2021年02月04日
〇・2010年2月の頃
〇・2010年2月の頃
☆:2010年2月1日
★:母が要介護5の認定を受けた以降の母。
母は前年の2009年11月に要介護5の認定を受けました。判定員の見方にもよるのでしょうが、確かに以前の要介護度4の頃に較べると日常の幾つかの部分では大小の変化があり、デイ通いがない日曜日の母の世話は従来に比べてその大変さが確実に増しています。
元々、2008年の暮れ頃から認知と思える状態の瞬間が多くなっていました。[♪:兄ちゃま]を作ったのが2009年6月。母が実際に私の事を「兄(あん)ちゃま」、と呼んだのは2008年暮れから2009年に掛けての寒い日の夜間のオシッコの世話の最中でした。まぁ、季節を問わず血流の悪くなる寒い日の夜間などには認知が出やすいわけです。
★:兄ちゃま・・。
便座に母を座らせた途端、母は「兄ちゃま、恥ずかしいから向こうを向いておくれまっせ」、と・。母が使う言葉自体は女性としてはまともな考えですが、私のことを「兄ちゃま」と呼ぶことに認知を感じたのです。既述したように、10歳の頃に48歳だった母親を亡くした我が母は14‐12-7-4歳違いの兄弟姉妹に大事に育てられています。
特に優しかったのが12歳上の次男の勇兄さんだったらしく、「兄ちゃま」とはまさしくこのイサム兄さんを指し、我が母は私と暮らす中で折に触れて「兄ちゃま」と私に向かって言うことが始まりました。
★:酸素ボンベ
「兄ちゃま、スースーするのを吸わせてくれまっせ」、と。冬場は殆ど毎日。それ以外の季節でも散歩後の汗をかいて帰宅した時、睡眠時間が長くて朝の起床時にも動作が鈍いな、と感じた時、デイからの帰宅後、風呂上り、と必要と感じた際には母に酸素吸入をさせています。過剰な摂取はいけないのでしょうが、脳梗塞後の人にはこの酸素吸入は絶対にお薦めです。当然、佐世保時代の検査によって母には軽い脳梗塞が何回も起きていたことを私は知っていましたからね。
以前の旧ブログでも書いたように、私自身には睡眠時の無呼吸症候群というものが激しく出た時期があって以来、当時の医師からは定期・不定期な酸素吸入を勧められ、私の家には高さ80cm×径20cmほどの酸素ボンベを常備していて、実際に自身では使うことは殆どなかったのですが、母のお世話をするようになって以降はずっと母には定期・不定期に酸素を吸って貰っています。
この酸素を吸うことで意識がはっきりすることを知っている母は自らの体調に変化を感じる度に「そのスースーするのを吸わせてくれ」、と言うようになっていました。酸素を吸うという事は絶対に認知状態を改善しますよね。脳の血流に異常がある母にとっては酸素吸入は救いの神だと私は思っています。
「はい、酸素。これをスースー。ハーって吸うとよ」、と私が言えば、母は普段は絶対にしない深呼吸をしながら吸うのです。この母の姿を見るだけで、「あっ、お袋は生きる意志を強く現している」、と私が自信を持つんです。これが大事だと私は思っています。
私は熊本医療ガス(株)を利用していますが、医療ガスを扱う事業所は幾つもあって、皆様のお宅でも酸素ボンベの導入を検討されては如何でしょうか?。ボンベ補償金が¥10000(戻ります)、酸素の充填が1本あたりで¥3600。酸素を出す量にもよりますが、我が家の場合には5分間の吸入で1本のボンベが1ヶ月は使えます。
★:立田山自然公園に柵が作られ、歩行者には危険。
私は母に刺激を与えないといけないと思い、2009年の冬には明けて2010年の桜の開花時期を心待ちにしました。処が、立田自然公園の道路側には綺麗な柵が設けられてしまい、以前のように簡単には車を止めて「ちょっと散歩でも」、とはいかなくなっているんです。また、ちょっと大き目の車が来たりすると柵の手前ギリギリまで歩行者が追い詰められる格好になって、景観は良くなっても危険箇所が増えた感じです。
まぁ、幸いにも枝垂れ桜の綺麗な場所だけは柵がなく、母と私はユルリユルリと車を移動させて道端から池に向かって垂れる枝垂れ桜の見物ができた程度でした。
★:八景水谷(ハケノミヤ)公園
そこで、従来の散歩コースを八景水谷公園へと変更したんです。近年は湧水量が戻ってきているとも言われる公園内の遊水地。水の科学館が作られ、綺麗に整備されていていいですねェ。母はとても喜んでくれました。
「ワッチ・□△・、〇〇チレイ・・」、と母。私はこんな綺麗な場所には来たことない」、と言いたかったんでしょう。余りにも綺麗に整備された久しぶりの公園に私自身も驚いたんです。この八景水谷公園には2003年、2004年の歩行リハビリの際には何度も母は来ていて、時には車椅子を降りて自分の足で杖を使って歩いてみたり・・。そんな母の姿を思い出しています。勿論、その後も頻繁にきているのですが母は忘れているようです。桜もツツジもとても綺麗な公園です。
この公園にはよく通いました。デイの帰路、週に3日も通えば顔馴染みの方ができ、何度か挨拶をしているうちに「あれっ、若しかして、貴方達親子は何年か前にNHKの火の国youに出られたんじゃないですか?」、と訊ねられる日が増えてきたんです。「あっ、えーと・。ツヤさん。そうそうツヤさんでした、と言われると母は嬉しそうな表情していました。
NHKで報道された事などは母の記憶には全く残ってはいない訳ですから、母は知らないお方から笑顔で両手を握り締めて貰うのがとても嬉しいようでした。
「直裕っ、嬉しいもんだよ。娘も滅多に私の手を握ってはくれんし、息子(長男)に至っては生きとるもんやら死んでしまったかさえ(自分では)分からんようになったというのに」、と例の〇△□言葉でブツブツ・・と言います。
☆:2010年2月2日
★:「ねえ、また連れて行っておくれよ」、と母が・。[♪:兄ちゃま]の制作背景。
デイからの帰りの車中、「ホラ、あの・水の所さ」、「・・鳥がおったよ」、「また、行き・たいね」、「・あんたも行くネ」、「弁当の残りあるね」、と母が・。今の母が持っている会話能力はこの程度なんです。だから、私は母の次の言葉を待つ為に相槌しか打ちません。今の母には言葉を繋いでいっての長い会話は無理な日が多くなっています。
「あのさ」、「うん」。「連れて行ってよ」、「うん、どこに?」。「水があったさ」、「あ・、分かるよ」。「うん、鳥がおったさ」。「うん、分かるよ」、ってな感じで喋れば会話が成立するんです。母は「八景水谷公園に行きたい」と言っているんです。
母の一言に反応してこちらが長めの言葉を返していると、母は自分の最初の質問を忘れてしまうんです。これは、認知症の親を持つ介護家族の方なら理解して貰えますよね。このような日常の中で生まれたのが[♪:兄ちゃま]、という作品なんです。
「濱野さん、私達は貴方には優しさ、癒しを求めているんです」、とコンサートを企画して頂く方々は口を並べたような言い方をされる事が多いのですが、それだけじゃ駄目だ。苦しさ、辛さ、汚さだって正直に共有しあうべきだ、と私は思っています。
2009年12月18日の長崎コンサートでは男性客が多かったのが目立ちました。その男性客の多くがコブシで涙を拭っている姿を私は間違いなく目撃しました。これは介護問題がそれぞれの家庭での嫁だけの問題ではなくなってきている証拠だと思うんです。一時期の我が家でもその気配があったんですが、近年は私と同じように息子が母親や父親の介護をするケースが増えていて、嫁は亭主のその姿を見て離婚を迫るという・・。
皆さん、私が唄う[♪:兄ちゃま]に決して耳を塞いではいけません。この[♪:兄ちゃま]を聴く事で母が如何に私を信頼してくれているか、を感じて欲しいのです。
介護、頑張りましょうね。皆さん!、
☆:2010年2月3日
★:音楽
ここの処、詩作りも曲作りもサッパリと忘れてしまったかのような日々。この2年ほどはついつい作品作りに真剣になり過ぎた感があった気がします。その理由はコンサートの依頼が舞い込むようになったからです。結構、疲れているのに更に詩を考えてしまったり、自分を追い込むような日が多かった気がします。
よくよく考えれば現在の私はミュージシャンではないんです。でも、詩や曲を作る事で母の介護の疲れが取れていたのは事実だった事を考えれば、理想的な音楽の追求の仕方だったかも知れないと思っています。
私の作品作り・、日々の出来事、母との会話を殆どそのままに書いていればいつの間にか出来上がっていましたからね。まァ、これからもボチボチ頑張ってみます。
★:酒
酒の量がいつの間にか月に15リットルも飲むようになっていましたが・、今は半分以下の6リットルくらいに減ったのかな?・、多分、私の事だからやめる事ができるとは思っています。
でも、結構、苦しんでいます。以前、焼酎もウイスキーもやめようと思い、アルコール度数の低い日本酒を・と思ったのが間違い。2009年の夏などはいつの間にか冷酒を一日に1.8リットルをお茶代わりに2本飲む日があったりして自分でも「これは・大変」と驚きました。
多分、野球をしたい自分がまだまだ心の中に居座っていて、余りにも違う日常に対して「これでいいんだ」、と思う自分と「グラウンドを走り回りたい」、と思う自分が激しく葛藤しているんだと思います。1999、2000年にはシニア国体候補のチームの1塁手の予備補強選手として招待加入させられた程だから未練はどこかにあるんだと思います。
★:「もっと、明るい作品が書けないのか」、との問いに
母のありのままの暮らしを書いていますからね・。要介護度が5にもなれば、周囲の人が考えるほどに楽しい日常ばかりを送れる筈がありません。施設などでは床に横になったままボーッとしている人も居るくらいですからね。でも、実際には家族の同意を得た上で催眠導入剤を使っているケースが多いからですって・。
そうでないと、徘徊癖があるご老人などは危険ですしね。母の場合、外見で見た目には元気なんですが頭の中身が時として狂いだすともう・狂ったまま・。キツネさんに憑かれたんじゃないか、と思う日もあります。でも、母の要介護度5というのは左足股関節の骨折が考慮された結果であって、結果的に発語障害があると言われても母の頭の中ではくっきりとした文章があるはずです。脳が命じる長文の言葉を喋ろうとするとその通りの言葉が出ないという・・、状態だと私は理解しています。
★:聴力に関して
「寒くはないね?」、と聞く私に「はっ?・・うん、そうそう、そうだったネ。大事なモノを買いそびれたよ。あァそうだった。それに、今日から私はここに寝るようにTVのお姉さんが言っていた・」、といつも一緒に暮らす私でさえも訳が分からない事を突然に言い出したりする時が多い母です。この聴力に関しては脳の状態と深い関係があるようです。
だから、物事を母に問う場合、「あのね」、「今日さ」、「今は」、「雨だけど」、「夜になったらね」、「雪にね」、「なるかもよ」、と私の側が短い言葉を繋いで喋れば問題はないんです。母はその度に「うん」、「うん」と言って私の言葉を100%理解してくれます。
この点、我が嫁は介護の専門家だけあって、「ねぇ、お義母さん」、と最初に声掛けをして母に振り向かせた後、「雨・です・よ」、と窓の外を指差し、「夜は・雨・かもね」、と上手いものです。
このような日常に対して非常に戸惑う事の多い最近の母を前に私が明るい作品が書けるはずがありません。私は常に今の母を正直に書いているだけ・。勿論、[♪:春はまだ・]など長調を用いたアップテンポの作品もありますが詞の内容は切ないものです。
☆:2010年2月5日
★:ペット効果
母は意外な物事に反応します。例えば、私は母同様のご高齢の我が家のチッチさんにも日常的にマッサージしているんですが、17年目の猫ですから人間の年齢で言えば何歳でしょうね?。冬場には身体が硬くなるのは人間と同じだからとマッサージの回数が特に増えるんですね。
元々が不妊手術時の影響で腸に多少の癒着があって、食後1時間位すると「おえっおえっ、ゲフゲフ」、と吐き気を催す為に必ずお腹を右回りに擦ってやっていた頃から始まったチッチさんへの全身マッサージです。
だから、身体がコルという感覚は我が家のチッチさんにも理解できるらしく、「ネ、お願いよ。はい、身体揉んで頂戴っ」、って私に背を向けてゴロンと横になるのが多くなるのが冬場なんです。
★:「ペットは命あるものの一生を身近に教えてくれる」、とよく言われます
その通りだと思っています。この数年のチッチさんの表情や様子というのは本当に「ナオさん、ナオさん・」、と私に命の全てを預けているような気がしています。それに、逆に私が「あァ、・腰が痛てェ」、と言いながら横にでもなろうものならチッチさんは急ぎ足で私の傍に駆け寄ってきますからね。互いに労わり合い、頼りあって生きているのを感じています。
私とチッチとのこんな様子を母は7年間見続けているんですが、その母が最近は私がするようにしてチッチさんをマッサージしている瞬間を目にするようになりましたね。 「アンタもネ。大変ネ」、と言いながらチッチさんの後頭部や首周りを揉んでいるんです。
昨年までの母なら、「アンタはさ。猫にまでマッサージをさせられて・・」、と呆れた表情をしていた母が・です。認知が進む母ですが、こうした瞬間を目撃した日などには母とも猫とも同居して良かった、と心から思うんです。
★:未発表の作品の中にこそある、真実の介護生活。
2003年10月頃から作り続けた作品が50曲を数えました。この2010年の暮れには7枚目のCD:7が完成するのではないかと思っています。とは言っても、途中の14ヶ月間は母の歩行リハビリに集中していた為に休止していたから、実質5年半で50曲。よく作ったものだと思います。否、正確には母が作らせてくれたんですね。それに一曲、一曲を作る度の姉や嫁の批評が背中を押してくれていました。
実は、詩だけなら書き溜めたものはまだあって、その数は120編ほど・。途中まで作ってボツにしたままの曲は70ほど・。ですから、正確に言えば、未完成作品を含めば127作品程あるんです。
★:発表しない理由
それには理由があって、私自身がウツ状態の時に書いた作品には母親を罵ったような表現が沢山あるんです。だから発表できない。 でも、実はこの未発表の作品に描いている世界こそが本当の介護家庭の苦しみの世界のような気がするんです。このボツになった作品の中にこそ私と母のこの7年間の呻き声や叫び合いが・・、あるんです。
そのボツにした作品の中の[♪:叫び]というヤツを少しだけ紹介すると、「あァ、今日も叫んでしまった。心にもないような言葉で・・。今日も罵ってしまった。もう一人の私が・・」、とこんな感じの詩ですが、いつか修正を加えて発表するのかなァ・。
★:今日(2月3日)の夕食は[アオサ]の料理尽くし・。
「ホラっ、母ちゃん。珍しいのがあったよ」、とアオサの入ったパックを母に見せました。
「うーん、アオサか・・懐かしいね」、「これを・お日様に・干したものが海苔さ・・、あのー、何て言うか・・」、と母の言葉がなかなか続きません。
「海苔よね。ホラ、巻き寿司なんかに使う海苔の事ね」、と私。
「?・、そうそう・そう。これを干したのが・えーと、海苔さ」、と母。
「生は珍しいから買ったけど・、これでもパックで¥250もするとよ」、と私。
「ほへーっ、もしね、海の近くに住んでいたなら、アンタならチョチョイのちょいよね?」、と母。
「うーん、そうね。蛎にしても母ちゃんの好きな小さな蛎が一年中自然にいっぱいあるからね。海の近くに居るならこんなものはワザワザは買わんよ」、と私。
「それで・、こんなにいっぱいのアオサをどうして食ぶっとね」、と母。
「ホホ、そうね。・・えーと、味噌汁以外にアオサ料理か・・」、と突然に悩む私。
一応は母に話を合わせて考え込むのですが、それはそれ。買う時点で幾つかの料理は頭に浮かべて買いますよ。今夜はイカの刺身をメインにアオサ尽くしです。
①:アオサ&しめじ掻揚げ
②:アオサ&茹でエビ&シメジの酢の物
③:アオサ+納豆&カラシ
④:アオサと里芋のミソ汁
⑤:揚げジャガの醤油バター炒め
⑥:イカの刺身
☆:2010年2月7日
★:チンピラ漫画家やく・みつるに押し出された相撲協会。朝青龍が引退・・悲しいよ。
「本人の方から引退の申し出があった為、これを受理しました」、との事ですが、我が日本の文化で言えばこれは嘘。朝青龍に引退の二文字を選択させたのは相撲協会のはず。でも、本音は更に別。公正を期す為と外部から招聘した理事の発言権を認めたが故に墓穴を掘ったのも相撲協会。
この朝青龍の引退を決めたのはチンピラ漫画家のやく・みつるを始めとした横綱審議委員会の連中の言った「引退か解雇しかないだろう」、という言葉。
★:やく・みつるに言いたい。
品格ってなんだよ。日本人の品格ってなんだ。どこにあるんだそんなモノ。お前には品格があるのか?。そんなもの誰の目で見て言うんだ?、と。 お前にとっての横綱ってなんだ?。俺にとっての横綱観はお前とは違うぞ。休場中のサッカーがなんでいけないんだ?。酔って喧嘩がいかんのか?。暴力と喧嘩は違うぞ、と言いたい。
「警察に届けた方がいいんじゃないですか?」、とけしかけて問題を大きくしたのは一部のマスコミじゃないか!。しかし、実際には被害届出は撤回され、被害者(?)自身も「自分にも怒らせるような言動があった」、と認めているじゃないか。
最初に横綱を言葉で挑発した奴は許せるのか?。確かに殴るのはいいことではないが、殴らせるような言葉をはく奴はもっと卑怯な挑発行為だと私は普段から思っています。俗に言う「アゴ」、です。そう、あのどうしようもない寸足らずのやく・みつるのアゴと同じ。
それに、この殴られた奴は普段は横綱と同じ車に乗るほどに親しいんです。つまり、そのレベルでの言い合いが発展して掴み合いになって殴られたと・、言い始めたんですが、これが理不尽。
★:例えば、「張り手」。
あれはスモウだけではなく柔道にもあるんです。私にテコンドーを教えた韓国籍の先生は「立会いに張るのは卑怯かなァ。でも、柔道のように組み合いの最中に戦意を失くした表情をする相手に対し、[来いッ、コラっ]、と顔を張ったり、首筋に肘を強く当てて気合を入れることはよくあることだ、と言っていました。
まぁ、朝青龍は張りながら立つ癖が身についてしまったお相撲さんでしたからね・。ついついパシッと 、手を出す癖が普段からあったんだとは思うし、被害者だってそのくらいの事は分かっていたはずです。立会いながら張る力士では昔のお相撲さんに栃の海という人がいましたね。やはり小兵でした。
★:関係者は大事なポイントを見落としている・・。朝青龍は左利き!
私は会った事はない朝青龍ですが、テコンドーをやっていた経験で言えば朝青龍は絶対に左利きです。つまり、左手で殴っていたのなら本気で殴った。でも、右手で殴っていたのなら「よせよ、うるさいよ」、と。その程度だったはずです・。それにグー握りで殴ったか開いた手で殴ったのか・・。その辺を知りたくて仕方がありませんね。
それに、お相撲さんって脇を固める基礎ができているから[カチアゲ]っぽい手の出し方になっていて、この内側から出てくるカチアゲは拳でも平手殴りもとても効くんです。
★:マスコミは「朝青龍には常に暗い闇の連中との付き合いの噂があった」、と言うが・。
何も、その闇の連中との付き合いの噂を今回の処分の引き合いに出す必要はないんじゃないかと思います。ヤクザの世界との噂だったら過去の横綱の中で噂がなかった人を探すのが大変なほど。それに、世界は違いますが力道山や美空ひばりさん、勝新太郎に石原裕次郎に三船敏郎さん・・。いろんな人たちが暴力団との繋がりを噂されたはず。否、噂ではなく事実でした。興行をする事で収入を得るプロのスポーツや演芸の世界であれば昔から言われ続けているんです。
フィギアスケートやサッカーのエキシビジョンマッチにプロ野球、プロレス・・、とヤクザ世界と縁がないものを探すのは不可能な事です。闇の世界との繋がり、警察関係との癒着は日本の伝統的な文化だから仕方ありません。
朝青龍問題が問題ではなく、その問題の根っこには日本相撲協会があるんです。文化財保護の名目で年間に1億からの助成を受けているんだから、相撲協会が変わらなければ何も変わりません。
朝青龍には仮に普段からの噂があったとしても、大きな問題にはならず訴訟事にもなっていなければ立件もされていない過去の噂を今回の件と直結させてはいけません。一種の有名税。妬みです。因みに、朝青龍を好きなのは私の母であって、あの立ち上がりざまの張り手は私も好きではありませんでした。
★:やく・みつるは引き篭もりで自閉症。
横綱審議委員の中のやく・みつるという下手なあの漫画家。彼が大相撲を語る際にもあの被る帽子・、それに口ひげ・、あれも劣等意識の現れですね。普通の格好では大事なことは喋れない。特異なファッションで身を纏い、周囲の目をそっち側に引き付けながら本音を語るという、俗に言うミエミエの会話術・。あれは自閉症気味の者が好むファッション。深く被った帽子の奥から時折見せる目を気持ち悪いと思う人は多いはず。
その自閉症にもいろいろあって、自分からは話の場を作れなくても周囲が話す場さえセットしてくれた途端にベラベラベラと喋り出すタイプもあるんです。彼がそのタイプ。 彼には日本の伝統を語って欲しくはありませんね。アゴで生きるに迫力不足とばかり、ヒゲまで足してやがる・・。お前に横綱の品格を語る資格がどこにあるんだ?。
まず、マスコミ人としての品格を持て。
★:釈明を求める?・・
見てもいない、立ち会ってもいない現場の出来事に対し、何故に一方的に横綱の方が悪いと決め付ける事が可能なんだ?。朝青龍がそんなに偉大なのか?。力士の中での小兵に類する朝青龍は努力に努力を重ねて横綱になったはず。我が日本人が貧弱過ぎるだけじゃないのか?。
横綱の地位が特別な存在だと思うから?。モンゴル人の彼に対して日本人であれ、と求める事自体が無理なんだよ。本当にそう思うのであれば、最初から横綱には推挙しなければいいはず。責任をとるんであれば、彼を横綱に推挙した横綱審議委員会自体も同罪のはず。彼等はそこが分かってはいない。むしろ、やく・みつる自身も自分のい発言が朝青龍引退に利用されただけに過ぎないこと。
横綱だって普通の青年なんです。「朝青龍は偉い、凄い」、と思い込む前に普通の人間だという事も知るべき。怒りだって普通に持っているし、26歳の頃の朝青龍であれば殴らず、29歳にもなっている朝青龍だからこそ殴った、という事も人生の中では普通にあるとは思わないのか?。
☆:2010年2月8日
★:外人に門戸を開放した日本相撲協会側にこそ変革が必要。
今や「大相撲はオオズモウ」、「力士はスモーレスラー」、と和英辞典に訳される時代。現実を見れば大相撲は既に国技ではなくオオズモウなんです。世界に解放したはずの相撲道の世界に飛び込んで生きる者全てに、「日本人タレ」、と言っても、「この鼻タレ」、としか言われんゾ。やく・みつる君。
「引退勧告に従わないなら解雇。過去の優勝歴も戦績も存在の全てを相撲史から抹消するぞ」、と言われれば、幾ら強気の朝青龍だって泣きますよ。
★:責めるより・・認める事をしろよ
では、言ってやろう。我が日本の男がモンゴルに単身で行って、言葉を覚えてモンゴル相撲のチャンプになれる者が居るとしたらやってみろと・。相撲道の礼儀作法?、それが何だ。朝青龍は我が日本という国の国技である相撲の世界でチャンプになった男ですよ。 つまり、この段階で相撲はスモウになって日本の国技ではなく、つまり、我が国で言われる相撲道は既に遠い昔に消滅し、今やスモウドウみ変化していること。
朝青龍が両手を上げて現す歓喜の姿。それに土俵上で示す歓喜のガッツポーズと笑顔・。いいじゃないですか、彼がやる動作、彼の勝ち方・、相撲協会がモンゴルでスカウトしてきた逸材のする事。
十両で終わったり、大関取りで精一杯だった連中が金で勝ち取った親方株をちらつかせて現役の横綱を批判すること自体が越権行為。それに警察OBやチンピラ漫画家の外部理事も。
高見桜という日本人お相撲さんなんか「オッオッオッ」、とガッツポーズの連続じゃないか?・・彼は何故、責められないんだ?。彼が横綱だったら責めるんだろう?。相手次第で変える意識が差別の始まりだと私は言いたいんです。
★:理事の一人一人に言いたい
あんたらが27,28歳の頃の自身の社会性、人間性ってものを振り返ってみろ、と。あの偉大な北の湖元理事長の横綱時代には勝利インタビュ-にもまともには答えられる人ではなかったはず。彼は理事長になって以降に成長したんです。
★:以前にも書いた元横綱・輪島関のケースと似ている:狂っている相撲協会
大学卒のお相撲さんでは先駆者の日大相撲OBの輪島さんが居ます。元・横綱ですが、当時の相撲協会は輪島関が大学出だという事自体を好みませんでした。それに砂浜ランニングやダンベルを始めとする器具を使ったトレーニングを行なうのを非常に嫌い、当時の輪島関に何度も注意を促しています。でも、彼は自分の意思を通した練習方法を変えませんでした。
テッポウにぶつかり稽古という旧態依然とした枠をはみ出した輪島関の新しいトレーニング方法は伝統的で古式ゆかしい我がニッポンの国技には相応しくない、との理由で輪島関は相当に辛い思いをさせられていたんです。
今では珍しくはありませんが、簡単に言えば、当時の横綱・輪島は大卒横綱というだけで当時の相撲協会に否定され、引退後は馬場正平という方が主宰するプロレス団体でレスラーとして再出発したんです。
★:伝統の常識・の間違い。野球で言えば
今で言うアイシング。特に投手などが投げ終わった後のベンチで冷たい氷パックを肩にあてて冷やしています。あれでさえ近年になって医学的に認められて常識化したもの。それまでの野球界ではホットパックで暖めるのが常識だったんです。それが今ではアイシングが常識。ホットパックは筋肉の炎症を酷くするという理由で医学によって否定されました。相撲協会の連中は全員の頭にアイシングをしたらどうだろう。
★:お相撲さんには外出時にまで注文が
「ジャージはいけない。浴衣着で外出しろ」、との指導も厳しいんです。今の時代にそんな事を言っても・・、と思いません?。炭酸系のビールも控えて日本酒(焼酎)にしろとも・・。
今一度、伝統とは何か。何の理由があって外国人お相撲さんを育て始めたのか。その為に一つ二つと壊した伝統(日本人としての拘り)が果たしてあったのか・。そんな事を考えないと大相撲はただのデクの坊のサーカス小屋になってしまいますよ。第一、土俵が狭いから投げ技が殆どない。いつの時代の土俵で相撲をとっているんだと素人ながら思います。土俵周りは径を左右で40cmくらいは大きくしないと投げ技は絶対に復活しません。
★:一門制度など廃止し、全部屋の総当り制で。国の助成金1億円も廃止したがいい。
同部屋対戦には部屋別育成での支障もあるでしょうが、せめて全部屋別のトーナメント制にした方が余程面白いと思いますね。番付制もやめて年間ランキング制に・。それに助成金の年間1億円も助成目的であるお相撲さんの発掘育成費用として使われているのは10%程度と言われていますから廃止。これで闇の世界とも縁が薄くなるはず。
真に相撲協会を正したいなら・。まずは、国は相撲協会への助成金を廃止し、育成効果を上げる部屋別助成金を。NHKによる放映もハイライトシーン程度へと縮小して相撲界の自助努力を図るべき。この相撲協会の内部抗争など例の日本航空問題と似たような部分が多いんじゃないでしょうか。
今回の朝青龍の引退事件。我がニッポンにとっては大きな損失のような気がします。特に、引退の直前の本割場所では優勝しているだけに・、恥ずかしさだけが汚点として残るニッポンの大相撲史に残りそうな気がします。
本割場所では必ず天井に掲げられる数十枚の歴代優勝力士の写真がありますね。この天井に掲げられた朝青龍の写真・・。暫くは、我がニッポンの土俵を睨み続ける事になりますね。
☆2010年2月10日
★:たまには女性の話を・・。木戸真亜子さん、大林素子さん・・。
先月、NHKの夕方のある番組のコメンテーターとして出演していた木戸さんの姿を久し振りに見ました。彼女も介護暮らしの経験者でしたよね。元々はモデルさんなんですか?。よく存じ上げなくて済みません。
でも、何故かしらこの20年来の大ファンなんです。画家としても活躍されているようですが、私は不定期にTVに出演される木戸さんの姿を見る度に身体の疲れが一気に取れるんですね。木戸さんには素の魅力がありますよね。
TVカメラが自分を追っていようがいまいが、そんな事は全く関係なく私の前に普段の素の姿を現しているような気がいつもするんです。それに、私が苦手なボランティア活動もされていますね。素晴らしい方だと思っています。
誰かに会うことで、例え会えなくともお姿を見れるだけでホッとする人っていると思うんです。私にとっての木戸真亜子・・、言葉で語れないほどに苦しみを知っている人。そして、もう一方の肩には私には持てないほどの幸せを担いで生きている人・。彼女はそんな存在ですね。少しだけ化粧が濃くなったのか、元々上手くはないんでしょう。
それに、バレーボールの元日本代表の大林素子さんのいつも明るい表情がいいですね。スポーツの世界で生きてきた方ですから、自らの悩みを隠して励まし役に徹する内にあのような人間性が身についていったんだと思います。言葉を換えれば、人に尽くす人・、そんな気配を感じる人です。
★:悩みなんてないはずがない、のに明るく振舞える勇気こそが本当の勇気。
母とピッタリとくっ付いて生きているこの7年の私自身の世界がとても狭いからか、TVで見掛ける人を外見的に語るしかないのですが、木戸さん、大林さんに関しては間違ってはいないと思いますね。
★:時にはTVの音を消音にし、画面に流れる人や風景を見る私。
昔、宮田輝さんというNHKのアナウンサーが居ましたが、幼かった私はあの人の目尻のシワを見るのがとても好きでした。「あァ、この人は人を幸せな気持ちにしてくれる人だ」、と思ったものです。
「会った事もない癖に・・」、と言われそうですが、会ったばかりに実像とは違うレッテルを貼られる事も多い世間です・よね。
それに、TVの音声を消して見る[人の手の加わっていない自然風景]などを観るのもいいものです。心の中のモヤモヤが消え去って涙まで流している時がありますよ。私、どうしてこれほどに懐古主義なんでしょうね。
多分、9歳の時に止まったままの時間を背中に背負ったままで生きているからだと自己分析しています。ずっと、「生きて居たくない」、と思い続けた私の人生でしたからね。だから、私に生きてこその人生を与えてくれた嫁と母。そして、支えてくれる姉にはとても感謝しています。宮田輝さん、木戸真亜子さんにも・・。
☆:2010.2月11日。
★:今日は私の誕生日。
嫁が「お義母さん、今日は直さんの・誕生日ですよ」と言っても、「直裕は私の子だけど、直裕は何処に居ると?」、と・。「ほら、ちゃんと貴女の目の前にいるでしょっ」、と嫁が言えば「・この人はイサムさんで私の兄さんですっ」、と語気を強めて怒る母。まぁ、それでいいか。
嫁は夕べから仕込んでいた赤飯で祝ってくれました。最初、母は「ん?・・、誰の誕生日?」、「直裕?」、「この人が私の子供?」、等々と言っていました。でも、思いだしたらしく照れながら「直裕ドン、おめでとう」、と言ってくれました。
★:国境を越えたフィギアスケートぺア万歳!。ニッポンの相撲協会とは大違い。
川口悠子&アンドルフ・スミルノフというフィギアスケートロシア代表のペアは素晴らしい感動を運んでくれました。
「成績なんて気にしない。ひたすらに4回転ジャンプを飛ぶ為にロシアに帰化してまで頑張った日本人・川口悠子さん。
前日の規定では3位。2日目のフリー演技で起死回生の逆転を狙いたい川口さんは本番直前にその4回転ジャンプを封じられたショックからかミスを重ねて4位に後退してしまいましたが、35,7kgの小さな身体でありながら8年にも及ぶ彼女の勇気と行動力には多いに感心させられた方は多かったと思います。
その感心ついでに言えば、ロシアという国がオリンピック13連覇という記録の掛かった大会にロシア国籍を取得した川口悠子という日本人をロシア代表として認めた事に最初の驚きがありました。
ペアスポーツの世界では国籍を越えたカップリングというのはヨーロッパでは普通に行なわれていて、テニスのペアなどが代表的な姿ですね。今後はこうした傾向が更に広がってくると言われています。相撲協会とは大違いです。
★:そこで・・、例の朝青龍問題
こんな国際的なスポーツ大会などを見ていると、例の朝青龍問題でオタオタヨレヨレの失態振りを見せた我が国の相撲協会の体制作りがホント・、デクの棒集団に見えてきます。普段から世間に知って欲しくない部分にはフタをするだけフタをしておいて、朝青龍が外国人横綱というだけで・・。
今回の朝青龍の引退騒動は天の裁きとは絶対に思えない私です。そう、相撲界の臭いゴミ箱の底を互いに突付き合っているだけの世界のような気がします。
★:朝青龍・・モンゴルの青い空の下で我がニッポンをどう思うのやら・・。
初土俵からほぼ10年で相撲の頂点を極めた彼。功労金が1億2000万、懸賞金の積み立て分が1億2000万と言われます。モンゴルに戻れば大統領候補とも・。でも、モンゴルにそんな大金を持って帰っても使う場所があるんでしょうかね?。日本で身につけた価値感、人生観を捨て去って普通のモンゴル人に戻れるかどうか・で彼の今後が決まるでしょうね。でも、高校時代から住み慣れた日本・・。もう、彼はモンゴルでは暮せない気がします。
そう考えれば、私達日本人は[モンゴルの相撲少年]の努力と才能を利用するだけ利用した挙句に切り捨てたような気がしませんか?。私達は彼の人生を滅茶苦茶にしたのかも知れません。好き嫌いの問題ではありません。
★:朝青龍が持ち歩く1個のマグカップの話
彼は億という単位の金を稼ぐ一方、来日したばかりの貧困時代にゴミ棄て場で拾った1個のマグカップを現在でも持ち歩いているような人。この話は有名な話でご存知の方も多いはずですね。
私はその事だけでも尊敬に値する人物だと評価しています。因みに、私が今でも使っているまな板は学生時代に使っていたものです。常に、[あの頃]を忘れてはいけないと思うからです。でも、日本人って心まで貧しいから人の噂でメシ食ってる部分があるからなァ・・、朝青龍・・ゴメンよ。
☆2010年2月12日
★:理解できるようになってきた母が使う言葉&言いたいモノの名前。
母はモノの名前・名詞に対する記憶の失せが早いようです。だから自分から話し始めても途中で話すのをやめてしまうケースが増えてきました。でも、極力、母が言いたい事を理解しようとしています。
デイからの帰路、「あれはいいよね・・柔らかくて食べやすい・・、えーと、ホラえーと」、と母が言う場所は道路の左手にあるウエストというウドン屋さんで出されるウドンの事。私の作品の中の[♪:人生万歳]に出てくるお店です。
このウドン店の前を私の車が通り過ぎる頃にはよく母がウドンの話をします。ほぼ毎日の事ですから、「今日もお袋はまた言うぞ・」、と。このウドン屋さんの次は熊本北高校のそばを通った際に言い出す、「へーっ、見てご覧。売れ残った箱が一杯」、という言葉です。
母が表現する箱とは車の事。これも毎日使う言葉です。母は北高校の正門に設けられた職員用の駐車場に留められた車を箱と言うんですが、実際には悲しい話であって、母の目には網膜黄斑変性症というのがあって、
見た物の形や色が正確には見えていないんです。丸めたマフラーや机に置いたままの野球帽が背を丸めた猫に見えたりするのです。
母が何をどのように見て、その見えた物のどこをどのように私へ伝えたがっているのかを分かるようになるには随分と時間が掛かりました。この半年前に比べ、実に多くのモノの名前を「アレ」、と言うようになった母。それは単なる発語や失語障害があるからだけではなく、母の目には網膜黄斑変性症があることが理由でした。
つまり、「車のようだが箱のようにも見える、でも違うかも知れない、丸めたマフラーのようであって背中を丸めた猫のようにも見える」、という母の心の迷いが言葉数を減らし、思い切って口から出した言葉が「ゥワコ(箱)」だったり、「ゥメコ(猫)」、だったりするんです。
「何を言っているんだ?、何を言いたいんだ?」、と問い詰めても、もう・無理で母が哀れなだけ・・。母は「あァ、・私は次々に喋れなくなっている」、と日常への自信を失くすだけ。だから、私は母を問い詰めることはしません。
★:母には周囲の話を適当に聴き流す癖が出始めた。
母から言葉が次々と消えていっている事は一日の終わりに電話で必ず会話する長崎の長女・紘子はなかなか気づいて暮れません。でも、現実には今の母は姉の話に相槌を打つだけ・。「ふーん/そうね/アっハハハ・・」、と。
例えば、電話の会話で紘子が「母ちゃん、悟が日本に帰って来てからはアメリカ人と話す機会が減ってしまって英語を忘れ掛けてね・それでは駄目だというので・」、と言っている最中、母が「そうそう、悟君ネ。アメリカにはいつまで居るとネ?。あんた達も寂しかろう・」、とこんな感じになりがちなんです。
だから、姉が電話の最中に「母ちゃん、私の話はちゃんと聴いとるね/何かしながら聞いちゃいかんよ/話の中身が分かって聞いているとね?」、と訊ねるんです。
「姉ちゃん、アンタの話は母ちゃんには全く通じちゃおらん」、と姉には言いたいです。悲しい現実です。
★:母には[ナガラ話し]の癖があるのが災いしている。
姉が必死に母に話し掛けて刺激を与えようとしているのに母は受話器を右手で持っては左手で畳んだ洗濯物の上に座る猫のチッチさんに「コラっ、あっちへ行け」、と・。チッチはチッチで母の気をを引こうとワザと洗濯物の上に乗るんですね・。もう、話の筋が理解できない母にとって、長女・紘子からの早口の電話は母にとっては苦痛以外の何者でもない気がします。
次のような事もよくあります。我が家の母がTVを母なりに見ているとして、その最中に長崎からの電話があったとします。
紘子:「母ちゃん、今日の学校(デイ)はどうだった?」。
母:「今日も楽しかったよ。ありゃ、ありゃ~。赤が・」。
姉:「??赤が何ね。・・あっ、そうか学校で運動会でもあったの?」。
母:「運動会?、・・・えーと、空に青が。うわっ・飛んで行って・」。
姉:「???・・・・・・」。
これ、実は姉との電話会話の最中に母が見ているTV画面の中で赤色の綺麗な鳥が青い空に羽ばたいているシーンなんです。でも、電話の邪魔にならないようにと音を消しているTVを母は必死に見ながら姉とナガラ会話をしている様子です。でも、これは我が母の認知の進行が早まった状態だとは必ずしも言えないんです。
母の性格には若い頃からこのような面が多分にあって、今でも母の性格の一つとして残っていて、母のこうしたいい加減な面が時として母自身を危険に晒す事になっているんです。
オシッコの介助の際など、「はい、前の鉄のパイプを掴んで/動かないパイプの手摺りのことよ」、と言う私に対して、母は「はいはーい、手摺りネ」、と言う一方、もっと向こうのドアの手摺を勝手に掴もうとして真横にドス-ンと転倒した事が何度もあります。
私は母が動かない手摺りを確実に掴んでいる、という前提で母のズボンを両手を使って降ろそうとしている時ですからどうする事も出来ません。これは母の目に見えている、見えていない、の問題ではなくて母自身の性格の問題なんです。
★:必ずしも聴力ではなく、聴く為の気力のようなモノが次々と消失している。
夕方、食事前のトイレを済ませ、洗面所では母自身で形だけですが手を洗わせ、居間に戻って、さぁ、母を座椅子の座らせようとした際の会話を次に再現してみます。
私:「はい、テーブルに手をついて」。
母:「はいはい、テーブルに手ネ」。
私:「はい、次は身体の後ろの(座)椅子を右手で掴んで座るよ」。
でも、母はなかなかテーブルの天板に左手をついたまま座椅子へは座ろうとはしません。
母:「はァ?、いつ頃からって何がネ」。
私:「そんな事は言っちゃいないさ。身体の後ろにあるイス(椅子)を掴んで引き寄せてくれ」、と再度指示しても、
母:「はァ?、釜戸の虚ろが何だって?」、と母。母の耳にはイスがイツと聴こえたらしいのです。、
私:「もう・・、母ちゃん。しっかりしてくれよ。ケットルの湯が沸いとるよ」。
母:「あのさ、さっきからカチャ、カチャって・、そりゃ、何のこと?」。
私:「・・・はぁ?、??、あっ、カチャじゃなかさ。母ちゃんって言ったのさ」。
母:「はいはい。な~に?」、と・・。
私:「あっ、痛っ。腕が痛い」、「頼むよ、母ちゃん。椅子さ、さっきから椅子を掴めと言っとろうが」。
母:「いつから亀とどこに行ったってネ?・はて?」。
・・、とこんな感じの母と私の食事前の居間での会話。これって、決して笑う場面ではなく危険な瞬間であって、皆さんを笑わせようと嘘を書いているんじゃありません。
[今は何をしていて、その事に神経を集中しないと危険だ]、という意識が母には欠如しているんですね。つまり、母の中では「この人(私)が傍に居る限り、私は安全だ」、と思い込んでいるのが辛いし、母の体重を支えたままの私の腕が可哀想なほどに痛いんです。
私:「椅子さ、椅子。テーブル&椅子の椅子さ」、と声が枯れるくらいに何度も言い直して初めて母は「ははァー、私は座ってご飯を食べるんだ」、と理解するんです。
介護経験の諸先輩の皆様・・、私の日々を分かって頂けますか?。
☆2010年2月13日
★:我家の庭に蕗のトウ:味噌汁で・。
毎年の事ですが一足先の春の気配を感じています。ちょっと苦味がありますが蕗のトウがコン二チハと顔を出していたらしく、デイから帰ったら今日は休日の嫁が庭から摘んできていました。蕗・・大好きです。それに、蕗でありながら全く味が違う蕗のトウも・。春を代表する味覚ですね。
テンプラ、酢味噌に酢醤油でも上手いものですが今夜は味噌汁で食べようと思います。苦味が強いから前もって茹でてアクを少なくしておくのが私流です。
煮過ぎるとあの緑色が茶色に変色しますから蕗のトウの葉の部分だけは先に取り、トウの部分は3等分程度にしてから熱湯で茹で、遅れ気味に葉をサッと追加して火を止めるような茹で方をしました。
そして、別鍋で味噌汁を作って食卓に出す寸前に茹でて取り出していた蕗のトウを入れ、試しに刻みベーコンを入れてみたらこれが旨味を出して絶妙な味になりました。白ネギがあれば使いたかったのですが・。
★:母が哀れに・。時々、こんな事が・・。
「あの人、いつも車椅子であそこの箱(エレベーターの事)から出て来なさるね。ここに住んどらすとネ?」、と母が言います。「うーん」、と私は返事に困ります。
入所したままで歩行が全く出来なくなってしまうお年寄りは多いものですね。その事をどのように母に説明していいものか・。
それに、「可哀相ね・あの人・・。ほら、あの人はいつも(車)椅子に座ってさ。いつも誰かに押して貰ってネ。いつもさ。・・辛かろネ」、と母が言う日があるんです。こんな質問が私は苦手です。
「アンタだって車椅子じゃないか」、とは私に言える筈がない・。
家でTVを観ている際、画面に車椅子の人が登場するシーンって結構見かけますよね。そんな時の母は「嫌ネ・、私はこんなにまでして生きていこうとは思わんヨ」、と言います。
認知が進めば昨日今日が分からない処か、[今の自分]が分からないんです。要介護度が5にもなれば誰もが大きな変化があるんでしょうね。
★:夕方、TVで美しく復活した水俣の海を見て・。
「もう、死んでしまった」、と言われた水俣の海。TVを通してではありますが久し振りに見せて頂きました。奇麗、本当に奇麗です。美しい海でないと生息しないと言われるタツノオトシゴの姿も今では見られるとか・。、心から良かったなァと思います。単純ですがTVの前でボロボロと涙をこぼしていました。私はこんな話に弱いんです。
故郷の水俣で暮らす父親の体力が弱り、横になったままの日が増えてきたらしい。自分(息子)だけが東京で恵まれた暮らしをする訳にはいかない、と会社を辞めて水俣に帰り漁師になったという方がTVで報道されていました。
父親は水俣病と診断されたにも関わらず、ブルブルと震える身体にムチ打っては働き続け、自分を大学まで進ませてくれた・・。
「母親は私が幼い頃に他界。私は父親の手で育てられました。だから、今度は私が父の世話をするんです」、とこの漁師(息子)さんは話していました。
そんな話を台所で聞いていてグスグスと鼻を鳴らす私に気づいた母が洗濯物を畳む手を休め、「アンタは・・なんで涙バ流しよるとネ。何が悲しいと?」、と母が驚いて聞いてきました。
「あはァ・、何か分からんけど海見たり山見たり、空見たり、雲見たり、それに雨の降る様子を見ていると・、何だろうねェ。特に雨の振る中に居るだけで不思議な感情が湧いてきてさ・、その上にこんな孝行話を聞くと俺なんか恥ずかしくて・・(もう、母は私の話など聞いちゃいません・ちょっと長過ぎました)。
母と私の関係はこんなものだとつくづく思いますね。母にとっての私は当たり前の存在であって、特に孝行息子とも感じてはいないし、母自身では息子の世話になっているとも感じてはいません。勿論、母には認知があるからこそのこうした関係が構築できているんだと思っています。
恐れ多い親に対して恩を売る気もなく、孝行をしているという意識もまったくなく、ただひたすらに何事もなく、何かがあれば俺がどうにかしよう・と、母には穏やかな人生を全うして欲しいと、ただそれだけを願って暮らしています。
親を出し抜く気もなく、親の控えに甘んじる気もなく、私は私自身の決意を裏切る事なく、母の人生を支えることを今日一日、明日一日と続け続けているつもりです。でもです、私の中のどこかに「それでいいのか・?」という問いが常に付き纏っており、「駄目だなぁ、俺は本当にそんな人間だったのか?」、と思う瞬間は毎日のようにあります。
その理由は余りにも世俗的な妬みかも知れませんが、我が姉が海外旅行に行っては「母ちゃんに見せて」、と次々と写真を送ってくる時、我が兄が息子や孫達と「ああだ、こうだ」、と揉めていると伝え聞いた時などは羨ましく思う時が数多くあります。
決して善人ではなく、過去を振り返ればむしろ黒いモノを多く背負っている私が今になって母とのこの暮らしを送っている訳ですからね。いろんな葛藤があるのは隠すことは出来ません。
壊滅的な状況から見事に復活した水俣の海や山を見る機会がある度、小さく縮んでしまった自分自身の姿をそこに感じるんです。私の思い描いていた夢って、確かにありましたからね・。多分、「もういい加減にしときなさい」というストップを掛けたのが我が母の来熊だったのかも知れません。
★:海を護ろう・・なんて運動自体が変・。
海を筆頭に自然には凄い自浄作用があるんですよね。人間が普通に暮らす分の生活廃水なんか大した問題ではないんです。ご飯粒だろうが野菜くずだろうか本当は海に流れ着く前に自然分解して川魚などの餌にもなり全てが消失するんです。
処が、大地(土)から生じた物質に化学反応を起こさせて新たに作り出したモノの自然消却サイクルが不可能。洗剤や石油を原料とした化学製品などは地球には戻らないんですね(石油自体を分解する微生物は居ます)。
海を護ろう、山を護ろう・・、なんて運動が継続的不定期に行なわれてはいますが、そんな事よりも人類の生活そのものを昭和30年代に戻したいのが私の夢。
私は只の懐古主義者ではありません。現在の医療や化学・・、そうした文化を持って行った上での30年代の暮らしです。何も石炭掘って蒸気機関車を走らせて・、という意味ではないんです。
★:精神性を求める人が増えている背景・。
私に言わせれば妙なブームだと思うのですが、[富士登山500回]、[遍路行脚1000日]なんて事を自慢話にする人が増えていますよね。[自転車で日本縦断4回]なんて人もいます。健康の為だけにならやらない方がいいでしょうね。不十分な食事や関節への負担などを考えれば老いた先で「あれが祟ったのかも・・ちょっと無理していたからな」、と思う時が来るのではないかと思います。
問題は、そこまでして精神性を求めなければ自分の存在が確認できないような世の中になっていっているのではないかという事です。私自身も過去のブログで書いたように、高校時代には台風の来襲で荒れ狂う佐世保の鹿子前の海に飛び込んで3~4km向こうの島を目標に泳いだり・・、そんなバカな事までして自分の力を試した事がありますが、今思えば震えがきます。
でも、私達の運命は今という時代に常に影響を受けているんですね。その今という時代が虚しいから[富士登山500回]、[遍路行脚1000日]、[自転車で日本縦断4回]・・等々をしてみたくなるんだと思うんです。この心理、私が若い頃に山に篭もって暮した事と殆ど同じ動機ではないかと思うんです。
朝青龍の話で酒を交わしてもクソ面白くもないでしょう?。小沢さんが、鳩山さんが・金を誰かに貰ってどうだこうだ・、練炭自殺を装って殺人を繰返していた女が・・、手玉に取られる男も男だと思いません?・・、ホントに我がニッポンってとんでもない話題ばかり・・、否、こぞってそんな話ばかりを垂れ流すマスコミにも呆れます。¥26000の子供手当より、これから子供をどうやって増やすか、女性が働けて子供を生める時代をどうやって作るかの提言をしろよ!って思いません?。すべてに中途半端の今のニッポン・・飽き飽きですよ。
☆2010年2月15日。
★:一通の母への封書が・。
佐世保市世知原町に[山暖簾]というホテルがあります。切り立った崖の上に迫り出すように作られたテラスからの眺めが絶景と評判のホテル。それに、ホテル玄関前の八重桜が有名です。
数年前、このホテルで長崎に住む長女の紘子と深江免江迎に住む従兄弟の河内義統氏と待ち合わせ、母と嫁と共に熊本から向った事がありました。そして食事の後には母の故郷の歌が浦へ向ったのですが、今日はデイから帰宅した我が家の郵便ポストに[高橋ツヤ様]と書かれた1通のお礼状が届いていたんです。
「おっ、母ちゃんに手紙よ」、と私が言うと母は喜色満面。世を捨てたような扱いを受けているお年寄りにはこの瞬間はとても嬉しいんです。
「へーッ、私ネ。珍しい事もあるもんだ。一体、誰からネ」、と・。
「うん、ほら、世知原にある山暖簾というホテルからさ。何年か前に歌が浦に行く途中、紘子や義ちゃん夫婦と昼ご飯を兼ねて集まったじゃないか」、と言っても今の母には無理。
「義ちゃんの奥さんのミッチャンもあの頃はまだ歩いていたんだけどね」、と言うと、「義ボーの奥さんネ。どこか具合でも悪いとネ」、と・・。51歳で発症したアルツハイマー型の認知症で今では寝たきりのミッチャンなんですが・・。
「あー?、山暖簾というホテルは忘れたけどこの八重桜の事は憶えとるような・・」、と母は同封されていたパンフレットの写真を見ながら言います。
この処、洗濯物畳みがとても上手く手際も早くなっていた母ですが、一昨日と昨日は実にスローペースで一向に手が動きませんでした。私のパンツを1時間もかけて畳んでは開き、開いては畳み・。なんか、珍しいんだろうか?。
でも、今日は[ホテル山暖簾]からの1通の販売促進の手紙を手にして上機嫌で洗濯物を畳んでくれました。
「あんたはサ、・ここには行った事があるかネ?」、と母が言うんですが・・。ホテル山暖簾さん、例え印刷物でのご案内であったとしても我家にとっては嬉しい1通の手紙でした。
☆2010年2月26日
★:今日は母・ツヤさんの97歳の誕生日。
「はい、お義母さん。我が家に実ったイチゴよ」、と嫁。
「・・・・」、と何となく無愛想に受取って眺めています。
こんな時の嫁の気持ちってどんな感じかなァ、とよく思う事があります。もし、私が嫁の実母と同居しているという立場で同じような事があったとしたら、私の気持ちはどんなかなァ・・と。多くの介護家庭で似たような問題があるのですがそうした意味では母が憎い・のではなく老いが憎くなりますね。
昨年もそうでしたが、今年もケアマネの有江さんが花束を持ってきてくれました。自分の担当するお年寄りが誕生日を迎える度にこんなプレゼントをしていたら大変でしょうに・と思います。有江!、サンキューです。
「ほんに(本当に)・あの人はお話好きだから・私しゃ疲れるよ」、と母。
「そんな事は言うなよ。いろいろとお話をすることでお年寄りの健康状態を調査しているんじゃないか。それに、気を遣ってくれている事をひしひしと感じるだろうよ」、と聞けば、「そりゃ・そうだネ」、と母。
この数日前にはデイ施設の方で2月生まれ組のお年寄りの誕生日合同祝いが行なわれ、花1輪と記念写真を貰って帰った母。毎年、施設の同じ場所を背景に一人一人撮影されるのですが、この同じ構図で撮影された写真を並べて見ていると老けてゆく母の状態がよく理解できます。
天然の嫁は「お義母さん、ちっとも変わらないネ」、と言っていましたが、1日19時間も付き添う私から見ればいろんな面で大きな変化が確実に母に訪れています。
老いの見方は人によって違っていて、皮膚の状態や背中の曲がり具合、言葉の呂律・・、いろんな見方があるのでしょうが、私は母の老いの目安を目の力・眼力でみるんですね。
97歳の母の写真、何だかすっかり諦めきったような力のない目で老いを訴えています。
一日の中で、「寒くないね」、と聞くのは私の常ですが、昨年までは「大丈夫よ」、「寒ーはなかヨ」、と返事していた母。でも、最近は、「あァ、ここは広い部屋よね」、とか、「この私の青い布団。綺麗ネ。珍しいよネ」、と答えたり・・。発語障害がなく、キチンと喋る時の返事でさえ内容はチンプンカンプンです。
でも、97歳って・・、凄い事ですね。97歳で「コラ、手摺りはこれだ。何を掴んどるんじゃ」、とか息子に文句タラタラ言われながらでも週に2~3回は我が家で入浴して背中を流して貰える母。
「あはァ、そこそこ痒い痒い」、「違う!、もっと右」、と注文つけても素直に従う息子・・。こんな息子はおらんジョ。
☆2010年2月27日。
★:今日は母が97歳と1日を無事に終えるかな、という翌日の事。
またもや母がデイ先の鶴翔苑の昼食後に飲むリンブレンという薬を天然嫁がデイ施設との連絡帳に張付けておくのを忘れて施設の担当者から叱られたのは私。
このリンブレンというのは脳の血流を促進してくれる作用があるということで処方されているお年寄りは多いと思います。母の以前の主治医殿は血圧の薬に心臓の薬、それに脳機能改善薬と実に多くの薬を処方されていましたが、現在の先生はお願いすれば戴けるとは思うのですが基本的に血圧降下剤とこのリンブレンだけ・。
デパスやセラクロールなどは処方されていません。これはお医者さんによって異なる人生観の相違だと思うんですね。
例えば、食事が喉を通りにくい嚥下障害が出た際など胃袋に穴を開けてまで高カロリー輸液剤を与えて延命を計る事も一つの考えではありますが、決して自然ではありません。そこまでしてこその医療、そこまでしなくてもいいと思う人生観があると思うんですね。
★:実は、昨日(26日)の早朝。
自分の誕生日の早朝5:20に目を覚ました母は珍しく「シッコじゃないウンコ」、と・。これが大変だったんです。それに昨夜の入浴の時にも一騒動があった事が母の中では[心の中の風]のようなモノが吹き続けていたのかも知れません。
兎に角、母を介助する際には常に次のような会話から始まるんです。例えばトイレの際には、「いいよ、アンタに手伝ってもらわなくても」、「いいからいいから」、「いつも私独りでしている事を今日に限って何だいアンタは」、「まァまァ、いいから」、「はい、もういいよ。もう・沢山だよ」、「まだまだ。ちゃんと便座に座るまではホラホラ」・、とこんな感じです。
母は本来の目的のオシッコを忘れてしまう程に介助を拒否するんです。毎日の母との電話の時でも姉が「直裕の言う事を守って任せておけばいいんだから」、という意味の言葉を言おうものなら、「何だと!」、と怒る事が多いんです。
「私が直裕に何を手伝って貰っていると言うんだ」、「私はご飯の後の茶碗を洗ったり、風呂だってちゃんと独りで入って自分の事は自分でしているじゃないか」、と・。
そして、最後には、「はいはい、はいはい、はい。分かりました。アンタ(紘子)にゃ何を言っても無理」、と決め付けてしまう事が多いんです。
トイレの際でもそうですが入浴の際でも母は決して私が指示した手摺りを素直には掴みません。私は母の体重移動に従って次に握る手摺りの指示しているのですが、母は周囲が何と言おうが自分の思う手摺を掴むんです。
★:一昨日の夜
20:30頃に帰宅した嫁の姿を見た際、「ナオヒロ、ホラ、どなたかが来とんなさるよ」、と低い声で言います。「ホラ、ナオヒロ。どなたですか?、と聞きなさいよ」、と・・。勿論、玄関の嫁には母の声は聴こえているんです。
嫁がオドオドしたようなムッとしたような表情で「只今、帰りました」、と母の傍を通り過ぎようとすると、「お帰りなさーい」、と母が言います。「あっ、直裕の嫁だ」、とフッと思い出すんでしょうね。
この2010年の3月で嫁がケアマネとして働き出して1年を終えます。母がデイに出かける時間には既に嫁は出勤していて、母がデイから帰宅しても嫁はまだ仕事先ですから母の中からは嫁の姿が確実に消えていっては「あの人/貞子さん/フミ子さん」・・、と呼び名が変わる日が多い最近です。
このような事も介護家庭の多くで見られる光景なんでしょうね。
☆:2010年2月1日
★:母が要介護5の認定を受けた以降の母。
母は前年の2009年11月に要介護5の認定を受けました。判定員の見方にもよるのでしょうが、確かに以前の要介護度4の頃に較べると日常の幾つかの部分では大小の変化があり、デイ通いがない日曜日の母の世話は従来に比べてその大変さが確実に増しています。
元々、2008年の暮れ頃から認知と思える状態の瞬間が多くなっていました。[♪:兄ちゃま]を作ったのが2009年6月。母が実際に私の事を「兄(あん)ちゃま」、と呼んだのは2008年暮れから2009年に掛けての寒い日の夜間のオシッコの世話の最中でした。まぁ、季節を問わず血流の悪くなる寒い日の夜間などには認知が出やすいわけです。
★:兄ちゃま・・。
便座に母を座らせた途端、母は「兄ちゃま、恥ずかしいから向こうを向いておくれまっせ」、と・。母が使う言葉自体は女性としてはまともな考えですが、私のことを「兄ちゃま」と呼ぶことに認知を感じたのです。既述したように、10歳の頃に48歳だった母親を亡くした我が母は14‐12-7-4歳違いの兄弟姉妹に大事に育てられています。
特に優しかったのが12歳上の次男の勇兄さんだったらしく、「兄ちゃま」とはまさしくこのイサム兄さんを指し、我が母は私と暮らす中で折に触れて「兄ちゃま」と私に向かって言うことが始まりました。
★:酸素ボンベ
「兄ちゃま、スースーするのを吸わせてくれまっせ」、と。冬場は殆ど毎日。それ以外の季節でも散歩後の汗をかいて帰宅した時、睡眠時間が長くて朝の起床時にも動作が鈍いな、と感じた時、デイからの帰宅後、風呂上り、と必要と感じた際には母に酸素吸入をさせています。過剰な摂取はいけないのでしょうが、脳梗塞後の人にはこの酸素吸入は絶対にお薦めです。当然、佐世保時代の検査によって母には軽い脳梗塞が何回も起きていたことを私は知っていましたからね。
以前の旧ブログでも書いたように、私自身には睡眠時の無呼吸症候群というものが激しく出た時期があって以来、当時の医師からは定期・不定期な酸素吸入を勧められ、私の家には高さ80cm×径20cmほどの酸素ボンベを常備していて、実際に自身では使うことは殆どなかったのですが、母のお世話をするようになって以降はずっと母には定期・不定期に酸素を吸って貰っています。
この酸素を吸うことで意識がはっきりすることを知っている母は自らの体調に変化を感じる度に「そのスースーするのを吸わせてくれ」、と言うようになっていました。酸素を吸うという事は絶対に認知状態を改善しますよね。脳の血流に異常がある母にとっては酸素吸入は救いの神だと私は思っています。
「はい、酸素。これをスースー。ハーって吸うとよ」、と私が言えば、母は普段は絶対にしない深呼吸をしながら吸うのです。この母の姿を見るだけで、「あっ、お袋は生きる意志を強く現している」、と私が自信を持つんです。これが大事だと私は思っています。
私は熊本医療ガス(株)を利用していますが、医療ガスを扱う事業所は幾つもあって、皆様のお宅でも酸素ボンベの導入を検討されては如何でしょうか?。ボンベ補償金が¥10000(戻ります)、酸素の充填が1本あたりで¥3600。酸素を出す量にもよりますが、我が家の場合には5分間の吸入で1本のボンベが1ヶ月は使えます。
★:立田山自然公園に柵が作られ、歩行者には危険。
私は母に刺激を与えないといけないと思い、2009年の冬には明けて2010年の桜の開花時期を心待ちにしました。処が、立田自然公園の道路側には綺麗な柵が設けられてしまい、以前のように簡単には車を止めて「ちょっと散歩でも」、とはいかなくなっているんです。また、ちょっと大き目の車が来たりすると柵の手前ギリギリまで歩行者が追い詰められる格好になって、景観は良くなっても危険箇所が増えた感じです。
まぁ、幸いにも枝垂れ桜の綺麗な場所だけは柵がなく、母と私はユルリユルリと車を移動させて道端から池に向かって垂れる枝垂れ桜の見物ができた程度でした。
★:八景水谷(ハケノミヤ)公園
そこで、従来の散歩コースを八景水谷公園へと変更したんです。近年は湧水量が戻ってきているとも言われる公園内の遊水地。水の科学館が作られ、綺麗に整備されていていいですねェ。母はとても喜んでくれました。
「ワッチ・□△・、〇〇チレイ・・」、と母。私はこんな綺麗な場所には来たことない」、と言いたかったんでしょう。余りにも綺麗に整備された久しぶりの公園に私自身も驚いたんです。この八景水谷公園には2003年、2004年の歩行リハビリの際には何度も母は来ていて、時には車椅子を降りて自分の足で杖を使って歩いてみたり・・。そんな母の姿を思い出しています。勿論、その後も頻繁にきているのですが母は忘れているようです。桜もツツジもとても綺麗な公園です。
この公園にはよく通いました。デイの帰路、週に3日も通えば顔馴染みの方ができ、何度か挨拶をしているうちに「あれっ、若しかして、貴方達親子は何年か前にNHKの火の国youに出られたんじゃないですか?」、と訊ねられる日が増えてきたんです。「あっ、えーと・。ツヤさん。そうそうツヤさんでした、と言われると母は嬉しそうな表情していました。
NHKで報道された事などは母の記憶には全く残ってはいない訳ですから、母は知らないお方から笑顔で両手を握り締めて貰うのがとても嬉しいようでした。
「直裕っ、嬉しいもんだよ。娘も滅多に私の手を握ってはくれんし、息子(長男)に至っては生きとるもんやら死んでしまったかさえ(自分では)分からんようになったというのに」、と例の〇△□言葉でブツブツ・・と言います。
☆:2010年2月2日
★:「ねえ、また連れて行っておくれよ」、と母が・。[♪:兄ちゃま]の制作背景。
デイからの帰りの車中、「ホラ、あの・水の所さ」、「・・鳥がおったよ」、「また、行き・たいね」、「・あんたも行くネ」、「弁当の残りあるね」、と母が・。今の母が持っている会話能力はこの程度なんです。だから、私は母の次の言葉を待つ為に相槌しか打ちません。今の母には言葉を繋いでいっての長い会話は無理な日が多くなっています。
「あのさ」、「うん」。「連れて行ってよ」、「うん、どこに?」。「水があったさ」、「あ・、分かるよ」。「うん、鳥がおったさ」。「うん、分かるよ」、ってな感じで喋れば会話が成立するんです。母は「八景水谷公園に行きたい」と言っているんです。
母の一言に反応してこちらが長めの言葉を返していると、母は自分の最初の質問を忘れてしまうんです。これは、認知症の親を持つ介護家族の方なら理解して貰えますよね。このような日常の中で生まれたのが[♪:兄ちゃま]、という作品なんです。
「濱野さん、私達は貴方には優しさ、癒しを求めているんです」、とコンサートを企画して頂く方々は口を並べたような言い方をされる事が多いのですが、それだけじゃ駄目だ。苦しさ、辛さ、汚さだって正直に共有しあうべきだ、と私は思っています。
2009年12月18日の長崎コンサートでは男性客が多かったのが目立ちました。その男性客の多くがコブシで涙を拭っている姿を私は間違いなく目撃しました。これは介護問題がそれぞれの家庭での嫁だけの問題ではなくなってきている証拠だと思うんです。一時期の我が家でもその気配があったんですが、近年は私と同じように息子が母親や父親の介護をするケースが増えていて、嫁は亭主のその姿を見て離婚を迫るという・・。
皆さん、私が唄う[♪:兄ちゃま]に決して耳を塞いではいけません。この[♪:兄ちゃま]を聴く事で母が如何に私を信頼してくれているか、を感じて欲しいのです。
介護、頑張りましょうね。皆さん!、
☆:2010年2月3日
★:音楽
ここの処、詩作りも曲作りもサッパリと忘れてしまったかのような日々。この2年ほどはついつい作品作りに真剣になり過ぎた感があった気がします。その理由はコンサートの依頼が舞い込むようになったからです。結構、疲れているのに更に詩を考えてしまったり、自分を追い込むような日が多かった気がします。
よくよく考えれば現在の私はミュージシャンではないんです。でも、詩や曲を作る事で母の介護の疲れが取れていたのは事実だった事を考えれば、理想的な音楽の追求の仕方だったかも知れないと思っています。
私の作品作り・、日々の出来事、母との会話を殆どそのままに書いていればいつの間にか出来上がっていましたからね。まァ、これからもボチボチ頑張ってみます。
★:酒
酒の量がいつの間にか月に15リットルも飲むようになっていましたが・、今は半分以下の6リットルくらいに減ったのかな?・、多分、私の事だからやめる事ができるとは思っています。
でも、結構、苦しんでいます。以前、焼酎もウイスキーもやめようと思い、アルコール度数の低い日本酒を・と思ったのが間違い。2009年の夏などはいつの間にか冷酒を一日に1.8リットルをお茶代わりに2本飲む日があったりして自分でも「これは・大変」と驚きました。
多分、野球をしたい自分がまだまだ心の中に居座っていて、余りにも違う日常に対して「これでいいんだ」、と思う自分と「グラウンドを走り回りたい」、と思う自分が激しく葛藤しているんだと思います。1999、2000年にはシニア国体候補のチームの1塁手の予備補強選手として招待加入させられた程だから未練はどこかにあるんだと思います。
★:「もっと、明るい作品が書けないのか」、との問いに
母のありのままの暮らしを書いていますからね・。要介護度が5にもなれば、周囲の人が考えるほどに楽しい日常ばかりを送れる筈がありません。施設などでは床に横になったままボーッとしている人も居るくらいですからね。でも、実際には家族の同意を得た上で催眠導入剤を使っているケースが多いからですって・。
そうでないと、徘徊癖があるご老人などは危険ですしね。母の場合、外見で見た目には元気なんですが頭の中身が時として狂いだすともう・狂ったまま・。キツネさんに憑かれたんじゃないか、と思う日もあります。でも、母の要介護度5というのは左足股関節の骨折が考慮された結果であって、結果的に発語障害があると言われても母の頭の中ではくっきりとした文章があるはずです。脳が命じる長文の言葉を喋ろうとするとその通りの言葉が出ないという・・、状態だと私は理解しています。
★:聴力に関して
「寒くはないね?」、と聞く私に「はっ?・・うん、そうそう、そうだったネ。大事なモノを買いそびれたよ。あァそうだった。それに、今日から私はここに寝るようにTVのお姉さんが言っていた・」、といつも一緒に暮らす私でさえも訳が分からない事を突然に言い出したりする時が多い母です。この聴力に関しては脳の状態と深い関係があるようです。
だから、物事を母に問う場合、「あのね」、「今日さ」、「今は」、「雨だけど」、「夜になったらね」、「雪にね」、「なるかもよ」、と私の側が短い言葉を繋いで喋れば問題はないんです。母はその度に「うん」、「うん」と言って私の言葉を100%理解してくれます。
この点、我が嫁は介護の専門家だけあって、「ねぇ、お義母さん」、と最初に声掛けをして母に振り向かせた後、「雨・です・よ」、と窓の外を指差し、「夜は・雨・かもね」、と上手いものです。
このような日常に対して非常に戸惑う事の多い最近の母を前に私が明るい作品が書けるはずがありません。私は常に今の母を正直に書いているだけ・。勿論、[♪:春はまだ・]など長調を用いたアップテンポの作品もありますが詞の内容は切ないものです。
☆:2010年2月5日
★:ペット効果
母は意外な物事に反応します。例えば、私は母同様のご高齢の我が家のチッチさんにも日常的にマッサージしているんですが、17年目の猫ですから人間の年齢で言えば何歳でしょうね?。冬場には身体が硬くなるのは人間と同じだからとマッサージの回数が特に増えるんですね。
元々が不妊手術時の影響で腸に多少の癒着があって、食後1時間位すると「おえっおえっ、ゲフゲフ」、と吐き気を催す為に必ずお腹を右回りに擦ってやっていた頃から始まったチッチさんへの全身マッサージです。
だから、身体がコルという感覚は我が家のチッチさんにも理解できるらしく、「ネ、お願いよ。はい、身体揉んで頂戴っ」、って私に背を向けてゴロンと横になるのが多くなるのが冬場なんです。
★:「ペットは命あるものの一生を身近に教えてくれる」、とよく言われます
その通りだと思っています。この数年のチッチさんの表情や様子というのは本当に「ナオさん、ナオさん・」、と私に命の全てを預けているような気がしています。それに、逆に私が「あァ、・腰が痛てェ」、と言いながら横にでもなろうものならチッチさんは急ぎ足で私の傍に駆け寄ってきますからね。互いに労わり合い、頼りあって生きているのを感じています。
私とチッチとのこんな様子を母は7年間見続けているんですが、その母が最近は私がするようにしてチッチさんをマッサージしている瞬間を目にするようになりましたね。 「アンタもネ。大変ネ」、と言いながらチッチさんの後頭部や首周りを揉んでいるんです。
昨年までの母なら、「アンタはさ。猫にまでマッサージをさせられて・・」、と呆れた表情をしていた母が・です。認知が進む母ですが、こうした瞬間を目撃した日などには母とも猫とも同居して良かった、と心から思うんです。
★:未発表の作品の中にこそある、真実の介護生活。
2003年10月頃から作り続けた作品が50曲を数えました。この2010年の暮れには7枚目のCD:7が完成するのではないかと思っています。とは言っても、途中の14ヶ月間は母の歩行リハビリに集中していた為に休止していたから、実質5年半で50曲。よく作ったものだと思います。否、正確には母が作らせてくれたんですね。それに一曲、一曲を作る度の姉や嫁の批評が背中を押してくれていました。
実は、詩だけなら書き溜めたものはまだあって、その数は120編ほど・。途中まで作ってボツにしたままの曲は70ほど・。ですから、正確に言えば、未完成作品を含めば127作品程あるんです。
★:発表しない理由
それには理由があって、私自身がウツ状態の時に書いた作品には母親を罵ったような表現が沢山あるんです。だから発表できない。 でも、実はこの未発表の作品に描いている世界こそが本当の介護家庭の苦しみの世界のような気がするんです。このボツになった作品の中にこそ私と母のこの7年間の呻き声や叫び合いが・・、あるんです。
そのボツにした作品の中の[♪:叫び]というヤツを少しだけ紹介すると、「あァ、今日も叫んでしまった。心にもないような言葉で・・。今日も罵ってしまった。もう一人の私が・・」、とこんな感じの詩ですが、いつか修正を加えて発表するのかなァ・。
★:今日(2月3日)の夕食は[アオサ]の料理尽くし・。
「ホラっ、母ちゃん。珍しいのがあったよ」、とアオサの入ったパックを母に見せました。
「うーん、アオサか・・懐かしいね」、「これを・お日様に・干したものが海苔さ・・、あのー、何て言うか・・」、と母の言葉がなかなか続きません。
「海苔よね。ホラ、巻き寿司なんかに使う海苔の事ね」、と私。
「?・、そうそう・そう。これを干したのが・えーと、海苔さ」、と母。
「生は珍しいから買ったけど・、これでもパックで¥250もするとよ」、と私。
「ほへーっ、もしね、海の近くに住んでいたなら、アンタならチョチョイのちょいよね?」、と母。
「うーん、そうね。蛎にしても母ちゃんの好きな小さな蛎が一年中自然にいっぱいあるからね。海の近くに居るならこんなものはワザワザは買わんよ」、と私。
「それで・、こんなにいっぱいのアオサをどうして食ぶっとね」、と母。
「ホホ、そうね。・・えーと、味噌汁以外にアオサ料理か・・」、と突然に悩む私。
一応は母に話を合わせて考え込むのですが、それはそれ。買う時点で幾つかの料理は頭に浮かべて買いますよ。今夜はイカの刺身をメインにアオサ尽くしです。
①:アオサ&しめじ掻揚げ
②:アオサ&茹でエビ&シメジの酢の物
③:アオサ+納豆&カラシ
④:アオサと里芋のミソ汁
⑤:揚げジャガの醤油バター炒め
⑥:イカの刺身
☆:2010年2月7日
★:チンピラ漫画家やく・みつるに押し出された相撲協会。朝青龍が引退・・悲しいよ。
「本人の方から引退の申し出があった為、これを受理しました」、との事ですが、我が日本の文化で言えばこれは嘘。朝青龍に引退の二文字を選択させたのは相撲協会のはず。でも、本音は更に別。公正を期す為と外部から招聘した理事の発言権を認めたが故に墓穴を掘ったのも相撲協会。
この朝青龍の引退を決めたのはチンピラ漫画家のやく・みつるを始めとした横綱審議委員会の連中の言った「引退か解雇しかないだろう」、という言葉。
★:やく・みつるに言いたい。
品格ってなんだよ。日本人の品格ってなんだ。どこにあるんだそんなモノ。お前には品格があるのか?。そんなもの誰の目で見て言うんだ?、と。 お前にとっての横綱ってなんだ?。俺にとっての横綱観はお前とは違うぞ。休場中のサッカーがなんでいけないんだ?。酔って喧嘩がいかんのか?。暴力と喧嘩は違うぞ、と言いたい。
「警察に届けた方がいいんじゃないですか?」、とけしかけて問題を大きくしたのは一部のマスコミじゃないか!。しかし、実際には被害届出は撤回され、被害者(?)自身も「自分にも怒らせるような言動があった」、と認めているじゃないか。
最初に横綱を言葉で挑発した奴は許せるのか?。確かに殴るのはいいことではないが、殴らせるような言葉をはく奴はもっと卑怯な挑発行為だと私は普段から思っています。俗に言う「アゴ」、です。そう、あのどうしようもない寸足らずのやく・みつるのアゴと同じ。
それに、この殴られた奴は普段は横綱と同じ車に乗るほどに親しいんです。つまり、そのレベルでの言い合いが発展して掴み合いになって殴られたと・、言い始めたんですが、これが理不尽。
★:例えば、「張り手」。
あれはスモウだけではなく柔道にもあるんです。私にテコンドーを教えた韓国籍の先生は「立会いに張るのは卑怯かなァ。でも、柔道のように組み合いの最中に戦意を失くした表情をする相手に対し、[来いッ、コラっ]、と顔を張ったり、首筋に肘を強く当てて気合を入れることはよくあることだ、と言っていました。
まぁ、朝青龍は張りながら立つ癖が身についてしまったお相撲さんでしたからね・。ついついパシッと 、手を出す癖が普段からあったんだとは思うし、被害者だってそのくらいの事は分かっていたはずです。立会いながら張る力士では昔のお相撲さんに栃の海という人がいましたね。やはり小兵でした。
★:関係者は大事なポイントを見落としている・・。朝青龍は左利き!
私は会った事はない朝青龍ですが、テコンドーをやっていた経験で言えば朝青龍は絶対に左利きです。つまり、左手で殴っていたのなら本気で殴った。でも、右手で殴っていたのなら「よせよ、うるさいよ」、と。その程度だったはずです・。それにグー握りで殴ったか開いた手で殴ったのか・・。その辺を知りたくて仕方がありませんね。
それに、お相撲さんって脇を固める基礎ができているから[カチアゲ]っぽい手の出し方になっていて、この内側から出てくるカチアゲは拳でも平手殴りもとても効くんです。
★:マスコミは「朝青龍には常に暗い闇の連中との付き合いの噂があった」、と言うが・。
何も、その闇の連中との付き合いの噂を今回の処分の引き合いに出す必要はないんじゃないかと思います。ヤクザの世界との噂だったら過去の横綱の中で噂がなかった人を探すのが大変なほど。それに、世界は違いますが力道山や美空ひばりさん、勝新太郎に石原裕次郎に三船敏郎さん・・。いろんな人たちが暴力団との繋がりを噂されたはず。否、噂ではなく事実でした。興行をする事で収入を得るプロのスポーツや演芸の世界であれば昔から言われ続けているんです。
フィギアスケートやサッカーのエキシビジョンマッチにプロ野球、プロレス・・、とヤクザ世界と縁がないものを探すのは不可能な事です。闇の世界との繋がり、警察関係との癒着は日本の伝統的な文化だから仕方ありません。
朝青龍問題が問題ではなく、その問題の根っこには日本相撲協会があるんです。文化財保護の名目で年間に1億からの助成を受けているんだから、相撲協会が変わらなければ何も変わりません。
朝青龍には仮に普段からの噂があったとしても、大きな問題にはならず訴訟事にもなっていなければ立件もされていない過去の噂を今回の件と直結させてはいけません。一種の有名税。妬みです。因みに、朝青龍を好きなのは私の母であって、あの立ち上がりざまの張り手は私も好きではありませんでした。
★:やく・みつるは引き篭もりで自閉症。
横綱審議委員の中のやく・みつるという下手なあの漫画家。彼が大相撲を語る際にもあの被る帽子・、それに口ひげ・、あれも劣等意識の現れですね。普通の格好では大事なことは喋れない。特異なファッションで身を纏い、周囲の目をそっち側に引き付けながら本音を語るという、俗に言うミエミエの会話術・。あれは自閉症気味の者が好むファッション。深く被った帽子の奥から時折見せる目を気持ち悪いと思う人は多いはず。
その自閉症にもいろいろあって、自分からは話の場を作れなくても周囲が話す場さえセットしてくれた途端にベラベラベラと喋り出すタイプもあるんです。彼がそのタイプ。 彼には日本の伝統を語って欲しくはありませんね。アゴで生きるに迫力不足とばかり、ヒゲまで足してやがる・・。お前に横綱の品格を語る資格がどこにあるんだ?。
まず、マスコミ人としての品格を持て。
★:釈明を求める?・・
見てもいない、立ち会ってもいない現場の出来事に対し、何故に一方的に横綱の方が悪いと決め付ける事が可能なんだ?。朝青龍がそんなに偉大なのか?。力士の中での小兵に類する朝青龍は努力に努力を重ねて横綱になったはず。我が日本人が貧弱過ぎるだけじゃないのか?。
横綱の地位が特別な存在だと思うから?。モンゴル人の彼に対して日本人であれ、と求める事自体が無理なんだよ。本当にそう思うのであれば、最初から横綱には推挙しなければいいはず。責任をとるんであれば、彼を横綱に推挙した横綱審議委員会自体も同罪のはず。彼等はそこが分かってはいない。むしろ、やく・みつる自身も自分のい発言が朝青龍引退に利用されただけに過ぎないこと。
横綱だって普通の青年なんです。「朝青龍は偉い、凄い」、と思い込む前に普通の人間だという事も知るべき。怒りだって普通に持っているし、26歳の頃の朝青龍であれば殴らず、29歳にもなっている朝青龍だからこそ殴った、という事も人生の中では普通にあるとは思わないのか?。
☆:2010年2月8日
★:外人に門戸を開放した日本相撲協会側にこそ変革が必要。
今や「大相撲はオオズモウ」、「力士はスモーレスラー」、と和英辞典に訳される時代。現実を見れば大相撲は既に国技ではなくオオズモウなんです。世界に解放したはずの相撲道の世界に飛び込んで生きる者全てに、「日本人タレ」、と言っても、「この鼻タレ」、としか言われんゾ。やく・みつる君。
「引退勧告に従わないなら解雇。過去の優勝歴も戦績も存在の全てを相撲史から抹消するぞ」、と言われれば、幾ら強気の朝青龍だって泣きますよ。
★:責めるより・・認める事をしろよ
では、言ってやろう。我が日本の男がモンゴルに単身で行って、言葉を覚えてモンゴル相撲のチャンプになれる者が居るとしたらやってみろと・。相撲道の礼儀作法?、それが何だ。朝青龍は我が日本という国の国技である相撲の世界でチャンプになった男ですよ。 つまり、この段階で相撲はスモウになって日本の国技ではなく、つまり、我が国で言われる相撲道は既に遠い昔に消滅し、今やスモウドウみ変化していること。
朝青龍が両手を上げて現す歓喜の姿。それに土俵上で示す歓喜のガッツポーズと笑顔・。いいじゃないですか、彼がやる動作、彼の勝ち方・、相撲協会がモンゴルでスカウトしてきた逸材のする事。
十両で終わったり、大関取りで精一杯だった連中が金で勝ち取った親方株をちらつかせて現役の横綱を批判すること自体が越権行為。それに警察OBやチンピラ漫画家の外部理事も。
高見桜という日本人お相撲さんなんか「オッオッオッ」、とガッツポーズの連続じゃないか?・・彼は何故、責められないんだ?。彼が横綱だったら責めるんだろう?。相手次第で変える意識が差別の始まりだと私は言いたいんです。
★:理事の一人一人に言いたい
あんたらが27,28歳の頃の自身の社会性、人間性ってものを振り返ってみろ、と。あの偉大な北の湖元理事長の横綱時代には勝利インタビュ-にもまともには答えられる人ではなかったはず。彼は理事長になって以降に成長したんです。
★:以前にも書いた元横綱・輪島関のケースと似ている:狂っている相撲協会
大学卒のお相撲さんでは先駆者の日大相撲OBの輪島さんが居ます。元・横綱ですが、当時の相撲協会は輪島関が大学出だという事自体を好みませんでした。それに砂浜ランニングやダンベルを始めとする器具を使ったトレーニングを行なうのを非常に嫌い、当時の輪島関に何度も注意を促しています。でも、彼は自分の意思を通した練習方法を変えませんでした。
テッポウにぶつかり稽古という旧態依然とした枠をはみ出した輪島関の新しいトレーニング方法は伝統的で古式ゆかしい我がニッポンの国技には相応しくない、との理由で輪島関は相当に辛い思いをさせられていたんです。
今では珍しくはありませんが、簡単に言えば、当時の横綱・輪島は大卒横綱というだけで当時の相撲協会に否定され、引退後は馬場正平という方が主宰するプロレス団体でレスラーとして再出発したんです。
★:伝統の常識・の間違い。野球で言えば
今で言うアイシング。特に投手などが投げ終わった後のベンチで冷たい氷パックを肩にあてて冷やしています。あれでさえ近年になって医学的に認められて常識化したもの。それまでの野球界ではホットパックで暖めるのが常識だったんです。それが今ではアイシングが常識。ホットパックは筋肉の炎症を酷くするという理由で医学によって否定されました。相撲協会の連中は全員の頭にアイシングをしたらどうだろう。
★:お相撲さんには外出時にまで注文が
「ジャージはいけない。浴衣着で外出しろ」、との指導も厳しいんです。今の時代にそんな事を言っても・・、と思いません?。炭酸系のビールも控えて日本酒(焼酎)にしろとも・・。
今一度、伝統とは何か。何の理由があって外国人お相撲さんを育て始めたのか。その為に一つ二つと壊した伝統(日本人としての拘り)が果たしてあったのか・。そんな事を考えないと大相撲はただのデクの坊のサーカス小屋になってしまいますよ。第一、土俵が狭いから投げ技が殆どない。いつの時代の土俵で相撲をとっているんだと素人ながら思います。土俵周りは径を左右で40cmくらいは大きくしないと投げ技は絶対に復活しません。
★:一門制度など廃止し、全部屋の総当り制で。国の助成金1億円も廃止したがいい。
同部屋対戦には部屋別育成での支障もあるでしょうが、せめて全部屋別のトーナメント制にした方が余程面白いと思いますね。番付制もやめて年間ランキング制に・。それに助成金の年間1億円も助成目的であるお相撲さんの発掘育成費用として使われているのは10%程度と言われていますから廃止。これで闇の世界とも縁が薄くなるはず。
真に相撲協会を正したいなら・。まずは、国は相撲協会への助成金を廃止し、育成効果を上げる部屋別助成金を。NHKによる放映もハイライトシーン程度へと縮小して相撲界の自助努力を図るべき。この相撲協会の内部抗争など例の日本航空問題と似たような部分が多いんじゃないでしょうか。
今回の朝青龍の引退事件。我がニッポンにとっては大きな損失のような気がします。特に、引退の直前の本割場所では優勝しているだけに・、恥ずかしさだけが汚点として残るニッポンの大相撲史に残りそうな気がします。
本割場所では必ず天井に掲げられる数十枚の歴代優勝力士の写真がありますね。この天井に掲げられた朝青龍の写真・・。暫くは、我がニッポンの土俵を睨み続ける事になりますね。
☆2010年2月10日
★:たまには女性の話を・・。木戸真亜子さん、大林素子さん・・。
先月、NHKの夕方のある番組のコメンテーターとして出演していた木戸さんの姿を久し振りに見ました。彼女も介護暮らしの経験者でしたよね。元々はモデルさんなんですか?。よく存じ上げなくて済みません。
でも、何故かしらこの20年来の大ファンなんです。画家としても活躍されているようですが、私は不定期にTVに出演される木戸さんの姿を見る度に身体の疲れが一気に取れるんですね。木戸さんには素の魅力がありますよね。
TVカメラが自分を追っていようがいまいが、そんな事は全く関係なく私の前に普段の素の姿を現しているような気がいつもするんです。それに、私が苦手なボランティア活動もされていますね。素晴らしい方だと思っています。
誰かに会うことで、例え会えなくともお姿を見れるだけでホッとする人っていると思うんです。私にとっての木戸真亜子・・、言葉で語れないほどに苦しみを知っている人。そして、もう一方の肩には私には持てないほどの幸せを担いで生きている人・。彼女はそんな存在ですね。少しだけ化粧が濃くなったのか、元々上手くはないんでしょう。
それに、バレーボールの元日本代表の大林素子さんのいつも明るい表情がいいですね。スポーツの世界で生きてきた方ですから、自らの悩みを隠して励まし役に徹する内にあのような人間性が身についていったんだと思います。言葉を換えれば、人に尽くす人・、そんな気配を感じる人です。
★:悩みなんてないはずがない、のに明るく振舞える勇気こそが本当の勇気。
母とピッタリとくっ付いて生きているこの7年の私自身の世界がとても狭いからか、TVで見掛ける人を外見的に語るしかないのですが、木戸さん、大林さんに関しては間違ってはいないと思いますね。
★:時にはTVの音を消音にし、画面に流れる人や風景を見る私。
昔、宮田輝さんというNHKのアナウンサーが居ましたが、幼かった私はあの人の目尻のシワを見るのがとても好きでした。「あァ、この人は人を幸せな気持ちにしてくれる人だ」、と思ったものです。
「会った事もない癖に・・」、と言われそうですが、会ったばかりに実像とは違うレッテルを貼られる事も多い世間です・よね。
それに、TVの音声を消して見る[人の手の加わっていない自然風景]などを観るのもいいものです。心の中のモヤモヤが消え去って涙まで流している時がありますよ。私、どうしてこれほどに懐古主義なんでしょうね。
多分、9歳の時に止まったままの時間を背中に背負ったままで生きているからだと自己分析しています。ずっと、「生きて居たくない」、と思い続けた私の人生でしたからね。だから、私に生きてこその人生を与えてくれた嫁と母。そして、支えてくれる姉にはとても感謝しています。宮田輝さん、木戸真亜子さんにも・・。
☆:2010.2月11日。
★:今日は私の誕生日。
嫁が「お義母さん、今日は直さんの・誕生日ですよ」と言っても、「直裕は私の子だけど、直裕は何処に居ると?」、と・。「ほら、ちゃんと貴女の目の前にいるでしょっ」、と嫁が言えば「・この人はイサムさんで私の兄さんですっ」、と語気を強めて怒る母。まぁ、それでいいか。
嫁は夕べから仕込んでいた赤飯で祝ってくれました。最初、母は「ん?・・、誰の誕生日?」、「直裕?」、「この人が私の子供?」、等々と言っていました。でも、思いだしたらしく照れながら「直裕ドン、おめでとう」、と言ってくれました。
★:国境を越えたフィギアスケートぺア万歳!。ニッポンの相撲協会とは大違い。
川口悠子&アンドルフ・スミルノフというフィギアスケートロシア代表のペアは素晴らしい感動を運んでくれました。
「成績なんて気にしない。ひたすらに4回転ジャンプを飛ぶ為にロシアに帰化してまで頑張った日本人・川口悠子さん。
前日の規定では3位。2日目のフリー演技で起死回生の逆転を狙いたい川口さんは本番直前にその4回転ジャンプを封じられたショックからかミスを重ねて4位に後退してしまいましたが、35,7kgの小さな身体でありながら8年にも及ぶ彼女の勇気と行動力には多いに感心させられた方は多かったと思います。
その感心ついでに言えば、ロシアという国がオリンピック13連覇という記録の掛かった大会にロシア国籍を取得した川口悠子という日本人をロシア代表として認めた事に最初の驚きがありました。
ペアスポーツの世界では国籍を越えたカップリングというのはヨーロッパでは普通に行なわれていて、テニスのペアなどが代表的な姿ですね。今後はこうした傾向が更に広がってくると言われています。相撲協会とは大違いです。
★:そこで・・、例の朝青龍問題
こんな国際的なスポーツ大会などを見ていると、例の朝青龍問題でオタオタヨレヨレの失態振りを見せた我が国の相撲協会の体制作りがホント・、デクの棒集団に見えてきます。普段から世間に知って欲しくない部分にはフタをするだけフタをしておいて、朝青龍が外国人横綱というだけで・・。
今回の朝青龍の引退騒動は天の裁きとは絶対に思えない私です。そう、相撲界の臭いゴミ箱の底を互いに突付き合っているだけの世界のような気がします。
★:朝青龍・・モンゴルの青い空の下で我がニッポンをどう思うのやら・・。
初土俵からほぼ10年で相撲の頂点を極めた彼。功労金が1億2000万、懸賞金の積み立て分が1億2000万と言われます。モンゴルに戻れば大統領候補とも・。でも、モンゴルにそんな大金を持って帰っても使う場所があるんでしょうかね?。日本で身につけた価値感、人生観を捨て去って普通のモンゴル人に戻れるかどうか・で彼の今後が決まるでしょうね。でも、高校時代から住み慣れた日本・・。もう、彼はモンゴルでは暮せない気がします。
そう考えれば、私達日本人は[モンゴルの相撲少年]の努力と才能を利用するだけ利用した挙句に切り捨てたような気がしませんか?。私達は彼の人生を滅茶苦茶にしたのかも知れません。好き嫌いの問題ではありません。
★:朝青龍が持ち歩く1個のマグカップの話
彼は億という単位の金を稼ぐ一方、来日したばかりの貧困時代にゴミ棄て場で拾った1個のマグカップを現在でも持ち歩いているような人。この話は有名な話でご存知の方も多いはずですね。
私はその事だけでも尊敬に値する人物だと評価しています。因みに、私が今でも使っているまな板は学生時代に使っていたものです。常に、[あの頃]を忘れてはいけないと思うからです。でも、日本人って心まで貧しいから人の噂でメシ食ってる部分があるからなァ・・、朝青龍・・ゴメンよ。
☆2010年2月12日
★:理解できるようになってきた母が使う言葉&言いたいモノの名前。
母はモノの名前・名詞に対する記憶の失せが早いようです。だから自分から話し始めても途中で話すのをやめてしまうケースが増えてきました。でも、極力、母が言いたい事を理解しようとしています。
デイからの帰路、「あれはいいよね・・柔らかくて食べやすい・・、えーと、ホラえーと」、と母が言う場所は道路の左手にあるウエストというウドン屋さんで出されるウドンの事。私の作品の中の[♪:人生万歳]に出てくるお店です。
このウドン店の前を私の車が通り過ぎる頃にはよく母がウドンの話をします。ほぼ毎日の事ですから、「今日もお袋はまた言うぞ・」、と。このウドン屋さんの次は熊本北高校のそばを通った際に言い出す、「へーっ、見てご覧。売れ残った箱が一杯」、という言葉です。
母が表現する箱とは車の事。これも毎日使う言葉です。母は北高校の正門に設けられた職員用の駐車場に留められた車を箱と言うんですが、実際には悲しい話であって、母の目には網膜黄斑変性症というのがあって、
見た物の形や色が正確には見えていないんです。丸めたマフラーや机に置いたままの野球帽が背を丸めた猫に見えたりするのです。
母が何をどのように見て、その見えた物のどこをどのように私へ伝えたがっているのかを分かるようになるには随分と時間が掛かりました。この半年前に比べ、実に多くのモノの名前を「アレ」、と言うようになった母。それは単なる発語や失語障害があるからだけではなく、母の目には網膜黄斑変性症があることが理由でした。
つまり、「車のようだが箱のようにも見える、でも違うかも知れない、丸めたマフラーのようであって背中を丸めた猫のようにも見える」、という母の心の迷いが言葉数を減らし、思い切って口から出した言葉が「ゥワコ(箱)」だったり、「ゥメコ(猫)」、だったりするんです。
「何を言っているんだ?、何を言いたいんだ?」、と問い詰めても、もう・無理で母が哀れなだけ・・。母は「あァ、・私は次々に喋れなくなっている」、と日常への自信を失くすだけ。だから、私は母を問い詰めることはしません。
★:母には周囲の話を適当に聴き流す癖が出始めた。
母から言葉が次々と消えていっている事は一日の終わりに電話で必ず会話する長崎の長女・紘子はなかなか気づいて暮れません。でも、現実には今の母は姉の話に相槌を打つだけ・。「ふーん/そうね/アっハハハ・・」、と。
例えば、電話の会話で紘子が「母ちゃん、悟が日本に帰って来てからはアメリカ人と話す機会が減ってしまって英語を忘れ掛けてね・それでは駄目だというので・」、と言っている最中、母が「そうそう、悟君ネ。アメリカにはいつまで居るとネ?。あんた達も寂しかろう・」、とこんな感じになりがちなんです。
だから、姉が電話の最中に「母ちゃん、私の話はちゃんと聴いとるね/何かしながら聞いちゃいかんよ/話の中身が分かって聞いているとね?」、と訊ねるんです。
「姉ちゃん、アンタの話は母ちゃんには全く通じちゃおらん」、と姉には言いたいです。悲しい現実です。
★:母には[ナガラ話し]の癖があるのが災いしている。
姉が必死に母に話し掛けて刺激を与えようとしているのに母は受話器を右手で持っては左手で畳んだ洗濯物の上に座る猫のチッチさんに「コラっ、あっちへ行け」、と・。チッチはチッチで母の気をを引こうとワザと洗濯物の上に乗るんですね・。もう、話の筋が理解できない母にとって、長女・紘子からの早口の電話は母にとっては苦痛以外の何者でもない気がします。
次のような事もよくあります。我が家の母がTVを母なりに見ているとして、その最中に長崎からの電話があったとします。
紘子:「母ちゃん、今日の学校(デイ)はどうだった?」。
母:「今日も楽しかったよ。ありゃ、ありゃ~。赤が・」。
姉:「??赤が何ね。・・あっ、そうか学校で運動会でもあったの?」。
母:「運動会?、・・・えーと、空に青が。うわっ・飛んで行って・」。
姉:「???・・・・・・」。
これ、実は姉との電話会話の最中に母が見ているTV画面の中で赤色の綺麗な鳥が青い空に羽ばたいているシーンなんです。でも、電話の邪魔にならないようにと音を消しているTVを母は必死に見ながら姉とナガラ会話をしている様子です。でも、これは我が母の認知の進行が早まった状態だとは必ずしも言えないんです。
母の性格には若い頃からこのような面が多分にあって、今でも母の性格の一つとして残っていて、母のこうしたいい加減な面が時として母自身を危険に晒す事になっているんです。
オシッコの介助の際など、「はい、前の鉄のパイプを掴んで/動かないパイプの手摺りのことよ」、と言う私に対して、母は「はいはーい、手摺りネ」、と言う一方、もっと向こうのドアの手摺を勝手に掴もうとして真横にドス-ンと転倒した事が何度もあります。
私は母が動かない手摺りを確実に掴んでいる、という前提で母のズボンを両手を使って降ろそうとしている時ですからどうする事も出来ません。これは母の目に見えている、見えていない、の問題ではなくて母自身の性格の問題なんです。
★:必ずしも聴力ではなく、聴く為の気力のようなモノが次々と消失している。
夕方、食事前のトイレを済ませ、洗面所では母自身で形だけですが手を洗わせ、居間に戻って、さぁ、母を座椅子の座らせようとした際の会話を次に再現してみます。
私:「はい、テーブルに手をついて」。
母:「はいはい、テーブルに手ネ」。
私:「はい、次は身体の後ろの(座)椅子を右手で掴んで座るよ」。
でも、母はなかなかテーブルの天板に左手をついたまま座椅子へは座ろうとはしません。
母:「はァ?、いつ頃からって何がネ」。
私:「そんな事は言っちゃいないさ。身体の後ろにあるイス(椅子)を掴んで引き寄せてくれ」、と再度指示しても、
母:「はァ?、釜戸の虚ろが何だって?」、と母。母の耳にはイスがイツと聴こえたらしいのです。、
私:「もう・・、母ちゃん。しっかりしてくれよ。ケットルの湯が沸いとるよ」。
母:「あのさ、さっきからカチャ、カチャって・、そりゃ、何のこと?」。
私:「・・・はぁ?、??、あっ、カチャじゃなかさ。母ちゃんって言ったのさ」。
母:「はいはい。な~に?」、と・・。
私:「あっ、痛っ。腕が痛い」、「頼むよ、母ちゃん。椅子さ、さっきから椅子を掴めと言っとろうが」。
母:「いつから亀とどこに行ったってネ?・はて?」。
・・、とこんな感じの母と私の食事前の居間での会話。これって、決して笑う場面ではなく危険な瞬間であって、皆さんを笑わせようと嘘を書いているんじゃありません。
[今は何をしていて、その事に神経を集中しないと危険だ]、という意識が母には欠如しているんですね。つまり、母の中では「この人(私)が傍に居る限り、私は安全だ」、と思い込んでいるのが辛いし、母の体重を支えたままの私の腕が可哀想なほどに痛いんです。
私:「椅子さ、椅子。テーブル&椅子の椅子さ」、と声が枯れるくらいに何度も言い直して初めて母は「ははァー、私は座ってご飯を食べるんだ」、と理解するんです。
介護経験の諸先輩の皆様・・、私の日々を分かって頂けますか?。
☆2010年2月13日
★:我家の庭に蕗のトウ:味噌汁で・。
毎年の事ですが一足先の春の気配を感じています。ちょっと苦味がありますが蕗のトウがコン二チハと顔を出していたらしく、デイから帰ったら今日は休日の嫁が庭から摘んできていました。蕗・・大好きです。それに、蕗でありながら全く味が違う蕗のトウも・。春を代表する味覚ですね。
テンプラ、酢味噌に酢醤油でも上手いものですが今夜は味噌汁で食べようと思います。苦味が強いから前もって茹でてアクを少なくしておくのが私流です。
煮過ぎるとあの緑色が茶色に変色しますから蕗のトウの葉の部分だけは先に取り、トウの部分は3等分程度にしてから熱湯で茹で、遅れ気味に葉をサッと追加して火を止めるような茹で方をしました。
そして、別鍋で味噌汁を作って食卓に出す寸前に茹でて取り出していた蕗のトウを入れ、試しに刻みベーコンを入れてみたらこれが旨味を出して絶妙な味になりました。白ネギがあれば使いたかったのですが・。
★:母が哀れに・。時々、こんな事が・・。
「あの人、いつも車椅子であそこの箱(エレベーターの事)から出て来なさるね。ここに住んどらすとネ?」、と母が言います。「うーん」、と私は返事に困ります。
入所したままで歩行が全く出来なくなってしまうお年寄りは多いものですね。その事をどのように母に説明していいものか・。
それに、「可哀相ね・あの人・・。ほら、あの人はいつも(車)椅子に座ってさ。いつも誰かに押して貰ってネ。いつもさ。・・辛かろネ」、と母が言う日があるんです。こんな質問が私は苦手です。
「アンタだって車椅子じゃないか」、とは私に言える筈がない・。
家でTVを観ている際、画面に車椅子の人が登場するシーンって結構見かけますよね。そんな時の母は「嫌ネ・、私はこんなにまでして生きていこうとは思わんヨ」、と言います。
認知が進めば昨日今日が分からない処か、[今の自分]が分からないんです。要介護度が5にもなれば誰もが大きな変化があるんでしょうね。
★:夕方、TVで美しく復活した水俣の海を見て・。
「もう、死んでしまった」、と言われた水俣の海。TVを通してではありますが久し振りに見せて頂きました。奇麗、本当に奇麗です。美しい海でないと生息しないと言われるタツノオトシゴの姿も今では見られるとか・。、心から良かったなァと思います。単純ですがTVの前でボロボロと涙をこぼしていました。私はこんな話に弱いんです。
故郷の水俣で暮らす父親の体力が弱り、横になったままの日が増えてきたらしい。自分(息子)だけが東京で恵まれた暮らしをする訳にはいかない、と会社を辞めて水俣に帰り漁師になったという方がTVで報道されていました。
父親は水俣病と診断されたにも関わらず、ブルブルと震える身体にムチ打っては働き続け、自分を大学まで進ませてくれた・・。
「母親は私が幼い頃に他界。私は父親の手で育てられました。だから、今度は私が父の世話をするんです」、とこの漁師(息子)さんは話していました。
そんな話を台所で聞いていてグスグスと鼻を鳴らす私に気づいた母が洗濯物を畳む手を休め、「アンタは・・なんで涙バ流しよるとネ。何が悲しいと?」、と母が驚いて聞いてきました。
「あはァ・、何か分からんけど海見たり山見たり、空見たり、雲見たり、それに雨の降る様子を見ていると・、何だろうねェ。特に雨の振る中に居るだけで不思議な感情が湧いてきてさ・、その上にこんな孝行話を聞くと俺なんか恥ずかしくて・・(もう、母は私の話など聞いちゃいません・ちょっと長過ぎました)。
母と私の関係はこんなものだとつくづく思いますね。母にとっての私は当たり前の存在であって、特に孝行息子とも感じてはいないし、母自身では息子の世話になっているとも感じてはいません。勿論、母には認知があるからこそのこうした関係が構築できているんだと思っています。
恐れ多い親に対して恩を売る気もなく、孝行をしているという意識もまったくなく、ただひたすらに何事もなく、何かがあれば俺がどうにかしよう・と、母には穏やかな人生を全うして欲しいと、ただそれだけを願って暮らしています。
親を出し抜く気もなく、親の控えに甘んじる気もなく、私は私自身の決意を裏切る事なく、母の人生を支えることを今日一日、明日一日と続け続けているつもりです。でもです、私の中のどこかに「それでいいのか・?」という問いが常に付き纏っており、「駄目だなぁ、俺は本当にそんな人間だったのか?」、と思う瞬間は毎日のようにあります。
その理由は余りにも世俗的な妬みかも知れませんが、我が姉が海外旅行に行っては「母ちゃんに見せて」、と次々と写真を送ってくる時、我が兄が息子や孫達と「ああだ、こうだ」、と揉めていると伝え聞いた時などは羨ましく思う時が数多くあります。
決して善人ではなく、過去を振り返ればむしろ黒いモノを多く背負っている私が今になって母とのこの暮らしを送っている訳ですからね。いろんな葛藤があるのは隠すことは出来ません。
壊滅的な状況から見事に復活した水俣の海や山を見る機会がある度、小さく縮んでしまった自分自身の姿をそこに感じるんです。私の思い描いていた夢って、確かにありましたからね・。多分、「もういい加減にしときなさい」というストップを掛けたのが我が母の来熊だったのかも知れません。
★:海を護ろう・・なんて運動自体が変・。
海を筆頭に自然には凄い自浄作用があるんですよね。人間が普通に暮らす分の生活廃水なんか大した問題ではないんです。ご飯粒だろうが野菜くずだろうか本当は海に流れ着く前に自然分解して川魚などの餌にもなり全てが消失するんです。
処が、大地(土)から生じた物質に化学反応を起こさせて新たに作り出したモノの自然消却サイクルが不可能。洗剤や石油を原料とした化学製品などは地球には戻らないんですね(石油自体を分解する微生物は居ます)。
海を護ろう、山を護ろう・・、なんて運動が継続的不定期に行なわれてはいますが、そんな事よりも人類の生活そのものを昭和30年代に戻したいのが私の夢。
私は只の懐古主義者ではありません。現在の医療や化学・・、そうした文化を持って行った上での30年代の暮らしです。何も石炭掘って蒸気機関車を走らせて・、という意味ではないんです。
★:精神性を求める人が増えている背景・。
私に言わせれば妙なブームだと思うのですが、[富士登山500回]、[遍路行脚1000日]なんて事を自慢話にする人が増えていますよね。[自転車で日本縦断4回]なんて人もいます。健康の為だけにならやらない方がいいでしょうね。不十分な食事や関節への負担などを考えれば老いた先で「あれが祟ったのかも・・ちょっと無理していたからな」、と思う時が来るのではないかと思います。
問題は、そこまでして精神性を求めなければ自分の存在が確認できないような世の中になっていっているのではないかという事です。私自身も過去のブログで書いたように、高校時代には台風の来襲で荒れ狂う佐世保の鹿子前の海に飛び込んで3~4km向こうの島を目標に泳いだり・・、そんなバカな事までして自分の力を試した事がありますが、今思えば震えがきます。
でも、私達の運命は今という時代に常に影響を受けているんですね。その今という時代が虚しいから[富士登山500回]、[遍路行脚1000日]、[自転車で日本縦断4回]・・等々をしてみたくなるんだと思うんです。この心理、私が若い頃に山に篭もって暮した事と殆ど同じ動機ではないかと思うんです。
朝青龍の話で酒を交わしてもクソ面白くもないでしょう?。小沢さんが、鳩山さんが・金を誰かに貰ってどうだこうだ・、練炭自殺を装って殺人を繰返していた女が・・、手玉に取られる男も男だと思いません?・・、ホントに我がニッポンってとんでもない話題ばかり・・、否、こぞってそんな話ばかりを垂れ流すマスコミにも呆れます。¥26000の子供手当より、これから子供をどうやって増やすか、女性が働けて子供を生める時代をどうやって作るかの提言をしろよ!って思いません?。すべてに中途半端の今のニッポン・・飽き飽きですよ。
☆2010年2月15日。
★:一通の母への封書が・。
佐世保市世知原町に[山暖簾]というホテルがあります。切り立った崖の上に迫り出すように作られたテラスからの眺めが絶景と評判のホテル。それに、ホテル玄関前の八重桜が有名です。
数年前、このホテルで長崎に住む長女の紘子と深江免江迎に住む従兄弟の河内義統氏と待ち合わせ、母と嫁と共に熊本から向った事がありました。そして食事の後には母の故郷の歌が浦へ向ったのですが、今日はデイから帰宅した我が家の郵便ポストに[高橋ツヤ様]と書かれた1通のお礼状が届いていたんです。
「おっ、母ちゃんに手紙よ」、と私が言うと母は喜色満面。世を捨てたような扱いを受けているお年寄りにはこの瞬間はとても嬉しいんです。
「へーッ、私ネ。珍しい事もあるもんだ。一体、誰からネ」、と・。
「うん、ほら、世知原にある山暖簾というホテルからさ。何年か前に歌が浦に行く途中、紘子や義ちゃん夫婦と昼ご飯を兼ねて集まったじゃないか」、と言っても今の母には無理。
「義ちゃんの奥さんのミッチャンもあの頃はまだ歩いていたんだけどね」、と言うと、「義ボーの奥さんネ。どこか具合でも悪いとネ」、と・・。51歳で発症したアルツハイマー型の認知症で今では寝たきりのミッチャンなんですが・・。
「あー?、山暖簾というホテルは忘れたけどこの八重桜の事は憶えとるような・・」、と母は同封されていたパンフレットの写真を見ながら言います。
この処、洗濯物畳みがとても上手く手際も早くなっていた母ですが、一昨日と昨日は実にスローペースで一向に手が動きませんでした。私のパンツを1時間もかけて畳んでは開き、開いては畳み・。なんか、珍しいんだろうか?。
でも、今日は[ホテル山暖簾]からの1通の販売促進の手紙を手にして上機嫌で洗濯物を畳んでくれました。
「あんたはサ、・ここには行った事があるかネ?」、と母が言うんですが・・。ホテル山暖簾さん、例え印刷物でのご案内であったとしても我家にとっては嬉しい1通の手紙でした。
☆2010年2月26日
★:今日は母・ツヤさんの97歳の誕生日。
「はい、お義母さん。我が家に実ったイチゴよ」、と嫁。
「・・・・」、と何となく無愛想に受取って眺めています。
こんな時の嫁の気持ちってどんな感じかなァ、とよく思う事があります。もし、私が嫁の実母と同居しているという立場で同じような事があったとしたら、私の気持ちはどんなかなァ・・と。多くの介護家庭で似たような問題があるのですがそうした意味では母が憎い・のではなく老いが憎くなりますね。
昨年もそうでしたが、今年もケアマネの有江さんが花束を持ってきてくれました。自分の担当するお年寄りが誕生日を迎える度にこんなプレゼントをしていたら大変でしょうに・と思います。有江!、サンキューです。
「ほんに(本当に)・あの人はお話好きだから・私しゃ疲れるよ」、と母。
「そんな事は言うなよ。いろいろとお話をすることでお年寄りの健康状態を調査しているんじゃないか。それに、気を遣ってくれている事をひしひしと感じるだろうよ」、と聞けば、「そりゃ・そうだネ」、と母。
この数日前にはデイ施設の方で2月生まれ組のお年寄りの誕生日合同祝いが行なわれ、花1輪と記念写真を貰って帰った母。毎年、施設の同じ場所を背景に一人一人撮影されるのですが、この同じ構図で撮影された写真を並べて見ていると老けてゆく母の状態がよく理解できます。
天然の嫁は「お義母さん、ちっとも変わらないネ」、と言っていましたが、1日19時間も付き添う私から見ればいろんな面で大きな変化が確実に母に訪れています。
老いの見方は人によって違っていて、皮膚の状態や背中の曲がり具合、言葉の呂律・・、いろんな見方があるのでしょうが、私は母の老いの目安を目の力・眼力でみるんですね。
97歳の母の写真、何だかすっかり諦めきったような力のない目で老いを訴えています。
一日の中で、「寒くないね」、と聞くのは私の常ですが、昨年までは「大丈夫よ」、「寒ーはなかヨ」、と返事していた母。でも、最近は、「あァ、ここは広い部屋よね」、とか、「この私の青い布団。綺麗ネ。珍しいよネ」、と答えたり・・。発語障害がなく、キチンと喋る時の返事でさえ内容はチンプンカンプンです。
でも、97歳って・・、凄い事ですね。97歳で「コラ、手摺りはこれだ。何を掴んどるんじゃ」、とか息子に文句タラタラ言われながらでも週に2~3回は我が家で入浴して背中を流して貰える母。
「あはァ、そこそこ痒い痒い」、「違う!、もっと右」、と注文つけても素直に従う息子・・。こんな息子はおらんジョ。
☆2010年2月27日。
★:今日は母が97歳と1日を無事に終えるかな、という翌日の事。
またもや母がデイ先の鶴翔苑の昼食後に飲むリンブレンという薬を天然嫁がデイ施設との連絡帳に張付けておくのを忘れて施設の担当者から叱られたのは私。
このリンブレンというのは脳の血流を促進してくれる作用があるということで処方されているお年寄りは多いと思います。母の以前の主治医殿は血圧の薬に心臓の薬、それに脳機能改善薬と実に多くの薬を処方されていましたが、現在の先生はお願いすれば戴けるとは思うのですが基本的に血圧降下剤とこのリンブレンだけ・。
デパスやセラクロールなどは処方されていません。これはお医者さんによって異なる人生観の相違だと思うんですね。
例えば、食事が喉を通りにくい嚥下障害が出た際など胃袋に穴を開けてまで高カロリー輸液剤を与えて延命を計る事も一つの考えではありますが、決して自然ではありません。そこまでしてこその医療、そこまでしなくてもいいと思う人生観があると思うんですね。
★:実は、昨日(26日)の早朝。
自分の誕生日の早朝5:20に目を覚ました母は珍しく「シッコじゃないウンコ」、と・。これが大変だったんです。それに昨夜の入浴の時にも一騒動があった事が母の中では[心の中の風]のようなモノが吹き続けていたのかも知れません。
兎に角、母を介助する際には常に次のような会話から始まるんです。例えばトイレの際には、「いいよ、アンタに手伝ってもらわなくても」、「いいからいいから」、「いつも私独りでしている事を今日に限って何だいアンタは」、「まァまァ、いいから」、「はい、もういいよ。もう・沢山だよ」、「まだまだ。ちゃんと便座に座るまではホラホラ」・、とこんな感じです。
母は本来の目的のオシッコを忘れてしまう程に介助を拒否するんです。毎日の母との電話の時でも姉が「直裕の言う事を守って任せておけばいいんだから」、という意味の言葉を言おうものなら、「何だと!」、と怒る事が多いんです。
「私が直裕に何を手伝って貰っていると言うんだ」、「私はご飯の後の茶碗を洗ったり、風呂だってちゃんと独りで入って自分の事は自分でしているじゃないか」、と・。
そして、最後には、「はいはい、はいはい、はい。分かりました。アンタ(紘子)にゃ何を言っても無理」、と決め付けてしまう事が多いんです。
トイレの際でもそうですが入浴の際でも母は決して私が指示した手摺りを素直には掴みません。私は母の体重移動に従って次に握る手摺りの指示しているのですが、母は周囲が何と言おうが自分の思う手摺を掴むんです。
★:一昨日の夜
20:30頃に帰宅した嫁の姿を見た際、「ナオヒロ、ホラ、どなたかが来とんなさるよ」、と低い声で言います。「ホラ、ナオヒロ。どなたですか?、と聞きなさいよ」、と・・。勿論、玄関の嫁には母の声は聴こえているんです。
嫁がオドオドしたようなムッとしたような表情で「只今、帰りました」、と母の傍を通り過ぎようとすると、「お帰りなさーい」、と母が言います。「あっ、直裕の嫁だ」、とフッと思い出すんでしょうね。
この2010年の3月で嫁がケアマネとして働き出して1年を終えます。母がデイに出かける時間には既に嫁は出勤していて、母がデイから帰宅しても嫁はまだ仕事先ですから母の中からは嫁の姿が確実に消えていっては「あの人/貞子さん/フミ子さん」・・、と呼び名が変わる日が多い最近です。
このような事も介護家庭の多くで見られる光景なんでしょうね。
Posted by 濱野裕生 at 22:05│Comments(0)
│☆同居記録