2022年06月17日
〇母が没した日
◎2022.6.17
〇母が没した日
母が没したのは2014年3月17日の早朝。時計の針は6時を少し回った頃。前日から長崎の姉夫婦が病院近くのAZホテルで待機。兄夫婦は弓削の自宅で待機。私と兄は二日ほど前から昼夜6時間交代で母の付き添いをしていましたが、何にしても手慣れない兄の母への遠慮気味な付き添い態度に不信感を抱いた私は6時間とは休みをとれずに3時間近くの睡眠をとった挙句、病院へ引き返す為に兄と取り決めた付き添いのローテーションは狂いがちになります。
3月16日を越えて17日の00:00から朝の6:00までの兄の担当時間が終わるのを待ちきれないように私は病院へ戻りました。そして、兄を帰して暫く経った頃から母の呼吸が再び、三度と乱れ始めました。やがて、5時過ぎには危篤状態となっては酸素の量も増やされ、私は姉と兄に「お袋が危ない」、と連絡を入れました。 前日から似たような状態を繰り返していた為、姉や兄が「またかよ」、という思いになっても仕方がありませんが、今回はそうではありませんでした。
2014年3月17日、早朝の6時8分。母は己の最期を私だけに見せたかったのか、突然、信じられない力で病床から上半身を起こし、大きく目を開いて私を見つめ、深々と頭を垂れてそのまま目を閉じ、ガクッと枕に頭を預けました。母の最期でした。
やがて、多少の笑い声を含ませた姉や兄の会話と小走りの足音が廊下伝いに聞こえ始めて、「どうね?」、と言う姉と兄が入室。 「つい、さっき臨終だったよ」、と私が・。
母の傍に居た看護師さんが「お亡くなりになっても暫くは聴こえるといいます。どうか話し掛けをしてください」、と。姉は「母ちゃん、よく頑張ったね。ありがとう」、と何度も母の額を擦っていましたね・・。
この記事を書いているのは2022年6月17日。母の死から八年後とは言え、己の母の危篤状態から死に至るまでを看取った息子としては今なお辛く、思い出すことばかりです。
〇母が没した日
母が没したのは2014年3月17日の早朝。時計の針は6時を少し回った頃。前日から長崎の姉夫婦が病院近くのAZホテルで待機。兄夫婦は弓削の自宅で待機。私と兄は二日ほど前から昼夜6時間交代で母の付き添いをしていましたが、何にしても手慣れない兄の母への遠慮気味な付き添い態度に不信感を抱いた私は6時間とは休みをとれずに3時間近くの睡眠をとった挙句、病院へ引き返す為に兄と取り決めた付き添いのローテーションは狂いがちになります。
3月16日を越えて17日の00:00から朝の6:00までの兄の担当時間が終わるのを待ちきれないように私は病院へ戻りました。そして、兄を帰して暫く経った頃から母の呼吸が再び、三度と乱れ始めました。やがて、5時過ぎには危篤状態となっては酸素の量も増やされ、私は姉と兄に「お袋が危ない」、と連絡を入れました。 前日から似たような状態を繰り返していた為、姉や兄が「またかよ」、という思いになっても仕方がありませんが、今回はそうではありませんでした。
2014年3月17日、早朝の6時8分。母は己の最期を私だけに見せたかったのか、突然、信じられない力で病床から上半身を起こし、大きく目を開いて私を見つめ、深々と頭を垂れてそのまま目を閉じ、ガクッと枕に頭を預けました。母の最期でした。
やがて、多少の笑い声を含ませた姉や兄の会話と小走りの足音が廊下伝いに聞こえ始めて、「どうね?」、と言う姉と兄が入室。 「つい、さっき臨終だったよ」、と私が・。
母の傍に居た看護師さんが「お亡くなりになっても暫くは聴こえるといいます。どうか話し掛けをしてください」、と。姉は「母ちゃん、よく頑張ったね。ありがとう」、と何度も母の額を擦っていましたね・・。
この記事を書いているのは2022年6月17日。母の死から八年後とは言え、己の母の危篤状態から死に至るまでを看取った息子としては今なお辛く、思い出すことばかりです。
Posted by 濱野裕生 at 14:12│Comments(0)
│☆母没後の呟き