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濱野裕生
濱野裕生

2022年06月12日

〇私の高校時代

◎2022.6.12

〇私の高校時代

 私の高校時代というものは殺伐とした危険な空気感を漂わせた生徒だったという見方があったらしく、周囲とは然程の交流もなかったのは自身でも認めざるを得ません。第一、私は同窓の友とは同じ日に卒業をしていませんし、彼らの多くは私は退学処分にあったという認識をもっている者が多いはずです。

〇教師Fとの確執

 その理由ですが、過去の記事でも何度も書いたように、単(ひとえ)にFという体育教師の影響があります。まァ、当時のFは大学を卒業したばかりの体育の新任教師だったろうし、私との年齢差も4~5歳程度。今から振り返れば無理もありません。でも、私の中では恨み事として今でも間違いなく心に焼き付いていますし、彼にしても進む老いの最中に見るはずの若き日の幻影として悩み、その葛藤が今も続いているだろうと思うし、生きている限りは悩み続けていて欲しいと思っています。

 中学時代から通った佐世保の戸の尾市場の一角にあった空手道場とその近くの松寿館という柔道場。ここに指導者として存在したFという人物。実は、後の私が進学することになるN高校の体育教師で、戸の尾道場の頃から「お前は今度新設されるN高校に進み、俺が任される事になっている柔道部に入るんだ、いいな、約束だぞ」とそのFの中では既成事実になっているかのようなFと私の子弟関係でした。

 長崎国体の開催に伴なってそのラグビー会場とし使用される目的もあって新設されるN高校の近くには当時はマラソン名門の西海学園、野球名門の佐世保工業がありましたから、そうした高校に対するFのライバル心から私へのFの思いいれは相当なものだったようで、私自身も中3の終わる頃にはFの見込み通りに初段を取るのですが、ご存知の方は多いはずで、当時の子供達が中3で初段がとれるケースは非常に稀なことでした。思い起こせば、中3当初に茶帯の私はその道場に通う黒帯高校生の3人に2人は投げ飛ばしていましたからF教師が目をつけないはずがありません。

 しかし、そのN高校の受験間近の頃、私には幼い頃に受けた柔道での内臓破裂事故に対する手術の後遺症というものが出始め、簡単に言えば術後後遺症としての亜イレウスといって亜・腸閉塞で、症状としては食べたものが簡単には排泄されない。多くはそのまま腸捻転に進んでしまうケースが殆ど。・かといって抗生剤をメインに弛緩効果のあるレペタンという鎮痛・鎮静薬剤などの処置をして様子を看れば少しずつ癒着部が外れて排泄が始まるという・・。腸の狭窄部を手術で取り除けばその通過障害はなくなるんですが、手術を行なうことで伴う学業の遅れや体力の落ち込みを考えると、これは私の人生の大きな損失になります。第一、9歳時の最初の手術で私の小腸は幾つもに切り分けられて再構築されていて、その繋目は数ヶ所もあって、小腸自体の狭窄部は沢山あり、亜イレウスを起こすたびに開腹手術なんて嫌ですよ。

 その解決策として一日3食ではなく、水分を多めに摂取しながら「茶漬けのような感じの食事を5~6回に分けて取るようにすることで私の通過障害は起こりにくい」、と医師に言われ、私はそれを選択することにしました。しかし、こうした食生活では体力は落ちる一方、私の体重は58~62kgにまで落ち、既に柔道などできる状態ではなくなっていたんです。
 
 そのような状態で私はN高校へ進学。しかし、柔道部を選択しなかった私に対し、何も知らないF教師はその理由も聞かずに朝礼という全体集会の場で私を呼び出して往復ビンタ47発という口や鼻からは血しぶきが舞う体罰?を仕掛けてきたんです。Fの物凄い怒りの感情を感じましたね。

 この事件、現在であれば当然のように社会問題になるほどのものでしたが当時の我が国は今以上に閉鎖主義。校内では問題にはなったものの、私に対する調査は3名の教師が鼻骨骨折、2本の歯の欠落を確認し、Fの主張する事実確認の聞き取りをされただけで教育委員会には報告さえされなかったようです。「やはり、濱野(高橋)は空手を習い、柔道では有段者だったんだ」と。
 つまり、当時の私が亜イレウス状態にあるという事実を知らない数名の教師達はFの主張する通りに私が自身の空手歴と柔道歴を隠して入学していることだけが強調され、理解されてしまったのです。部活はせずに一般道場に通う要注意人物だと理解されたんでしょうね。

 こうして、冒頭に書いたように私の高校時代というものは教師から友人関係に至るまで「殺伐とした危険な空気感を漂わせた生徒だ」、「いつ何時、暴走するか分からない生徒だ」という認識が持たれ、私には親しく声を掛けて近寄る者少なく、常に一定の距離を持つ教師や生徒が多くいました。こんな状態ですから当然のように私の年間登校数も減るようになっていき、このN高校卒業時の私は出席日数不足で卒業式の記念写真にも残されず、ただの不良生徒として数週間の自宅と登校しての待機生活。このすべてがFという教師との修復されないままの高校生活にありました。一方、私は米軍基地で音楽活動を思い立つのです。掻い摘んで言えばそんな虚しい高校生活でした。

〇出会えた友や一部の教師のお陰で

 F教師が仕掛ける私への制裁は朝の登校時、下校時と続き、バス停で、バスの中で、校門から出てバス停へ向かう途中でと、約1年半の間続きました。それもこのF教師はN高の柔道部以外にも私が中学3年当時に戸の尾道場に通っていた他校の柔道部や空手部の生徒まで使って私に制裁を加えに来たんです。私は自分の身体に多少の障害があっても、多少の反撃は十分に可能でした。しかし、所詮は3~4人の集団を相手ですから逃れる事は不可能。私は無抵抗を貫きます。

 実は、この私の状態を救ってくれたのがそうした経緯を全く知らなかったN高柔道部の副主将を務めていたMという生徒でした。「お前さ、なんで制服のボタンが千切れていたり、夏の制服のシャツに時々土や血がついていたりするんだ?」、「自分の腕を見てみろ。防御の打ち身アザだらけじゃないか」と・凄い眼力を持っていました。
 
 このMは先述したYの友人で実際には一つ先輩にあたる人物。鹿町町の高校で暴力事件を起こして退学処分。一年遅れで私の通うN高を再受験した生徒だったのです。しかし、私はこのMに相談して泣きつく事はなく、「否々、大丈夫です」、「3人がかりで殴ってこられたら、それは喧嘩とは言えんし」、「俺は苛められても誰かに負けたとは思ってもいないし、やり返そうと思えば個々には負ける気はしないから大丈夫」、と答えていました。 結局、このMは私が日常的に受けているF教師の指示による私に対する制裁行為を知った上で私に接近し、そのことを確認したのかったのです。

 やがて、MはN高の柔道部活中に教師Fの右足首を極めて複雑骨折をさせ、近隣の高校の空手部や柔道部に押しかけては「N高の生徒に手を出すなら俺が相手をする」と宣言。これ以後、私に対する登下校中のリンチの数は激減。今改めて当時を思い起こせば、Mと私は高校一年から三年まで同じクラス。どこかで心が通じていたんだと思っています。また、このMは後に大阪府警への採用が内定したのですが、高校時代の唯一の警察沙汰(恐喝)が発覚し、採用取消になっています。例えそうであっても、忘れられない私の恩人です。こんな青春が私にはありましたね。。

 それに、このMの近況を昨日の記事に書いた同窓Yに聞けば、「脳梗塞で寝たきりになった奥様を在宅で世話し、定期診察の時や買い物に至るまで奥様を抱き抱えて車に乗せ、車椅子に移動させ、Yの感想では「Mは奥様を己の妹か我が子のように大切に扱って一日の多くを奥様の世話に徹している」、という話でした。何だか。感動しますね。本来、優しさや強さってこうしたものだと私は改めて思います。

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Posted by 濱野裕生 at 19:33│Comments(0)☆母没後の呟き
 
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