は見ることはできないような気がしてなりません。
☆:2010年3月21日
★:「母ちゃん、髪を切ろうか?」。
3月14日、16:00。「母ちゃん、頭の髪を切ろうか? 今日は暖かいし風呂もいいかもね」、と言えば、「あァ、いいネ。いつもアンタに言おう言おうと思っとるうちに忘れてしまって・・」、と母。
「そろそろ切る頃かな」、と気にはしていたんですが、寒さが続く日が多くて言い出しかねていたんです。
処で、人間って老いてくると髪と爪の伸びが加速するって知っています?。亡くなった際には爪を切り全身を清めてヒゲも剃り・・、これ[死に水を取る儀式]ですが、納棺して翌日に出棺する際に最後のお別れにと覗いた顔にはもう・ヒゲがうっすら・なんて話はよく聞きますね。
死んでからヒゲが伸びるんではなく、硬直がとれると全身の筋肉が緩んでしまって皮膚の中に埋没している毛までが飛び出してくるから伸びたように見えるんですね。歯だってそうですよ。出棺の際に覗いて、「あれーっ、この人はこんなに出っ歯だったかなァ・」、と思った事があるでしょう?。あれは、歯茎が緩んでしまって歯肉の中の埋没していた歯が飛び出してきているんですって。明石家さんまサンが亡くなった時を想像したら・・。
★:「あァ、サッパリしたよう」、と母。
「ホラ、頭を動かすなって!」、と言うんですが、母は目の前のTVを見ながら、お相撲さんの動きに合わせるように「オッと・オットト」、などと言っては自分が相撲を取っているかのような動きをするんです。
「動かすなって言っとろうが!」、と、私。
「アンタこそ・・切られる私はチクチクして堪らんよ」、と・・もう大変な母のヘヤーカットでした。
★:入浴を途中で止める。・もう、危険になってきた。
そして、入浴なんですが、ここ最近の母の脚力の弱りがモロに出ましたね。髪を洗い、入浴の前に石鹸で全身を洗う段階までは「♪:ホーホッホッホ/ホッホホホー」、と上機嫌だった母が洗い椅子から立ち上がれないんです。正確に言えば、介助では立つんですが、立った後、壁の鉄製の手摺りを握って立っていられないんです。
立っていられない者が歩を進めて身体の向きを浴槽の方へ向ける事は出来ません。介助をして壁の至る所につけた手摺りを握らせて身体の向きを浴槽に向けても、・今度は片足を残し、もう一方の足を浴槽の中に入れようとすると、残した軸足から崩れ落ちるようにお尻から倒れようとします。着衣の母ならまだしも、裸の母を支えるには腕を引っ張るか首を抱えるか程度しかできないわけですから流石に危険です。
浴槽の中には底を浅くする椅子に滑り止め、風呂場の床にも滑り止めクッションがあるのですが、所詮は壁や浴槽自体は硬いタイルや硬化プラスチック製ですから頭でもぶつけたら大変な事になります。
「母ちゃん、今夜のお風呂はもう止めよう。石鹸を使えただけでも十分さ」、と介助椅子に母を戻して座らせ、母の嫌いなシャワーだけで済ませました。ここまで、脚力が弱れば・入浴は難しいかなと思いますね。
今後、暖かくなれば硬くなった筋肉の動きも良くなって多少は力が戻るかも知れませんが、無理なら再び、三度目の公園での歩行訓練をしたいと思います。
☆:2010年3月22日
★:某イベント企画会社から在京の数ヶ所で行なうライブに出演の打診・が・驚き。
5.23/高円寺Club-Roots、6.13/渋谷Heavy-Sick、6.27/高円寺Club-Roots、7.25/渋谷Heavy-Sick、7.30/新宿Sun-Faceと5ヶ所でのイベントへの出演打診がメールでありました。HPで調べてみると、何れのライブハウスもいい感じのお店ばかり・・。でも、これが飛んでもない企画でした。
★:多少、先方様の音楽の捉え方に疑問があって・・質問状を返信し、返事を保留しました。
前述したライブ(コンサート)への出演打診なんですが、報酬(ギャラ)を含む東京まで出向く為の経費の説明がないどころか、僅かでありますが10~22枚等のチケット販売のノルマが課せられているんです。残念ながら、こうした条件下で行なったコンサートは遠い過去にも現在の私にも1度もありません。こうした出演依頼がある現実には驚きましたね。
★:こうした風潮は自称・ミュージシャン、自称・お笑い芸人等のアングラ芸人達が作り上げた新しいスタイル。
気になった私は古い友人に「こんな形での出演依頼があるんだけど」、と尋ねたら、「今の時代は一億総タレントの時代だから、TVの向うもこっち側も区別がなくなったんじゃないか」、「要は、金を払ってでも人前に立ちたいわけだ。お前はやめとけ」、と言います。
この言葉を聞いた私はネット配信活動をしているいろんなアーティストのブログを調べ、これでまた驚いたんです。
日本中に溢れる自称ミュージシャンのブログを細部まで見てみるとCD販売にライブ予定を一流のミュージシャンが予告するかのように記載してあります。
あの多くの場合は前述した形で行なわれているんです。簡単に言えば、「出演するアーティスト側がお金を払ってまで唄わせてもらって」、いるんですって。
それに、この近年はプロの世界でも当たり前のようになされているんですって。[抱き合わせ]とも言うそうですが、売れているタレントにくっ付けるようにして新人タレントを無料出演させたり、プロデューサーへは袖の下を渡してまで起用して貰うのが常だと友人は言います。
移民文化との関わりがあるからかも知れませんが、アメリカでは州政府(日本で言う自治体)が定める一定の基準を満たした者しか人前で音楽を演奏して収入を得る事は出来ないと聞いています。
★:でも・・。
その某企画会社からのお声を頂いただけでも嬉しい気がしています。多分、私が在京であれば行なわせて頂く可能性が強いでしょうね。20名くらいの友人知人なら一声で集めますからね。
★:いい傾向・・かも。昨秋くらいから幾つかのアクセスが
タワーレコードという最大手のCD販売の関連会社を含む3ヶ所のメジャーレーベルからのお声を頂きました。何れもオムニバス版のCDを作って全国販売を狙いたい、というご提案ですが、私の作る介護音楽の特殊性と未発表曲を含めて約180作品の中からどのような作品をどのような形で世間に発表するかという段階で流れが止まってしまっているのが現実です。
★:電波を使った音楽の在り方:ドタバタ&ワイワイ系への一極集中的な音楽の露出だけではなく、多様な音楽&多様なアーティスト像を認める時代にならなければ私の出番はありません。
ケニーロジャースという人は長い放浪生活の果てに50歳を越えてデビューしました。ウイリーネルソンという方も原点はメディアでなく地方公演に生き甲斐を感じた人でした。
★:私を知る僅かな人が目撃されたように
私は自分を虚飾で飾れるタイプではありません。私は今のままでいいんです。今のままで皆さんに声を掛けて頂き、ペットボトルのスーパードリンクをぐい飲みしながら介護話を語り、手作りの介護ソングを唄う・・。そんな暮らしが似合っているようです。
★:そのスーパードリンクの中身とは・・
実は、舞台での私はリポビタンのようなドリンク剤2本に[救心]という心臓の薬を1粒入れた甘苦い奴を飲んでいます。生薬成分が少しずつ溶け出していい感じのパワーが持続します。
★:せめて、大分で・・
[博堂村]が縁となって知り合った東京・八王子の山田さん。その山田さんが切っ掛けで知り合った[博堂倶楽部・名古屋支部]の木本さん。今日は多少の本音で音楽活動の在り方を語りました。大塚博堂を唄うのは素の顔の高橋さん。そして、少しだけ気合が入り、その名前を濱野裕生と変えた私が歌う介護ソングを歌う私・。
☆2010年3月26日。
★:言ったら笑われるかな・・小さい楽しみ・・。
今の私の楽しみの一つ・。実は・帰宅してお袋をトイレに連れて行って便座に座らせた直後に台所に忍者の如く走り、朝の味噌汁の残る鍋のフタをサッと取って鍋の底に僅かに残っている豆腐をすくい上げて貝じゃくしのままで口に運ぶ事・・。この瞬間にさえ幸せ感を感じてしまうんです。・・・何か・人間としてのスケールが小さいですか・ね?。これは帰宅後に酒を飲むという癖を少しでも改めようとしているからでもあるんですが、元々は・と言えば、私はそんな人間なんです。
★:似ているようで・小さな悲しみ
それにトイレの世話で何度も起きる夜間など・フッと気づけばお腹が減っている時があって、今は必ず小さいオニギリを2個(日によっては1個)嫁が作ってくれています。現在の母の夜間トイレ介助には相当な腕力が必要ですから何回か介助するうちにお腹が減るんです。
腕力だけならいいんですが、全体重を1歩1歩ごとに私に預けてきますから、私の身体の骨や筋肉には2人分の体重が掛かるんです。それは貴方のお母さんに睡眠導入剤を与えているから大変な介助になってしまうんだよ、と思う方が居るかも知れませんが・、それは逆。導入剤を使っている事で母の強い主張がなくなるから介助自体は楽になっています。睡眠導入剤の使用は私も反対ですが、主治医の指導ですから仕方がありません。
導入剤を使い出す前の母は「はい、こっちの手摺を握って/はい、右足をもう1歩・・」、と私が言っても無駄・・。夜間の母は介助者の思惑とは別な動きをしてしまって危険だったんです。この母の周囲の言葉を無視する性格はデイでのトイレの際でも発揮されているようで、「勝手に動き出して気が抜けません」、と介護士さん達が口を揃えて言いますね。
★:夜中に握り飯食いながら涙がポロポロと・・。
さて、オニギリの話ですが、夜中にお袋がトイレでチロ、チロ、ジャーッとやってロール紙でお尻を拭く間を利用して大急ぎで食べるのですが、・・これを夜中にムシャムシャとやっていると、虚しい毎日を過す自分が哀れになって涙がポロポロと溢れ出す日がありますね。やりたい夢も過ごしたい時間も・、すべてを棄てて母の命だけを必死に守る私は時に自分自身を激しく罵り、「何やってんだ、いつまで続ける気だ?」と自問自答をしては涙をボロボロと溢します。
身体の不自由さが日増しに増していく母。そして、その母の世話し続ける私自身の日々を考えていると、・・何故か涙ポロポロボロボロと・・・。これ、分かって貰えますか?。
人間って不思議な生き物だと思います。朝の残り味噌汁をすすって幸せだなァ、と感じたり、夜中に握りメシ食って泣くんですからね・。結局、現在の母の命は私の手に委ねられているんですよね・・。だから、短気は起こしちゃいけない・。いつも、そう思って自分を戒めていますよ。でも、時には「そんな自分でいいのか?」、と問う自分が居るんです。間違いなく・・ね。
★:もう、桜が・・。熊本では3月16日に開花宣言がありました。
デイ施設の庭の桜は既に14日には多くの蕾を無視するように「お先に~」、とでも言いたい連中がポツポツと開花させていました。「母ちゃん、公園にでも寄って帰ろうか?」、と言えば、「まだ、風が冷たいから嫌よ」、と・。
そんな訳で、今日も冷めた味噌汁の入ったコップを左手に、5対5で割った安物のウイスキーを右手に・、今日ももう・4杯目・・。桜よサクラ~・・。
☆2010年3月23日。
★:思えば・・
親元を離れて独り暮らしを始めた頃、余りにも自由奔放で新鮮な生活に驚き、例えサンヨー食品のサッポロ一番ミソラーメンに卵1個を投げ込んで食べる日々であったとしてもそれなりの喜びがあったのではないかと思います。時間の大切さに気づかずにただただ日々をダラダラと過し、後々に重くのし掛かってくる自己責任という奴にも気づかず、我が青春の何とやら・・でしたね。
やがて、「俺さ・、このラーメン、もう飽いたサ。交換してくれんかなァ」、と沖縄から来ていた比嘉という奴の部屋を訪ねると、「よく来たガッテン。俺も同じ。俺の日清の焼きソバと交換するか?」、と・・。
★:2Fに住んでいた東海大熊本の渡辺さんの弾くギターにホロリ・。
この比嘉と二人でラーメン食っていると2Fに下宿していた東海大生の渡辺という人がギターを弾き始め、その「禁じられた遊び」のメロディを聴きながらシュンとなって・・。私は思わず佐世保に暮らす父や母の姿を思い浮かべるのでした。
「今頃・、親父とお袋はどうしているかなァ・」、と・。「親父とお袋はこんな堕落けた学生生活を送る俺を知らず・・」、と反省するのですが、私としては何の目的もなく熊本にやって来た訳でどうしていいのかが全く分からなかったのです。
★:父、兄、私
長男だけは大学へと考えていた父。母を通じて「大学には行かんでいい」、と聞かされた時の私はまだ小学生。母は私の布団の中へ入ってきて、「ごめんネ、アンタは大学へは行けんとよ」、と泣きながら私に伝えたのでした。
晩婚の父と母・・、因みに私は父が50歳の時にできた子ですから無理もありません・。丁度、炭鉱業というものも斜陽化が始まった頃でした。でも、振り返れば・、言い訳になりますが私が変則的な人生を送るようになったのは、この父の思いを知ったのが切っ掛けでした。一方、「大学だ、大学進学だ」、と口を揃えて繰返す教師達・・。
どこの家庭でも似たようなものかも知れませんが、長女の姉が長崎に嫁いだ後の我が家では扇の要が外れたように家族の絆というものが薄くなっていたんでしょうか?・・。母は古い友人を失くしたような、父は・・、呆然とした日々を過すようになっていました。
野球でのスポーツ特待制度で久留米大学商学部へ入学していた長男は入学後には直ぐに野球部を辞めてしまった為、我家では何かと出費が重むようになったのです。
正直に書けば、兄が学費が免除されるスポーツ特待制度で大学へ進学した際には私は「これで俺も頑張れる」、と思ったものです。でも、それは儚い夢だったんです。
「ここまで身体の痛みに耐えて平気な顔をしているのに・・/ここまで体調が悪くなっているのを隠しているのに・・」。それでもこの時期の私はやがてはテコンドーに柔道に初段をとろうとする時期だったのです。
私の作品の中の[♪:佐世保メモリー]、はこうした頃の迷い多き時期の私を振り返るものなんです。私に向けられた将校の拳銃が怖いはずがありません。この頃の私は自分自身でも生きている意味を見出せなかったんです。
★:「12歳の頃から、もう一度人生をやり直したい」、と願っていた私。
医学用語では[イレウス/亜イレウス]、というそうですがイレウスとは癒着の事。当時の私の場合、日常の生活を普通に送っている中で突然に何の前触れも無く腸の癒着が起きるんです。
「お前は何をしたんだ/何をしていて具合が悪くなったんだ」、と父に言われても私には答えようがないんです。そして、[亜イレウス]、という奴は散々と痛みを与え、食物や水を摂取する事さえさせずに突然に正常に戻るんです。
こうして、が熊本へやって来たのは人生に始末をつける為。自分の存在を消してしまう事が出来そうだったから・・。今思えば本当に虚しい日々を過ごしていました。
「そんなに俺の存在が面倒くさいのか?」、と父には言いたかったのですが、それを言ってしまえば母をも責める事にもなります。だから、私は我慢しました。多分、私をかばい続けた母が好きで仕方のない子供ではなかったのかと思います。
★:長男一辺倒の古いニッポンの父親
丁度、母方から経営を任されていた伊万里市にあった炭鉱が思わしくなくなっていたからか、それとも私が晩婚だった父の50歳の時の子供だったからか、真の理由は知る由もありませんが、「大学へ行かせるのは長男だけでいい」、と母を通じて聞かされた父の言葉・・。
「下駄?・・、長男のお古を使え」、「カバン?・、長男から貰え」、「学生服?、兄ちゃんが着ていた奴があるだろう」、「グローブ?・・、何でお前まで野球なんだ」、「柔道着?・・、私が使っていたのを使え」・、とウンザリする程に聞かされていた私は大学進学という事よりも「また、父親が俺を否定した」、と。大学を控えて・ではなく、そんな失望感ばかりを覚えて育ったのです。
小学校4年次には全校相撲大会で次々と6年生を投げ飛ばして優勝。野球だって4年生でただ独り6年生に混じってレギュラー。それも大抜擢された最初の試合で遊撃・3番を任されて2打席連続ホームランを打つほどに頑張っていた私ですが、私の両親はそうした私の勇士ぶりを全く知りません。
父自身が与えた私へのDNAのはずなのに、父はそれを長男に見出そうとし、私からは全く見出す事ができないようでした。
苦学して19歳で外交官にまでなった父ですが、帰国後は宮崎県庁に勤めては己の弟を外科医にまでした父・・。その弟はやがてビルマ戦線で戦死。多分、父は弟に対して与え残していた愛と期待を一身に我が長男に与えたかったんだろうと思うのです。でも、父は自分自身が私と同じ三男で生まれている事を忘れているようでした・・。
★:意外だった・・その親父が熊本の私を訪ねてくれた事
私が大学2年の頃、私の作品群がヤマハ音楽財団をはじめ、メジャー出版社の数社の目に止まり、シンガーとしてよりも詩や楽曲の提供を提案されたことがありました。特に私の書く詩の傾向に興味を持たれた記憶があります。
一度は大学を辞めて上京をするという前提で仮契約を交わしましたが、この時に父が熊本へやって来たんです。「駄目だ、大学だけは出ろ」、と・。「俺は貴方に大学に行かせて貰っているわけじゃない」、と言いたかったのですが、その事よりも父が私を正視して真剣に反対してくれる姿が眩しかったんです。
この時、父の説得によってメジャーからの誘いは断ることになったのですが、後に裁判騒ぎになり、私の作品の数作を無償提供する事で解決しています。ある作品・・、曲名、詩こそ変更されて世に出たんですが、実は1曲だけミリオンセラーを記録しているんです。関西で名を挙げたフォークグループのデビュー曲ですが、大学時代の数名の友人と嫁だけは知っているはずです。・・私の密かな喜び・・です。
★:晩年の父は私への愛を思い出していたのかも
最近の私が書く詩には「ホラ・」、という呼び掛けの言葉が多用されています。「貴方が書く詩には「ホラ」、という言葉が多くありますね」、とコンサート会場ではよく言われます。
処が、その私が20歳前後に作った作品の詩には「貴方は気づかない/貴方は分かるかしら」、という言葉を非常に多く使っているんです。多分、私は父親の愛情に飢えていたんだなァ、と今になって分析しています。
晩年の父は寝言ではよく私の名を叫んでいたと姉は言い、勿論、私自身でもそうした父の寝姿を目撃した事があるんです。「どうして親父が俺の事をそこまで・・夢にまで見るんだろう?」、と不思議に思ったものです。
若い頃の父はいつも長男の方へ向いていて、私はいつも父の背の後ろ・・。そして、父は私に向かって振向く時はいつも、「おい、××を兄ちゃんにさせるからアレを持って来い・・」、みたいな感じでしたからね。
腕相撲だっていつも父と兄だけ・・。私は一度も兄とも父とも腕相撲をした事がありません。勝ち負けの問題ではなくて可愛がられていたか、いないか。期待されていたか、いなかったかの問題です・。そして、世間の方が老いの深まりを自覚し始める頃に写経をされるように、晩年の父は黙々と仏像を彫る時期があった事を僅かに憶えています。
何を念じて掘っていたやら、何から逃れたくて掘っていたやら・・、父は私の事を殆ど何も知らずに75歳で勝手に逝ってしまいました。
★:[♪:まるでピエロのように]の原曲は忘れてはいない。唄わない理由がある
この作品の原曲は20歳になる直前に作った「私はピエロ」、という作品。今で言う学園祭、他校での学園祭にも呼ばれ、市内に幾つかあった歌声喫茶みたいな所では大評判になり、毎週のように呼ばれていました。やがて、噂が広がっては当時のメジャーというメジャーのレコード会社や出版社が私の下宿に押し掛けてきました。
最初のバース部分は4拍子なんですが部分的に2拍子が入る上に16ビートのノリでのアルペジオという・当時の日本にはまだなかったリズムで始まり、やがて、「今、舞台の幕があがる・・人生の扉が開く・・」、という唄い出しで3拍子に固定されるのですが、この作品を演奏する度に「冒頭の4拍子のリズムが狂っている/その弾き方は何なんだ」、とクラブの先輩達が罵るんです。それは当時の彼らが16deatというリズムをまだ知らないからでした。
ただ、ひたすらにPPM一辺倒ではない先輩達は「やがて、そんなギター奏法の時代も来るんだろうな/教えてくれよ」、と近づいても来てくれるんですが・・。まだまだ、クラブ員達はブラザーズフォア、キングストントリオなどを必死にコピーしている時代です。やがて、後期のビートルズがビリージョエルが16beatの乗りでヒット曲を出し始め、少し遅れて日本ではサザンオールスターズが♫・愛しのエリーという作品でバリバリの16beatを爆発させています。
実を言えば、評判になったのは大学のクラブでは悪評が高かったバースの部分の「私は泣き虫のピエロ/いつでも、戯けているけれど/化粧を落としたその顔には落としきれない涙の跡が残っている・・・・・省略、・・どうしてなんだよ何故なんだってよ/貴方は気づかない気づいてくれない/私を見ようともしない・・Woo Woo 苦しいんだよ 苦しいんだよ」、と・・。
実は、[私はピエロ]という曲の詩は我が父と私の関係を唄っていたんです。だから、今回は完全には再現したくなく、バースの部分を省略した60%の部分を[まるでピエロのように]という作品名で詩の一部を変えて発表していて、このバースを除いた部分だけであれば皆様と共有できるものがあるはずと思っています。
☆2010年3月24日。
★:J-walkのVocalの中村さんが覚醒剤所持&使用で逮捕されましたね。
CDを集めるほどのファンではありませんが、私はこの手の落ち着いたサウンドが好きで、J-WAILKがTVで紹介されている時などは必ず立ち止まっていました。突出した演奏者がメンバーの中にいるという訳でもないのに全体的な音のバランスが素晴らしく取れている、というオーソドックスであって個々人が目立っているという、バタバタしていないいい感じの大人のサウンドを持ったのがこのJ-Walkです。
「歳を取って疲れるようになり、この1年前から覚せい剤を使うようになった・・、多分、嘘でしょうが、他のバンドメンバーは知っていて知らん振りではないはず。それとも、「俺も疲れた」、と使っていたのかな・・。
中村さんの表情・・、最近流行のリフトアップしたような目と二重瞼。あれは慢性的な疲労の表情と常習化した覚醒系のドラッグをやっている人特有の表情で、私も以前から気にしていました。
疲れた・・、という中村さん。ファンの私が言うのも変な話ですが、私の中学・高校時代には「ハイミナール/ナロン」、等の鎮痛剤だったか睡眠薬だったかは知りませんが・、そんなものを子供達が服用しては全国的な社会問題になりました。
我がニッポンの人口構成の中で子供達の数が一番多かった時期ですね。受験地獄の為に1日の時間の配分ができないほどに勉強しなければ世の中から振り落とされてしまうからです。学校から帰るとメシ食って塾へ・。塾から帰宅すると風呂入って4時頃まで勉強。7時には起きて学校へ。寝不足で頭痛がするから鎮痛剤を飲む。せめて土曜の夜くらいは熟睡しようと睡眠薬を飲む。私が通った高校ではこうした薬に中毒気味の成績優秀な生徒が沢山居ました。この学生達の多くがあのキツネ目っぽい中村さんと同じような表情をしていたものです。
もう・・人気回復はできませんかネ。取調べが終わるまでは静観ですね。でも、交通事故の調書作成で分かるように警察の取調べって都合のいいように担当官が自分で書く癖に、「お前が喋り書いて、お前が押印した」、としか言いませんからね。
調べたんですが、結構、J-walkは多忙なんですよね。今の日本にはウルサイだけのバンドが多いからJ-Walkのようなサウンドが求められているんだと思います。地方公演は予定が一杯でした。
あれほどの人達ですから所属事務所はもっと気長に活動できるような配慮ができなかったんでしょうか?。行政関連からの依頼で作る作品も多かったようですが、やはり、J-Walkの持つ大人の魅力を好きな人が多いんだと思いますね。中村さんには音楽で、作品でこの汚点を払拭して欲しいですね。
☆2010年3月25日。
★:桜で・・思い出す。
この3月、2008年には大分の社会福祉協議会のご招待で豊後大野市でコンサートを企画して頂いています。3月23日でした。この日は長崎からは実姉が佐世保からは義姉が私達夫婦の不在中の母の世話にと駆けつけてくれました。私が世話をできない時の世話は女手一つでは不可能と判断した最初の日でした。
私達スタッフは前日からの泊り掛けで豊後大野市へ向かったのですが、咲き始めの桜が綺麗でしたね。この2008年は例年通りの時期に咲いているというお話でした。そして、この豊後大野市でのコンサート後には別府へ走り、[博堂村]でもライブを行なったのを憶えています。
また、前年の2007年3月と言えば熊本市内の清水市民センターという場所で社会福祉協議会+熊本機能病院、北保険センター連携の[母に生命を返す時コンサート]を開いて頂きました。コンサート日は3月24日でしたが私の予測が外れて桜の開花はなく、準備していたサクラ絡みのトークが全くできずに舞台ではオロオロとうろたえた2時間になってしまった事を記憶しています。この2007年3月24日というのは特にしっかりしないといけない日だったんです。
機能病院の米満先生からは数ヶ月前から激励の言葉を頂き、それに、私の詩風に関心を持っておられる心理学者の熊本学園大/下地教授ご夫妻も来場されているというのに私の介護トークは20%程度の出来具合ではなかったかと思います。また、このコンサートの際に撮影された写真に写っている私の顔も首も手も真っ白・・。具合が悪かった訳ではないのですが真っ白・・。実は、この1ヶ月半前の心筋梗塞の影響が続いていたんです。
★:心筋梗塞
2007年の1月末に心筋梗塞をやっていたんですが、医者には診せずに真っ青な顔して翌日も普段通りに母をデイに届けて職場へ・・。その職場では呼吸が薄いから横になるのですが眠ってしまうとそのまま逝ってしまいそうになる不安で一杯でした。私の職場は午前中は私独り・という日が多いんです。
その後、知人の薬剤士さんに説教されながら酸素ボンベに苦い漢方薬と辛いトンガラシを舐める日々でした。
そして、前年から約束していた人吉での[母に生命を返す時コンサート]を2月7日に行なったんですが、心筋梗塞の1ヵ月後でもあって微熱があって左手の指が痺れ、自分で作った詩やメロディを忘れたり、和音を忘れたり・・、様々な後遺症が出ていた時期でした。でも、この時の経験で[♪:ホッホ]:という作品が作れたんです。
★:母の運命を肩代わりしてあげた・と思えば本望かも
母が我が家へ上陸したのが2003年3月28日夕刻。この年の桜は佐世保から熊本への高速道路沿いに咲き競う桜を見た母・・。この日が長崎で見た最後の桜の花になったんです。
そして、翌29日から母との暮らしが始まったのですが、我が家の間取りや段差など・・、勝手の分からぬ母が30日には和室段差を踏み外して最初の大転倒をします。
丁度、春の選抜高校野球を見ていて居眠りを始めた私に毛布を掛けようとして起こした転倒事故でした。左足に股関節骨折を抱える母はこの転倒で両膝と右足太股の動脈を損傷させてしまい、頼みの綱の右足を痛めた事で完全に歩けなくなったのです。でも、この転倒の際、倒れた母の顔の傍には段差や柱、石油ストーブもあって、・・ある意味では母は運がいい人だなァ、と思うんです。母は間違いなく何かに護られていますね・・。私にも・・。
☆2010年3月26日
ここ最近の九州地方は雨の日が続いたせいか、寒いですね。今日(26日)はデイからの帰路に八景水谷公園へ桜見物にと立ち寄ったのですが、公園入り口の駐車場に停めた車から出て80mも進まないうちに、「帰ろうよ、寒いよ」、と母・。雨上がりの昨日は一転して雲一つない青空・・、なのに吹く風はとても冷たかったんです。
「うーん・、折角来たのに」、と唸る私。母にとっては26日は流石に寒さを通り越して冷たかったようです。
★:その帰路・。
折角だからと公園からの帰路に近くのサンフードというスーパーで久し振りの買物・・。ここは肉類が安いんです。兎に角、肉類が安い。スーパー経営には野菜系・魚系・肉系という経営母体の違いがあって、得意不得意の分野があるから、「野菜ならあのスーパー、肉類ならこのスーパーで・・」、というように区別して買うようにするといいですね!。
「今日はサンフードに行ったっさ。ホラ、見てご覧。この肉は安かろうが」、「これはいつものエースに比べると3倍近くの量があるさ」、といつものように帰宅が遅い嫁に自慢気に言うと、「だったらさ、明日の夕飯には肉一杯、玉ネギ一杯のカツ丼を作ってよ」、「いつもの酢の物もね」、と嫁・・。そんな訳で明日の夕飯はカツ丼に決定したんですが母には嫌なメニューかも知れません。
★:新しい作品作りのイメージが・・。
「作品作りはのんびりと」、と決めた私。決めた途端にギターを弾かなくなり、職場の事務所に置いたままのキーボードを触り始めた私・・。
複数の楽器を触る人には分かるはずですが、作曲などはその際に使う楽器によって使う和音が違ってくるんです。私の作った作品で言えば、[♪:まるでピエロのように/♪:綿雪]などは完全にキーボードを使って作った作品。逆に、[♪:花ミズキ]は作品の全編にピアノの音が入っていますがギターだけで作った曲です。
使う楽器によって引き癖というものがあって、それが多様な作品を作る手助けをするんです。私が弾ける楽器は他にハモニカ、トランペット・・。苦手でも好きな音色は琴に大正琴に三味線・・。特に三味線などは母の影響もあって6歳頃から触っていて、今では母に弾いて聴かせる関係で学生時代にはギターのチューニングを三味線と同じにして弾いていた時期があって、「お前の押さえるコードは不思議な形だし、ナーンか良いんだよな(何じゃ、その音は)」・と、先輩達にはいろいろと言われたものです・・。
★:配布用の新しい短縮版の制作・。
作品作りのペースを落した半面、いろんな事を考えるようになっています。「どうしたら50曲を脈絡を持たせて聴いて頂けるだろう?・・、説得力のある配曲順は?」,等々ですね。そんな事を模索しているうちに、「あっ、そうだ。皆様への挨拶の言葉をCDの冒頭に録音してみようかしら・・」、というアイディアが浮かんだんです。
★:そんな訳で嫁から批判の波・。
「なーんか、オッサン喋りね/第一、喋り過ぎよ」、・・と嫁は批判の波。でも、めげずに、「初めまして濱野裕生です・・」、という言葉で始まる母の紹介・・。どんな反応を頂くか興味深々です。
まァ、こんな事をやっている私ですからまだまだやる気は十分です・ね。今回、作っている短縮版は2枚入り・。1枚目には30曲、2枚目のCDには20曲が入っています。いつものように懇意にしている近場のケーキ屋さんや美容室さんあたりからいつものように配布を頼んでみようと思っています。
ケーキ屋さんというのはお誕生日祝いのケーキを買いに来る方に対して、「その方は何歳ですか?、蝋燭は何本ですか?」、と尋ねますよね。ケーキ屋さんというのはお客さんのご家庭の家族構成がよく分かるんです。私のCDはそうやって皆様のご家庭に普及しているんです。
勿論、その他にもMさん、Fさん、Hさんや嫁や姉の協力もあります。これからの高齢化社会は我が国の大きな社会問題になり、介護問題は益々語られるようになるはずですね・。もっと社会全体で真剣に語られるようになればと思っています。命の問題ですからね。
この、[母に生命を返す時]という2枚組短縮版CDの無料配布に協力して頂ける方を広く求めています。連絡をお待ちしています。090.1368.2656/n_takahashi2000@hotmail.com
☆2010年3月29日
16:15の今、安物のウイスキー水割りを飲みながらホウレン草の胡麻和え、長崎の姉が持参してくれたアジの開きの干し物を食っています。「陽のあるうちから贅沢な話じゃないか」、と思う方もいるでしょうね・・。とんでもないですよ・。帰宅後の私が安酒のツマミにするものは全てが前日、前々日の母の食べ残しなんです。
最近の母の変化は激しいですね・。大好物だったウナギや鯛さえも食べません。毎日、一生懸命に作っているのに・・。イカの刺身だって、「消化が早いから飲み込んででもいいから口に入れろ」、と言っても食べません・。何だか、噛む力自体がなくなっている気がするんです。発する言葉も小さくなってしまって・・。これも老いなんでしょうね・。
今日3月29日、デイの帰路に母を連れて八景水谷公園へ桜見物へ行ってきました。26日土曜にも行ったんですが冷たい風に母が。「寒い・・、帰ろう」、と言いだしたものだから公園入り口から僅かな距離までしか行けずに引き返していたんです。
平日の月曜日というのに人出が多かったですね。公園一杯に人が・・。特に今日は雲ひとつない青空を背景の桜でしたから美しいものでした。
でも、この数年の傾向ですが、本当に本当にお年寄りの姿の多い事・。ゴザひいてお酒を飲んで・・、若者達はひっそりと・。
桜を見るという文化の減退もあるんでしょうか、桜の花に対する位置づけ自体が変化しているんでしょうか?。まァ・・、桜=酒=酔っ払い老人という図式にも賛成はできませんがね。
★:母は・・。
今年の母の桜への反応は少なかったような気がします。「ホラ、見ろよ」、と私が言わない限り母は桜を見ようとはしません。これは寂しい事でした・。老いですね。
私は今ほどに人の老いという瞬間を見ている時期はないんじゃないかと思います・。そんなものだと思ったり、妙に悲しく思ったり・・、母の老いを通して考える事の多い日々です。例えば・・
★:聴力・視力による認識力の著しい低下
多分、聴力というよりも脳機能の低下によって言語を含む自然界の全ての音が理解できなくなってきているようです。私達が普通に交わす会話や音は長い長い人生の積み重ねの結果、経験によって理解できるようになっているんですね。
アイウエオから・・・ンに至るまで、それらの音で構成される言葉とその意味・。それらは名詞であったり動詞であったり形容詞であったり・・。教育は分析に過ぎませんから教育によって得られたというものでもなく、脳機能の成長によって獲得できるようになったんだと思うんです。人間としての順応性ですね。
暮らしの中で一度、二度と聴くうちに「あっ、これはドアの閉まる音だ/これは犬という動物の鳴き声だ」・・、みたいなね。言葉にしたって誰も教えもしない言語を生まれた直後から憶え始める能力を持つのが人間だと思うんです。
今の母からはそうした力がなくなっている・というより、人間の証しとして蓄積してきたモノが消え始めている・・、そんな感じですね。つまり、言葉の多く、音の多くが初めて聴くモノのように感じられているようなんです。
そして、この傾向は視力にも現れていて、「モノが見え辛くなった」、というだけではなく、見えていても、目の前に見えているモノが何なのかが理解できない事が多くなっています。次回はその例を述べてみようと思います。
☆2010年3月の頃:⑮ ※前回に続いて
前記事の[★:聴力・視力による認識力の著しい低下]について追記します。「聴力・視力の低下と言うより脳機能の低下ではないか・という私の推測ですが、その例を挙げてみます。
★:「これは新鮮で美味しいね」、という私の言葉に、「新撰組も食べていたってね。こ・こ・近藤さんも?」、と母。
これは刺身を食べている時の会話です。母は和歌や短歌に俳句に川柳と、両親の影響を受けて粋なモノが大好き・。それに相撲にボクシングやレスリング、剣道が大好き。行った事はないんですが競輪や競馬など・・、兎に角、競うものが大好きです。それに、時代劇が大好き・・でした。現在の母はこれらの事にも殆ど興味を示しませんが、実は、そんな状態になった母だからこそ読める心があるんです。
歴史上の人物の武勇伝なんて殆ど作家によって作り上げられたものが多いですよね。若い頃の父や母は夫婦で競うようにして時代物の小説をよく読んでいて、別々の作家が書いた歴史上の人物伝を読んでいた時期もあったほど・・。
「母ちゃん、このアジの刺身は美味いね。新鮮ね!」、という私の言葉に、「新撰組・・」、と答える母。認知が一段と進んだとは言え、脳の本棚に並ぶ記憶の幾つかは多少は薄れても健在な日があるんです。マツモトセイチョウ、イツキヒロユキ・・、作家の名だけは憶えています。
★:「はい、用心して!。転んだら最後よ」、という私に、「・・じゃ、飛んでみようかネ」、と母。
母には私の言葉が、「はい、用意して、飛んだら最高よ」、とでも聴こえていたんでしょうか・。玄関の段差とは言え、母は本当に頭から飛び降りるつもりで子供のように目を見開いていましたからね・・。
★:存在への拘りが強くなるのは、増大した不安感の裏返し・かも。
母は車が大好き。50歳代の頃までの母などは乗り物酔いが激しく、折角の旅なのに行った先で横になったり、遠出をする度に苦しそうに吐き気を我慢している姿を目撃したものです。でも、今の母はドライブを初めとして車が大好き、「車で?。・・私も行こうか?」、と、私が切れたタバコを買いに地続きの隣の団地内にある自動販売機まで行こうとしてもついて来ようとします。
★:自分の存在、周囲の者の存在を確認したがる・。それはモノに対しても・・。
まァ、これからの時期はドライブの時期。助手席で揺られる事が首や背筋に適度な負荷を与えるから・健康にはいいだろうと思っています。でも、このドライブやデイに通う途中での母の言葉・・、随分と変化しました。桜の木の真下に連れて行ってもなかなか見上げようとはしません。「綺麗よね」、と私が言っても、「あァ・・、桜なら当り前よ」、と・・。
★:認知が限界近くにまで及んでくると幾つかの新たな変化が・。
母の場合、自分の存在が分からなくなる。自分が誰なのか、自分を母と呼ぶ息子や娘が我が子とは思えない。多分、目の前のこの人は自分のお兄さんのような気がする。そのお兄さんが「姉ちゃん」、と呼ぶ女性は私にとっても姉なのかもしれない・・と。
★:最近の母・・、一日の多くで混乱の連続です。
毎朝、働きに出る嫁(あの人)と休日で家にいる時の嫁(奥様)。それに、長崎から電話を掛ける長女と
我が家の2Fに住んでいる長女・・。認知の出た際の母はこんな感じです。
夕飯の際など、箸に手をつけようとしない母に、「早う食べんと冷たくなるよ。遅い癖して」、と言う私に、「2階にいる人達を呼んでおいでよ。皆で一緒に食べようと待っているのに・・」、と・。「何言ってる。我が家には3人しか居ないさ」、と言えば、「また、嘘を・。あんたこそ何だ。ご主人より先に食べてさ。だらしがない」、と怒ります。
要介護5になった最近の母の様子・・、暫く続けて書いてみたいと思います。
☆2010年3月30日
今日も朝の味噌汁の残りをコップに入れ、中の豆腐だけを起用に口に吸い込んでは右手に持った濃い目のウイスキーの水割りをグビっとやっています。まだ午後3時というのに・・、中毒だな、と自分でもそう思います。でも、いろんな方のから注意を受け、これでも量は随分と減って今では月に4リットルを少し越す程度・・、16~18リットルも飲んでいた頃に比べたら減りました。
「酒は止める」、と決めて6ヶ月・・、武雄市民病院の持丸さん、植木町立病院の福住元婦長さんとの約束ですから守らないと・・・。
★:その後の味噌糠漬けの報告・・。
糠みそではなく、味噌糠漬けですが乳酸菌のいい香りが漂うようになっています。今でも赤唐辛子や炒り糠を適度に補充しながら試行錯誤ですが、今は少し塩気が強いかな?・という感じです。
中に埋もれているのはいろんな野菜くずです。葉っぱのついたままの大根にニンジンの切れ端、カボチャ(これが美味い)の残りも2mm程度の厚さに切って漬けます。キャベツの芯などは甘味があってとてもお気に入りです。どれも夕飯を作る際にでる野菜くずの有効利用です。
出汁をとった後の昆布も入れます。それに嫁が買って帰ったパイナップルの美味くなかった部分、キウイの皮、これらがいい感じに発酵して香りの高い乳酸菌を作り出してくれるんです。他に鰹節やドンコ(椎茸)も入れています。
大根などは漬物として食べるんではなく、料理に使う前提で3日ほど前から漬け込んだモノを使うと一味も二味も違った料理が作れます。また、絞り豆腐をカーゼに包んだまま2日ほど漬け込むと何とも言えない朝飯のお供になります。
エリンギ・という何とも使いようの少ないものも漬け込んでおくと翌朝には結構な漬物に変身してくれます。山芋も2Cm単位に切って漬けると翌日には最高の味になっています。これから秋に掛けてはいろんな山菜が育つ季節ですね。嫁や母には、「ん?」、と言わせるような山菜漬物を作って驚かせてみようと思っています。
★:母が通うデイ施設が一方的な通告を・。
3月18日でしたか、「ツヤさんの施設利用時間帯を4月1日より11:00~15:00とさせて頂きます」、と書かれた1通の文書が連絡帳に挟んであったのです。差出人は母が通う熊本市大江の鶴翔園。これまでのブログでは施設Kと書いていましたが、反論し易いように施設名を書きます。
介護制度・・、いろんな変化が出始めているようですね。この施設Kとの成り行きですが、次回から具体的に書かせて頂きます。
☆2010年3月31日
★:命の移ろい・
母が通うデイ施設・鶴翔園の庭では散り始めたソメイヨシノと咲き始めの花ミズキのコラボ・・。この冬の終わりを告げて春の到来を告げる桜と「あとは任せてよ」、とばかりに咲き始める花ミズキの競演を眺める度、「あァ、お袋は頑張っているよなァ」、といつも感じます。
そして、アジサイや菖蒲が咲き、熊本では真夏の花の代表格の百日紅(サルスベリ)が秋の気配を感じる頃まで咲き誇るんですね。海岸沿いには潮風が好きなヤマモモの雌の木が真っ赤な実をつけてくれます。その後に咲くのが金木犀。この香りが薄くなった頃でもイチョウの緑は真っ盛り。やがて、この銀杏は文字通りに木枯らしの吹く頃に黄色く色づき始め、雨交じりの小雪が舞う頃まで金色の絨毯を神社の境内に敷き詰めてくれるんです。
★:輪廻転生
分かりきったはずの自然の変化、時の移ろい・・。これほどに自然は明確に私達に命の推移を教えてくれているのですが、我々人間は何故かその命の移ろいを鑑賞の対象としてだけしか見ようとしません。
確かに、咲いた花は美しいものですが、虚しい命でもあります。「一瞬の命だからこそ美しい。愛しいと思うんじゃないか!」、と皆さんは思われるでしょう。これは人間の美学なんでしょうね。でも、私はそう思うだけでは終わらない人間なんです。咲いた花は散って当たり前、ドッコイ命は散っちゃいないよ!ってネ。
[輪廻転生]、という言葉のどこに死があるんですか?。命が受継がれる、という意味です。命には休みも死もないんです。
★:花瓶の世界を卒業し、野山に繰り返される輪廻転生から学ぼう
「美しい/愛しい」、と感じただけで目を背けてはいけません。朽ちた実、葉、花は風に吹かれて大地に還り、再び新しい命を作り出しているんです。たとえ朽ちても命果ててはいないんです。
実や花は己の中の新しい命を護ろうとし、葉でさえもう既にある部分では小さな芽を、根を出そうとする気配を感じる事があるでしょう?。命というものは永遠なんですね。我々人間を楽しませる花である瞬間は僅かな期間ですが、彼らにとっては花である時間だけが命という訳ではなく、朽ちても命あり、芽を出し、葉をつけ、花をつけ・・、その全ての瞬間に彼らは生きているんです。
そう考えると、私達が定義付けする命というものがいかに狭い了見で決め付けているかを反省すべきです。
★:自己免疫プログラムを作れない栽培方法
人の手を加えて育てられた植物は病気に弱い・と言われますね。それは、「さァ、花が咲いた/切って出荷だ/出荷が済んだら土壌を作り直して次の別な花作りだ」、とばかりに茎や根の残る花床を掻き回して作り直しますが、私はあれがいけないんだと思っています。
「おいおい、掻き回さないでくれよ。今は茎や根が今年の育った環境を研究して来期への成長プログラムを作成中なのに・・」、と思っているんじゃないかといつも思います。現代の観賞用の植物は育苗期、成長期・・、と別々な土壌で育てられますが、あれだと個々の実や種が本来持っている成長プログラムを狂わせて育てているような気がしますね。
植物というのは大地の中の地球の波動を実や種自身が感じ、自らの一生をプログラムするんではないかと思っているんですが・・。そして、それは人間にだって言えるんじゃないかと思います。
自然を知らない。大地を知らない植物って哀れだなって思います。ここには輪廻転生はありません。それをあなたは美しいと思いますか?。私は野に咲く花が大好きです。
★:そう思えば・・。
人間って3歳までの教えが一生を支配する・って言われますね。幼い頃には保育所で育てられ、家では能面のような表情で会社から持ち帰った書類に目をやる両親・・。学問的なモノは別として、教育や子育ては一体誰が・・。家庭を知らない、兄弟を知らない、父親の肩車を知らない・・、知らないという事は言い訳に使ってはいけません。知らない、気づかないというのは人間が犯す最大の罪なんです。もっとも、そうした環境を与えないという社会はもっと悪いんですが・・。泣きながら殴ってくれた教師・・、私にはそんな記憶も昨日の事のように残っています。
★:その上に一人っ子・。
先日、私の仕事仲間の一人で島津真由美さんという方が依頼していた結婚披露宴での司会の報酬を受取に来られた際、思わず話が弾んでしまいました。普段の彼女は熊大医局勤務で診療報酬の請求事務をしています。
[命の軽視傾向]の話題でしたが、不特定殺人の秋葉原事件、橋の上から子供を突き落として殺害したバカ女、カレー毒物事件を起こした白アリ業者の嫁・・。この数年間に続発している事件の犯人の多くは一人っ子かそれに近い境遇で育った者が共通の家庭事情とか・・。
結婚披露宴の席で新郎新婦が両親への感謝の言葉を言えないシーンを頻繁に目撃するようになったと言います。第一、父親も母親も一人っ子・・。親戚を呼ぼうにもオジもオバも一人っ子が多く、その上に父親はガンで若死にし、オバは実母と義母の介護で参列できないと・・。
最近、流行なのか披露宴の中では[暴走族だった俺(新郎)を嫁(新婦)が更生させてくれた・・、だから俺はこいつと一緒になろうと決めた・・]、みたいなまるでアホを地で行くようなスライドをプロジェクターで投影したり・・。
父親不在、母親不在、兄弟不在気味の暮らしを続けた若者の中には[命の尊さ]を知らない事を誇りに思うような、
或いは、「俺は少年院には2年半もいたんだぜ」、と自慢げに話す奴・。
グレて当然・・、みたいな風潮が育ってきているのが不気味だと島津さんが言っていましたね。こんな奴、80歳になるまでタクアンかじって暴走族やってろ・と思いますが・・。
つまり、こうした事が動植物で言う輪廻転生のプログラムなんですね。そして、この組み込まれたプログラムを変える事のできるのは自分自身、それに同じ場所に根をおろす家族なんですね。自然・、というものは闘いの相手。そして学びの対象でもあるんです。私がよく使う・神とは、自然界の摂理を指しているんです。でも、残念ながらその神の存在を感じる人、感じない人が居るんです。
☆:2010年3月1日
★:久し振りに新作[♪:綿 雪]
2010年2月、久しぶりに作れました。これから数日を掛けて保存用の仮録音を始めますが、詩だけは結構前から書いていて、メロディ自体は浮かんだり消えたりしていました。それに今回は和音付けにも工夫をしていて、いろんな箇所にツーファイブの和音を使用しているのが特徴です。つまり、従来からの濱野裕生とは違った和音構成になっています。
最近はマスコミ、メディアとの接触も多く、私の日常の時間配分が正常ではなくなっていて、その慌しさに我が母が異常を感じないはずもなく、この環境の変化に母の体調の変動は激しく、その母の状態に合わせるかのように私自身もドンドンと同じレベルでモノを思考するようになっていました。
これまでは自分の精神レベルを比較的冷静に保ちながら母の心に入り込む事ができていたのに、この約2ヶ月間はずっと沈み込むような思いで暮しています。でも、皆様からの励ましの書込みを読みながらいろんな事を考えるうちに次第に自信のようなものが蘇ってきたんです。
姉は「プレッシャーを感じちゃいけないよ」、と言ってくれていましたが私の場合には違うんですね。「次はどんな作品?」、と期待を感じれば感じる程に「よし、やってやる」、と思う性質(たち)なんですが、一旦、何かがあって考え込むようになると、その後に解決すまでの半年や1年の間はずっと考え込んだままなんです。だから、そんな時の私の一年間なんてあっという間に過ぎています。
♪:綿 雪
ホラ・綿雪が踊りだしたよ 青く澄んだ空から
デイへの途中のいつもの交差点 貴女は空を指差す・・
「雪を掴んでみようかしら・ちょっと窓を開けておくれ」と
まるで子供のように貴女はハシャギ出す 窓に顔を 擦りつけてる
ホラ・ご覧よあのビルの角 身体寄せ合う鳥が居る
3羽の鳩が寒さに首を縮めてる きっと・家族だよね
もう・何度目の冬を過ごしたかしら 貴女は・目を伏せる
そして・「こんなに晴れた冬の日なんて久し振りだよ」・私に・ 言う
母が両手を出す 綿雪が舞う中に やがて
雪が溶けていく 母の手の平に まるで
雪は自分の命を 母に与えるように
ホラ・綿雪が踊っているよ 貴女を励ますように
そして無口な冬はなにも答えない 母は今日も施設へ向かう
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
去年までなら 貴女はずっと見とれていた 施設の庭の紅鶯宿
今年の貴女はすっかり忘れてる 小振りの梅の事・・
ホラ・綿雪が蕾の上に乗ったよ 冷たさにクシャミをするかも・・
でも・直ぐに消えたよ 雪は姿を消したよ これが命の儚さだってネ
こんなに透き通った青空なのに 雪はどこから降るんだろう・って
そんなに急ぐ旅でもないはずなのに 母は何でも知りたがる
ホラ・春はすぐそこなのに いつも貴女は急ぎ足
冬よ母にもっと掛けてよ だけど無口な冬は何も答えない
母が両手を出す 綿雪が舞う中に やがて
雪が溶けていく 母の手の平に まるで
雪は自分の命を 母に与えるように
ホラ・春はすぐそこなのに いつも貴女は急ぎ足
冬よ母にもっと語り掛けてよ だけど無口な冬は何も答えない
★:[♪:綿 雪]の制作背景
この2010年の2月初旬には私達が暮す熊本でも雪のちらつく日が結構あって、朝から抜けるように晴れた日の遠い青空から白い綿雪が降って来る中を母を伴ってデイ施設の鶴翔苑へ車で向かっている最中の出来事をこの作品に描いています。
綿雪ってフワフワと落ちてくるかと思うと僅かの風でも上へと舞い上がったりするんです。皆さんも青空から舞い落ちてくる綿雪ていてそうした光景を見た方は多いと思います。綿雪って大気が乾燥していて温度だけがやたら低い日によく見られますね。乾燥しているから溶けずによく積もります。
その日が曇っていようが晴天だろうが風が弱い日の綿雪はフワフワとフワフワとトメドなく舞い落ち、時には地上から吹き上げる風に煽られては天空に舞い戻るかのように思え、とても感動的な降り方をしますよね。
小春日和の青空‐お日様‐風‐雪と、この揃い踏みって近年のひと冬の中では滅多にありませんが、昭和の頃にはそんな日が多かったんです。だから、とてものどかでヤッコ凧の凧揚げなんてヤッコさんの赤化粧と黒ヒゲに白とネイビーのハッピ姿が青空にくっきりと見えたものです。これ理解できます?。理解できる人は昭和の20年代中頃の生まれですね。
私は兄貴が買ってきた凧に4mほどの紙の足を継ぎ足して数百mも上空へ上げている凧を「わわっ、わァ、わァ」、と叫んではピョンピョン飛び跳ねながら見ていたものです(私には凧は買って貰えなかったから・・)。
さて、熊本市大江の鶴翔苑。母が月曜から土曜日まで通うデイ施設です。身体がちっちゃいのに大方さん、それに名前も身体も大きい緒方さん。介護に従事する人達が次々と入れ替る事の多い時世なのにこのお二人はよく頑張って鶴翔苑の通所部門で働く介護士さん達をうまくまとめてくれています。
介護に従事する人達の朝は大変です。晴れた日は勿論、雨の日も風の強い日も、天から懲らしめのヤリが降ってきても、まずはご老人達を自宅まで迎えに行くことから始まります。よく、雇用対策の一つとして介護現場への雇用を叫ぶ政治家がいるんですが安易には語れないのが介護の仕事・。こればかりは志を持つものしかできないのではないかと私は思い知らされているからです。
この鶴翔苑という施設の1Fはデイ通いの方々、2Fには通常入所者。それに、3Fには錠前が必要な入所組の重度の要介護のご老人達が居て、我が母も骨折で西日本病院に3ヶ月間入院し、その後の歩行リハビリを行なう為、この鶴翔苑には3ヶ月間の入所の経験があります。勿論、2Fです。
そして、常に鍵の掛かった3Fには多少の凶暴性を持つご老人も・います。また、介護保険は使えませんが施設によっては勤務中の事故や交通事故などで身体の不自由になった若者達が入所しているケースもあります。
皆さん、介護って自身では縁が遠い事のように思われるかも知れませんがそれは誤りです。介護をするもされるも明日の貴方や私の問題でもあるんです。事故で不自由な身体になる事、突然の脳梗塞で倒れること・、これは年齢には無関係に襲ってくる災いなんです。今、もう一度、真剣に自分の人生観と現実の自身の人生を振り返ってみては如何でしょうか。修正すべき考えや行動が沢山見つかるはずですよね。
自分自身が辛く悲しい思いをするのは仕方のない事ですがそれだけでは済まないのが人生です。周囲に対しても辛く悲しい思いをさせるのもそうした人生なんです。私は老いゆく母を見ていて8年、ようやくそんな事が言える人間になったのかも知れませんネ。
☆2010年3月4日
★:「これがウナギってネ・」、と母が貶す
最近、あの薬剤使用で話題になった中国産のウナギがスーパーに出るようになりましたね。報道以後ですから今回のウナギには大量の薬剤は混入してはいないとは思うのですが・。日本文化の典型の喉もと過ぎれば何とやら・でしょうか。我が日本では奇麗な清水のプールで養殖されるのですが、中国では田んぼのような養殖池で繁殖されるケースが多いんですって・。だから、除草剤や殺虫剤の中で育てているようなものです。ウナギにとってはどちらが快適なんでしょうね。「水清き所にウオ住まず」、なんて古い言葉にあるくらいですが・・。
実際の処、我が国でさえもウナギに関してだけではなく、タイからブリ、エビからカキに至るまで養殖池にはいろんな薬剤が投入されているんです。問題はその薬剤が人体に有害か否か、あるいは限度を越えているか否か・、日本と中国の養殖の差なんてその程度ではないのでしょうか?。
あの水俣病で有名な水銀だって微量であれば例の赤チンキに含まれていた時代がありましたね。適量の水銀は強力な殺菌効果があるんです。私が摂っている米国製のサプリメントなんて堂々と水銀含有サプリで、人体の免疫力を高めるとされています。それに脳を侵すと言われる銅だって入っています(だから私は変なのかも・・)。
さて、本題ですが、昨日の夕食に出したウナギの蒲焼を母が見た途端、「ヘッ、・・これがウナギってネ。はは、私は笑ってしまうよ」、と言うなり、箸でテーブルの隅へ押しのけてしまったんです。一瞬、「このヤロウ」、と思うのですがグッっと我慢です。
「ウナギさ、ウナギ。久し振りじゃないか」、と言うのですが、母はまだ「嫌ーな表情をしています。
あれほどに「美味しい美味しい」、と言っては食べてくれていたウナギでしたが今日の母は食べませんでした。1パックのウナギを母と嫁のそれぞれに食べさせる程に気を使っているのに・。
「ウナギの蒲焼というものは焼きたてはジュウジュウとテカテカとツヤのあるものでございます。こんなウナギなど私は食べたくはありません」、とこの母の皮肉だけは1流なんです。多分、この言葉は認知が言わせているんだと思うんですね。母は随分と変わリ始めた気がしています。「お袋よ、もっと奇麗に生きられんのか?」・・。
☆2010年3月6日
★:以前、菊池から農家の方が収穫物の直販に来られた際の話・。
最近はお百姓さんが軽ワゴンなどに自分の畑で収穫した米やいろんな野菜を軽トラックに積んで私の住む清水地区にもやって来ます。ジャガイモ、サトイモ、キャベツに白菜、ニンジン、トウモロコシ・・、と一般のスーパー価格の30~40%くらいですね。米は菊池米で玄米状態で30Kg¥7800~8000程度ですからやはり格段に安いですね。
「あのさ、安うして貰いたかっさね(貰いたい)」、と言えば、「おやっ、アンタは長崎の人じゃなかカイタ(ないですか)?」、と言います。
「うん、佐世保さね」、と言うと、「うちの娘が長崎の大学に行って2年目の帰郷の頃から『サーサー』と言い出したもんだからネ」、「ホー(ほら)長崎の人間ちゃ、言葉の最後にサーサー言うでしょうが。そいけん(だから)分かったっサ」と・・、このオジさんも気づかずに長崎弁を使い始めています。多分、娘の言葉に釣られとっちゃろね。
★:るんるん、その米を持って近くの精米機の所へ。
玄米に水分を保たせる為、「食ぶる分だけ精米すっとよかけんね」、という農家の方のアドバイスに従って10Kgの玄米を持って団地から500mほどの熊本北高近くに設置してある精米機の所へ行ってブィ-ン、ブィ-ン・と。10Kg単位で¥100の精米料金でした。
★:精米が済んで立ち去ろうとすると・・。
精米したての米ってポカポカと温かいですよね。鼻歌を唄いながらお袋の待つ車に乗り込もうとすると、私の後から精米しようとする女性が、「ちょっとちょっと貴方!、ヌカを持って帰りなさいよ。奥さんにヌカ床作って貰って野菜を漬け込むと美味しいんだから・・」、と言います。
「はァ、でもヌカってどこにあるんですか?」、と聞けば、「貴方が精米した分のヌカは機械の中に入ったままだけど、貴方が精米する以前のヌカはほらここに」、と言って精米機のそばのプラケースを教えてくれましたが、何と驚き、ケースの中にはビニール袋に小分けして入れられたヌカがギッシリ・・。この精米機を設置した人の精一杯の誠意だと思うんです。
「いつもはこんなに入っている事はないんだけど・、貴方は運がいいんですよ。好きなだけ持って帰りなさいよ」、とその女性は自分でも5袋くらいを車に放り込んでいます。本当は「一人1袋の事」と買いてあるんですが・・。人間って自分の都合で目が見えなくなったり、文字が読めなくなってしまうようです。
「ここはネ、通りのすぐ傍で立ち寄り易いから、精米をしない人でもこのヌカ目当てで来る人が居てネ。ちゃっかり持って帰るから箱の中はカラの日が多いのよ」、と自分の事は棚に上げています。
「・で、貴女も精米しない日でも立ち寄る事が多いんですか?」、と聞けば、「ウフン、実はそうなのよん。我が家ではヌカヅケにも使うけど庭によく撒くのよ。花壇に植えた花と花の間のウネの溝の部分に筋状に撒いておくと花がよく育つんです」、と言います。へーっ、土壌の改良剤に使われるんですね。
「それに、花壇にヌカを撒いておくと米の匂いがするからスズメが寄ってきて花や野菜についた害虫を食べてくれるのよ」、と。実にいい事を教えて頂きました。
★:そして、車の助手席に座る母を見ていて・、「・・あらっ、あらあらっ、貴方・裕生さん?」、と。
「あれ~、あの子はまァ、普段は無口な癖して相手が女だとこんなにも喋るのかい」、といった顔つきで母は私を睨みつけ始めたようだったので、「済みません、お袋がオシッコしたいようなので家に帰ります」、と言うと、その女性は目を細めて母の方をジイーッと見ていたかと思うと、「あれっ?、あれっ・・??。あらイヤダ。貴方は若しかして・・・エーッとハマノさん?」、と。
「確か・、何年か前に貴方とお母さんの様子をNHKが放送しましたよね。見たんですよ私・」、と。「それにパソコンで介護の音楽を発表されていますよね?・・家族全員で読んだり聴いているんですよ」、と言われます。
最初は左手を口に当てて大ハシャギだったんですが、やがて、目には涙を一杯溜め、「貴方、よくやっていると思いますよォ~。ホントですよォ~」、と妙な涙声に変わっていくんです。
この女性、教師を退職されたばかりの方で、4年ほど前に学校で[母に生命を返す時]のコンサートを開こうと話した時期があったと言われました。でみ、お話を聴く限りでは、まだ私が人前で唄うという事に抵抗があった時期です。さて、次は精米した際に出る糠(ヌカ)のアイデア利用法を提案したいと思います。
☆2010年3月12日
★:前回の精米の話に続いて。
玄米を30Kg詰めで農家から直接買っては団地近くの精米機で精米するようになって数ヶ月・。我が家にはヌカの入った幾つもの袋が台所と玄関の靴箱の上にあります。玄関にあるのは花壇用。台所にあるのは料理用です。
このヌカですが、実に使いようが多い事に気づきました。そこで、持て余し気味のヌカを使ったアイデアを書いてみます。
★:簡単ヌカ床作り~思い切ってミソと合わせてみよう。プラス酒かすも効果があった。
味噌とヌカの配分は適当に好みでどうぞ。味噌が多ければ味噌風味、ヌカが多ければヌカ風味、酒かすが多ければ酒風味。
ニンジンなどの硬い物は何枚かに切り、キュウリなどは丸ごと。ちょっと早く食べたければキュウリも丸ごと&半分に切る・などの工夫をしましょう。ナスもいいですね。生漬けと一夜干しのナスを両方試してください。
安かっただけで衝動買いしたうまくなかったメロンもいいですね。キャベツなどは8×8Cm程度に切って輪ゴムをしといてください。山芋の輪切りも直ぐに漬かります。漬け込む前にそれぞれの野菜に擂り込むようにして軽く塩をしといて下さい。漬け込みが終わったら唐辛子を2本。小さい輪切が理想です。
塩と砂糖を1対1で入れ、最後に料理酒を軽く注いでおくと、[味噌ヌカ風味の酒の粕漬け]になります。ニンニクを何粒か入れておくと、[キムチ風・味噌ヌカ風味の酒の粕漬け]になります。このヌカの効用は試してみる価値ありですよ。
★:肉類は別に
チキンや豚などの保存にも味噌ヌカを使いましょう。魚にも合います。
★:小麦粉とヌカを合わせて天ぷらの衣作り。
ヌカは前以てフライパンで多少は焼いていて下さい。これがまたヌカの油分が出て美味いんです。掻き揚げにしても最高。我が家ではイワシやキビナゴ、アジ、サバ等々の安売りパックを買ってきて、このヌカ衣にカラシを練り込んで(パン粉を使ったり使わなかったり)して冷凍庫で大量にストックしています。コロッケの衣にもヌカ・で風味抜群になります。
コロッケ作りの際のジャガイモですが、水茹でせずに蒸して下さい。蒸したジャガで作ればメークインが男爵イモに早変わりしますよ。豚カツの衣にも我が家ではヌカ味噌&カラシを使います。
★:ヌカはそのままで使ってもOK.。フライパンで炒ってから使えばヌカ風味に深さが出るような気がします。
★:母の血液検査結果に主治医がビックリ
「お母さんの検査結果は医師の私より良い状態です」、と主治医の室原先生のお言葉。母は冬場には食欲が落ち、血液検査でもその事を指摘されるのが常でした。でも、実際の事を言えば、この冬場の母の食欲はやはり例年と同じように落ちているんです。落ちてはいるんですが、血液検査の結果は例年の冬場とは違っていて正常なんです。「はて・・、何でだろう」、と考えていると行き着く先は昨年には目もくれなかったヌカという食材の使用ではないか、と思うんです。
★:私自身にも変化が
私の場合、幼い頃の柔道事故で内臓破裂による小腸の約50%、大腸の一部を切除している影響で冬場には下痢などが多くなって体重がゴンと落ちるのが常なんです。冬場には消化器官の動きが鈍り、私のように消化管の切除手術などをしている人は冬場には必ず体調を落としますよね。 それが、この冬場の母の夜間トイレの介助が昨年のようには辛くないんです。まァ、母を守る気合というか慣れというのもあるんでしょうが、これも若しかしたらヌカ食の影響かなァ、と思うんです。このヌカ食ですが、皆様に勧めるのは勿論ですが、私自身でももう少し実践検証してみたいと思っています。
☆:2010年3月15日。
★:「母ちゃん、オシッコはしたくない?」、「大丈夫よ」。
「今日は買物をして帰る日だからオシッコ・しといた方がいいんじゃない?」、「いいや!、大丈夫よ。せんでいい」・と。これは私が仕事を14:00に切り上げ、14:30には鶴翔苑へ母を迎えに行った際の会話です。
暫くは施設で時間を潰し、15:20頃に帰路につき、新南部(しんなべ)町にあるスーパーACE(エース)で冷凍カレイ、赤魚、トマト、サラダ玉ネギ、シメジ、ワカメ、鳥の胸肉に豆腐、薄揚げなどを買いました。これだけあれば冷凍庫にある半端素材と合わせて4日はもつかなァ、と思います。
冷凍庫にある半端素材というのは余り物の事。例えば1パックで3匹入りのもち魚などは1度で使いきってしまいますが、25Cmもあろうかという3匹入りサンマパックなどはまずは3匹共に半分に切り、内臓のある方を先に料理して半分から尻尾に掛けては軽い塩をして保存しておきます。
本当を言えば私も嫁も1匹ごと食べても足らないほどにサンマが大好きなんですが、母には1匹丸ごとは無理なんです。・・かと言って、嫁と私が1匹食べて母だけが半分・という訳にはいきません。だから、我家では皆が半分ずつしか食べません。私は不公平感というものを一番嫌うからです。 でも、イワシなどの場合、母は刺身で1匹。焼いて1匹は余裕なんです。。
★:・で、実際の今夜の夕食のオカズ・・。
①:鳥胸肉の薄アゲ巻き
ボリュームの割りに安い鳥の胸肉・・、味が淡白で決して美味しくはないんですが血流に難がある母には鶏肉は胸肉か笹身を・と指示されています。
屋台では串刺しの焼き鳥として使用され、タレで誤魔化されて食べているケースが多いんですが、胸肉のほうがタレが凍み易くて美味しいそうです(ウナギだってタレ次第ですよね)。
この胸肉を前もってバターと黒胡椒で軽く炒め、更にレンジで火を通して置き、これまた別鍋で湯引きしない薄揚げを甘辛タレで煮つめておいて、この薄揚げで胸肉を包んで爪楊枝で弛まないようにし、更にフライパンに移して甘辛に煮つめたタレで乾煎りして出来上がり・・。これを1cm厚程度に切り分けて母用に・。
②:圧力鍋で柔らかくなった大根の湯を切らずにフライパンに移し、前もってチキンの皮で作った出し汁に砂糖、日本酒、醤油を加えてトロ火で煮つめて出来上がり。この場合、大根の苦味をとる為、大根だけを前以て湯通ししておきます。
③:ワカメの酢味噌和え
④:キャベツ&モヤシ炒め
⑤:ホウレン草の味噌汁
☆:2010年3月17日。
★:今日の本題:老いを支えるには予知能力。
最近の私はコンサートでも自分の意見をようやく強く前面に出すようになりました。それまでの私のコンサートではどちらかと言うと数多くの歌を発表する事に主眼点を置いていて、トークには今ひとつの内容がなかったと指摘される事がよくあったのですが、その辺の事を真剣に考える時期がありました。
歌だけではどうしても理解して頂けないモノは言葉で、つまりはトークで会場の皆様に問い掛けるしかないなァ、と思うようになったのです。まぁ、90歳を越え、介護を受ける母親の日常と70歳で家族介護を受けている方の家庭の状況は共通点は多くても相違点は沢山ある訳です。
★:介護する側、される側の生きた時代が違えばいろんな考え方が違っている。
まず、たとえ親子であっても介護される側、介護する側のそれぞれに蓄積された人生があります。我が母の場合は大正生まれであり、私は昭和生まれ。母は男2人、女3人の末っ子・。炭鉱経営者の娘。高等女学校卒業。第一、母は戦争経験者etc、私と母とは生きた時代、積み重ねた経験など全く違った環境で育っていて、モノの価値観に至るまで大きな隔たりがあります。それは皆様のご家庭でも同じ事。つまり、親子の関係であっても、モノの考え方が違っていて当然であり、そこに在宅介護の難かしさがあり、施設での赤の他人から施す老人介護では更に困難なものとなっているはずです。
親は我が子を育てる義務・責任があった故、時に厳しく、時には手を上げたこともあるはず、一方、子は子でそんな我が親には愛の証しだと感謝した者もいれば、そんな親を憎んだ者もいるはず。私にでも覚えはあります。
一方、似たような家庭状況で育ち、大人になっては介護職を選んだ者は目の前のご老人を「己を育てた実親」と勘違いをしては「あの頃の仕返しだ」とばかりに厳しく対応することがあるかも知れませんね。「ない」とは言えないはずです。
今日の介護現場でこのような各種介助が行なわれているとすれば、・それは限りなく悲惨で哀れなことであって、我が国の高齢者に対する介護の倫理観の欠如といわなければいけません。否、現実に医療界でさえ昔から精神的な欠陥医師の存在への指摘は数多くあります。言葉を変えれば、これらは医療過誤、介護過誤と表現できるものであり、人間が人間に対して示しあう誠意の欠片はそこにはなく、単なる「うさ晴らし」でしかありません。
老いに対する理解がない家族や他人が、この「うさ晴らし」を日常の介護現場で行なっていては、それは真の老人介護とは言えません。敬いや、尊厳とは何なのか?。一体、何処にあるのか?。
それらは探して見つかるものではなく、他人から学ぶものでもなく、あなた自身の心の中にしか見つけることは出来ません。あなた自身が自分自身を見つめ、何度も何度も見つめ直し、どこにも探すことができないのなら、貴方は老人介護には向いていないんだと思います。勿論、子育てにだって不向きです。
★:我が母に対する姉、兄と私との違い。
恥ずかしい事ですが、我が家でもそうでした。我が姉、我が兄には我が母親の介護をさせなくて良かったと心の底から思っています。
「彼等にはその資格がない」、という意味ではありません。彼等には目の前の命が「次には左に動くのか右に動くか」に対する予知能力がなく、従って「気付き」が後手に回る傾向があるからです。ここで言う「後手」とは周囲から指摘されて始めて気付くことです。命には「今度からはそうします」は通じません。
決して、私は人間性を否定しているのではなく、普段からの発想や対処能力の違いを言っているのであり、その点、私の持つ老いた母親に対する介助心というものは、我が姉や兄が持つ思いよりも「遥かに強い」と確信を持って母と対峙しているからです。
考えてみれば、私の存在なんてごく僅かの方々の強力な理解や推薦を頂いた上での存在に過ぎないんです。具体的に言えば介護家庭の方々、それにコンサートを企画して頂く社会福祉協議会や看護・介護関係の組織・・、私の存在はそうした方々のお陰であり得ているんですね。だから、数少ないコンサートの機会の一つ一つを大切にしないといけない・、と思うようになったのです。
★:介護、人生に関心ある方しか振り向かない
コンサートを企画してくれる方々がそれなりの広報をしてくれてこその私の存在があるんです。つまり、「母親と同居、介護暮らしをしているシンガーが出るよ、来るよ」、という事前広報がなされていない場で「母が~・・」、なんて唄いだしても、「何じゃ・、このオッサンは」、に過ぎない存在ではないだろうか、と思います。
それにもう一点、聴く側の心の余裕がなければ私がどんなに介護の歌を唄い、トークをしてもそれは余興の一つ、単に時間潰しにしかなっていないケースもあるんじゃないかと思っています。
★:知らない世界を知り、新たな思いを獲得できる大切さ・・。
でも、本当は知らない世界を覗いた瞬間の反応・対処ができる種類の人間かそうでないかで大きな違いがあるはずだ、と思って頑張っています。
介護の世界という、これまで知らなかった、考えた事もなかった世界(人生)を理解し、その思いを共有しようとする努力こそがやがて訪れる両親の老い、我が老いを冷静に捉える事ができる絶好の機会ではないかと思うのです。だから、私と出会い、私の歌を聴ける人は人生を真剣に考え直す切っ掛けを掴める運のいい人ではないかと思っています。だって、要介護5で97歳になってまで在宅で暮す老人の話をその家族から聞けるんですからね。
★:でも、反応は様々・・。
でも、コンサートを終わった私の耳に届く皆様の声は様々なんです。大まかに言えば「良かった/感動した/原点に戻れた」、という声が多いのですが、中には、「あからさまに描きすぎていて生々しい」、「もっと、美しくは描けないのか」、という声もあります。
私としては要介護度が2から5になるまでの母、5になった後を唄ってはいるのですが、要介護の4から5の母を唄う作品がどうしても物議を呼んでしまうようです。
実は、作った私でさえも思います。「あァ、そうだったなァ。要介護の2~3の頃の母には母の部分が相当に残っていては百人一首の上の句下の句を詰まりながらでも詠んでいたしなァ・」、「立田山の遊歩道を車椅子で進む時には道の左右に咲く花の名前を言ったり、時には車椅子を離れて杖を使って歩いたりもしていたし・・」、と思うのです。
要介護の3の頃までは幼い頃の両親や故郷の話、博多で働いた事、結婚後の宮崎での暮しなどを薄っすらとは話す力はあって、♪ホッホ、♪弓削神社にてなどの悲しくも軽快なリズムの作品が作れていたんですが、要介護4になって暫くすると母の様子がガラリと変わりましたね・・。
両親のうち父親の名前を思い出せない日が多くなり、嫁いだ相手(私の父)の名もなかなか出なくなります。そして、自分が産んだ子供の名前と産んだ順番も何人の子を産んだのかさえ・・。第一、私の名前が出ずに、「オジチャン」、「イサムさん」、と呼ぶ日が当り前のようになります。
要介護5になった母を見て要介護2の頃のような詩が書けるはずがありません。常に冷静な目で母を見ようと努力しようとは思うのですが・・、無理な話ですよね。
★:聴き方だって、その方の環境によって違って当然。
私達が暮らすこの日本という国。この国の文化・・、貧しさへの1歩を踏み出しかのような最近ではありますが、TVでは相変わらずお笑い系の趣旨を強く持つ番組ばかり・・。
私達はいつの間にか物事を真剣に捉える習性がなくなり始めたような気がするんです。無責任に無関心・・嫌ですね。介護問題は他人事ではないはずなのに・・、特に日本の男って実母の世話を女房にさせといて「いやァ・・、昨夜がお袋が夜中にさァ」、ってふざけるんじゃないよ。日本のオトコが真剣になる日は一体、いつなんだ?。
☆2010年3月18日
★:先日、ご紹介した美味くないと言われる比較的に安い鳥の胸肉の料理法ですが、簡単に言えば稲荷寿司のアゲで肉を包んだだけ・なのに、数名の方から「美味かった/もっと具体的に」というメールを頂いたので調子に乗って書いてみます。
稲荷寿司や巻き寿司って出来立てより、甘酢がご飯に凍み込んだ頃が美味しいですよね。この料理・、要は鶏肉の身の部分はサッパリ味、薄アゲのほうにチキンの皮脂を凍み込ませて・という味覚が売りなんです。
①:鳥の胸肉の皮の部分を剥いで肉と別にする。肉には竹串(爪楊枝)で数十箇所を刺して出汁が凍みこみ易く
してから軽く塩&胡椒をしておく。
②:鍋で鳥皮を暖める程度のほんの少量の油の中に入れて鳥オイルを抽出する。
③:②の鍋から鳥皮を除き、酒を加えて醤油・味醂・砂糖を入れて煮詰めておく。
④:薄アゲは湯引きをした後で③の鍋に入れ、火を止める直前に少量の酢を入れ(酢が決め手)。火を止めて冷
えるまで放置。
⑤:①の胸肉をオーブンのトロ火でゆっくりと焼く(火を通すだけ/強火だと肉が硬くなる)。
⑥:⑤で焼いた胸肉を④の薄アゲで包み爪楊枝で封をし、食べる直前に④の鍋に戻して暖める。
盛り付ける場合には1Cm間隔に切ります。これは鳥のささ身だと本当に美味しいものです。食べる直前に④の鍋で再加熱する代わりに、チーズを巻いてオーブンで焼くのもいいかもです。味が濃いか薄いかは胸肉をどの程度の厚さに切ってから料理を始めるかによって違ってきます。
私の場合、母が噛み切れる肉の柔らかさ・が前提で面倒くさくなりますが、皆様はもっと簡単に作れるはずです。隠し味に味覚糖(原料に醤油が使ってある)という飴玉を2個ほど入れるとテカリも出ていいですね。
★:今日の母
「母ちゃんはサ、酸っぱいのは好きな方じゃないよね」、と私。
「うーん、どっちかと言うとネ」、と母が言います。そして、「でも、酢は身体に良いからと私は食べているじゃないか」、と母。母は最後まで酢の物を残しますが、結局はお茶を飲みながらでも食べてくれてはいるんです。今日の酢の物はワカメでした。
この3日間、母は洗濯物畳みがド下手。畳んでは開き、開いては畳み・。結局は今日も全く片付きません。老いの進みは私が思っている以上に早いものです。
「あのう・・、このところお父ちゃまは家にお帰らんネ?」、と母。
「えっ?、お父ちゃまって誰の事?」、と私。
「アンタはおかしいっちゃなかとネ?。お父ちゃまと言えばエート・松・松・ありゃ?」、と母。
「えっ?、松若さんの事?。松若さんは俺の父親じゃなくてジイちゃんさ」、と私。このように発語障害が少ない日の母には言っている事に一貫性がなかったりします。母のお父ちゃまは松若さんであって、私にとってのお父ちゃまは母の夫の亡き利三郎さんですが、母の言葉の意味を私が理解していないだけかも知れません。
★:さて、音楽の話~母が私に再び楽器とペンを握らせてくれた
私はタレントではありませんからパフォーマンスなんてどうでもいい事(皆様から見れば違うかも・・)。限られた時間の中でどれだけの介護ソングを唄い、どれほどの制作背景を語ることができるかが勝負だと思っています。つまり、母の要介護2の頃から現在の要介護5へ移行していく老いの過程を如何に語り伝える事が出来るかが大事だと思っています。
だから、最近は一つのコンサートの依頼があってからの日々は介護生活を語るトークの原稿書きに多くの時間を割くようになりました。そして、その原稿書きをしているうちにいつの間にか私自身が自分の人生を考え直すようになっていくんです。
「この人生。。母にやるしかないなァ。夢。。そうだなァ、次に生まれ変わってからにするか・。待てよ、夢って所詮持っていない奴、叶えられそうもない奴ほど口にするもんじゃないのかなァ・。あれは方便で口にするもんじゃなかなァ・・俺の人生って例え貧乏暮らしに落ち込んでしまっても・・、結構、充実しているんじゃないだろうか・」、なんて事を自問自答するんです。
☆:2010年3月19日。
★:「貴方達・・、自分らの老後は考えているの」、と姉は言いますが・・。
結局、今を生きる事ができない奴には明日もないんです。今を不満に思う奴は昨日までの自身の努力が少なかったから。今を生きるには目の前の現実と自分の立ち位置を知る事。知れば遣るべき事は僅かしかないんです。ただ、物質的な充実感を裕福だと捉えるか、精神的な充実感を求めるかの違いはありますが・・。
母と暮す事で失くしたモノもあれば、逆に得たモノもあるはず。何れにしても悩んだ分だけ成長するのが人間なはず・。第一、モノって何なんだろう?・ってよく考えるんです。お金?、時間?・・。
じゃ、お金で夢や人生が買えるのか?、時間を与えられていたら俺はどこで何が出来ていたと言うんだ?・・。そんな漠然とした過ぎた事を考えるより間違いなく得られた事を考えてみるんです。
あァ、歌が浦には何度も行ったじゃないか!。佐々では墓参りも・。民宿から見た霧に霞む平戸島だって、長串山にだって2度も行ったさ。義ちゃんの手料理だって食ったさ。こんな経験は母と暮してこそじゃないか!。それに、忘れていた音楽が我が家にやってきたじゃないか!。オマケに俺の作リ出す音楽で多くの人達が両親や自身の人生を考えるようになっているじゃないか!、これこそが母が俺にくれた時間じゃないのか?・・、あまり・お金にはなってはいないけど・・ホ。
俺はいいさ。要は耐えている嫁や協力してくれている姉夫婦、それにMさんやFさんに恩返しができる程の何かを残せたら・・。せめて、そう思うのです。
私ですか・?、私は周囲が飛びはねて喜ぶ姿を見れたら幸せな気分になれる単純人間ですからネ。私が9歳の時に見て来た世界はそんな世界だったんです・・。何もない・・無の世界。但し、安らぎもない世界でしたよ。人間って、生きていても死んで行った先でさえ、いつも何かを考えてウロウロ・オロオロしているんですね。
☆:2010年3月20日。
★:デイからの帰路、
コスモスというドラッグ店で¥1999のトリスウイスキー4L入りを買い、10個で1パック¥145の卵、焼きソバパック、モヤシ、ミリン、数種類のソーセージ類、手作り豆腐、貼るカイロ・。
ウイスキーだけを買いたかったのですが、このコスモスにはいろんなモノが売ってあるんです。安いから熊本在住の東南アジア人が一杯。中国人が一番多いようでしたね。
帰宅した直後、母に洗濯物を畳むように言い、「デイから帰ったらお義母さんに食べさせて」、と嫁に言われていたイチゴを台所で洗っていると・、母がもう狂い始めています。「直裕っ、直裕っ・。どこにおるとゥ」、と母。
「ここに居るさ。アンタの後ろに居るよ。急に何ネ」、と私が言えば、「あっ、おるネ。そう、それならいい。アンタにさ。今、私が学校(デイ)から帰ったよと言いたかっただけさ」、と母。。。
「えっ?、俺と一緒に帰ったばかりじゃないか」、と言うと、「いいや、私はアンタとは帰っちゃおらん!」、と母。
こんな時って、なんか悲しくなりますよ。皆さんのご家庭でも似たような事があるんでしょうね。
★:兄夫婦はタジタジ・。
こんな母の状態ですから尚更に縁が遠くなってしまうような気がする母と兄夫婦。第一、長男夫婦がこの母の現状をどこまで理解しているやら・。姉の所へは毎日。兄夫婦の所へは週に1度は電話をしているんですが、兄夫婦の場合、電話の最中に母の妙な会話が始まった途端、ガチャンとその事実から逃げるように電話を切ってしまいます。これに耐え切れなければ親の介護は所詮無理ですね。我が兄貴・・絶対にどこかが緩んでいます。
★:右手首の骨折の影響でお手の物だった洗濯物畳みが・。
骨折後のリハビリで入所していた2006年の頃は夕方になると入所者の女性達(中には男性も・)の日課だったタオル畳みですが、その頃の母は畳んだり畳まない日があったり・・。
「こんな事を私にさせて・・。若い者(介護士)が何人もいるというのに、『はーい、皆さん。皆さんで畳みましょうね』、って毎日カゴで持ってきてバサッと広げていってさ。だらしがない・」、とよく言っていました。つまり、母は畳む事が出来るのに畳まない日が多かったんです。我が家で畳んでいたからかも知れません。。
「母ちゃん、あれはね。腕や手首や指を今よりも動くようにするトレーニングの一つな訳さ。畳み方の早い人、遅い人・・いろいろ居るだろう?。訓練さ、訓練。毎日やってこそ早くやれるようになるもんさ」、と言いながらテーブルの方へ母を連れて行って実際に畳ませると母は普段からやっていない分だけ遅いんです。畳んでからロール状に丸めるのですが、この丸めるのが母は苦手でした。骨折後の後遺症で右手の手首が多少ですが不自由みたいです。
★:その退所後・。
我家での生活に戻ってからの母には歩行訓練を重視した為、こうした作業を手伝わせた事もなく、2008年暮れに右手首を骨折してからの母は骨折が治っても手指、手首、肘周辺の筋肉が硬化してしまってグー握りさえできない状態になった為、この1年近くは「リハビリだ」、と洗濯物畳みはデイから帰宅後の母の仕事だと言い聞かせ必ずやって貰っていました。
★:いつの間にか上手くなっていた洗濯物畳み
リハビリって本当に大切です。最初の頃には「あァー、もう嫌よ」、と途中で放棄しがちでしたが、「何を甘えているんだ。それじゃ、いつまで経っても自分の尻も右手じゃ拭けんじゃないか。恥ずかしいだろうよ」、と母の自尊心を傷つけてみれば、「うん。よし、やるよ!」、と発奮させると母は頑張っていました。
実際の処、洗濯バサミ(例のクリップ)のバネの強さに負け、洗濯バサミから乾いた洗濯物を外せないくらいに指の力がなくなっていたんです。それから約1年後の現在、母はテキパキと洗濯物を畳んでは、「他には畳むものはないネ」、と言うほどに機能が回復していました。こんな母の頑張りを見ると嬉しいモンです。
★:でも、最近はちょっとだけ、認知が出たり引っ込んだり。
でも、この1週間ほど前からその作業のテンポが極端に落ち始め、この4日間を言えば全く畳む事ができなくなっています。手の具合がではなく、脳の機能の問題です。
畳んだものを再び広げたり・、途中まで畳んだかと思えば放り出して次の洗濯物を三角に畳んだり丸めたり、外したハンガーに再び掛けようとしたり・・、支離滅裂な状態が続く時が増えました。
「お義母さん・、最近はかなり変ネ」、と帰宅早々の嫁がこっそりと言います。働く事で精一杯の嫁は母の変化に驚くんです。「うん、3月10日を境に一気に歳を取ってしまったように感じるよ」、と私。
★:脚力が一段と低下
昨日も今日も坐椅子やトイレの椅子から立たせた際に母は崩れ落ちるようにお尻から倒れ込みました。昨日の転倒は私が辛うじて母の身体を支えたものの、今日はデイから帰宅して玄関の段差を1段上がろうとして1歩を踏み出した途端に左足から崩れ落ちるように左肩から倒れ始めました。途中で私が支えた為、段差部分で顔面を打ったもののどうにか・・。
そして、夕食後の母を部屋に向わせようと車椅子に座らせる為に嫁が坐椅子から立たせたまでは良かったのですが、母はいつものように炬燵の天板に両手を置いてバランスを保っておく事ができずにドスンと左肩から床へ・・。丁度、私が隣の部屋で横になっていた時の事でした。
「はい、お義母さん。立ちますよ」、という嫁の声で「嫁には無理だ」、と飛び起きた私の目の前で起こった母の転倒です。幸い、何れの転倒も大丈夫ではあったんですが、この3~4日間の母の状態は決して良くはありません。
★:母の性格が危険を呼び込んでいる~集中心のなさ
この居間の座椅子に座る際、立つ際の母には一つの大きな性格的な欠点があるんです。それは、[一度はコタツの天板についた手の片手を外して何かをしようとする癖です。座る前に天板に置いたタオルを再び掴み寄せようとしたり、天板の剥げかけた塗料の部分を指でなぞったり、テレビのリモコンを引き寄せようとしたり・・、です。それに、私や嫁が必死にバランスをとって母の体重を支えれば支えるほどに母は左右をキョロキョロと見ながら身体を揺らします。
「ハハハ、アンタは真剣な顔して何をしとるのネ」、とまるで、オンナ親分のような言い方をしたり、「アンタはさ・・そんなに身体を私にくっつけんでおくれよ」、と・・・。誰かに支えられ、抱えられるように歩を進めている、という自覚が母にはないようなんです。
★:新しく出始めた幾つかの症状・・数例
①:入歯着脱の意味が分からなくなっている。
デイに出掛ける前、「はい、入れ歯を洗ってくるから外してくれ」、と言うと、「そんなものはしていない。自分の歯だから外せない」、という日が多くなりました。この、「入れ歯を外してくれ」、というのを私が言う場合には比較的に母は素直に従うんですが、同じ言葉を嫁が言おうものなら母は滅多にストレートには受け取ってくれません。
「あァー、うるさいネ/はァー、悔しい!。貴女みたいな女には言われたくはないよ」、と言いながら出したり、絶対に出さなかったり・・。過去には、床に入れ歯を床に投げ捨てた事もあります。歯医者さんのアドバイスではあるんですが、寝る時にも入れ歯は入れていたほうが口蓋の形が崩れないで済む、というものです。でも、違和感から
眠れないようであれば入れ歯は外したほうがいい、ということで我が家での母は入れ歯をしたままで眠る時もあって、そんな時の翌朝によく「嵌めている、いない」のトラブルが起きていました。
②:病院からの薬やサプリメントを飲み込まず、噛むようになった。酸っぱいのもあれば苦いものも あるはずなのに、母はムシャムシャと・・。
③:トイレでオシッコを拭くはずのロールティッシュを水道の水に流す癖が・。直ぐに溶けて丸くなってしまうんですが、永遠と何度も同じ事をするんです。「デイに間に合わんよ」、と言っても「ちょっと、お待ちよ」、とティッシュを水につけています。
④:服の着脱が全くできなくなった。もう、現在は完全に出来ません。
「はい、寝巻きに着替えるよ」、と肌着1枚にさせて脱がせたセーター類をハンガーに掛け、ベッド上の寝巻きを掴んで母の方を振向いた際など、・・母は肌着やパンツまで脱ごうと必死になっています。時々ではなく、原則的に日常化してしまっていて修正は無理です。
⑤:以前から時々はあったんですが、食事の際に私達が目を離した隙に醤油刺しを引き寄せ、醤油をお茶碗に注いで飲むんです。「やめろ」、と取り上げると激怒します。多分、醤油さしとお茶の急須との勘違いだとは思いますが、お茶と醤油の味は違うはずなのに、それが分からないようです。
★:他人扱いの嫁・・でも、私の姿が見えない時には一転して気を遣い、嫁に依存し始める母・。
寝不足が続いている上に酒の量が多かったりすると夕食後には「ちょっと、1時間くらい横になるよ」、と母に伝えて居間の続きの和室で休む事がある私。横になったままで私は母と嫁の気配を調べる事もあるんです。
「オジちゃんはどこ?」、と母。「オジちゃんじゃないでしょう。ナオさんですよ。貴女の産んだ直裕さん」、と嫁。
「レレっ、そうキャア?。否、イサムオジちゃんよ」・、「いいや、貴女の子供の直裕さんです!」、とそんな会話が延々と続くんですが、母はだらしがない私を起こせ、起こせと嫁に言っています。
「直裕さんはいつも貴女を世話していて疲れているんです。少しでも寝かせてあげて下さい」、と嫁が言おうものなら大変。母は急に激怒して「私がいつ誰の世話になったと言うんだい」、と母の本音?が出始めるんです。この気性の強さが長生きの秘訣でもあるんだと私はつくづく思います。
★:嫁がミツさん、フサ姉さんになる瞬間も・・。
でも、嫁がお茶を炒れたり、甘い物を出して二つに切って一緒に食べたりしているうちに次第に打ち解けて来るのが[女性特有の甘い物繋がり]なんでしょうね。
「はい、お義母さん。そろそろ寝ましょうね」、「はいはい。分かりました」。「寝る前にトイレをしましょうね」、「はいはい。しましょうネ」、と・・、母にはそんな矍鑠(かくしゃく)とした瞬間もあるんです。
でも、この突然の矍鑠振りは認知故の言動なんですよね・。この時の嫁、母にとってはミツ姉さん、フサ姉さんになっているんです。幼少の頃の母の過ごした時間・・、母の傍にはいつも兄弟姉妹の誰かが居てくれ、このような感じの日々を過ごしていたんだろう、と思うんです。
★:母の頑張りも限界に近づいているような・・。
以前、「私には母の命が見える」、とブログに書いた事があります。私が書く記事にはそのような内容の時がある事を気づいている方もあるはずです。決して、望むはずもないのですが、母を必死に看ているだけに見えるもの、聴こえる声が間違いなくあるんです。
それは、漁師やお百姓さんが潮の満ち干きや、陽の入り沈みが分かるようなものですが、私流に言えば自然がキシム音のようなものです。
これまでの母にはあった[周囲からの期待に応えよう]という気概のようなモノが確実に消えていっている最近ですが、母は今年も夏の蝉しぐれの声も聴くでしょうが晩夏の花火は見ることはできないような気がしてなりません。
☆:2010年3月21日
★:「母ちゃん、髪を切ろうか?」。
3月14日、16:00。「母ちゃん、頭の髪を切ろうか? 今日は暖かいし風呂もいいかもね」、と言えば、「あァ、いいネ。いつもアンタに言おう言おうと思っとるうちに忘れてしまって・・」、と母。
「そろそろ切る頃かな」、と気にはしていたんですが、寒さが続く日が多くて言い出しかねていたんです。
処で、人間って老いてくると髪と爪の伸びが加速するって知っています?。亡くなった際には爪を切り全身を清めてヒゲも剃り・・、これ[死に水を取る儀式]ですが、納棺して翌日に出棺する際に最後のお別れにと覗いた顔にはもう・ヒゲがうっすら・なんて話はよく聞きますね。
死んでからヒゲが伸びるんではなく、硬直がとれると全身の筋肉が緩んでしまって皮膚の中に埋没している毛までが飛び出してくるから伸びたように見えるんですね。歯だってそうですよ。出棺の際に覗いて、「あれーっ、この人はこんなに出っ歯だったかなァ・」、と思った事があるでしょう?。あれは、歯茎が緩んでしまって歯肉の中の埋没していた歯が飛び出してきているんですって。明石家さんまサンが亡くなった時を想像したら・・。
★:「あァ、サッパリしたよう」、と母。
「ホラ、頭を動かすなって!」、と言うんですが、母は目の前のTVを見ながら、お相撲さんの動きに合わせるように「オッと・オットト」、などと言っては自分が相撲を取っているかのような動きをするんです。
「動かすなって言っとろうが!」、と、私。
「アンタこそ・・切られる私はチクチクして堪らんよ」、と・・もう大変な母のヘヤーカットでした。
★:入浴を途中で止める。・もう、危険になってきた。
そして、入浴なんですが、ここ最近の母の脚力の弱りがモロに出ましたね。髪を洗い、入浴の前に石鹸で全身を洗う段階までは「♪:ホーホッホッホ/ホッホホホー」、と上機嫌だった母が洗い椅子から立ち上がれないんです。正確に言えば、介助では立つんですが、立った後、壁の鉄製の手摺りを握って立っていられないんです。
立っていられない者が歩を進めて身体の向きを浴槽の方へ向ける事は出来ません。介助をして壁の至る所につけた手摺りを握らせて身体の向きを浴槽に向けても、・今度は片足を残し、もう一方の足を浴槽の中に入れようとすると、残した軸足から崩れ落ちるようにお尻から倒れようとします。着衣の母ならまだしも、裸の母を支えるには腕を引っ張るか首を抱えるか程度しかできないわけですから流石に危険です。
浴槽の中には底を浅くする椅子に滑り止め、風呂場の床にも滑り止めクッションがあるのですが、所詮は壁や浴槽自体は硬いタイルや硬化プラスチック製ですから頭でもぶつけたら大変な事になります。
「母ちゃん、今夜のお風呂はもう止めよう。石鹸を使えただけでも十分さ」、と介助椅子に母を戻して座らせ、母の嫌いなシャワーだけで済ませました。ここまで、脚力が弱れば・入浴は難しいかなと思いますね。
今後、暖かくなれば硬くなった筋肉の動きも良くなって多少は力が戻るかも知れませんが、無理なら再び、三度目の公園での歩行訓練をしたいと思います。
☆:2010年3月22日
★:某イベント企画会社から在京の数ヶ所で行なうライブに出演の打診・が・驚き。
5.23/高円寺Club-Roots、6.13/渋谷Heavy-Sick、6.27/高円寺Club-Roots、7.25/渋谷Heavy-Sick、7.30/新宿Sun-Faceと5ヶ所でのイベントへの出演打診がメールでありました。HPで調べてみると、何れのライブハウスもいい感じのお店ばかり・・。でも、これが飛んでもない企画でした。
★:多少、先方様の音楽の捉え方に疑問があって・・質問状を返信し、返事を保留しました。
前述したライブ(コンサート)への出演打診なんですが、報酬(ギャラ)を含む東京まで出向く為の経費の説明がないどころか、僅かでありますが10~22枚等のチケット販売のノルマが課せられているんです。残念ながら、こうした条件下で行なったコンサートは遠い過去にも現在の私にも1度もありません。こうした出演依頼がある現実には驚きましたね。
★:こうした風潮は自称・ミュージシャン、自称・お笑い芸人等のアングラ芸人達が作り上げた新しいスタイル。
気になった私は古い友人に「こんな形での出演依頼があるんだけど」、と尋ねたら、「今の時代は一億総タレントの時代だから、TVの向うもこっち側も区別がなくなったんじゃないか」、「要は、金を払ってでも人前に立ちたいわけだ。お前はやめとけ」、と言います。
この言葉を聞いた私はネット配信活動をしているいろんなアーティストのブログを調べ、これでまた驚いたんです。
日本中に溢れる自称ミュージシャンのブログを細部まで見てみるとCD販売にライブ予定を一流のミュージシャンが予告するかのように記載してあります。
あの多くの場合は前述した形で行なわれているんです。簡単に言えば、「出演するアーティスト側がお金を払ってまで唄わせてもらって」、いるんですって。
それに、この近年はプロの世界でも当たり前のようになされているんですって。[抱き合わせ]とも言うそうですが、売れているタレントにくっ付けるようにして新人タレントを無料出演させたり、プロデューサーへは袖の下を渡してまで起用して貰うのが常だと友人は言います。
移民文化との関わりがあるからかも知れませんが、アメリカでは州政府(日本で言う自治体)が定める一定の基準を満たした者しか人前で音楽を演奏して収入を得る事は出来ないと聞いています。
★:でも・・。
その某企画会社からのお声を頂いただけでも嬉しい気がしています。多分、私が在京であれば行なわせて頂く可能性が強いでしょうね。20名くらいの友人知人なら一声で集めますからね。
★:いい傾向・・かも。昨秋くらいから幾つかのアクセスが
タワーレコードという最大手のCD販売の関連会社を含む3ヶ所のメジャーレーベルからのお声を頂きました。何れもオムニバス版のCDを作って全国販売を狙いたい、というご提案ですが、私の作る介護音楽の特殊性と未発表曲を含めて約180作品の中からどのような作品をどのような形で世間に発表するかという段階で流れが止まってしまっているのが現実です。
★:電波を使った音楽の在り方:ドタバタ&ワイワイ系への一極集中的な音楽の露出だけではなく、多様な音楽&多様なアーティスト像を認める時代にならなければ私の出番はありません。
ケニーロジャースという人は長い放浪生活の果てに50歳を越えてデビューしました。ウイリーネルソンという方も原点はメディアでなく地方公演に生き甲斐を感じた人でした。
★:私を知る僅かな人が目撃されたように
私は自分を虚飾で飾れるタイプではありません。私は今のままでいいんです。今のままで皆さんに声を掛けて頂き、ペットボトルのスーパードリンクをぐい飲みしながら介護話を語り、手作りの介護ソングを唄う・・。そんな暮らしが似合っているようです。
★:そのスーパードリンクの中身とは・・
実は、舞台での私はリポビタンのようなドリンク剤2本に[救心]という心臓の薬を1粒入れた甘苦い奴を飲んでいます。生薬成分が少しずつ溶け出していい感じのパワーが持続します。
★:せめて、大分で・・
[博堂村]が縁となって知り合った東京・八王子の山田さん。その山田さんが切っ掛けで知り合った[博堂倶楽部・名古屋支部]の木本さん。今日は多少の本音で音楽活動の在り方を語りました。大塚博堂を唄うのは素の顔の高橋さん。そして、少しだけ気合が入り、その名前を濱野裕生と変えた私が歌う介護ソングを歌う私・。
☆2010年3月26日。
★:言ったら笑われるかな・・小さい楽しみ・・。
今の私の楽しみの一つ・。実は・帰宅してお袋をトイレに連れて行って便座に座らせた直後に台所に忍者の如く走り、朝の味噌汁の残る鍋のフタをサッと取って鍋の底に僅かに残っている豆腐をすくい上げて貝じゃくしのままで口に運ぶ事・・。この瞬間にさえ幸せ感を感じてしまうんです。・・・何か・人間としてのスケールが小さいですか・ね?。これは帰宅後に酒を飲むという癖を少しでも改めようとしているからでもあるんですが、元々は・と言えば、私はそんな人間なんです。
★:似ているようで・小さな悲しみ
それにトイレの世話で何度も起きる夜間など・フッと気づけばお腹が減っている時があって、今は必ず小さいオニギリを2個(日によっては1個)嫁が作ってくれています。現在の母の夜間トイレ介助には相当な腕力が必要ですから何回か介助するうちにお腹が減るんです。
腕力だけならいいんですが、全体重を1歩1歩ごとに私に預けてきますから、私の身体の骨や筋肉には2人分の体重が掛かるんです。それは貴方のお母さんに睡眠導入剤を与えているから大変な介助になってしまうんだよ、と思う方が居るかも知れませんが・、それは逆。導入剤を使っている事で母の強い主張がなくなるから介助自体は楽になっています。睡眠導入剤の使用は私も反対ですが、主治医の指導ですから仕方がありません。
導入剤を使い出す前の母は「はい、こっちの手摺を握って/はい、右足をもう1歩・・」、と私が言っても無駄・・。夜間の母は介助者の思惑とは別な動きをしてしまって危険だったんです。この母の周囲の言葉を無視する性格はデイでのトイレの際でも発揮されているようで、「勝手に動き出して気が抜けません」、と介護士さん達が口を揃えて言いますね。
★:夜中に握り飯食いながら涙がポロポロと・・。
さて、オニギリの話ですが、夜中にお袋がトイレでチロ、チロ、ジャーッとやってロール紙でお尻を拭く間を利用して大急ぎで食べるのですが、・・これを夜中にムシャムシャとやっていると、虚しい毎日を過す自分が哀れになって涙がポロポロと溢れ出す日がありますね。やりたい夢も過ごしたい時間も・、すべてを棄てて母の命だけを必死に守る私は時に自分自身を激しく罵り、「何やってんだ、いつまで続ける気だ?」と自問自答をしては涙をボロボロと溢します。
身体の不自由さが日増しに増していく母。そして、その母の世話し続ける私自身の日々を考えていると、・・何故か涙ポロポロボロボロと・・・。これ、分かって貰えますか?。
人間って不思議な生き物だと思います。朝の残り味噌汁をすすって幸せだなァ、と感じたり、夜中に握りメシ食って泣くんですからね・。結局、現在の母の命は私の手に委ねられているんですよね・・。だから、短気は起こしちゃいけない・。いつも、そう思って自分を戒めていますよ。でも、時には「そんな自分でいいのか?」、と問う自分が居るんです。間違いなく・・ね。
★:もう、桜が・・。熊本では3月16日に開花宣言がありました。
デイ施設の庭の桜は既に14日には多くの蕾を無視するように「お先に~」、とでも言いたい連中がポツポツと開花させていました。「母ちゃん、公園にでも寄って帰ろうか?」、と言えば、「まだ、風が冷たいから嫌よ」、と・。
そんな訳で、今日も冷めた味噌汁の入ったコップを左手に、5対5で割った安物のウイスキーを右手に・、今日ももう・4杯目・・。桜よサクラ~・・。
☆2010年3月23日。
★:思えば・・
親元を離れて独り暮らしを始めた頃、余りにも自由奔放で新鮮な生活に驚き、例えサンヨー食品のサッポロ一番ミソラーメンに卵1個を投げ込んで食べる日々であったとしてもそれなりの喜びがあったのではないかと思います。時間の大切さに気づかずにただただ日々をダラダラと過し、後々に重くのし掛かってくる自己責任という奴にも気づかず、我が青春の何とやら・・でしたね。
やがて、「俺さ・、このラーメン、もう飽いたサ。交換してくれんかなァ」、と沖縄から来ていた比嘉という奴の部屋を訪ねると、「よく来たガッテン。俺も同じ。俺の日清の焼きソバと交換するか?」、と・・。
★:2Fに住んでいた東海大熊本の渡辺さんの弾くギターにホロリ・。
この比嘉と二人でラーメン食っていると2Fに下宿していた東海大生の渡辺という人がギターを弾き始め、その「禁じられた遊び」のメロディを聴きながらシュンとなって・・。私は思わず佐世保に暮らす父や母の姿を思い浮かべるのでした。
「今頃・、親父とお袋はどうしているかなァ・」、と・。「親父とお袋はこんな堕落けた学生生活を送る俺を知らず・・」、と反省するのですが、私としては何の目的もなく熊本にやって来た訳でどうしていいのかが全く分からなかったのです。
★:父、兄、私
長男だけは大学へと考えていた父。母を通じて「大学には行かんでいい」、と聞かされた時の私はまだ小学生。母は私の布団の中へ入ってきて、「ごめんネ、アンタは大学へは行けんとよ」、と泣きながら私に伝えたのでした。
晩婚の父と母・・、因みに私は父が50歳の時にできた子ですから無理もありません・。丁度、炭鉱業というものも斜陽化が始まった頃でした。でも、振り返れば・、言い訳になりますが私が変則的な人生を送るようになったのは、この父の思いを知ったのが切っ掛けでした。一方、「大学だ、大学進学だ」、と口を揃えて繰返す教師達・・。
どこの家庭でも似たようなものかも知れませんが、長女の姉が長崎に嫁いだ後の我が家では扇の要が外れたように家族の絆というものが薄くなっていたんでしょうか?・・。母は古い友人を失くしたような、父は・・、呆然とした日々を過すようになっていました。
野球でのスポーツ特待制度で久留米大学商学部へ入学していた長男は入学後には直ぐに野球部を辞めてしまった為、我家では何かと出費が重むようになったのです。
正直に書けば、兄が学費が免除されるスポーツ特待制度で大学へ進学した際には私は「これで俺も頑張れる」、と思ったものです。でも、それは儚い夢だったんです。
「ここまで身体の痛みに耐えて平気な顔をしているのに・・/ここまで体調が悪くなっているのを隠しているのに・・」。それでもこの時期の私はやがてはテコンドーに柔道に初段をとろうとする時期だったのです。
私の作品の中の[♪:佐世保メモリー]、はこうした頃の迷い多き時期の私を振り返るものなんです。私に向けられた将校の拳銃が怖いはずがありません。この頃の私は自分自身でも生きている意味を見出せなかったんです。
★:「12歳の頃から、もう一度人生をやり直したい」、と願っていた私。
医学用語では[イレウス/亜イレウス]、というそうですがイレウスとは癒着の事。当時の私の場合、日常の生活を普通に送っている中で突然に何の前触れも無く腸の癒着が起きるんです。
「お前は何をしたんだ/何をしていて具合が悪くなったんだ」、と父に言われても私には答えようがないんです。そして、[亜イレウス]、という奴は散々と痛みを与え、食物や水を摂取する事さえさせずに突然に正常に戻るんです。
こうして、が熊本へやって来たのは人生に始末をつける為。自分の存在を消してしまう事が出来そうだったから・・。今思えば本当に虚しい日々を過ごしていました。
「そんなに俺の存在が面倒くさいのか?」、と父には言いたかったのですが、それを言ってしまえば母をも責める事にもなります。だから、私は我慢しました。多分、私をかばい続けた母が好きで仕方のない子供ではなかったのかと思います。
★:長男一辺倒の古いニッポンの父親
丁度、母方から経営を任されていた伊万里市にあった炭鉱が思わしくなくなっていたからか、それとも私が晩婚だった父の50歳の時の子供だったからか、真の理由は知る由もありませんが、「大学へ行かせるのは長男だけでいい」、と母を通じて聞かされた父の言葉・・。
「下駄?・・、長男のお古を使え」、「カバン?・、長男から貰え」、「学生服?、兄ちゃんが着ていた奴があるだろう」、「グローブ?・・、何でお前まで野球なんだ」、「柔道着?・・、私が使っていたのを使え」・、とウンザリする程に聞かされていた私は大学進学という事よりも「また、父親が俺を否定した」、と。大学を控えて・ではなく、そんな失望感ばかりを覚えて育ったのです。
小学校4年次には全校相撲大会で次々と6年生を投げ飛ばして優勝。野球だって4年生でただ独り6年生に混じってレギュラー。それも大抜擢された最初の試合で遊撃・3番を任されて2打席連続ホームランを打つほどに頑張っていた私ですが、私の両親はそうした私の勇士ぶりを全く知りません。
父自身が与えた私へのDNAのはずなのに、父はそれを長男に見出そうとし、私からは全く見出す事ができないようでした。
苦学して19歳で外交官にまでなった父ですが、帰国後は宮崎県庁に勤めては己の弟を外科医にまでした父・・。その弟はやがてビルマ戦線で戦死。多分、父は弟に対して与え残していた愛と期待を一身に我が長男に与えたかったんだろうと思うのです。でも、父は自分自身が私と同じ三男で生まれている事を忘れているようでした・・。
★:意外だった・・その親父が熊本の私を訪ねてくれた事
私が大学2年の頃、私の作品群がヤマハ音楽財団をはじめ、メジャー出版社の数社の目に止まり、シンガーとしてよりも詩や楽曲の提供を提案されたことがありました。特に私の書く詩の傾向に興味を持たれた記憶があります。
一度は大学を辞めて上京をするという前提で仮契約を交わしましたが、この時に父が熊本へやって来たんです。「駄目だ、大学だけは出ろ」、と・。「俺は貴方に大学に行かせて貰っているわけじゃない」、と言いたかったのですが、その事よりも父が私を正視して真剣に反対してくれる姿が眩しかったんです。
この時、父の説得によってメジャーからの誘いは断ることになったのですが、後に裁判騒ぎになり、私の作品の数作を無償提供する事で解決しています。ある作品・・、曲名、詩こそ変更されて世に出たんですが、実は1曲だけミリオンセラーを記録しているんです。関西で名を挙げたフォークグループのデビュー曲ですが、大学時代の数名の友人と嫁だけは知っているはずです。・・私の密かな喜び・・です。
★:晩年の父は私への愛を思い出していたのかも
最近の私が書く詩には「ホラ・」、という呼び掛けの言葉が多用されています。「貴方が書く詩には「ホラ」、という言葉が多くありますね」、とコンサート会場ではよく言われます。
処が、その私が20歳前後に作った作品の詩には「貴方は気づかない/貴方は分かるかしら」、という言葉を非常に多く使っているんです。多分、私は父親の愛情に飢えていたんだなァ、と今になって分析しています。
晩年の父は寝言ではよく私の名を叫んでいたと姉は言い、勿論、私自身でもそうした父の寝姿を目撃した事があるんです。「どうして親父が俺の事をそこまで・・夢にまで見るんだろう?」、と不思議に思ったものです。
若い頃の父はいつも長男の方へ向いていて、私はいつも父の背の後ろ・・。そして、父は私に向かって振向く時はいつも、「おい、××を兄ちゃんにさせるからアレを持って来い・・」、みたいな感じでしたからね。
腕相撲だっていつも父と兄だけ・・。私は一度も兄とも父とも腕相撲をした事がありません。勝ち負けの問題ではなくて可愛がられていたか、いないか。期待されていたか、いなかったかの問題です・。そして、世間の方が老いの深まりを自覚し始める頃に写経をされるように、晩年の父は黙々と仏像を彫る時期があった事を僅かに憶えています。
何を念じて掘っていたやら、何から逃れたくて掘っていたやら・・、父は私の事を殆ど何も知らずに75歳で勝手に逝ってしまいました。
★:[♪:まるでピエロのように]の原曲は忘れてはいない。唄わない理由がある
この作品の原曲は20歳になる直前に作った「私はピエロ」、という作品。今で言う学園祭、他校での学園祭にも呼ばれ、市内に幾つかあった歌声喫茶みたいな所では大評判になり、毎週のように呼ばれていました。やがて、噂が広がっては当時のメジャーというメジャーのレコード会社や出版社が私の下宿に押し掛けてきました。
最初のバース部分は4拍子なんですが部分的に2拍子が入る上に16ビートのノリでのアルペジオという・当時の日本にはまだなかったリズムで始まり、やがて、「今、舞台の幕があがる・・人生の扉が開く・・」、という唄い出しで3拍子に固定されるのですが、この作品を演奏する度に「冒頭の4拍子のリズムが狂っている/その弾き方は何なんだ」、とクラブの先輩達が罵るんです。それは当時の彼らが16deatというリズムをまだ知らないからでした。
ただ、ひたすらにPPM一辺倒ではない先輩達は「やがて、そんなギター奏法の時代も来るんだろうな/教えてくれよ」、と近づいても来てくれるんですが・・。まだまだ、クラブ員達はブラザーズフォア、キングストントリオなどを必死にコピーしている時代です。やがて、後期のビートルズがビリージョエルが16beatの乗りでヒット曲を出し始め、少し遅れて日本ではサザンオールスターズが♫・愛しのエリーという作品でバリバリの16beatを爆発させています。
実を言えば、評判になったのは大学のクラブでは悪評が高かったバースの部分の「私は泣き虫のピエロ/いつでも、戯けているけれど/化粧を落としたその顔には落としきれない涙の跡が残っている・・・・・省略、・・どうしてなんだよ何故なんだってよ/貴方は気づかない気づいてくれない/私を見ようともしない・・Woo Woo 苦しいんだよ 苦しいんだよ」、と・・。
実は、[私はピエロ]という曲の詩は我が父と私の関係を唄っていたんです。だから、今回は完全には再現したくなく、バースの部分を省略した60%の部分を[まるでピエロのように]という作品名で詩の一部を変えて発表していて、このバースを除いた部分だけであれば皆様と共有できるものがあるはずと思っています。
☆2010年3月24日。
★:J-walkのVocalの中村さんが覚醒剤所持&使用で逮捕されましたね。
CDを集めるほどのファンではありませんが、私はこの手の落ち着いたサウンドが好きで、J-WAILKがTVで紹介されている時などは必ず立ち止まっていました。突出した演奏者がメンバーの中にいるという訳でもないのに全体的な音のバランスが素晴らしく取れている、というオーソドックスであって個々人が目立っているという、バタバタしていないいい感じの大人のサウンドを持ったのがこのJ-Walkです。
「歳を取って疲れるようになり、この1年前から覚せい剤を使うようになった・・、多分、嘘でしょうが、他のバンドメンバーは知っていて知らん振りではないはず。それとも、「俺も疲れた」、と使っていたのかな・・。
中村さんの表情・・、最近流行のリフトアップしたような目と二重瞼。あれは慢性的な疲労の表情と常習化した覚醒系のドラッグをやっている人特有の表情で、私も以前から気にしていました。
疲れた・・、という中村さん。ファンの私が言うのも変な話ですが、私の中学・高校時代には「ハイミナール/ナロン」、等の鎮痛剤だったか睡眠薬だったかは知りませんが・、そんなものを子供達が服用しては全国的な社会問題になりました。
我がニッポンの人口構成の中で子供達の数が一番多かった時期ですね。受験地獄の為に1日の時間の配分ができないほどに勉強しなければ世の中から振り落とされてしまうからです。学校から帰るとメシ食って塾へ・。塾から帰宅すると風呂入って4時頃まで勉強。7時には起きて学校へ。寝不足で頭痛がするから鎮痛剤を飲む。せめて土曜の夜くらいは熟睡しようと睡眠薬を飲む。私が通った高校ではこうした薬に中毒気味の成績優秀な生徒が沢山居ました。この学生達の多くがあのキツネ目っぽい中村さんと同じような表情をしていたものです。
もう・・人気回復はできませんかネ。取調べが終わるまでは静観ですね。でも、交通事故の調書作成で分かるように警察の取調べって都合のいいように担当官が自分で書く癖に、「お前が喋り書いて、お前が押印した」、としか言いませんからね。
調べたんですが、結構、J-walkは多忙なんですよね。今の日本にはウルサイだけのバンドが多いからJ-Walkのようなサウンドが求められているんだと思います。地方公演は予定が一杯でした。
あれほどの人達ですから所属事務所はもっと気長に活動できるような配慮ができなかったんでしょうか?。行政関連からの依頼で作る作品も多かったようですが、やはり、J-Walkの持つ大人の魅力を好きな人が多いんだと思いますね。中村さんには音楽で、作品でこの汚点を払拭して欲しいですね。
☆2010年3月25日。
★:桜で・・思い出す。
この3月、2008年には大分の社会福祉協議会のご招待で豊後大野市でコンサートを企画して頂いています。3月23日でした。この日は長崎からは実姉が佐世保からは義姉が私達夫婦の不在中の母の世話にと駆けつけてくれました。私が世話をできない時の世話は女手一つでは不可能と判断した最初の日でした。
私達スタッフは前日からの泊り掛けで豊後大野市へ向かったのですが、咲き始めの桜が綺麗でしたね。この2008年は例年通りの時期に咲いているというお話でした。そして、この豊後大野市でのコンサート後には別府へ走り、[博堂村]でもライブを行なったのを憶えています。
また、前年の2007年3月と言えば熊本市内の清水市民センターという場所で社会福祉協議会+熊本機能病院、北保険センター連携の[母に生命を返す時コンサート]を開いて頂きました。コンサート日は3月24日でしたが私の予測が外れて桜の開花はなく、準備していたサクラ絡みのトークが全くできずに舞台ではオロオロとうろたえた2時間になってしまった事を記憶しています。この2007年3月24日というのは特にしっかりしないといけない日だったんです。
機能病院の米満先生からは数ヶ月前から激励の言葉を頂き、それに、私の詩風に関心を持っておられる心理学者の熊本学園大/下地教授ご夫妻も来場されているというのに私の介護トークは20%程度の出来具合ではなかったかと思います。また、このコンサートの際に撮影された写真に写っている私の顔も首も手も真っ白・・。具合が悪かった訳ではないのですが真っ白・・。実は、この1ヶ月半前の心筋梗塞の影響が続いていたんです。
★:心筋梗塞
2007年の1月末に心筋梗塞をやっていたんですが、医者には診せずに真っ青な顔して翌日も普段通りに母をデイに届けて職場へ・・。その職場では呼吸が薄いから横になるのですが眠ってしまうとそのまま逝ってしまいそうになる不安で一杯でした。私の職場は午前中は私独り・という日が多いんです。
その後、知人の薬剤士さんに説教されながら酸素ボンベに苦い漢方薬と辛いトンガラシを舐める日々でした。
そして、前年から約束していた人吉での[母に生命を返す時コンサート]を2月7日に行なったんですが、心筋梗塞の1ヵ月後でもあって微熱があって左手の指が痺れ、自分で作った詩やメロディを忘れたり、和音を忘れたり・・、様々な後遺症が出ていた時期でした。でも、この時の経験で[♪:ホッホ]:という作品が作れたんです。
★:母の運命を肩代わりしてあげた・と思えば本望かも
母が我が家へ上陸したのが2003年3月28日夕刻。この年の桜は佐世保から熊本への高速道路沿いに咲き競う桜を見た母・・。この日が長崎で見た最後の桜の花になったんです。
そして、翌29日から母との暮らしが始まったのですが、我が家の間取りや段差など・・、勝手の分からぬ母が30日には和室段差を踏み外して最初の大転倒をします。
丁度、春の選抜高校野球を見ていて居眠りを始めた私に毛布を掛けようとして起こした転倒事故でした。左足に股関節骨折を抱える母はこの転倒で両膝と右足太股の動脈を損傷させてしまい、頼みの綱の右足を痛めた事で完全に歩けなくなったのです。でも、この転倒の際、倒れた母の顔の傍には段差や柱、石油ストーブもあって、・・ある意味では母は運がいい人だなァ、と思うんです。母は間違いなく何かに護られていますね・・。私にも・・。
☆2010年3月26日
ここ最近の九州地方は雨の日が続いたせいか、寒いですね。今日(26日)はデイからの帰路に八景水谷公園へ桜見物にと立ち寄ったのですが、公園入り口の駐車場に停めた車から出て80mも進まないうちに、「帰ろうよ、寒いよ」、と母・。雨上がりの昨日は一転して雲一つない青空・・、なのに吹く風はとても冷たかったんです。
「うーん・、折角来たのに」、と唸る私。母にとっては26日は流石に寒さを通り越して冷たかったようです。
★:その帰路・。
折角だからと公園からの帰路に近くのサンフードというスーパーで久し振りの買物・・。ここは肉類が安いんです。兎に角、肉類が安い。スーパー経営には野菜系・魚系・肉系という経営母体の違いがあって、得意不得意の分野があるから、「野菜ならあのスーパー、肉類ならこのスーパーで・・」、というように区別して買うようにするといいですね!。
「今日はサンフードに行ったっさ。ホラ、見てご覧。この肉は安かろうが」、「これはいつものエースに比べると3倍近くの量があるさ」、といつものように帰宅が遅い嫁に自慢気に言うと、「だったらさ、明日の夕飯には肉一杯、玉ネギ一杯のカツ丼を作ってよ」、「いつもの酢の物もね」、と嫁・・。そんな訳で明日の夕飯はカツ丼に決定したんですが母には嫌なメニューかも知れません。
★:新しい作品作りのイメージが・・。
「作品作りはのんびりと」、と決めた私。決めた途端にギターを弾かなくなり、職場の事務所に置いたままのキーボードを触り始めた私・・。
複数の楽器を触る人には分かるはずですが、作曲などはその際に使う楽器によって使う和音が違ってくるんです。私の作った作品で言えば、[♪:まるでピエロのように/♪:綿雪]などは完全にキーボードを使って作った作品。逆に、[♪:花ミズキ]は作品の全編にピアノの音が入っていますがギターだけで作った曲です。
使う楽器によって引き癖というものがあって、それが多様な作品を作る手助けをするんです。私が弾ける楽器は他にハモニカ、トランペット・・。苦手でも好きな音色は琴に大正琴に三味線・・。特に三味線などは母の影響もあって6歳頃から触っていて、今では母に弾いて聴かせる関係で学生時代にはギターのチューニングを三味線と同じにして弾いていた時期があって、「お前の押さえるコードは不思議な形だし、ナーンか良いんだよな(何じゃ、その音は)」・と、先輩達にはいろいろと言われたものです・・。
★:配布用の新しい短縮版の制作・。
作品作りのペースを落した半面、いろんな事を考えるようになっています。「どうしたら50曲を脈絡を持たせて聴いて頂けるだろう?・・、説得力のある配曲順は?」,等々ですね。そんな事を模索しているうちに、「あっ、そうだ。皆様への挨拶の言葉をCDの冒頭に録音してみようかしら・・」、というアイディアが浮かんだんです。
★:そんな訳で嫁から批判の波・。
「なーんか、オッサン喋りね/第一、喋り過ぎよ」、・・と嫁は批判の波。でも、めげずに、「初めまして濱野裕生です・・」、という言葉で始まる母の紹介・・。どんな反応を頂くか興味深々です。
まァ、こんな事をやっている私ですからまだまだやる気は十分です・ね。今回、作っている短縮版は2枚入り・。1枚目には30曲、2枚目のCDには20曲が入っています。いつものように懇意にしている近場のケーキ屋さんや美容室さんあたりからいつものように配布を頼んでみようと思っています。
ケーキ屋さんというのはお誕生日祝いのケーキを買いに来る方に対して、「その方は何歳ですか?、蝋燭は何本ですか?」、と尋ねますよね。ケーキ屋さんというのはお客さんのご家庭の家族構成がよく分かるんです。私のCDはそうやって皆様のご家庭に普及しているんです。
勿論、その他にもMさん、Fさん、Hさんや嫁や姉の協力もあります。これからの高齢化社会は我が国の大きな社会問題になり、介護問題は益々語られるようになるはずですね・。もっと社会全体で真剣に語られるようになればと思っています。命の問題ですからね。
この、[母に生命を返す時]という2枚組短縮版CDの無料配布に協力して頂ける方を広く求めています。連絡をお待ちしています。090.1368.2656/n_takahashi2000@hotmail.com
☆2010年3月29日
16:15の今、安物のウイスキー水割りを飲みながらホウレン草の胡麻和え、長崎の姉が持参してくれたアジの開きの干し物を食っています。「陽のあるうちから贅沢な話じゃないか」、と思う方もいるでしょうね・・。とんでもないですよ・。帰宅後の私が安酒のツマミにするものは全てが前日、前々日の母の食べ残しなんです。
最近の母の変化は激しいですね・。大好物だったウナギや鯛さえも食べません。毎日、一生懸命に作っているのに・・。イカの刺身だって、「消化が早いから飲み込んででもいいから口に入れろ」、と言っても食べません・。何だか、噛む力自体がなくなっている気がするんです。発する言葉も小さくなってしまって・・。これも老いなんでしょうね・。
今日3月29日、デイの帰路に母を連れて八景水谷公園へ桜見物へ行ってきました。26日土曜にも行ったんですが冷たい風に母が。「寒い・・、帰ろう」、と言いだしたものだから公園入り口から僅かな距離までしか行けずに引き返していたんです。
平日の月曜日というのに人出が多かったですね。公園一杯に人が・・。特に今日は雲ひとつない青空を背景の桜でしたから美しいものでした。
でも、この数年の傾向ですが、本当に本当にお年寄りの姿の多い事・。ゴザひいてお酒を飲んで・・、若者達はひっそりと・。
桜を見るという文化の減退もあるんでしょうか、桜の花に対する位置づけ自体が変化しているんでしょうか?。まァ・・、桜=酒=酔っ払い老人という図式にも賛成はできませんがね。
★:母は・・。
今年の母の桜への反応は少なかったような気がします。「ホラ、見ろよ」、と私が言わない限り母は桜を見ようとはしません。これは寂しい事でした・。老いですね。
私は今ほどに人の老いという瞬間を見ている時期はないんじゃないかと思います・。そんなものだと思ったり、妙に悲しく思ったり・・、母の老いを通して考える事の多い日々です。例えば・・
★:聴力・視力による認識力の著しい低下
多分、聴力というよりも脳機能の低下によって言語を含む自然界の全ての音が理解できなくなってきているようです。私達が普通に交わす会話や音は長い長い人生の積み重ねの結果、経験によって理解できるようになっているんですね。
アイウエオから・・・ンに至るまで、それらの音で構成される言葉とその意味・。それらは名詞であったり動詞であったり形容詞であったり・・。教育は分析に過ぎませんから教育によって得られたというものでもなく、脳機能の成長によって獲得できるようになったんだと思うんです。人間としての順応性ですね。
暮らしの中で一度、二度と聴くうちに「あっ、これはドアの閉まる音だ/これは犬という動物の鳴き声だ」・・、みたいなね。言葉にしたって誰も教えもしない言語を生まれた直後から憶え始める能力を持つのが人間だと思うんです。
今の母からはそうした力がなくなっている・というより、人間の証しとして蓄積してきたモノが消え始めている・・、そんな感じですね。つまり、言葉の多く、音の多くが初めて聴くモノのように感じられているようなんです。
そして、この傾向は視力にも現れていて、「モノが見え辛くなった」、というだけではなく、見えていても、目の前に見えているモノが何なのかが理解できない事が多くなっています。次回はその例を述べてみようと思います。
☆2010年3月の頃:⑮ ※前回に続いて
前記事の[★:聴力・視力による認識力の著しい低下]について追記します。「聴力・視力の低下と言うより脳機能の低下ではないか・という私の推測ですが、その例を挙げてみます。
★:「これは新鮮で美味しいね」、という私の言葉に、「新撰組も食べていたってね。こ・こ・近藤さんも?」、と母。
これは刺身を食べている時の会話です。母は和歌や短歌に俳句に川柳と、両親の影響を受けて粋なモノが大好き・。それに相撲にボクシングやレスリング、剣道が大好き。行った事はないんですが競輪や競馬など・・、兎に角、競うものが大好きです。それに、時代劇が大好き・・でした。現在の母はこれらの事にも殆ど興味を示しませんが、実は、そんな状態になった母だからこそ読める心があるんです。
歴史上の人物の武勇伝なんて殆ど作家によって作り上げられたものが多いですよね。若い頃の父や母は夫婦で競うようにして時代物の小説をよく読んでいて、別々の作家が書いた歴史上の人物伝を読んでいた時期もあったほど・・。
「母ちゃん、このアジの刺身は美味いね。新鮮ね!」、という私の言葉に、「新撰組・・」、と答える母。認知が一段と進んだとは言え、脳の本棚に並ぶ記憶の幾つかは多少は薄れても健在な日があるんです。マツモトセイチョウ、イツキヒロユキ・・、作家の名だけは憶えています。
★:「はい、用心して!。転んだら最後よ」、という私に、「・・じゃ、飛んでみようかネ」、と母。
母には私の言葉が、「はい、用意して、飛んだら最高よ」、とでも聴こえていたんでしょうか・。玄関の段差とは言え、母は本当に頭から飛び降りるつもりで子供のように目を見開いていましたからね・・。
★:存在への拘りが強くなるのは、増大した不安感の裏返し・かも。
母は車が大好き。50歳代の頃までの母などは乗り物酔いが激しく、折角の旅なのに行った先で横になったり、遠出をする度に苦しそうに吐き気を我慢している姿を目撃したものです。でも、今の母はドライブを初めとして車が大好き、「車で?。・・私も行こうか?」、と、私が切れたタバコを買いに地続きの隣の団地内にある自動販売機まで行こうとしてもついて来ようとします。
★:自分の存在、周囲の者の存在を確認したがる・。それはモノに対しても・・。
まァ、これからの時期はドライブの時期。助手席で揺られる事が首や背筋に適度な負荷を与えるから・健康にはいいだろうと思っています。でも、このドライブやデイに通う途中での母の言葉・・、随分と変化しました。桜の木の真下に連れて行ってもなかなか見上げようとはしません。「綺麗よね」、と私が言っても、「あァ・・、桜なら当り前よ」、と・・。
★:認知が限界近くにまで及んでくると幾つかの新たな変化が・。
母の場合、自分の存在が分からなくなる。自分が誰なのか、自分を母と呼ぶ息子や娘が我が子とは思えない。多分、目の前のこの人は自分のお兄さんのような気がする。そのお兄さんが「姉ちゃん」、と呼ぶ女性は私にとっても姉なのかもしれない・・と。
★:最近の母・・、一日の多くで混乱の連続です。
毎朝、働きに出る嫁(あの人)と休日で家にいる時の嫁(奥様)。それに、長崎から電話を掛ける長女と
我が家の2Fに住んでいる長女・・。認知の出た際の母はこんな感じです。
夕飯の際など、箸に手をつけようとしない母に、「早う食べんと冷たくなるよ。遅い癖して」、と言う私に、「2階にいる人達を呼んでおいでよ。皆で一緒に食べようと待っているのに・・」、と・。「何言ってる。我が家には3人しか居ないさ」、と言えば、「また、嘘を・。あんたこそ何だ。ご主人より先に食べてさ。だらしがない」、と怒ります。
要介護5になった最近の母の様子・・、暫く続けて書いてみたいと思います。
☆2010年3月30日
今日も朝の味噌汁の残りをコップに入れ、中の豆腐だけを起用に口に吸い込んでは右手に持った濃い目のウイスキーの水割りをグビっとやっています。まだ午後3時というのに・・、中毒だな、と自分でもそう思います。でも、いろんな方のから注意を受け、これでも量は随分と減って今では月に4リットルを少し越す程度・・、16~18リットルも飲んでいた頃に比べたら減りました。
「酒は止める」、と決めて6ヶ月・・、武雄市民病院の持丸さん、植木町立病院の福住元婦長さんとの約束ですから守らないと・・・。
★:その後の味噌糠漬けの報告・・。
糠みそではなく、味噌糠漬けですが乳酸菌のいい香りが漂うようになっています。今でも赤唐辛子や炒り糠を適度に補充しながら試行錯誤ですが、今は少し塩気が強いかな?・という感じです。
中に埋もれているのはいろんな野菜くずです。葉っぱのついたままの大根にニンジンの切れ端、カボチャ(これが美味い)の残りも2mm程度の厚さに切って漬けます。キャベツの芯などは甘味があってとてもお気に入りです。どれも夕飯を作る際にでる野菜くずの有効利用です。
出汁をとった後の昆布も入れます。それに嫁が買って帰ったパイナップルの美味くなかった部分、キウイの皮、これらがいい感じに発酵して香りの高い乳酸菌を作り出してくれるんです。他に鰹節やドンコ(椎茸)も入れています。
大根などは漬物として食べるんではなく、料理に使う前提で3日ほど前から漬け込んだモノを使うと一味も二味も違った料理が作れます。また、絞り豆腐をカーゼに包んだまま2日ほど漬け込むと何とも言えない朝飯のお供になります。
エリンギ・という何とも使いようの少ないものも漬け込んでおくと翌朝には結構な漬物に変身してくれます。山芋も2Cm単位に切って漬けると翌日には最高の味になっています。これから秋に掛けてはいろんな山菜が育つ季節ですね。嫁や母には、「ん?」、と言わせるような山菜漬物を作って驚かせてみようと思っています。
★:母が通うデイ施設が一方的な通告を・。
3月18日でしたか、「ツヤさんの施設利用時間帯を4月1日より11:00~15:00とさせて頂きます」、と書かれた1通の文書が連絡帳に挟んであったのです。差出人は母が通う熊本市大江の鶴翔園。これまでのブログでは施設Kと書いていましたが、反論し易いように施設名を書きます。
介護制度・・、いろんな変化が出始めているようですね。この施設Kとの成り行きですが、次回から具体的に書かせて頂きます。
☆2010年3月31日
★:命の移ろい・
母が通うデイ施設・鶴翔園の庭では散り始めたソメイヨシノと咲き始めの花ミズキのコラボ・・。この冬の終わりを告げて春の到来を告げる桜と「あとは任せてよ」、とばかりに咲き始める花ミズキの競演を眺める度、「あァ、お袋は頑張っているよなァ」、といつも感じます。
そして、アジサイや菖蒲が咲き、熊本では真夏の花の代表格の百日紅(サルスベリ)が秋の気配を感じる頃まで咲き誇るんですね。海岸沿いには潮風が好きなヤマモモの雌の木が真っ赤な実をつけてくれます。その後に咲くのが金木犀。この香りが薄くなった頃でもイチョウの緑は真っ盛り。やがて、この銀杏は文字通りに木枯らしの吹く頃に黄色く色づき始め、雨交じりの小雪が舞う頃まで金色の絨毯を神社の境内に敷き詰めてくれるんです。
★:輪廻転生
分かりきったはずの自然の変化、時の移ろい・・。これほどに自然は明確に私達に命の推移を教えてくれているのですが、我々人間は何故かその命の移ろいを鑑賞の対象としてだけしか見ようとしません。
確かに、咲いた花は美しいものですが、虚しい命でもあります。「一瞬の命だからこそ美しい。愛しいと思うんじゃないか!」、と皆さんは思われるでしょう。これは人間の美学なんでしょうね。でも、私はそう思うだけでは終わらない人間なんです。咲いた花は散って当たり前、ドッコイ命は散っちゃいないよ!ってネ。
[輪廻転生]、という言葉のどこに死があるんですか?。命が受継がれる、という意味です。命には休みも死もないんです。
★:花瓶の世界を卒業し、野山に繰り返される輪廻転生から学ぼう
「美しい/愛しい」、と感じただけで目を背けてはいけません。朽ちた実、葉、花は風に吹かれて大地に還り、再び新しい命を作り出しているんです。たとえ朽ちても命果ててはいないんです。
実や花は己の中の新しい命を護ろうとし、葉でさえもう既にある部分では小さな芽を、根を出そうとする気配を感じる事があるでしょう?。命というものは永遠なんですね。我々人間を楽しませる花である瞬間は僅かな期間ですが、彼らにとっては花である時間だけが命という訳ではなく、朽ちても命あり、芽を出し、葉をつけ、花をつけ・・、その全ての瞬間に彼らは生きているんです。
そう考えると、私達が定義付けする命というものがいかに狭い了見で決め付けているかを反省すべきです。
★:自己免疫プログラムを作れない栽培方法
人の手を加えて育てられた植物は病気に弱い・と言われますね。それは、「さァ、花が咲いた/切って出荷だ/出荷が済んだら土壌を作り直して次の別な花作りだ」、とばかりに茎や根の残る花床を掻き回して作り直しますが、私はあれがいけないんだと思っています。
「おいおい、掻き回さないでくれよ。今は茎や根が今年の育った環境を研究して来期への成長プログラムを作成中なのに・・」、と思っているんじゃないかといつも思います。現代の観賞用の植物は育苗期、成長期・・、と別々な土壌で育てられますが、あれだと個々の実や種が本来持っている成長プログラムを狂わせて育てているような気がしますね。
植物というのは大地の中の地球の波動を実や種自身が感じ、自らの一生をプログラムするんではないかと思っているんですが・・。そして、それは人間にだって言えるんじゃないかと思います。
自然を知らない。大地を知らない植物って哀れだなって思います。ここには輪廻転生はありません。それをあなたは美しいと思いますか?。私は野に咲く花が大好きです。
★:そう思えば・・。
人間って3歳までの教えが一生を支配する・って言われますね。幼い頃には保育所で育てられ、家では能面のような表情で会社から持ち帰った書類に目をやる両親・・。学問的なモノは別として、教育や子育ては一体誰が・・。家庭を知らない、兄弟を知らない、父親の肩車を知らない・・、知らないという事は言い訳に使ってはいけません。知らない、気づかないというのは人間が犯す最大の罪なんです。もっとも、そうした環境を与えないという社会はもっと悪いんですが・・。泣きながら殴ってくれた教師・・、私にはそんな記憶も昨日の事のように残っています。
★:その上に一人っ子・。
先日、私の仕事仲間の一人で島津真由美さんという方が依頼していた結婚披露宴での司会の報酬を受取に来られた際、思わず話が弾んでしまいました。普段の彼女は熊大医局勤務で診療報酬の請求事務をしています。
[命の軽視傾向]の話題でしたが、不特定殺人の秋葉原事件、橋の上から子供を突き落として殺害したバカ女、カレー毒物事件を起こした白アリ業者の嫁・・。この数年間に続発している事件の犯人の多くは一人っ子かそれに近い境遇で育った者が共通の家庭事情とか・・。
結婚披露宴の席で新郎新婦が両親への感謝の言葉を言えないシーンを頻繁に目撃するようになったと言います。第一、父親も母親も一人っ子・・。親戚を呼ぼうにもオジもオバも一人っ子が多く、その上に父親はガンで若死にし、オバは実母と義母の介護で参列できないと・・。
最近、流行なのか披露宴の中では[暴走族だった俺(新郎)を嫁(新婦)が更生させてくれた・・、だから俺はこいつと一緒になろうと決めた・・]、みたいなまるでアホを地で行くようなスライドをプロジェクターで投影したり・・。
父親不在、母親不在、兄弟不在気味の暮らしを続けた若者の中には[命の尊さ]を知らない事を誇りに思うような、
或いは、「俺は少年院には2年半もいたんだぜ」、と自慢げに話す奴・。
グレて当然・・、みたいな風潮が育ってきているのが不気味だと島津さんが言っていましたね。こんな奴、80歳になるまでタクアンかじって暴走族やってろ・と思いますが・・。
つまり、こうした事が動植物で言う輪廻転生のプログラムなんですね。そして、この組み込まれたプログラムを変える事のできるのは自分自身、それに同じ場所に根をおろす家族なんですね。自然・、というものは闘いの相手。そして学びの対象でもあるんです。私がよく使う・神とは、自然界の摂理を指しているんです。でも、残念ながらその神の存在を感じる人、感じない人が居るんです。
Posted by 濱野裕生 at 21:48│Comments(0)
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