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プロフィール
濱野裕生
濱野裕生

2022年06月07日

〇近況報告

◎2022.6.7

〇近況報告

《♪老いゆく母を見つめて:①》

 2019年頃だったか、高校時代の同窓生から電話がありました。 「アマゾンの販売理念に合致したのかは分からんが、お前のCDがやたら誇大気味にアピールされてるから見てみろ」と。懐かしさ半分で購入した私の12曲入りの作品群《老いゆく母を見つめて:①》を聴いてくれているようでした。

 「とても良いな。全曲が必ずしも切ない介護ソングでなく、息抜きのようにラブソング系も入れて当時の佐世保の様子を懐かしく思い出せたり・。でも、やっぱり泣かされたし我が家での親に対する介護を思い出したら随分と反省もさせられたなァ」、と徐々にしんみりと・。

「男って哀れな生きモンでさ。親が死んでからしか成長しきらんとさね」と私も思い切り長崎弁が全開ですが、これは彼に対する配慮であって、方言で話し掛けることでもっともっと亡き親に対する彼の本音を聞き出すことができました。でも、それは省略。

 「ただ、このCDにはテイチクのロゴがなくて自主制作の形になっているが、これは何故なんだ?」と彼が私に問います・。
「仕方ないさ。デビュー時には所属会社のテイチクの意向に沿った活動ができなくて迷惑掛けたし、
このCDもテイチク制作でお願いします、なんて言えなかったさ。それに、地元ではマネージャーに朝鮮人を起用したとして多くの方々に非難されていたし、事実、そのマネージャーからは活動資金やCDの売上げ金等々を通帳ごと持ち逃げされるし、デビュー後の活動なんてできる状態ではなくなってね」、「第一、俺には30年続けている会社経営の一方で母親の介護という絶対日常があったわけだし、その日々を綴った詩に曲をつけて作品にしていたわけだから、これを商業音楽の路線に乗せて別な新たな3本目の路線を日常的に平行して走るなんてことはできなかった訳さ。

 昨日は長崎、今日は佐賀、明日は博多で明後日は高松でのコンサートなんて出来るはずがないだろう?。でも、デビュー後の俺には実際にそうしたコンサート要請が次々と自宅のFAXに入る一方、熊本の病院のベッドでは母親が俺の手を握ろうと朝から晩まで俺の姿を探して叫んでいたんだよ」と私。

 「そうか。そうだったのか。あれ程の反響を呼んで一部のメディアが追い回した濱野裕生が何故に突然に姿を消したのか、その理由がそうしたことだったのか」、と彼は即座に納得?。

 こうした経緯があって2014年3月の母没後の私はテイチクエンタテインメントを始めとして多大なご迷惑をお掛けしたメジャー周辺の関係者にアピールする思いで《老いゆく母を見つめて:①》を自主制作版として世間に2018年に発表させて頂いた訳です。「まだ、音楽家としての熱意はありますよ」、「今なら活動ができますよ」、という商業音楽関係者に対するアピールのはずでした。

〇♪桜の便りは聞くけれど

 当初、この自主制作版の《老いゆく母を見つめて:①》は2016年に発表するはずでした。母が没した2014年3月の直後、私は4つの生命保険を解約し、熊本市を離れて天草市有明町須子という所に中古別荘を買い、夢遊病者のように日々を彷徨った時期がありました。2003年3月以降の全精神力を傾注した母との同居生活。そして、徐々に当然のように生まれていった嫁との確執。朝鮮人マネージャーに対する失意・。もう、歌う能力さえなくしていた中、山菜を集め、釣った魚に米と一緒に混ぜて煮て、仕上げにチーズを乗せて食し、昼は狸や猪を追っかけ、夜は野良猫と一緒に目の前に広がる月明かりに鈍く応える海を見ているだけで日々徐々に湧き上がってくるモノがありました。

 「このままじゃ駄目になる。今の俺ってただのマザコンじゃないか」と目を覚まし、《♪桜の便りは聞くけれど》という作品を作ったのはこの頃です。 そして、私は嫁や義姉、元野球仲間に天草の写真を「どうじゃ、どうじゃ」と送信し始めた処、嫁からは「私も天草へ連れて行ってください。私は貴方と一緒に海を見ていたいです」というメールが入り始めるのです。これを機会に私の心は熊本へ戻るのです。

♪:https://youtu.be/GfKmuP2RMRk

♫:桜の便りは聞くけれど



桜の便りは聴くけれど   私はそうそう信じない
春の一輪見るまでは  私は春を信じない
本当はいけないことだけど  もしも桜に出会えたら  
せめて一枝欲しいもの   届けるつもりあの人 へ

桜に香りはないけれど  きっとあの人気づくはず 
桜のいのちが分かるはず  私の願いが分かるはず
だから桜を見るまでは   もう少し辛抱しましょうか?
桜の便りは聴くけれど  まだまだ春を信じない 

季節の列車は見え隠れ 春よ桜よいつ会えるの  
風よ桜を揺らさずに   心静かに観て欲しい
そしていけないことだけど  桜よ君に出会えたら
私は一枝手に持って  届けるつもりあの人へ

桜に香りはないけれど  きっとあの人気づくはず 
桜のいのちが分かるはず  私の願いが分かるはず
桜の花を見るまでは   もう少し辛抱しましょうか?
桜の便りは聴くけれど 私は春を信じない 
桜の便りは聴くけれど  私は春を信じない


〇熊本地震で罹災。

 処が、皮肉にも2016年にはあの忌まわしい熊本地震が私を襲います。家の構造躯体である分厚い軒材が折れ、割れた天井材は私の右肘を直撃して小指と薬指に麻痺が生じてしまうほどでした。 

〇♪代継神社へ続く坂道

 この2016年の熊本地震。北区にあった我が家は半壊以上の行政診断。台所からは青空が見え、床下には雨が溜まってモヤシ状の草が生えてくる状態に・。それに、我が母が没した菊南病院が24時の間遠く目に入るのは相変わらず。再び私はマザコン状態に陥る日がありましたが、こうした中で生まれた作品が《♪代継神社へ続く坂道》でした。この作品、皆さんには是非ネットで聴いて欲しいと思います。検索すれば直ぐに出るはずです。

 こうした経緯があって、当初の2016年の出版計画が二年遅れて2018年に《老いゆく母を見つめて:①》を発表することになったのですが、皆さんには熊本市北区にある代継神社には是非詣でて欲しいと思います。あの長い坂道は私達が歩む人生そのもののような気がするからです。是非、歩いて登ってください。

♪:https://youtu.be/xDtnJSzl2hA



母:この代継神社へ続く急な坂道 ここを普通に歩いて登ればきっと日が暮れる。
母:でも、この長い坂には意味があるのよ お前にそれが分かるかしら?
「この代継神社へ続く急な坂道 ここは天へ繋がる道だよ」 母は・言ってた
「でも、長い坂なら誰もがいつも歩いてる 生きていくって事はそんなことだ」と

「いつまで通えるかしら この坂登って これも私のお勤めしら・」
「でも、お願いするよ 私はこのままここで ずっとお前と暮らしたいってネ」
神には・届いたのかしら・・ 母の言葉・届いたのかしら ・・
でも・あの日の母は何を祈ったのかしら・ 自分の言葉と裏腹 旅立ち支度
もしや「私はもういい そろそろ向こうに・」 神は母の祈りに涙で 応えたのかしら・

お袋・、今日は神社で説教されたよ 「 いつも願い事ばかりじゃいけませんよ」と
「生きてる今への感謝が先ですよ」と でも今の俺にはそんなの無理だよネ
そして、お袋・宮司さんから訊ねられたよ 近頃、アンタの姿を 見掛けないねと
だから、俺は答えてきたよ辛かった・けど 「先日・母は、 旅立ちました」と

思えば、あの日の神社の帰り道 母は何度も振り返ってた
「 これでお別れですよ」、「これが最後の詣でよ」 まるで、母は・そう言うように・
神には・届いたのかしら・ 母の心届いたのかしら ・
母は幸せだったかしら私との暮らし 代継神社の境内 私は佇む
そして、お袋・俺は決めたよ この町を出るよ 思いが一杯詰まった町だけどね
過ぎ行く季節の中に・ 私は・独り取り残されてる・ 過ぎ行く季節の中に・・・


〇《♪母に生命を返す時》は世間的に詩だけが評価され、音質的には酷評された。

 2011年7月のデビュー直後の12月にテイチクエンタテインメントから発売された12曲入りのCDアルバム《♪母に生命を返す時》につき、購入された方には非常に申し訳ないことをしたと思っています。今思えば、これもその後の活動をできなくなった大きな要素になっています。それは音質の悪さであり、対する酷評でした。

 既述したように、私自身が時間の調整が困難な時期にテイチクの判断で制作されたCDアルバム《♪母に生命を返す時》でしたが、実は発売されたCDの音源は私がテイチクへ持参したデモ音源(荒録音)だったんです。表現を変えれば、「話題性がある間に作って売ろう」みたいな気配を当時のテイチクに対して私は感じていました。 私の本業はサウンドクリエーター。俗に言う音響技師であり、取引先は熊本市にある熊本テルサホールです。この音質に関しては私はテイチクの音響技師以上の耳を持っているとの自負がありました。そして、その通りになったんです。

 この《♪母に生命を返す時》というCDアルバム発表直後、私の友人知人からは音質が非常に悪い、何故なんだという苦情が相次ぎました。幾つかのショップに問えば「確かに返品が非常に多い、評判を落としています」という返事もありました。これが当時の残念な事実です。 そんなこんなで何の対処もできずに今日に至っているのですが、一方、この《♪母に生命を返す時》という2011年12月発表のCDは国立図書館にも蔵書として認められ、収められているCDです。これはネットでご確認ください。詩の内容が認められたのでしょうが、何と言っても音が悪い。

〇《♪母に生命を返す時》と《♪老いゆく母を見つめて:①》を無償で交換したい。

 そこで、この《♪母に生命を返す時》というCDアルバムをお持ちの方は私のFACEBOOKを通して交換要請のメッセージを頂ければ2018年自主制作のデジタル録音の《老いゆく母を見つめて:①》との無償での交換をさせて戴きたいと思っています。これは私の切なる願いです。電話連絡でも構いません09013682656。楽天やアマゾンで買う必要はありません。ご連絡を頂ければ《♪老いゆく母を見つめて:①》を無償で郵送させて頂きます。

〇冒頭の彼の話。

 彼は元は出版関係に勤め、濱野裕生のデビューを知り、最初に感想をくれた友人でした。遡る2011年7月、私の最初の4曲入りCDの《♪蝉しぐれ~老いゆくいのち》がテイチクエンタテインメントから発表された際、彼は「高橋(私の本名)よ、これは難しい分野の音楽だな。啓蒙ソングかな?。少なくとも本筋のラブソングではないな。うーん、・・かと言って絶対に演歌でもないよな。果たして売れるかな?。確かに時代を正面から捉えたテーマだし間違えば大当たりするな。それも個人買いじゃなく、組織で大量買いされる。営業次第だが啓蒙目的の配布資料としては最適だな」、という内容でした。そして、その彼の予想は当たりました。発売開始の約3週間後には日本有線放送のリクエスト部門で全国総合チャート1位に一気に駆け上がるという快挙をやってのけました。幾つかのメディアでは濵野裕生の紅白歌合戦出場を予想する記事が踊り、私にも幾つかの電話取材がありました。
 その一方、名古屋に住む木村という日本名を名乗る朝鮮人を中心としたグループが濱野裕生はチャゲ&飛鳥の作品をパクっているという書き込みで私に対する誹謗中傷を激化させていきました。それは、まるで《♪蝉しぐれ~老いゆくいのち》の中の《♪蝉しぐれ》、《♪ホッホ》、《♪金木犀》、《♪兄ちゃま(アンチャマ)》の全てがパクリで作った作品かのような誹謗中傷でした。丁度、我が母には脳梗塞の影響から嚥下障害が酷くなり、胃に穴を開けて胃ろう用のペグを取り付ける手術の決定が為された頃でした。

♪:https://youtu.be/vlpK4ZKobds

 「濱野さん、全国総合チャート一位が嬉しくないんですか?」、「どうしたんですか、何故にコメントをしないの?」、という私を叱り正すようなメディアさんの声が遠くで聴こえる中、私は返事もせずに電話を切っていました。中傷する者あり、評価する者あり、濱野裕生という私は生まれて始めて経験する目の見えない敵・見方?との闘いにも耐える日々が始まったのです。誰も、何も信じられず、嘘であれ、事実であれ、私自身では絶対にコントロールできない状態に陥ってしまったのです。

 この後、私は自らの行動を制限するのですが、2018年にひっそりと自主制作した《♪老いゆく母を見つめて:①》をネットで聴いた個人・団体からはコンサート再開の打診が猛烈な勢いで入り始めます。アマゾンを中心に話題を呼んだのだと思いますが、その流れを私は嬉しく捉えて2019年後半から小さな規模でのコンサート再開の予定でした。しかし、そこへ降って湧いたのが新型コロナでの自粛規制でした。

〇《♪老いゆく母を見つめて:②》の制作と発表。

 2020年、既にSDカードやUSBメモリーへの保存を終え、後はマスターCDへの録音~プレスという段階ですが、仕上げた曲数が60作品を越えている為、選曲ができない状態。また、中には《♪母がピエロになっていく》という作品があったり、パンパンという職業名?を使った《♪佐世保めもりぃ》等々、YouTubeへの投稿の際にも禁止用語だと指摘された作品があったり・、難題を抱えた状態でコロナ禍が全面的に開けるのを待っている現在です。以上、片目を開けた濱野裕生の近況報告です。

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Posted by 濱野裕生 at 16:12│Comments(0)☆母没後の呟き
 
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