QRコード
QRCODE
※カテゴリー別のRSSです
インフォメーション
大分県の地域ブログ情報サイト「じゃんぐる公園」

ID
PASS

大分ケーブルサービス
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
濱野裕生
濱野裕生

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告は非表示になります。
  
Posted by スポンサー広告 at

2022年06月17日

〇母が没した日

◎2022.6.17

〇母が没した日

 母が没したのは2014年3月17日の早朝。時計の針は6時を少し回った頃。前日から長崎の姉夫婦が病院近くのAZホテルで待機。兄夫婦は弓削の自宅で待機。私と兄は二日ほど前から昼夜6時間交代で母の付き添いをしていましたが、何にしても手慣れない兄の母への遠慮気味な付き添い態度に不信感を抱いた私は6時間とは休みをとれずに3時間近くの睡眠をとった挙句、病院へ引き返す為に兄と取り決めた付き添いのローテーションは狂いがちになります。

 3月16日を越えて17日の00:00から朝の6:00までの兄の担当時間が終わるのを待ちきれないように私は病院へ戻りました。そして、兄を帰して暫く経った頃から母の呼吸が再び、三度と乱れ始めました。やがて、5時過ぎには危篤状態となっては酸素の量も増やされ、私は姉と兄に「お袋が危ない」、と連絡を入れました。 前日から似たような状態を繰り返していた為、姉や兄が「またかよ」、という思いになっても仕方がありませんが、今回はそうではありませんでした。

 2014年3月17日、早朝の6時8分。母は己の最期を私だけに見せたかったのか、突然、信じられない力で病床から上半身を起こし、大きく目を開いて私を見つめ、深々と頭を垂れてそのまま目を閉じ、ガクッと枕に頭を預けました。母の最期でした。

 やがて、多少の笑い声を含ませた姉や兄の会話と小走りの足音が廊下伝いに聞こえ始めて、「どうね?」、と言う姉と兄が入室。 「つい、さっき臨終だったよ」、と私が・。

 母の傍に居た看護師さんが「お亡くなりになっても暫くは聴こえるといいます。どうか話し掛けをしてください」、と。姉は「母ちゃん、よく頑張ったね。ありがとう」、と何度も母の額を擦っていましたね・・。

 この記事を書いているのは2022年6月17日。母の死から八年後とは言え、己の母の危篤状態から死に至るまでを看取った息子としては今なお辛く、思い出すことばかりです。
  

Posted by 濱野裕生 at 14:12Comments(0)☆母没後の呟き

2022年06月16日

○落とし紙

◎2022.6.16

○落とし紙

 母の存命中、我が家のトイレには主流のロール紙のトイレットペーパーの下に母専用の落とし紙を置いていました。落とし紙って分かりますか?。A4版ほどの長方形をした比較的硬めのトイレ用紙で、お尻を拭く紙です。
 遠い昔の我が国のトイレというものは汲取り式で便器の下には家族人数に応じたサイズの便壷があって、そこへ大小の便が一旦は溜められ、満タンになったら業者さんが汲取りにきていました。 或いは、まだ化学肥料というものが少なかった頃の農家さんが汲取りを引き受けてくれては自分の農地へ撒いてくれ、いわゆる有機の肥料として米や芋、野菜等の作物を作っていたわけです。平成、令和育ちの者には理解できないことでしょうが、私が生まれた頃はすべての家庭には水洗トイレなんてありませんでした。

 母の祖父は濱野冶八という北松浦郡から佐賀や唐津~福岡方面へ延びる炭脈を開発する鹿町炭鉱の総帥であり、当時の我が国の石炭総生産量の約2%を出炭し、母の父は平戸藩の槍持ちの家系で生まれ、当時は濱野冶八を筆頭とする炭鉱の系列の平田山炭鉱を任され、当然のように母の一家のその暮らしは非常に裕福ではありましたが、その家さえも汲取り式便所だったようですから熊本へ来てからの母は熊本の我が家のロール式のトイレットペーパーを使うのが非常に苦手なようでした。
 いつも母は私の家でトイレを使う度に「裕生、これっ、ここっ。これはどうにかならんもんかね」、と。 私がトイレを覘けば、母は猫パンチで遊んでいるようにロール紙をガシガシクルクルと爪で必死に掻き回し、既に2mくらいのロール紙が母の足元や床に散らかっています。。

 これが切っ掛けでその後の我が家のトイレにはロール紙と落とし紙の両方を備えるようになり、2014年に母が没した後の我が家は現在でもロール紙と落とし紙の双方があって、私達夫婦は上手に使い分けています。この落とし紙ってロール紙とは違って溶けるのが遅く、トイレ洗剤や消毒液を含ませて便器やその周辺を拭くのにはとても便利です。まァ、老いた母が 我が家に残してくれた昭和の名残ですね。

○温水洗浄便座

 母と私達夫婦が一緒に暮らしていた熊本市北区の自宅は2016年の熊本地震によって崩壊。その後は東区の仮設アパートで難民として2年間を暮らす一方、この間に国の助成制度を利用し、郡部に積水ハウスの立派な代替え住宅としての中古物件を見つけることができました。構造躯体が軽量鉄骨で作られた頑丈な家です。 しかし、仕事の契約先が熊本市内にある為、この郡部に見つけた家からの通勤には無理があって、私は熊本市東区のアパートを仮設住宅として使わせて貰った後も自前で家賃を払って住み続け、現在に至っています。今流行の二拠点生活です。

 このアパートのトイレは温座式の水洗ですが、シャワーボタンを押せばお湯が吐出してお尻を洗ってくれる洗浄タイプではなく、先述したようにロール紙か落とし紙で自ら事後のお尻を拭かなければいけないタイプです。 アパートにあるこのタイプの便器で慣れている私が、週の後半になると郡部の代替え住宅へ向かって二日間を過ごすのですが、物覚えの悪い私はこの家でハプニングをよく起こすんです。

 ウンチをしている最中、ロール紙をクルクルと手で巻き取り、温水で綺麗に洗浄した後のお尻を拭く動作に備えるのですが、ウンチが終っったら傍の壁にある温水吐出ボタンを押すのを忘れて立ち上がり掛けてはロール紙を持つ私の手はお尻へ直行。。 「あれっ、お湯でお尻を洗わず、俺は何処を拭いてんだ?」、と。 「アハハ、お前も私と変わらないね」、とお袋が笑っている気がします。

○この郡部の家での生活

 敷地の隣の区画は既に放棄地の形で広大な面積の畑が広がっていたんですが、我が家の正面の畑は一昨年頃から近所の方が借りて耕作をされ、♪大根、にんじん、キャベツに白菜。玉ねぎ、オクラに葱にエンドウ。トマトにきゅうりじゃ物足りず。はたまた♪レタスにウドにチンゲン。なすびカライモ、おジャガにかぼちゃ(4拍子でもう一度リズミックに読んでください)、と四季折々の野菜や根菜類を作っておられ、「裕生さーん、いいのが出来たよ」、と我が家へ自慢げに持ってきてくれます。

 我が家はと言えば、・・自宅右隣の約70坪の畑を村上という方から年間ロハで借りていますが、週間に二日間しか居ない為になかなか水遣りができず、ジャガイモ、唐芋、サトイモなどの根菜類は辛うじて育ちますが、野菜類は何を植えても水不足で育ちません。 でも、この6月はミニトマト、ピーマン、ツルありインゲン、オクラ、ナスは結構な収穫ができていて、サラダや煮つけ、味噌汁の具にと役に立っています。 しかし、元々が畑だっただけに2年半前に植え付けていたイチジクやプラム、ヤマモモの木類は太さがないものの2m近い高さに成長し、現在は幾つかの果物を実らせ始めていて、やがては食することができる気がしまが、来年は手作りで棚を作ってキウイを這わ
せ育ててみようと思っています。   

Posted by 濱野裕生 at 16:10Comments(0)☆母没後の呟き

2022年06月15日

〇いつまで続くコロナ禍

◎2022.6.15

〇いつまで続くコロナ禍

 国会では2類から5類への提案が為されましたが岸田さんは「必ずしも程度の問題ではない」ことを強調されました。該当する類を変更することは、伴う助成や支援制度まで変更になる。つまり、様々な救済制度の適用の撤廃も伴うような5類への変更は困ります。 それに、新しい別な強力な感染力のある変異株が生まれる可能性がゼロではなく、病床数に余裕があるからという理由だけでは簡単に5類への格下げ変更は怖いですね。
 
〇持続化給付金など

 私の会社はホテル・熊本テルサ内・イベントホールの機器操作を行なう都合上、持続化給付金の¥200万給付の対象となりました。一昨年から昨年に掛けては決まっていたイベントのキャンセルを含め、年間140日以上の閉館状態で、イベントがない期間、私の会社が音響照明機器の操作をする事はなく、本当に長い待機期間がありました。確かに救済制度に助けられた面はありましたが、糠喜びの形になりました。社員には負担を与えないようにと地元の銀行から融資を受けたりして給料はそのままに、必死にやりくりしたつもりですが、年が変わった2022年に税務署に収めた税金は目を丸くするような金額でした。持続化給付金は一時所得と見なされて課税対象とされ、実質的に40%くらいが税金で回収されましたね。それに、今回受けた事業復活支援金の¥100万円は実際に給付される額は¥60万であり、税理士さんによると「35%くらいは税金として納付させられるんで残しておいてくださいよ」、と。結局、この二年程度は私は無給状態の社長業で何とか耐えています。

 私はこの税金関係のことがさっぱり。。、商業簿記3級は商業高校卒業段階で得られ、一般的には商業高校卒業者が大学の経済学部へ進みます。処が、私は普通高校出身な為、経営学部しか選択肢がありませんでした。ついでに告白しますが、私は9歳時の柔道事故による内臓(腸管)破裂によって手術から退院、復学中の術後管理入院などを繰り返して小学4年から5年生2学期に掛けてのほぼ一年近くを通学していない為に今でも算数が苦手。人の相談を受けた末にアルファベット等を使った公式を生み出すのは得意なんですが、肝心の計算が不得手なんです。だから、経営を大筋で分かっていても実際に税理士さんがだした数字を見ていつも驚いています。

〇経費としての凄い額の消毒用アルコール代

 これって、これまでには考えたことすらない経費ですよね。契約先のホテル側で支給してくれるのかな・と思っていましたが残念。テルサホールに続く階段とその手摺、途中にあるトイレにドアのノブ、壁にあるスイッチ類など、一般の人と私達のスタッフが交差する部分はそれは神経質なまでに管理消毒を欠かしません。

 18L入る消毒用アルコール缶を月に2本は購入し、700CC入る小型スプレイ缶に小分けして思いつくところに一日中シュッ、シュッ・と。この約3年というもの、この消毒用アルコール代だけでも大変だったのに、その代金の全額の経緯計上は「無理」との返事。何かおかしいですね。非常時の最優先経費だと思うのです。

〇まだ、ワクチン接種を受けていない。

 実の処、私はまだコロナワクチン接種を受けてはいません。 現在のワクチンは人造ワクチンとまでは言いませんが、これまでの各種ワクチンの作り方とは違う画期的な作り方ですね。従来のワクチンは実際のウイルスを無毒化した上、それを材料にして作るやり方でしたが、今回のコロナウイルスの急激な蔓延に対処するために急遽、新たな方法で作られたのが現主流のファイザーやモデルナ、アストラゼネカワクチンですね。言わばぶっつけ本番で作られた訳です。3世代目くらいに副作用がでて人類が破滅するかも知れません。これは可愛い脅しです。

 塩野義製薬をはじめ、近々承認される予定の国産ワクチンの中には従来型の製造方法のワクチンがあって、私はその従来型製造方法で作られたタイプのワクチンを接種しようとは考えています。私を含め、私以上の世代の方々には過去には世界的に大きな問題になったワクチン被害事件を憶えていますからね。用心が肝心。

〇国が持つ国民データというものを私が信じない理由。

 これは非常に大事な告白ですが・・、
 実は、約2年近く前ですが治験ジャパンという組織が募集するワクチン摂取モニターに私は応募しました。それは従来の伝統ある方法で作られたコロナ対策ワクチンでした。私からの体験モニターとしての応募に対し、後日、ある医療機関に設けられたらしい仮設の調査窓口から「モニター応募者に対する聞き取り調査です」と電話での連絡があって、その場での簡単な質問がありました。

 「暫くお持ちくださいという」先方の言葉があって後に数十秒の時間があり、電話の向こうではカチャカチャとパソコンのキーボードを叩く音がした後、「お待たせしました。折角、私たちの治験へのご応募を戴いたのですが、残念ながら貴方には重大な胃の疾患(障害)があることが国の厚生労働省のデータとして記録されていて、今回の治験には協力を戴くことができません。私たちの開発したワクチンの治験モニターとしては適性を欠きます・・」、と・。

 何をどう、どのように調査したらこういう結果になるのか?。ありもしない事実が国によってこうして勝手に作られ、それが個人情報として保存され、扱われているこの現実。私は失望と同時に国の政策として現在進行中の国民全員の情報を入力したマイナンバーカード化は絶対に申請所持はできないなと思っています。

 私には9歳時の柔道事故による腸管破裂という忌まわしい過去は確かにあります。しかし、胃に疾患を抱えることを検査、指摘した医師はこの地球上のどこにも居ず、私自身でも胃に異常があることなどは自覚したこともありません。とんでもないことです。


〇過去40年以上、風邪で寝込んだことがない私。白い槍のお陰。

 10歳を過ぎた頃から風邪をひいた記憶がありません。知りあいの薬剤師と電話で話す限り、「血液検査をすれば貴方の白血球数はいつも2万程度あって、それは貴方のお腹に残る数箇所の腸管癒着がその数値を上げているのが原因。 これは医学的には異常だが、その白血球が身体中の免疫を高く保持している。だから、いつも炎症状態の貴方は風邪もなかなかひけない」、と・。つまり、ウイルスが身体の中に入り込んでも、その場で白い槍を持った血液軍団のリンチにあって殺されていて、貴方はコロナウイルスも怖がる新人種ではないかと言うのです。 若しかして、私のような人間が変異株を誕生させているのかもです。

〇今でも続く契約年俸のカットが痛い。

 先述したように、このコロナウイルスによる度重なる自粛期間の設定。その影響で約2年半前から私達の年俸は3割カットされ、現在でも2割5分のカットが行なわれています。対し、私は社員の給料カットは行なわずに踏ん張り続けています。いつまで持つのやら、と夜間などは思わず暗い天井を見上げてため息をつく日が多くなりました。
 
 今朝などは洗面所の鏡を見て驚きました。私の首の周りには赤い筋が一筋・。きっと、生活の苦しさから嫁が紐で私の首を泣きながら絞め、幾ら絞めても力が弱くて絞め切らずに諦めた痕跡ではないかと、申し訳なさで涙が出ました。これは冗談かな。

〇《♪老い行く母を見つめて》と《♪母に生命を返す時》の双方のCDアルバムの交換。

 過日の記事にも書いたように、2011年12月にテイチクから出した《♪母に生命を返す時》というCDの音源が余りにも悪く、CDショップへのクレームがついていた事に対するお詫びの思いで、テイチクに相談なしで自主制作した《♪老いゆく母を見つめて》という12曲入りCDアルバム。 現在まで、私は《♪母に生命を返す時》のCDアルバムをお持ちの方に対し、《♪老いゆく母を見つめて》という12曲入りCDアルバムとの無償交換をお願いして参りました。

〇今後、無償で2000枚の配布を開始。

 また、母没後のこの八年もの間、封書やメールでお悔やみを戴いた方々には無償で2018年制作の《♪老いゆく母を見つめて》を送付させて戴き、既に母没後のこの八年の間に500枚の送付を数えます。 この度、この「母に生命を返す時」というブログの再開を行なうに伴って、2018年制作の《♪老いゆく母を見つめて》に関心をお持ちの方へは無償で送付させて戴こうと決意しました。《♪母に生命を返す時》というCDアルバムとの交換ではなく、この《♪老いゆく母を見つめて》という12曲入りCDアルバムを今後は2000枚限りではありますが無償で配布し、必要であれば追加プレスも考えています。介護家族の一員だった濱野裕生による介護生活に対する啓蒙ソングだとご理解ください。現在、《♪老いゆく母を見つめて》は楽天市場やAmazonで有償でも販売されていますが、私のこのブログのコメント欄を通して送付希望を伝えて戴ければ無償で送らせて戴きます。
  

Posted by 濱野裕生 at 18:08Comments(0)☆母没後の呟き

2022年06月14日

〇母の夢をよく見る

◎2022.6.14

〇母の夢をよく見る

 母没後の2014年3月以降、約一年を経た頃から母の夢をよく見ます。俗に言う《夢枕に立つ》という状態がどんなものかは私には分かりませんが、毎夜のように夢をみました。その夢の中での私はいつも母を我が子のように両手で包んで胸に抱いています。そして、時々ですが夢ではなくて突然に布団の中から「裕生(直裕)ありがとう」、という母の声が聴こえることもあります。でも、この声が聞こえるという錯覚は私が普段から持つ母への意識が原因だと思うし、気のせいだと理解しています。

 夢を見た翌朝は体が疲れている・とか、疲れている日の夜間には夢をよく見る・とか言いますが、そうした夢の場合には「よし、朝起きたら嫁に話してみよう」、と思いながらも朝になれば原則的にその夢の内容をさっぱりと忘れていて思い出せないものです。これは皆さんにもよくあることと思います。でも、私の場合には少し違うんです。

 母没後から八年後の現在に至るまでに私が見て来ている夢は朝を迎えて起床して一服のお茶を飲んでいる時、仕事に出かける嫁を見送って洗濯機を回す時、洗濯物を干す時。そして、母没後の直後に見た夢、没後3年目、5年目に見た夢でさえ、その多くを2022年の今日現在でも嫁や周囲に話して聞かせる事ができるほどに記憶しているんです。これは不思議だなァ・と思います。

〇その夢の内容というのは、

 存命中の母との思い出ではありません。母と一緒に通った介護施設でも立田山自然公園でもなく、代継神社や八景水宮公園でもなく、全く実体験がない場所、空間に母と私が居ます。
 例えば、水害に見舞われた私が小さなお人形さんサイズの母を両手に抱いて必死に洪水から逃げ回っているシーンですが、私達の方へ向かって流れてきた大きな流木を避ける為、私は片手を一瞬だけ離してしまいます。しかし、その流木を避けることができた瞬間に片手だけで抱き抱えていた母の体がアッという間に濁流に奪われて飲み込まれるんです。
 「裕生(直裕)、お願い助けて。助けておくれ!」、と叫ぶ母の姿はアッと言う間に私の視界からは消えていきました。これはこれまで見た夢の一つですが、更に一例を挙げれば、深いジャングルの中を私は小さな母を両手に包むように歩いているんですが、突然のスコールが襲ってきて、私は咄嗟に見つけた壕に向かって駆け込もうと試みます。その壕の前に生い茂る背丈の高い草木を片手で振り払っている最中、いつの間にか私の傍にいたはずの母の姿が消えているのです。

〇夢をみる理由。

 母没後に見た夢を八年経った現在でも覚えていると前述しましたが、私が見る母の夢は悲しいかなその夢の背景が水害や火災であったり、交通事故であったりするだけで、その夢の中身は殆ど同じ。いずれもが《私の不注意で母を亡くしてしまった》、という内容なんです。何故、こうした夢を何度も何度も繰り返して見るんだろうといつも思うんです。

〇思い当たること。

 多分、母の死に方に対する当時の疑問が現在でも私の中で燻っているからだろうと思い、私の中に今でも残り続ける大きな失敗、悔いとして結論づけています。

 あの日、母が居た病室のエアコン清掃の時、母を別な部屋に移してもらえば良かった。それを何故に言えなかったんだろう・・、と。
 主治医は老人性の肺炎だと診断して母には抗生剤を処方したが、母の咳や発熱は一向に収まらず、「何故だろう、一向に効かない」と主治医も首を傾げていました。

 そうではなくエアコンの修理の際に病室中に撒き散らされた真菌(カビ)が母や隣のベッドのYさんの咳と発熱を生じさせ、一日遅れで母にも同じ症状が出たこと。あの時の主治医は抗生剤ではなく、抗菌剤を処方すべきではなかったかと・・。私はそれを主治医に言えなかった・・。主治医は私にX線画像を見せ、「ほら、お母さんの肺の炎症状態がこれです」、と言いました。

 でも、病室のエアコンの修理が行なわれていた現場に居た私としてはその画像が違って見えました。私の喉元まで出掛かっている言葉、「これは母の肺の中で蜘蛛の巣状に増殖した真菌ではありませんか?」、とは主治医に対して流石に言えなかったんです。

〇日常的に行なわれるカンファレンスにも同席をしない主治医だった。

 病院の勤務体制上、主治医はエアコンの修理、清掃とその直後の母の咳と発熱を看護師長から知らされてはいませんでした。何故なら、主治医が母のベッドへ駆けつけたのは既に母には咳と発熱が始まった四日後だったからです。実は、看護師長自体が看護師からの報告を受けず、その事実を知らなかったはず・・。

〇患者の急変がなかなか伝わらぬ体制。

 バイタル測定で体温測定を例に現場の実態を言えば、「はい、ツヤさん。お熱を測りますよ」と看護師によって母の脇の間に挟まれた体温計は直ぐにベッドのシーツの上へとへと落下。暫くしてやって来た看護師はシーツの上に落下して母の体温などは測定もしていない体温計を拾っては「はい。36.5度ですね」、と。基本的にそんな朝が繰り返されていました。 

 入院患者には必ず行なわれる毎朝のバイタル測定。担当看護婦が今朝を遡る2~3日前をチャックした上で今朝のバイタルを測定しさえすれば、母の発熱状態を看護師自らが確信できたはず。365日の朝を母の傍に付き添う私は看護師さんによるバイタル測定を母の傍で毎朝目撃する訳ですが、看護師曰く「はい、36.8度で問題ありません」、と。そして、翌朝は「37度3分で問題ありません」と・・。

〇看護師が医師の如くに初期診断をして、報告をしない。
 
 母の平熱が35度7~8分程度だと知っている私が「母の37度8分はかなり高いんじゃありませんか?」、と問えば、「否、問題ありません」、と。「でも、呼吸が荒く、顔が赤い母は発熱傾向にあるんじゃないですか?」と言えば、看護師はムッっとした表情で返事もせずに部屋を出て出ていきます(俺の質問を主治医に伝えろよ!)。

 やがて、母の顔が赤みを帯び始め、呼吸が荒くなっていることに午後から出勤してきた別な看護師が気づき、ナースステーションでデータとして記帳されている母の平熱が36度7~8分だと何故か始めて知る訳ですが、こうしてその看護師は翌朝の申し送りの際に看護師長へようやく報告。
 看護師長は母を担当する主治医へ連絡。ここでようやく抗生剤や解熱剤が処方されるのですが、この段階では主治医は病室へは来ず、主治医が母の傍へやって来たのは既に咳や発熱が始まってかた4日後のこと。 赤ら顔の母の呼吸が相当に荒くなり、胸が大きく波打つような状態になっていた頃でした。。

 勿論、私は4日前から自宅を出る朝に氷や冷たいアイスノンを病室へ持参して私の勝手な判断で母の後頭部や首筋、胸を冷やしていました。何故って?・・。氷自体はナースステーションには大量にストックしてあるんですが、理由を言わずに私が貰いに行くと、詰めている看護師達がとても不快な表情をするのです。

〇母が没するまでの当時の経緯が最大の悔い。

 私にはそうした経緯の末に没した母に対し、本当に申し訳ないことをしたと今でも恥じています。それに、入院時の確認事項の一つに「AED機器は2回まで使用する」とされていた事につき、母の今際の際の部屋にはその機器の準備さえされていなかった点。母に対する蘇生の試みは為されませんでした。

 こうした母の周囲のドタバタ劇があって、その事に対する私の残念さ、無念さという思いが母没後の八年を経ても同じ内容の夢を何度も見続ける原因だろうと思っています。つまり、最後まで母を守ってやれなかったことへの私の悔いです。

〇一カ月前には自宅療養の提案がなされていた。

 だって、ほんの一ヶ月前にはたとえ母が身体硬縮の状態であったとしても、「ツヤさん、そろそろ自宅に帰って過ごしてみましょうか?」と主治医さんは母に声掛けをしていたんですよ。母のこと・・、どこまで理解していたんでしょうね?。
 でも、夢の中の母は「ありがとうね。ありがとう」、といつも私に言います。それがとても切ないんです。私の悔いは今もずっと続いています。。。
  

Posted by 濱野裕生 at 17:03Comments(0)☆母没後の呟き

2022年06月13日

〇ちむ・どんどん

◎2022.6.13

〇ちむ・どんどん

 母との介護同居中の2003年から約10年以上、私は朝の連ドラなんか見ている時間はなかなか取れませんでした。母の場合、通所が基本であり、転倒などで骨折した時の入院治療やその後のリハビリの為の入所など、医師からの指示があって、私自身でもその必要を感じた期間だけの入所は確かに2回ほどありましたが、基本的に私は母の入所は考えたこともありませんでした。

 入所こそが認知の進行や人間性の崩壊を深める危険性があって、これは避けるべき。家族が一緒に暮らしてこそできる老いの看取り。一日の多くを家族と暮らさず、赤の他人で、しかも老人の世話を仕事として嫌々ながらにやっている若者と暮らして何が楽しいんだ、何が介護制度だと私は思っていました。特に勤務先として施設から施設を渡り歩くような介護士に真心なんて感じられませんでした。

 福岡大学構内にあるメディアホールでの私のコンサート中の出来事ですが、会場にいる看護士さん、若手の医師たちに「ここに天使は何人居ますか?」、と聞いた際、「そんなモン居るかい」、と女性の声の大きな合唱が起きました・・。確かに、口が尖って常に何かに不満を抱える看護師、介護士が増えていますが、理由は何なんでしょう・。 私は「皆さんは看護士が憧れの職業だったのですか?」、という意味で聞いたんですが・・。これってあのd有名なナイチンゲール財団の講演会での一シーンでした。
 看護師、介護士が自分にとって嫌な辛い職業だと感じているのなら、そんな奴等には大事な親は任せられません。辞めて欲しい。志さないで欲しい。これが介護家族の思いです。
 
 通所開始後の母の表情は暗い日が結構ありましたが、施設からの送迎を断って私自身が朝と午後に送迎をするようになってからの母の表情は見違えるように明るくなり、ハモニカを持たせるようになってからの母は行き帰りの車中でさえもプープーと吹き、「さてさて、明日は何の曲を演奏しましょうかね?」、と利用者の前で演奏する喜びを私に伝えて来ました。お年寄り同士は仲が良いんですが、ここに変な介護士が紛れ込むとその日の介護施設は全体的に回らなくなりますが、あれは何故なんでしょうか?。多分、介護制度に問題があるんでしょうね。

 介護事業所で明るく振舞って働いている介護職の人はほんの一握り。書類のデジタル処理に伴って、最近の介護現場ではお年寄りの世話処ではなくなり、多くの施設では介護職員個々が受け持つ事務処理が大変に増えており、母の存命中にとてもお世話になったある介護士さんに聞けば、「介護職に長い経験を持つ人達から順に職場を離れる傾向にある」、ようです。
 
 介護の世界で働きたいのに制度の変更によって働き辛くなって。パソコンの操作ができるかできないかで介護職に対する適応、不適応が決定されている。、と。古くキャリアのある人ほど働き辛い環境が作られている最近のようです。
 
〇人生に迷ったら、一度入り口に戻れ

 例え己の暮らしが逼迫してもそれはそれでその家族の運命ですが、運命なんて変えられるはずだという考えを私は常に持っていました。

 《人生に迷ったら、一度入り口に戻れ》、これは現在進行中のNHKの朝ドラの《ちむ・どんどん》の中で沖縄県人会の会長役を務める片岡鶴太郎さが呟いたセリフです。見ていて、「なるほど、そうだよなァ」と思いましたね。よく、「人生は振り返ってはいけない」と言われますが、私はそのようには思いません。人生って何度でも振り返り、己の生立ちや歩んだ道を回想し、周囲の意見を参考に現代を読み、時折々の軌道修正をしてこそだと思います。

 人生の入り口とは己の生まれた時代やその当時の社会環境。例えば都会で生まれたのか、或いは田舎町で生まれたのか。それに、その時の両親の職業や年齢、自分は何人兄弟の何番目に生まれたのか。父親はサラリーマンで転勤族だったのか、それともゆったりとした土地で農業を営んでいたのか・・等々。これが積み重なって性格や人生観が作られ、人は確実に老い、人生を終えていくんです。

 例えば、私の母は血圧が高く、その生涯に渡って心臓や腎臓に問題を抱える人でした。母の母であるライさんも腎臓を患い、腎臓病でなくなっています。長崎県北松浦郡にある佐々、歌が浦という母が生まれ育った地は古くから漁業の町であり、塩漬けの魚を干した食事がメインだった時代。当然のようにこの地で生まれ育った人々は心臓や腎臓になにがしらの問題を抱えることになります。 
 母は4人兄弟姉妹の末っ子。長男は14歳も上、次男は11歳上、長女は7歳上、次女は4歳上。母はとても可愛がられたお陰で、大人になっても強気で我が侭で思いっ切り甘えん坊さんの女性になったようです。
 やがて、母は強引に見合い話を勧める父親に嫌気が差し、既に博多へ嫁いでいた長女のフサ姉さんの家へ駆け込むように逃げるのですが、この博多の地で母の運命が大きく変わります。それはタイプライターという当時の文明の利器に出会ったことでした。

 母は英会話とこのタイプライターを習得する事で博多では引っ張りだこの英文タイピストとして活躍する事になります。当時では珍しいBG(ビジネスガール)の先駆者の一人ですから貰うサラリーも多く、余裕ができた母は休日にはおしゃれをして当時の優雅なカフェに通い、生花に三味線、大正琴と習い事の数も増えていきます。この時に磨かれた音楽センスが後々にこの女性の子として生まれる私の子育てに生かされ、私はいつも母の歌声を聞きながら育ったようです。

〇私の現職業の原点。

 現在、私は熊本テルサホールという公共ホールで照明や音響、映像送出機器の管理操作を20数年とさせて頂いていますが、この仕事をするようになった切っ掛けは何か?・と言えば、ある人から頂いた一通の手紙でした。

 その封書には「高橋(濱野)さん、覚えていらっしゃるでしょうか?私は〇〇荘で課長を務めていた〇〇と申します。この度、新設された熊本テルサホール勤務を命じられ、音響照明を担当して頂く業者さんを探しています。・・省略・・・・既に音響照明操作業務に関わる業者選択の入札会は終わったのですが、参加した業者さん達が出した金額は運営主体の熊本県が試算する金額とは大きくかけ離れたものでした。・省略・・・当ホールの開業も2週間後と迫った今、・・省略・・、是非とも私共の相談に乗って頂きたく思い、」こうしたお手紙を差し上げている次第です。・・・省略・・。
 文系の高校、大学を出た私には電気系、それも一部では重電を扱うこうしたホール。母のお陰で音楽に親しむ期間が長かった為か私には音質に対する拘り、それに楽器、その他の音響機器に対する知識はいつしか身に付き、照明に関しては高校時代に出入りした米軍クラブのイベントでの照明マンとしてアルバイトをしていた都合上から何でもないことでした。それに、熊本の鶴屋デパートの多目的会場のイベントではビデオカメラマン、その編集員としての経験も7年ほどありました。テルサホールの音響調整室にずらりと設置された機器群を見ても別段、「この操作は俺には無理だ」、とは思いませんでした。

 「どうですか?。県が示す予算内で取り敢えずは操作してもらえませんか?」、と。もう、ホールとしての開業が2週間後と迫っている中での決断でしたが、「分かりました。やりましょう」、と私は返事をしていました。これが切っ掛けでその後の20数年、現在の私に至るのです。

 やがて、ある程度の予算が貰える様になった私は社員に現場を任せて離れ、テルサ側から与えられていた事務所の空きスペースには録音機器を持ち込み、水をテーマにした詩と環境音楽を作り、録音し始めます。やがて、母の老いを知った私は介護ソングをメインにした詩作り、楽曲作りに専念するようになります。

 2006~7年頃、当時の流行の投稿サイトと言えば動画を使うYoutubeではなく、まだまだ音声のみの楽曲だけをアップするサイトが全盛でした。手始めに12~3曲をアップした処、介護ソングという分野が珍しかったのか、一晩の間に12,000というカウントが上がることに驚き、「曲作りが上手いのは元プロなんだろう」、「メジャー落ちが作る楽曲だけあって取りあえずは流石だ」、等々のいい加減なコメントは無視し、一気に80曲以上をアップさせた処、幾つかのイベント企画会社からの問い合わせ、みのもんた氏がMCを勤めるTV番組からの出演オファーやフジTV系列の出版社からのCD出版のお誘いが入るようになり、そして、2010年にはテイチクエンタテインメントからのお誘いで2011年デビューとなるのです。
 
〇何事にも小さな切っ掛けがある

 今日は朝ドラの《ちむ・どんどん》の中での片岡鶴太郎さんのセリフ《人生に迷ったら、一度入り口に戻れ》、というものを題材に、「己の人生を振り返れば、その節々に人生の転換点が見つかるかも知れない」、という記事を書いてみました。

 母と私が乗降りした人生の駅ですが、その降り立った駅では常に誰かに出会い、その人に支えられて母も私も生きてきたんだなァ、とつくづく思いますよね。貴方も自分の人生を振り返ってみませんか?。今の貴方が忘れかけている大切な友人や恩人をフッと思い出すかも知れません。そして、貴方を大切に育て、今は老いていく一方の貴方のご両親のことも・思い出せるはずです・。せめて、電話でもしましょうか。
  

Posted by 濱野裕生 at 15:06Comments(0)☆母没後の呟き

2022年06月12日

〇私の高校時代

◎2022.6.12

〇私の高校時代

 私の高校時代というものは殺伐とした危険な空気感を漂わせた生徒だったという見方があったらしく、周囲とは然程の交流もなかったのは自身でも認めざるを得ません。第一、私は同窓の友とは同じ日に卒業をしていませんし、彼らの多くは私は退学処分にあったという認識をもっている者が多いはずです。

〇教師Fとの確執

 その理由ですが、過去の記事でも何度も書いたように、単(ひとえ)にFという体育教師の影響があります。まァ、当時のFは大学を卒業したばかりの体育の新任教師だったろうし、私との年齢差も4~5歳程度。今から振り返れば無理もありません。でも、私の中では恨み事として今でも間違いなく心に焼き付いていますし、彼にしても進む老いの最中に見るはずの若き日の幻影として悩み、その葛藤が今も続いているだろうと思うし、生きている限りは悩み続けていて欲しいと思っています。

 中学時代から通った佐世保の戸の尾市場の一角にあった空手道場とその近くの松寿館という柔道場。ここに指導者として存在したFという人物。実は、後の私が進学することになるN高校の体育教師で、戸の尾道場の頃から「お前は今度新設されるN高校に進み、俺が任される事になっている柔道部に入るんだ、いいな、約束だぞ」とそのFの中では既成事実になっているかのようなFと私の子弟関係でした。

 長崎国体の開催に伴なってそのラグビー会場とし使用される目的もあって新設されるN高校の近くには当時はマラソン名門の西海学園、野球名門の佐世保工業がありましたから、そうした高校に対するFのライバル心から私へのFの思いいれは相当なものだったようで、私自身も中3の終わる頃にはFの見込み通りに初段を取るのですが、ご存知の方は多いはずで、当時の子供達が中3で初段がとれるケースは非常に稀なことでした。思い起こせば、中3当初に茶帯の私はその道場に通う黒帯高校生の3人に2人は投げ飛ばしていましたからF教師が目をつけないはずがありません。

 しかし、そのN高校の受験間近の頃、私には幼い頃に受けた柔道での内臓破裂事故に対する手術の後遺症というものが出始め、簡単に言えば術後後遺症としての亜イレウスといって亜・腸閉塞で、症状としては食べたものが簡単には排泄されない。多くはそのまま腸捻転に進んでしまうケースが殆ど。・かといって抗生剤をメインに弛緩効果のあるレペタンという鎮痛・鎮静薬剤などの処置をして様子を看れば少しずつ癒着部が外れて排泄が始まるという・・。腸の狭窄部を手術で取り除けばその通過障害はなくなるんですが、手術を行なうことで伴う学業の遅れや体力の落ち込みを考えると、これは私の人生の大きな損失になります。第一、9歳時の最初の手術で私の小腸は幾つもに切り分けられて再構築されていて、その繋目は数ヶ所もあって、小腸自体の狭窄部は沢山あり、亜イレウスを起こすたびに開腹手術なんて嫌ですよ。

 その解決策として一日3食ではなく、水分を多めに摂取しながら「茶漬けのような感じの食事を5~6回に分けて取るようにすることで私の通過障害は起こりにくい」、と医師に言われ、私はそれを選択することにしました。しかし、こうした食生活では体力は落ちる一方、私の体重は58~62kgにまで落ち、既に柔道などできる状態ではなくなっていたんです。
 
 そのような状態で私はN高校へ進学。しかし、柔道部を選択しなかった私に対し、何も知らないF教師はその理由も聞かずに朝礼という全体集会の場で私を呼び出して往復ビンタ47発という口や鼻からは血しぶきが舞う体罰?を仕掛けてきたんです。Fの物凄い怒りの感情を感じましたね。

 この事件、現在であれば当然のように社会問題になるほどのものでしたが当時の我が国は今以上に閉鎖主義。校内では問題にはなったものの、私に対する調査は3名の教師が鼻骨骨折、2本の歯の欠落を確認し、Fの主張する事実確認の聞き取りをされただけで教育委員会には報告さえされなかったようです。「やはり、濱野(高橋)は空手を習い、柔道では有段者だったんだ」と。
 つまり、当時の私が亜イレウス状態にあるという事実を知らない数名の教師達はFの主張する通りに私が自身の空手歴と柔道歴を隠して入学していることだけが強調され、理解されてしまったのです。部活はせずに一般道場に通う要注意人物だと理解されたんでしょうね。

 こうして、冒頭に書いたように私の高校時代というものは教師から友人関係に至るまで「殺伐とした危険な空気感を漂わせた生徒だ」、「いつ何時、暴走するか分からない生徒だ」という認識が持たれ、私には親しく声を掛けて近寄る者少なく、常に一定の距離を持つ教師や生徒が多くいました。こんな状態ですから当然のように私の年間登校数も減るようになっていき、このN高校卒業時の私は出席日数不足で卒業式の記念写真にも残されず、ただの不良生徒として数週間の自宅と登校しての待機生活。このすべてがFという教師との修復されないままの高校生活にありました。一方、私は米軍基地で音楽活動を思い立つのです。掻い摘んで言えばそんな虚しい高校生活でした。

〇出会えた友や一部の教師のお陰で

 F教師が仕掛ける私への制裁は朝の登校時、下校時と続き、バス停で、バスの中で、校門から出てバス停へ向かう途中でと、約1年半の間続きました。それもこのF教師はN高の柔道部以外にも私が中学3年当時に戸の尾道場に通っていた他校の柔道部や空手部の生徒まで使って私に制裁を加えに来たんです。私は自分の身体に多少の障害があっても、多少の反撃は十分に可能でした。しかし、所詮は3~4人の集団を相手ですから逃れる事は不可能。私は無抵抗を貫きます。

 実は、この私の状態を救ってくれたのがそうした経緯を全く知らなかったN高柔道部の副主将を務めていたMという生徒でした。「お前さ、なんで制服のボタンが千切れていたり、夏の制服のシャツに時々土や血がついていたりするんだ?」、「自分の腕を見てみろ。防御の打ち身アザだらけじゃないか」と・凄い眼力を持っていました。
 
 このMは先述したYの友人で実際には一つ先輩にあたる人物。鹿町町の高校で暴力事件を起こして退学処分。一年遅れで私の通うN高を再受験した生徒だったのです。しかし、私はこのMに相談して泣きつく事はなく、「否々、大丈夫です」、「3人がかりで殴ってこられたら、それは喧嘩とは言えんし」、「俺は苛められても誰かに負けたとは思ってもいないし、やり返そうと思えば個々には負ける気はしないから大丈夫」、と答えていました。 結局、このMは私が日常的に受けているF教師の指示による私に対する制裁行為を知った上で私に接近し、そのことを確認したのかったのです。

 やがて、MはN高の柔道部活中に教師Fの右足首を極めて複雑骨折をさせ、近隣の高校の空手部や柔道部に押しかけては「N高の生徒に手を出すなら俺が相手をする」と宣言。これ以後、私に対する登下校中のリンチの数は激減。今改めて当時を思い起こせば、Mと私は高校一年から三年まで同じクラス。どこかで心が通じていたんだと思っています。また、このMは後に大阪府警への採用が内定したのですが、高校時代の唯一の警察沙汰(恐喝)が発覚し、採用取消になっています。例えそうであっても、忘れられない私の恩人です。こんな青春が私にはありましたね。。

 それに、このMの近況を昨日の記事に書いた同窓Yに聞けば、「脳梗塞で寝たきりになった奥様を在宅で世話し、定期診察の時や買い物に至るまで奥様を抱き抱えて車に乗せ、車椅子に移動させ、Yの感想では「Mは奥様を己の妹か我が子のように大切に扱って一日の多くを奥様の世話に徹している」、という話でした。何だか。感動しますね。本来、優しさや強さってこうしたものだと私は改めて思います。  

Posted by 濱野裕生 at 19:33Comments(0)☆母没後の呟き

2022年06月12日

〇同窓の友

◎2022.6.11

〇同窓の友。

 この10年来、私には時に折に触れて連絡を交わす友人がいる。結構なレベルまで親身になって話す間柄のY。互いの見栄が見え隠れするNとの会話。それにYを通して知るIの近況などがあるが、時には女同窓の話題にも発展する事もある。

〇同窓のY。

同窓のYに関し、Yは某大学を卒業後は衣料品関係へ進み、西日本一帯を営業で回っては結構な地位にまで登りついたらしいがバブル前後の会社経営を巡って社内トラブルに捲き込まれ、その責任の一端を取らされる形で若くして退社。その頃に発症した脳梗塞で左半身の一部に麻痺が生じ、今では然程に多くはない年金暮らしとリハビリ生活にも辛うじて耐えているという。高校の頃は何かを自発的に提案するような奴ではなかったがこうして再びの交流を開始すると、彼のその後の変貌振りに驚いています。

「確かに高校の頃の俺はいつも三番目、四番目の立位置で人の意見を聞くだけの人間だったけど、就職先で営業に回されてからは俺は変わったし、変われて良かったと思う」、と言うほどの変貌。「濱野(高橋)、俺と会う事があったらお前は驚くよ。頭は禿げてさ、口髭は伸ばしてさ」、と。 「そうか、昔の百円紙幣の板垣退助が禿げた感じかな?」と私が言えば、「勝手にそう思っとけ」、と自身ではその外見の変化を楽しんでいるようです。

 その彼はバツイチらしく、「娘が病気で瀕死の状態の時、出張中の俺は直ぐには傍には駆けつけることが出来なかった」と言い、それが離婚理由になってしまったとボソっと言う。そして、脳梗塞が彼を襲う羽目に・。やがて、そんな彼を真心で理解する新しい嫁が・。 「いやーっ、いろいろあったが今の俺は幸せ者さ」、とY。
 今度の奥様はそんなYの為に毎日せっせとお買い物に彼の麻痺した身体をマッサージ。少しでも機能が回復する様にと努めてくれているようです。奥様、Yを宜しく。

〇同窓のN。

 このNは私にバイク生活を勧めた奴で10年ほど前には大型の1100CC・ヤマハバイクに乗り、「俺さ、・・実は食道癌だと言われてね。手術することになったんだけど、その事を嫁に言う前にお前に言っておきたくて・」と、私に会うために博多から熊本へやって来ています。「万が一の事があったら後の事はお前に頼んどくぞ。いいか」、と。

 彼は高校の山岳部では部長を務めただけあって、非常にリーダーシップを持つ奴でした。山に登れば「俺はな、中学2年で米軍基地のハイスクールの女を相手に童貞を棄てたんだ。それも3Pプレイでさ」、と。その為なのかは知らないが、普段から妙に落ち着きがあって、大人びていて一定数の女子高生からもとても人気のある奴でした。

 話を戻し、その彼は無事に食道癌を克服し、執刀医の女性医師とは非常に親密な仲にもなってアイツラシイサラリーマン生活を送り、退職を迎え、これからは奥様をバイクの後ろに乗せてタンデムで日本の名所巡りをしよう・という矢先、今度は奥様に膵臓癌が見つかり、既にステージ4。奥様は約一年後には彼の地へ・。彼には「もう、バイクには乗らないで」という言葉を残したらしい。

 つい、3年前に私はこのNに聞いた事があります。「もう、バイクには乗らんのか?」、彼は「嫁と交わした約束を俺は守る」、と。しかし、最愛の妻に先立たれたNには徐々に日常的な変化が襲い始めたようでした。「おい、濱野(高橋)。〇×HrJJ△〇〇ボチャ×・・」、といった意味不明の電話が私に入るようになるんです。あら、何か変だな、と思えば翌日には「昨日は済まんかった。実は精神科に通っていてさ。処方薬を飲んだら昨日みたいにレロレロになってね」、と・。そんな日が多くなり、私が「Nさ。息子さんが二人も居るじゃないか。同居とか考えたらどうだ?」、と言えば、「確かに息子達は同居を勧めてくるが、俺はそんなヤワな親父じゃなかゾ」、と。

 つい、3週間ほど前、私は先述したYに対し「あのさ。お前からNに電話してね。Nの様子を探ってくれよ」、と連絡。帰ってきたYの返事は「うん、ちょっとNの様子は変で弱気になっている」、と。 そして、「静岡に居る長男の所で世話になるかも知れん」、とNがYに言っていたことを知りました。老いに伴う身近な人の変化を私は改めて知りました。 こうした同窓の連中の話を聞けば、きっと、私にも何らかの変化が出ているのかも知れません。  

Posted by 濱野裕生 at 16:07Comments(0)☆母没後の呟き

2022年06月09日

〇母に対する兄や姉の思い

◎2022.6.9

〇母に対する兄や姉の思い

♪:https://youtu.be/ooSGIM1A5gc



「あれは・何?」 母が私の袖を掴む  
あれは星 そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺 あんたの命を守る星
「私の母も・いるよね? あの夜空のどこかに 
私の事を見ているかしら」
「叫んでおくれよ!私はまだここで暮らすつもり」と 
「もう少しだけお前と居たいから」と

「私は頑張ってるよね  お前は分かっているよね」
母は私を振返る 
「叫んでおくれよ  あの夜空に向かってさ 
まだ私を迎えに来ないでと」 
「母に伝えてよ! お前ならそれができるはず 
私はまだ息子と暮らすつもりと」

「あれは・何?」  母が私の袖を掴む 
あれは星  そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺  あんたの命を守る星

「私は頑張ってるよね お前は分かっているよね」
 母は私を振返る 
「叫んでおくれよ あの夜空に向かってさ 
 まだ私を迎えに来ないでと」 
「母に伝えてよ! お前ならそれができるはず 
私はまだ息子と暮らすつもりと」

「あれは・何?」  母が私の袖を掴む 
あれは星  そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺  あんたの命を守る星

〇母に対する兄や姉の思い。

 ここの処、親と子や兄弟姉妹間の話題が続きますが、12年半にも長きに渡る同居で老いゆく親を観察した者にしか語れないモノってあります。
2003年2月26日に90歳の誕生日を迎えた母。その数日前までの母は長崎の長女の家で数週間を過ごし、それ以前は当時は佐世保の実家近くに住んでいた長男の家(現在は熊本)に数日間を同居。何れのケースも決して長続きもせずに己の現状を理解しない母の我が侭や姉や兄の起こす短気心から母との摩擦が何度も何度も生じていたようです。

 仕方ありませんよね。私自身、確実に老いを重ねていることはカレンダーを見る度にため息をつく事多く、加齢に伴う身体の異常とは言えないほどの僅かな変化は日々間違いなく感じます。でも、人間ってその変化をなかなか認めたくはありません。そのことを身近な子供から指摘された日にゃ、表面上では笑い飛ばして誤魔化すんでしょうが、腹の中では「やはり、・・そうか。そうなのか」と落胆するはず。

 私の場合、身長が180cm近くて痩せ型、頭髪はフサフサ(母方の血筋)で見た目は実年齢から二周りほど若く見られ、その上にバイクなんかを乗り回すから信号停止時など後続の車から「おい、兄ちゃん。ウインカーが点いたままだぞ」、と注意をされていながら、兄ちゃんと呼ばれることに何故か嬉しい時があります。確かに頭髪に関しては睡眠時間が連日4時間程度の母の介護で疲れ果てていた2011年デビューの頃よりもかなり増え、今では理髪店で髪を鋤いて貰うほど。しかし、目袋はぷっくりと目立ち始め、どうしても隠せないものがありますね。それに若い頃からの猫背が更にひどくなったようです。 因みに、50歳以下の人は車のウインカーがアポロという呼称の時代があったなんて知りませんよね。

 話を戻して、我が父は母よりも11歳年上で75歳で没し、母は64歳で独居生活を始めたわけです。そして、70歳を越えた頃から持病の高血圧による比較的に重い心臓病が原因でその後には眼底出血で左目は失明し、その後も白内障や痔の手術を受けていることは既に《母の介護録》のほうで書いている通りですが、こんな手術などが影響したのか買い物途中で転倒したり、母の日常は徐々に不自由さが増えていき、87歳頃から長男や長女の元を交互に行き来して面倒を見て貰うようになっていたようです。

 老いていく一方の親の介護、その介護をするほうもされる方も本当に辛い悲しい事だと悲観しがちですね。だって、それまでの自分達だけの生活の中に親という全く別な固体が介入し、存在するようになるんです。犬や猫の世話をするようにはいかない。ちゃんと人格を持った自分の親、相方の親なんだから・。それが時に、・まるで人格を失くした様な言動をとることもある訳です。これを最初から理解した上で許容力を以って介護同居を始めないととんでもない悔悟同居になりがちですが我が兄も姉も当時はその辺を全く分かってはいないようでした。

 ・・、と言うより、人間って自由気ままな暮らしを求め、世の中に対する義務感などというものを避けがちなんでしょうね。だから、介護問題は聞きたくない、頭が痛くなる人が多いんだと思います。そして、濱野裕生の作る音楽は聴きたくもない、と・・。

〇子供夫婦の家庭での同居に馴染まない母。

 86,87歳の頃の母と兄夫婦の暮らしの中で起きた事件の一例を挙げれば、兄夫婦と一緒に夕食を終えた母はついつい独居時の家での癖を出し、兄夫婦の前で入れ歯を外して食卓にあった使用済みの小皿の上に乗せたんです。勿論、兄嫁が「お義母さん、入れ歯を洗いますから外してください」、と台所から叫んだ事が切っ掛けでした。ここまで心を許す兄嫁ですから母はつい甘えますよね?。

 「では、ここへ置きますよ」、と母は入れ歯を外して目の前の小皿に乗せたのだと思います。この姿って何処の家庭でも普通にあり得ますよね?。何でもない微笑ましい夕食後の光景じゃありませんか?。
 処が、我が兄は違っていたらしいんです。兄は己の嫁と母親に向かって「何だこら。何で俺の目の前で汚い入れ歯を外し、その上に食事に使う皿の上に置くんだ」、と怒り猛ったらしいんです。我が兄はこの一瞬で母からの信頼を失ってしまった気がします。以来、母は兄に対しては常に警戒心が先立ち、兄の気紛れな冗談に対しても笑う事はなくなったようでした。こうして、母は兄を避けるようになり、兄夫婦の元へは行かなくなったようです。「あそこには怖い男が居るよ!」、と。

 そうした状況を悟った姉は、長崎のほうへ母を誘うのですが、ここにも建設業を営む短気で突然に大声で叫び始める長女(私の姉)の亭主が居たんです。私の姉は早とちりで短気、短気ゆえに勘違いで場違いの情の深さを持っていて涙もろく、相手の心の底までは理解できない人でした。それでも、数週間は仲良く暮らして居たんだと思いますが、ある時に事件が起きるのです。姉夫婦の住む家の浴室の床の段差が異常に高く、それでも当時の母は浴室へ続く壁に手を添えていれば何とか歩ける状態だった為、姉はいつものように母を一人で浴室へ向かわせたらしいんですが、この日の母は何かが理由で気持が落ち込んでいたようで注意力に欠けていたのか、その高い段差に足をぶつけ、浴室のほうへ身体ごと転げ込むという転倒事故を起こしてしまいます。頭部を打つことはなかったようですが、この転倒事故で母の右足の小指、薬指、中指の3本を骨折し、母の単身での歩行は困難となってしまうのです。
 この後、この指の骨折自体は治るのですが、この指が治癒する間の寝たり横になるだけの生活で母の下半身の力は失せ、歩行自体が全くできない状態になるのです。
 こうなると、姉夫婦の日常自体が狂い始め、姉夫婦の意識や関係にも亀裂が生じては母の傍での姉夫婦の口論も当然のように日常的になっていったようでした。要するに、私の考える介護視点から言えば、当時の姉夫婦が行なっていたのは老いた母との単なる同居であり老いた親の介護ではなかったこと。母には食事を作って与える、風呂が湧いたから一人で入りなさいと母に強制する、面白いTV番組があるから今日は寝るのを1時間ずらして一緒に観ましょう・と。
 つまり、姉は自分達夫婦の生活リズムを母に強要していただけの同居に過ぎなかったんだと私は思っていました。

 やがて、姉から私の元へは頻繁に電話が入るようになるのです。それまでの姉、兄は何事も彼ら二人で決定し、事後の私の意見など聞こうともせず、母を入所させる介護施設のチラシを集めていた癖に、こうした状況になって初めて母への対処を私へ相談してきたのです。我が姉と兄・、私は今でも彼らを卑怯な奴らだったと思っています。

〇兄夫婦に続き、姉夫婦もギブアップ。

 「裕生(直裕)、こんな状態になった母の世話はもう私には出来ない。こんな母を見ていて思うんだけど、母には母の人生があり、たとえ母の命がこのまま尽きたとしても、それはそれで母の人生だと思うし、私には私の人生があると思う」と。「もう、母は歩けるようにはならない。これから先、私と弘(ご亭主)さんとで将来に渡ってこんな母の世話をし続ける事はできないよ」、と涙混じりの電話を私に掛けてきたんです。最初から覚悟が足らないんです。感情の世界だけで生きている人間ってこんな感じなんです。

 そして、「これから私は母を佐世保の家に連れて行く」、「そっと置いて帰るけどその結果でそのまま母が亡くなっても、それはそれで母の運命だと思う」、というとても勝手な理屈の言葉で当時の姉は電話を切ったんです。

 この電話、姉は己の価値観だけで大切な母親の人生を決め付けていました。もう、理性さえなくし、狂っているような一方的な自分だけの理屈ですっかり弱った母親の人権さえ無視し、単に罵倒しているようにさえ思えましたね。 もう、姉夫婦の限界だったと思うし、姉夫婦としては話合った結果だと私は察しました。でも、私の身体の底からは表現しょうもない怒り、そして、「今しか俺の出番はない」、という思いが沸々と湧きあがってきたんです。震える思いでした。姉夫婦は何を被害者ぶっているんだと思いましたね。

 「俺は母ちゃんを見捨てんぞ」、「母ちゃんが歩かんのは寝てばかりいるからだ」、「姉は自分が楽になる為に母を一日中横にさせているだけじゃないか」、「俺が母ちゃんを歩かせてみせる」、と兄夫婦も姉夫婦の場合も母が徐々に駄目になる方向へいざなっているだけだと感じたんです。姉には冷静に考えて欲しかったんです。

 要は、普段から杖を使う事を知っている姉には母に屋内用の杖を与えようという思いがなかったこと。あの日、母が風呂場で転倒した理由は姉が母の身体を支えて誘導しなかったこと。つまり、動作介助という考えがなかったことでした。
 姉には母との同居意識はあっても、母の生活介助、動作介助をする配慮がなかったことが母の転倒事故になり、その事故の為に寝たきり生活が始まっていることを姉自身が全く思い反省していないことでした。親の老いやその介護に本心から関心があるのであれば、事前にどこかの老人施設を訪ねたり、常にどこかで行なわれている講演会に参加したりするなどの行動があってしかり。如何に姉夫婦が瞬間的に感情的なもので母との同居を決意したかが分かるような姉夫婦が出した結論でした。

〇母を迎えに佐世保へ~呆然と見送る我が嫁。

 「これから佐世保に行ってくる。お袋が腹を空かして待っている」、私は玄関先に居た嫁に告げ、車に乗り込もうとしました。 庭先で掃除をしていた嫁が私に向かってポツンと「貴方はお義母さんをこの熊本へ連れて来る気でしょう?」、と言いました。やはり、辛く寂しそうな声でした。この時の嫁、実は自身でも近くの病院に腎臓病で入院している実母の周辺介助の日々が数年前から続く日々を送っていたんです。

 私は「分からん、今は深くは考えんでくれ」、と嫁に告げ、私は佐世保の実家へと車を飛ばしたんです。人間は腹が減ったら駄目になるし、それ以上に排泄物の不処理は人格の崩壊に繋がると私は日頃から考えていますが、これは私自身が一人暮らしの中で大病と大手術を経験している故の拘りでした。「母ちゃん、待っとれ。俺が迎えに帰るよ」、とその時の私は車の中で必死に叫んでいましたね。「母ちゃん、待ってろ」、と・・。

〇実家の6畳の間に芋虫のように横たわった母が・。

 佐世保の実家に着いた私は家の裏手に回り、母が居るだろう6畳の間の窓にある隙間からそっと覘きました。長崎の姉は母をいつここへ連れてきたんだろうか?。昨日?、一昨日?。横たわる母の傍には湯沸かしポット、大鍋、お盆に載せたご飯茶碗、湯のみセットなどがありましたが、母はそれらを背にして向こう向きに横になっていました。

 私は窓を離れて車に戻り、泣きましたね。叫びましたよ。俺達兄弟は何をやっているんだと・。老いた親をこんな風に盥回しに扱って、世話するつもりが根をあげ、詰まる処、こうして歩けなくなった母を単身で家に戻して放置し、死んでくれても構わんと思っているのか?。

 姉は「もう、私がしてあげれることは全部やった」、と電話では言っていました。今から遡って思えば、2003年2月当時の姉は自分自身が異常な心理状態に落ち込んでいたんではないかと思います。世の孤独死の事件などの一部にはこうして起きるものも有るんだと思います。
 
〇久し振りの再開~母は感情を出さない人になっていた。

 母は私の姿を見て驚きました。でも、余り感情を出しませんでしたね。兄夫婦、姉夫婦の家への何度もの行ったり来たりの生活の連続で、相手に気を遣う癖が身についてしまった結果、湧き上がる感情を抑えてしまうようになっていたようです。確かに、私が知っている母親ではありませんでした。

 母が最初に言った言葉、それは「裕生(直裕)!、私を便所に連れて行っておくれ!」というものでした。前述したように、母が横たわる6畳の間に置かれた大鍋や湯のみセットは兄嫁が朝方に持参してくれていたようですが、母は全く手をつけていない事が直ぐに分かりました。私は母をトイレに連れて行こうと試みますが、母は起きること自体が出来ないほどに右側を下に身体が固まっていました。隣の部屋には布団さえ敷いてあるのですが、この3月の寒い夜を昨夜はこの6畳の間で横になったまま過ごしたことが理解できます。ただ、部屋に篭る異臭から、母が既に失禁をしている事は直ぐに分かりました。
 私は母を抱き上げてトイレに運び、便座に座らせると背中を支えて「母ちゃん、思い切りウンチしていいよ」と・。便座に座らせる一方で片手で母のズボンと下着をとり、「母ちゃん、これは俺が洗うし、気にせんでいいけんね」、と言えば母は「うん、分かった。サンキュー」、と徐々に本来の母に戻り始めるのです。

 トイレの壁に左右の手をつかせれば母は座ったままの姿勢が保持できたので、私は台所と6畳の間へ走ってポットからタオルにお湯を出し、洗面所で冷水を加えて適温のお湯タオルを作って母のお尻を拭きましたが、トイレからの帰りには母の左側から腰に手を回せば「痛い痛い」と言いながらでも母は歩く事ができる事がわかりました。しかし、母の体重の多くは介助する者が支えなければ無理・、姉にはできないだろう事も理解しました。

 一方、当時の母の不自由さの原因は右足の指3本の骨折にあり、その為に寝たきりや椅子での座位の生活期間が長すぎて全く歩けなくなっていただけ。では、何故に姉は入院と平行した歩行リハビリなどの相談を整形医にしなかったのか、という疑問も湧いてきました。

〇母に肉じゃがを作る~「私しゃ、ジャガイモは苦手。胸焼けがするとよ」、と母。

 トイレを済ませ、衣服も着替えさせた母は気持よさそうに、「どれ、お茶でも入れようかね」と・。でも、台所へ立とうにも立てないことを母はいつも不思議に感じるらしく、「直裕、私はなんで立てんと?」、と私に聞いてきます。これが老いなんでしょうね。
 そして、私が点てたお茶を飲みながら、
 「母ちゃん、この佐世保にはいつ戻ったと?」と私が聞けば、「分からん」、と母。
「紘子姉ちゃんが連れてきたと?」、と聞いても「ようは覚えとらんとよ」、と母。
「そっでん、紘子んとこにおったっちゃろたい?」と聞いても、「うーん、おったごたる気はするけど」、「うーん、何がどうなっとるか、・・ようは分からん」、と母・。 

 ただ、母は「あのネ、あそこの男はよーく大声で叫んで紘子を怒ってね。私しゃ、大声で叫んで威張り散らかす男は好かんたい」と紘子のご亭主のことを私に伝えたんです。「あそこじゃ私はやっかい者らしい」と言葉を続けていましたね。

 暫くして、「もう、紘子は長与に帰ったと?」、と私が聞けば、「確か・、まだおるよ」、と言いながら母は「ひろこーっ、ひろこーっ」と佐世保の実家の中で娘の紘子の姿を必死に探し、紘子が長与から佐世保へ母を連れてきて放置していることすら自覚がないようでした。

 冷蔵庫の中をみれば兄嫁が買ったのか牛肉があり、野菜庫にも数種類の野菜があった為、私は肉じゃがを作りました。処が、母は肉じゃがが苦手だったのを作りながら思い出しました。「ナオヒロ、何を作っとると?」と聞く母に「肉じゃが」と答える私。「あら、私しゃ肉じゃがは胸焼けがすっとだけど」と母が言います。でも、直ぐに「うーん、よか。あんたが作るモンなら何でん美味しかと思う」と言い直した母はご飯は食べずに肉ジャガのお代わりをしたんです。多分、少なくとも丸一日以上は何も食べていなかった様子でした。

 そして、翌々日の正午過ぎのこと。兄嫁が作ってくれた冷麺を食べ終わり、熊本への帰り仕度をする私に向かい、横たわる母は私のほうを向いて意を決したように「ナオヒロ、私を熊本へ連れて行っておくれよ」、「私はあんたと暮らしたかとよ」、と言ったのです。この母の言葉は私の人生の中で何にも勝る感動がありましたね。


この続きは後日に書かせて頂きます。  

Posted by 濱野裕生 at 16:49Comments(0)☆母没後の呟き

2022年06月08日

〇兄が移設したお墓

◎2022.6.8

 〇兄が移設したお墓

 先日の記事にも書いたように、長崎県の長与に住んでいた長女の紘子の指示で長男の利彦はそれまでは佐世保にあったお墓を2021年に熊本へ移設します。元々、このお墓は父が没した際、母の考えでそれまでは父の里である柳川の地にあったものを分墓する形で佐世保の相浦公設霊園に移していたもの。
 この相浦にある公園墓地は九十九島の風景の中に包まれるような素晴らしい立地環境にあって私はとても気に入っていました。母は短歌や川柳以外にも生花やちょっとした挿絵にも才があり、九十九島を望める一角に父のお墓を・、そして、自身もいずれは此処に・と考えたんだろうと思っていました。
 母が佐世保に分墓したものは柳川にある父方の本家である高橋家のお墓に比せばその4割にも満たない広さですが、それでも畳3枚ほどですから一坪半。この佐世保の公営墓苑ではすべてのお墓スペースが一坪半に分轄され、墓石にしても幾つかの種類があるだけですべてが同じデザインでしか作る事の出来ないように配慮されたものでした。勿論、納骨スペースは通常の骨壷の大きさで8~10個程度は十分に入るものでした。

 熊本へのお墓の移設を姉から指示された兄はひたすら責任感だけで長男としての務めを果たそうと考えたのか、熊本の幾つかの霊園を見学した挙句に現在地への移設を決断したのでしょう。でも、お墓ってそんなに頻繁に参るものではないはずですね。
 いずれ私が佐世保へ移り住む計画を持っていた事は私だけの勝手な都合です。だから、佐世保のお墓を姉や兄の都合で引越しをさせても、それに対して俺は嫌だとは私は決して言えません。そのことは私は自覚してはいます。

 それは兎も角、兄が見つけてお墓を移設した熊本の私設霊園では見栄を競い合うかのような派手なお墓が立ち並ぶ所でした。数年前に開発された霊園ですから、どのような雰囲気の霊園になっていくのかをもう少しだけ様子を観察する期間を設けても良かったんではないかと・、私は思ったんです。亡き母が佐世保の相浦を選んだ背景を考えて欲しかった・なと思ったわけです。

それに、・・兄には言い難いことですが、兄が移設した熊本のお墓は畳半分程度の0.5坪。納骨スペースは通常サイズの骨壷で3個しか入らないものでした。恐らく、我が兄は自分と嫁とバツ一の長男、独身の次男分があればいいという思いで選択したんだろうと・・。つまり、兄が行なった墓の移設は単なる引越しではなく己の家族しか入れないお墓に縮小させて移設させていたんです。

 「直裕! 入魂式があるからお前も一緒に来い」と言った兄の言葉を思い浮かべながら、私はお坊さんの唱える曹洞宗のお経に合わせるよう首を傾げて「どゆこと?、ドユコト?ハハカラノオカネはドシタノ?」と呟いていましたよ。我が母が没した際、後見人を務めていた姉は遺産分与として佐世保の相浦公営霊園換算で数十年分の借地料と兄に対する墓守分を渡していたはずだからです。

 処で、この兄が熊本で見つけた霊園は某曹洞宗のお寺さんと地元の数社の不動産会社、それに墓石屋さん達が共同で開発したものですが、ご存知のように曹洞宗は別称で禅宗であり、法事の際には旗を掲げて笛に太鼓の鳴り物入りで村中を練り歩く宗派だったらしく、因みに我が母方の総帥である濱野家はこの曹洞宗ではありますが。。私の作品の中には《♪母の童歌》というのがあって、その中で母の母、つまり、48歳の若さで腎臓病で亡くなった私の祖母のお葬式の模様を「笛に太鼓にかき消され私のかあちゃま何処行った?・・」という詩で表現していますが、我が母ツヤさんは大正2年生まれ、そのツヤさんが10歳の頃に母親のライさんが亡くなっていますが、大正12年頃には今風の焼き場もそんなにはなく、村の広場の一角に亡き人を固定してその周囲に沢山の薪を積み上げて火葬をしていたようです。この《♪母の童歌》という作品の詩の内容のすべてが存命の頃の母が私に伝えた北松浦郡にある歌が浦時代の畑仕事や葬儀の様子、渡し舟で平戸の女学校へ通う母達姉妹の当時の様子を書いています。皆さんにはこの《♪母の童歌》をYOUTUBEで是非聴いて欲しいと思います。
♪:https://www.youtube.com/watch?v=GC0Uiro4BEw&t=12s

♫:母の童歌


おじちゃん・あそこに連れてって  小さな祠のある所  
貴方は教えてくれたでしょ?  ここから昔に戻れる・と
だったら・私は帰りたい  自分が誰だか聞きにいく 

おじちゃん・訊ねていいかしら  私のふる里どこかしら  
海の綺麗な・とこでした  緑の綺麗なとこでした
私の母ちゃま・いるかしら  今日も畑で草むしり  
HU HU・・

父ちゃま・自慢の菊作り  母ちゃま隣で針仕事  
飴玉・一つおくれませ  せめて砂糖のひと摘み
くれたら私は庭先で 海でも眺めていますから  

ああ・沖合に船が来る  私の姉しゃま連れて来る
せめて艀で行けたなら  手荷物持ってあげるのに  
HU  HU・・

母ちゃま・逝って禅宗の  笛に太鼓にかき消され  
私の涙は・どこ行った  私の母ちゃまどこ行った
酒に溺れる・父ちゃまの  帰りが遅いと泣きました

母の代りと・姉しゃまは  毎日せっせとご飯炊き
歌が浦から・平戸まで  やがて通った女学校
あれほど焦がれた・寄宿舎の壁に凭れて泣きました  
HU HU・・

おじちゃん・教えてくれまっせ 深江は遠いとこですか  
イサム兄しゃま居るかしら  私を待っているかしら
深江に私を連れてって  もう一度一緒に暮らすから

ああ・船が出る 平戸まで  姉しゃま乗せた船が出る
姉しゃま・今度はいつ帰る  シケたら平戸は遠い島 
HU  HU・・

おじちゃん・あそこに連れてって  小さな祠のある所  
貴方は教えてくれたでしょ?  ここから昔に戻れると
だったら私は帰りたい  遠いあの日に帰りたい・・
HU  HU・・


〇我が兄に言いたいこと

 我が兄は周囲には神経質な一方で自身に対してはズボラな面があって、一言言いたい。まず移設した新しい墓碑に刻まれた内容が間違っていること。母が没したのは2014年3月7日、101歳で没したから行年102歳であること。しかし、兄が墓石屋さんへ依頼した文字は間違っていて、母の行年101歳だと墓碑に刻まれている事。これは絶対に正してくれ。 それに、母の実家は曹洞宗であっても、我が家系は浄土真宗のお東さんだという事。因みに、ナモアミダブツと発音しようがナミアムダブツと発音しようが、お線香は西は立て、東は寝せて置くってこと知っているか?。でも、皆さんも意外にご存知ありませんよ・ね?。もう、そんな事はどうでもいいよって・いうお袋の声が聴こえたような気もします。
 アーティスト名で濱野裕生こと高橋直裕は母没後の現在でも今を彷徨っているようです。しかし、私としては、「母が間違いなくこの世に存在し、それなりに生きていた」という事実に対し、姉や兄がどれほどの重きを置いて母を弔っているかが問題なんです。亡き故人から受けた恩に対してどれほどのリスペクトを感じ、それを行動として起こしているか否かが人として大事なことなんです。それに・・、高橋家としては浄土真宗の東本願寺派だから、本来はその筋のお坊さんに入魂式の儀を依頼すべきことだし、こうした処が周囲の迷惑を全く気にしない我が兄貴のズボラな点であり、全く信頼を置けない根拠なんです。

〇しかし、私はお墓の建立自体に然程の意味を感じていない。

 私が日常的に抱える疑問を少し話せば、仮設住宅で朝起きて「母ちゃん、お早う。今日は会社からの帰りにお墓参りに行くよ」と言い、会社の帰りにバイク飛ばして花屋さん経由で墓苑へ行き「母ちゃん来たよ。そっちはどうですか?。親父と仲良くしていますか?」等々と話しかけ、墓碑の周辺を念入りに掃除して「では、母ちゃん、また来ますよ」と再びバイクに跨っては仮設住宅へ戻る訳ですが・、帰宅したらしたで・、仏壇に向かって「母ちゃん、お墓参りから今、帰ってまいりました」と報告するわけです。。
 皆さん、これって、何かおかしくないですか。それに・、私の首にはお風呂に入る時以外は常に母のお骨入りペンダントが下がっているんです。

 裕生(直裕)!、何を朝から夕方まで私の周りをあっち行き、こっち行きして、チョロチョロしとるとね!。 私はいつもあんたと一緒に居るじゃないか。そうだろ?」、という母の声が一日中聴こえてきます。こうした疑問が皆さんにはありませんか?。結局、我が日本人はこうした矛盾に気付いていながら昔から続く習慣だからと延々と現在でも続けているんです。少子高齢化の中、全国的に放棄墓碑が問題になっています。

 自宅には立派な仏壇を祀っていながら、わざわざ高額な利用料の墓苑を探し、数百万を掛けて墓碑を建て、そのローンに追われて残業稼ぎで深夜遅くに電車に乗って帰宅途中、脳梗塞に倒れて読経どころかお線香もあげられない、車も運転できない、お墓参りにも行けない身体になって、それであなたの亡き父や母が喜ぶと思いますか?。それが本当の信心深さ、これが唯一の弔いだと思っているんですか?。まず、貴方は貴方自身の子供を大切に育てましょう。そして、その貴方の背中を見て大きくなった子供が今度は自分の子供を大切に育て、その連鎖が幸せな家系作りへと繋がっていくものと考えれば、お墓の存在意味に対して私たちは一度立ち止まって考える必要があると思ってしまいます。

〇献花はカサカサに枯れ、蜘蛛の巣に枯れ葉が乗ったままのお墓。

 前述した我が兄が見つけた熊本の私営墓苑ですが、私は父母が眠るお墓の周囲10mを必ず清掃して帰ります。お隣さんを始めとして周囲のお墓は蜘蛛の巣が張り過ぎて悲惨な状態だからです。雑草は生え誇り、供花は枯れてビール缶は破裂して墓石は鳥や虫の糞だらけ・・。墓石に深く彫られた〇〇家の文字の所にはカマキリの巣が何個も・・。お墓をこんな状態にしてまで貴方にはお墓が必須ですか?。せっかく作ったお墓は護れていないじゃないですか!。
 「私達の為にこんな汚いお墓を建立してローンに苦しむより、お前達の子供に美味しいものを食べさせておくれ。そのほうが私達は余程嬉しいよ」と貴方の亡きご両親が言っているはずです。

〇母の言葉で車を棄て、バイク生活に切替えたことで別の角度から人生が見えるようになった。

 前述したように、私はお骨ペンダントに母の骨片を入れて日常的に首に下げています。生前の母ですが、朝夕の老人施設への母の通所、退所の送迎は私が行なっていました。その途中でバイクが私達が乗った車を追い越しでもしたら、「エーイ、あんたはバイクに追い越されて悔しゅうはなかとネ。ハヨ、追い掛けなさい!」、と叫ぶほどにバイクが好きな母でした。「エーイ。私がバイクに乗れたらネーッ」とよく言ったものです。凄い人でしょっ?これは96歳の頃の母の言葉です。

 そして、私はその母没後に母との約束を果たす為に大型バイクの免許をとりました。そして、首には母のお骨を入れたペンダントを下げ、車を棄てて1200ccのバイクに乗り始めたのです。「ハアーッ、気持いいねェ。バイクはいいねェ」という母の声が聴こえるようです。

 父母の弔い方、或いは貴方の恩人に対する弔いの形は様々だとは思いますが、私の考え方としては常に我が心と身体がその亡き人達の傍に共に居てあげれるか、今を生きる自分が亡き人へ向かって合掌や読経するだけではなく、同じ方向を見て同じ風を受けれるか、同じ日常を過ごせるか?、私はいつもそのような思いで亡き母と共に今を生きています。母が存命中の私は母をあくまでも我が母として敬う一方、ある時は我が妹のように接しました。それ故に、我が兄や2022年3月に彼の地へ逝った我が姉には母に対する彼らの勘違いや弔いに対する幾つもの矛盾を感じるのです。こうした私の考え、皆さんはどのように思われることでしょう。  

Posted by 濱野裕生 at 14:38Comments(0)☆母没後の呟き

2022年06月07日

〇近況報告

◎2022.6.7

〇近況報告

《♪老いゆく母を見つめて:①》

 2019年頃だったか、高校時代の同窓生から電話がありました。 「アマゾンの販売理念に合致したのかは分からんが、お前のCDがやたら誇大気味にアピールされてるから見てみろ」と。懐かしさ半分で購入した私の12曲入りの作品群《老いゆく母を見つめて:①》を聴いてくれているようでした。

 「とても良いな。全曲が必ずしも切ない介護ソングでなく、息抜きのようにラブソング系も入れて当時の佐世保の様子を懐かしく思い出せたり・。でも、やっぱり泣かされたし我が家での親に対する介護を思い出したら随分と反省もさせられたなァ」、と徐々にしんみりと・。

「男って哀れな生きモンでさ。親が死んでからしか成長しきらんとさね」と私も思い切り長崎弁が全開ですが、これは彼に対する配慮であって、方言で話し掛けることでもっともっと亡き親に対する彼の本音を聞き出すことができました。でも、それは省略。

 「ただ、このCDにはテイチクのロゴがなくて自主制作の形になっているが、これは何故なんだ?」と彼が私に問います・。
「仕方ないさ。デビュー時には所属会社のテイチクの意向に沿った活動ができなくて迷惑掛けたし、
このCDもテイチク制作でお願いします、なんて言えなかったさ。それに、地元ではマネージャーに朝鮮人を起用したとして多くの方々に非難されていたし、事実、そのマネージャーからは活動資金やCDの売上げ金等々を通帳ごと持ち逃げされるし、デビュー後の活動なんてできる状態ではなくなってね」、「第一、俺には30年続けている会社経営の一方で母親の介護という絶対日常があったわけだし、その日々を綴った詩に曲をつけて作品にしていたわけだから、これを商業音楽の路線に乗せて別な新たな3本目の路線を日常的に平行して走るなんてことはできなかった訳さ。

 昨日は長崎、今日は佐賀、明日は博多で明後日は高松でのコンサートなんて出来るはずがないだろう?。でも、デビュー後の俺には実際にそうしたコンサート要請が次々と自宅のFAXに入る一方、熊本の病院のベッドでは母親が俺の手を握ろうと朝から晩まで俺の姿を探して叫んでいたんだよ」と私。

 「そうか。そうだったのか。あれ程の反響を呼んで一部のメディアが追い回した濱野裕生が何故に突然に姿を消したのか、その理由がそうしたことだったのか」、と彼は即座に納得?。

 こうした経緯があって2014年3月の母没後の私はテイチクエンタテインメントを始めとして多大なご迷惑をお掛けしたメジャー周辺の関係者にアピールする思いで《老いゆく母を見つめて:①》を自主制作版として世間に2018年に発表させて頂いた訳です。「まだ、音楽家としての熱意はありますよ」、「今なら活動ができますよ」、という商業音楽関係者に対するアピールのはずでした。

〇♪桜の便りは聞くけれど

 当初、この自主制作版の《老いゆく母を見つめて:①》は2016年に発表するはずでした。母が没した2014年3月の直後、私は4つの生命保険を解約し、熊本市を離れて天草市有明町須子という所に中古別荘を買い、夢遊病者のように日々を彷徨った時期がありました。2003年3月以降の全精神力を傾注した母との同居生活。そして、徐々に当然のように生まれていった嫁との確執。朝鮮人マネージャーに対する失意・。もう、歌う能力さえなくしていた中、山菜を集め、釣った魚に米と一緒に混ぜて煮て、仕上げにチーズを乗せて食し、昼は狸や猪を追っかけ、夜は野良猫と一緒に目の前に広がる月明かりに鈍く応える海を見ているだけで日々徐々に湧き上がってくるモノがありました。

 「このままじゃ駄目になる。今の俺ってただのマザコンじゃないか」と目を覚まし、《♪桜の便りは聞くけれど》という作品を作ったのはこの頃です。 そして、私は嫁や義姉、元野球仲間に天草の写真を「どうじゃ、どうじゃ」と送信し始めた処、嫁からは「私も天草へ連れて行ってください。私は貴方と一緒に海を見ていたいです」というメールが入り始めるのです。これを機会に私の心は熊本へ戻るのです。

♪:https://youtu.be/GfKmuP2RMRk

♫:桜の便りは聞くけれど



桜の便りは聴くけれど   私はそうそう信じない
春の一輪見るまでは  私は春を信じない
本当はいけないことだけど  もしも桜に出会えたら  
せめて一枝欲しいもの   届けるつもりあの人 へ

桜に香りはないけれど  きっとあの人気づくはず 
桜のいのちが分かるはず  私の願いが分かるはず
だから桜を見るまでは   もう少し辛抱しましょうか?
桜の便りは聴くけれど  まだまだ春を信じない 

季節の列車は見え隠れ 春よ桜よいつ会えるの  
風よ桜を揺らさずに   心静かに観て欲しい
そしていけないことだけど  桜よ君に出会えたら
私は一枝手に持って  届けるつもりあの人へ

桜に香りはないけれど  きっとあの人気づくはず 
桜のいのちが分かるはず  私の願いが分かるはず
桜の花を見るまでは   もう少し辛抱しましょうか?
桜の便りは聴くけれど 私は春を信じない 
桜の便りは聴くけれど  私は春を信じない


〇熊本地震で罹災。

 処が、皮肉にも2016年にはあの忌まわしい熊本地震が私を襲います。家の構造躯体である分厚い軒材が折れ、割れた天井材は私の右肘を直撃して小指と薬指に麻痺が生じてしまうほどでした。 

〇♪代継神社へ続く坂道

 この2016年の熊本地震。北区にあった我が家は半壊以上の行政診断。台所からは青空が見え、床下には雨が溜まってモヤシ状の草が生えてくる状態に・。それに、我が母が没した菊南病院が24時の間遠く目に入るのは相変わらず。再び私はマザコン状態に陥る日がありましたが、こうした中で生まれた作品が《♪代継神社へ続く坂道》でした。この作品、皆さんには是非ネットで聴いて欲しいと思います。検索すれば直ぐに出るはずです。

 こうした経緯があって、当初の2016年の出版計画が二年遅れて2018年に《老いゆく母を見つめて:①》を発表することになったのですが、皆さんには熊本市北区にある代継神社には是非詣でて欲しいと思います。あの長い坂道は私達が歩む人生そのもののような気がするからです。是非、歩いて登ってください。

♪:https://youtu.be/xDtnJSzl2hA



母:この代継神社へ続く急な坂道 ここを普通に歩いて登ればきっと日が暮れる。
母:でも、この長い坂には意味があるのよ お前にそれが分かるかしら?
「この代継神社へ続く急な坂道 ここは天へ繋がる道だよ」 母は・言ってた
「でも、長い坂なら誰もがいつも歩いてる 生きていくって事はそんなことだ」と

「いつまで通えるかしら この坂登って これも私のお勤めしら・」
「でも、お願いするよ 私はこのままここで ずっとお前と暮らしたいってネ」
神には・届いたのかしら・・ 母の言葉・届いたのかしら ・・
でも・あの日の母は何を祈ったのかしら・ 自分の言葉と裏腹 旅立ち支度
もしや「私はもういい そろそろ向こうに・」 神は母の祈りに涙で 応えたのかしら・

お袋・、今日は神社で説教されたよ 「 いつも願い事ばかりじゃいけませんよ」と
「生きてる今への感謝が先ですよ」と でも今の俺にはそんなの無理だよネ
そして、お袋・宮司さんから訊ねられたよ 近頃、アンタの姿を 見掛けないねと
だから、俺は答えてきたよ辛かった・けど 「先日・母は、 旅立ちました」と

思えば、あの日の神社の帰り道 母は何度も振り返ってた
「 これでお別れですよ」、「これが最後の詣でよ」 まるで、母は・そう言うように・
神には・届いたのかしら・ 母の心届いたのかしら ・
母は幸せだったかしら私との暮らし 代継神社の境内 私は佇む
そして、お袋・俺は決めたよ この町を出るよ 思いが一杯詰まった町だけどね
過ぎ行く季節の中に・ 私は・独り取り残されてる・ 過ぎ行く季節の中に・・・


〇《♪母に生命を返す時》は世間的に詩だけが評価され、音質的には酷評された。

 2011年7月のデビュー直後の12月にテイチクエンタテインメントから発売された12曲入りのCDアルバム《♪母に生命を返す時》につき、購入された方には非常に申し訳ないことをしたと思っています。今思えば、これもその後の活動をできなくなった大きな要素になっています。それは音質の悪さであり、対する酷評でした。

 既述したように、私自身が時間の調整が困難な時期にテイチクの判断で制作されたCDアルバム《♪母に生命を返す時》でしたが、実は発売されたCDの音源は私がテイチクへ持参したデモ音源(荒録音)だったんです。表現を変えれば、「話題性がある間に作って売ろう」みたいな気配を当時のテイチクに対して私は感じていました。 私の本業はサウンドクリエーター。俗に言う音響技師であり、取引先は熊本市にある熊本テルサホールです。この音質に関しては私はテイチクの音響技師以上の耳を持っているとの自負がありました。そして、その通りになったんです。

 この《♪母に生命を返す時》というCDアルバム発表直後、私の友人知人からは音質が非常に悪い、何故なんだという苦情が相次ぎました。幾つかのショップに問えば「確かに返品が非常に多い、評判を落としています」という返事もありました。これが当時の残念な事実です。 そんなこんなで何の対処もできずに今日に至っているのですが、一方、この《♪母に生命を返す時》という2011年12月発表のCDは国立図書館にも蔵書として認められ、収められているCDです。これはネットでご確認ください。詩の内容が認められたのでしょうが、何と言っても音が悪い。

〇《♪母に生命を返す時》と《♪老いゆく母を見つめて:①》を無償で交換したい。

 そこで、この《♪母に生命を返す時》というCDアルバムをお持ちの方は私のFACEBOOKを通して交換要請のメッセージを頂ければ2018年自主制作のデジタル録音の《老いゆく母を見つめて:①》との無償での交換をさせて戴きたいと思っています。これは私の切なる願いです。電話連絡でも構いません09013682656。楽天やアマゾンで買う必要はありません。ご連絡を頂ければ《♪老いゆく母を見つめて:①》を無償で郵送させて頂きます。

〇冒頭の彼の話。

 彼は元は出版関係に勤め、濱野裕生のデビューを知り、最初に感想をくれた友人でした。遡る2011年7月、私の最初の4曲入りCDの《♪蝉しぐれ~老いゆくいのち》がテイチクエンタテインメントから発表された際、彼は「高橋(私の本名)よ、これは難しい分野の音楽だな。啓蒙ソングかな?。少なくとも本筋のラブソングではないな。うーん、・・かと言って絶対に演歌でもないよな。果たして売れるかな?。確かに時代を正面から捉えたテーマだし間違えば大当たりするな。それも個人買いじゃなく、組織で大量買いされる。営業次第だが啓蒙目的の配布資料としては最適だな」、という内容でした。そして、その彼の予想は当たりました。発売開始の約3週間後には日本有線放送のリクエスト部門で全国総合チャート1位に一気に駆け上がるという快挙をやってのけました。幾つかのメディアでは濵野裕生の紅白歌合戦出場を予想する記事が踊り、私にも幾つかの電話取材がありました。
 その一方、名古屋に住む木村という日本名を名乗る朝鮮人を中心としたグループが濱野裕生はチャゲ&飛鳥の作品をパクっているという書き込みで私に対する誹謗中傷を激化させていきました。それは、まるで《♪蝉しぐれ~老いゆくいのち》の中の《♪蝉しぐれ》、《♪ホッホ》、《♪金木犀》、《♪兄ちゃま(アンチャマ)》の全てがパクリで作った作品かのような誹謗中傷でした。丁度、我が母には脳梗塞の影響から嚥下障害が酷くなり、胃に穴を開けて胃ろう用のペグを取り付ける手術の決定が為された頃でした。

♪:https://youtu.be/vlpK4ZKobds

 「濱野さん、全国総合チャート一位が嬉しくないんですか?」、「どうしたんですか、何故にコメントをしないの?」、という私を叱り正すようなメディアさんの声が遠くで聴こえる中、私は返事もせずに電話を切っていました。中傷する者あり、評価する者あり、濱野裕生という私は生まれて始めて経験する目の見えない敵・見方?との闘いにも耐える日々が始まったのです。誰も、何も信じられず、嘘であれ、事実であれ、私自身では絶対にコントロールできない状態に陥ってしまったのです。

 この後、私は自らの行動を制限するのですが、2018年にひっそりと自主制作した《♪老いゆく母を見つめて:①》をネットで聴いた個人・団体からはコンサート再開の打診が猛烈な勢いで入り始めます。アマゾンを中心に話題を呼んだのだと思いますが、その流れを私は嬉しく捉えて2019年後半から小さな規模でのコンサート再開の予定でした。しかし、そこへ降って湧いたのが新型コロナでの自粛規制でした。

〇《♪老いゆく母を見つめて:②》の制作と発表。

 2020年、既にSDカードやUSBメモリーへの保存を終え、後はマスターCDへの録音~プレスという段階ですが、仕上げた曲数が60作品を越えている為、選曲ができない状態。また、中には《♪母がピエロになっていく》という作品があったり、パンパンという職業名?を使った《♪佐世保めもりぃ》等々、YouTubeへの投稿の際にも禁止用語だと指摘された作品があったり・、難題を抱えた状態でコロナ禍が全面的に開けるのを待っている現在です。以上、片目を開けた濱野裕生の近況報告です。  

Posted by 濱野裕生 at 16:12Comments(0)☆母没後の呟き

2022年06月06日

〇実姉(長女)が死んだ。

◎2022.6.6

〇実姉(長女)が死んだ。

 去る令和4年(2022年)2月、姉が没した。膵臓がんに伴う呼吸停止だった。腹水の為に腹部の周囲は1mを越え、腹水が横隔膜を圧迫するようになってからは呼吸が苦しくなる(これは私にも経験あり)為、この呼吸困難を抑える治療・とは言っても鎮静作用のある薬剤で呼吸数を抑える治療が施されたらしい。前日には一回の呼吸をするにも額には汗をかくほどの苦しさだったそうだが翌朝には楽になり、ご亭主や娘との会話が出来るほどに落ち着いたらしい。そこで「寝汗でも拭こうか」ということで温タオルで身体全体を拭きはじめた処、身体を軽く左右前後に揺することがあったのだろうか、姉は再び三度と苦しみ始めてそのまま永眠したらしい。まァ、何事にも切っ掛けがあってその瞬間を迎えるものだろうが、呼吸を抑える処置の効果が失せる頃に拍車を掛けるように身体を動かした事がいけなかったのかもしれない。

 約二週間前、近々の体調不全を感じた姉が病院を受診して受けた検査の結果は膵臓がんの末期で既にステージ4という事だった。驚く間もなく入院したのだが、僅か2週間後に彼の地へ行くなど・、沈黙の臓器「膵臓の癌」、その病名からは理解ができても残された者にとっては唖然とさせられる出来事だった。

 コロナ禍の中、面会するにも順番と人数、時間制限があって姉家族や私や私の兄夫婦の戸惑いは相当なものだった。日立に勤める長男は米国勤務であり、成田到着後の10日間の待機拘束が辛く、母親の死を看取る事もなく、辛うじて通夜の席には間に合ったと伝え聞いた。私はと言えば、姉が膵臓がんだと兄から聞いた後の2週間はとても複雑な思いで過ごしていました。

 既に過去のこのブログ記事にも書いたように、私達3人兄弟(長女、長男、私)はこの2年の間は揉めていた。その理由は私の意見を聞く事なく長女と長男の二人だけで行なった佐世保市相浦にある霊園の我家の墓仕舞いとその熊本への移設に関して私の心が必ずしも穏やかではなかったからだ。私としては長女としての長男への指示は理解できるし、長男としての行動も理解できる。ただ気に入らないのはいつものように、これまでの長女や長男が何度も何度も繰り返してきた私を無視した言動だ。父が没した後に見つかった父名義の柳川の土地を長男の命令だという形で日付指定で従兄弟名義として「委譲しろ」、という際にも長男は「俺の言葉が聞けんのか」と。今回の墓仕舞いや移設の際にも「俺は長男だ」と・。因みに、佐世保の相浦にある市民霊園は全区画が当分に分割された墓地でしたが、我が兄が移設した熊本の墓地は営利目的の墓地であり、兄が選んだ区画は僅かの0.5坪の区画。兄夫婦に強制されるように足を運んだ私は余りの狭さに驚きました。「兄貴よ、お前が親に示す思いってこんなに小さいのか」って私は怒り心頭でした。この頃、私は英国製のトライアンフ社製のバイクを2台買っていて、その総額は約370万・・。せめて、私が長女と長男の計画を知らされていたら、そんな贅沢は辞め、もっと広い区画で父と母を過ごさせる事ができたのに、と悔やんだものです。

 ・・というより、熊本地震後、私は熊本市北区にあった半壊した我家を更地に戻して売却。それを頭金に国の融資を加えて見つけた代替え住宅は玉名郡。これは築23年で積水ハウスの軽量鉄骨製の立派なものでしたが、私はここを売却して佐世保の地に戻り住む思いがあって、佐世保市の相浦のお墓はそっとしておいて欲しかったんです。

 姉の話に戻し、コロナ禍の中で没した我が姉ですが、癌の宣告から僅か2週間でこの世を去ったのが如何にも姉らしい気がしています。・というのも、姉は常日頃から「歩けなくなってまで、我が子を我子と認識しなくなってまで、お腹に穴を開けて食事をさせて貰ってまで、・そんな歳の重ね方は怖いし、嫌」だと言っていて、今回の突然の死はある意味では姉の望む形だったのかなと思っています。そう思うと、私は姉を失った悲しみで泣く事はなかった。

 実は、この姉の死の約一年前に私は姉からの一通の手紙を貰っていました。「兄弟3人で意見が合わないのは仕方のないこと。互いが違った人生を歩いてきた結果が互いの人生観を持ってしまうわけだから仕方がないことです。特に私(姉)は早とちりで物事を勝手に進めてしまう癖があって、周囲には誤解を受ける事がありました。もう、そのことは許してもらうしかありません。だから、これからは互いが干渉しない形で生きていくようにしましょうね」という趣旨の内容の手紙でした。

 姉は、・末っ子の私が12年半の長きに渡って母の世話をしたことに対し、姉自身では多少の違和感、苦痛を感じていたのかな・、と私は思う瞬間があります。それは生前の姉が私に対して発していた様々な言葉から察する事ができます。まァ、短気で早とちりな姉のことですから当然。「あの時はご免。許してね」、「私は前後の見境なく瞬間的にポンと相手を傷つける言葉を出す悪い癖があるから・」、と。我が姉も兄も母の最期を看取る事はなく、母の死には間に合いませんでした。

 母が危篤状態になる度に姉と兄は病院には駆けつけるのですが母は取り直し、そうした事を繰り返した隙間時間というか、母は私と二人きりの時、あたかも母と私は見つめ合うような状態で母は私に頭(こうべ)を下げるように、まるで「これまで・ありがとうね」と言うかのようにその呼吸を止めました。この時の母の最期の様子を姉に伝えれば「そんな事はない。母はそんな死に方はしない」と・・。90歳で母を熊本へ移り住ませ、私と共に暮らした母は102歳、行年103歳で早咲きの桜に見守られて彼の地へ旅立ちました。この12年半の間、海外旅行三昧だった姉は己の人生を思い切り謳歌したのかどうかは私は知る由もありません。その姉はサヨナラも言わずに旅立ちましたが母同様に早咲きの桜は我が姉を優しく彼の地へ誘(いざなう)ったようです。この姉はいつも涙ながらに私のCDを聴いてくれいたそうです。

♫:金木犀



いつになく冷えた朝 窓の外は深い秋 
雪のように舞い落ちる金木犀 白い季節はすぐ・そこ
静かな寝息立て 今朝は母がまだ眠ってる 
昨日、届いたばかりのハーモニカ 枕のそばに置いたまま
窓を少し開けましょうか? 母の眠りを邪魔せぬように 
そして香り放てよ金木犀 今朝は君が母を起こせ
  今は秋? 母が聞く 春はまだ? 母が聞く・
  途切れ途切れの記憶の中に 忘れられない事がある  
  古びたアルバム 開く度に 破れた写真 継ぎ足す度に
  母の記憶が束の間・戻る
カーテン越しに朝日が射します 窓の外は深い秋 
庭の隅に積もった金木犀 白い季節はすぐ・そこ

92度目の冬が来る 辛い事など一つもなかった 
愉しい事だけ覚えているさ 私にいつも・母が言う
母が昨夜の夢を話します 幼い頃は近所のミッチャンと
川に水汲み、山には小さなビャラ集め みつえサンも同じ夢をみたかも
会いに行きましょうよ 貴方を慕うみつえサンに 
そして、姉のふじえサンにも会えるかも 歌が浦は・母の古里
  今は秋? 母が聞く 春はまだ? 母が聞く・
  途切れ途切れの記憶の中に 忘れられない事がある
  古びたアルバム開く度に 破れた写真継ぎ足す度に 
  母の記憶が 柄の間・戻る
厚めの布団に替えましょうか それとも薄手を重ねましょうか 
部屋に飾り続けた金木犀 今日で君とは・お別れ


 まァ、私のブログ記事の中心は母の世話を交えた我が兄弟の約13年間の矛盾を抱えた話ですが、皆さんのご家庭でも「よくあるある話」ではないかと思います。親に対するこうした兄弟姉妹の間の思いの違いですが、また別の日に別件を例に書いてみたいと思います。   

Posted by 濱野裕生 at 15:40Comments(0)☆母没後の呟き

2022年06月06日

〇母親を看取って八年。

◎2022.6.5

〇母親を看取って八年が過ぎました。

 当然のことですが親を看取った後の年を重ねるに従って反省が次々と湧き上がってくることって沢山ありますよね。人間って幾つになっても成長する訳だから、反省がないことのほうがおかしい。
 現在の私、老いた母の介護に没頭していた頃の自分自身を顧みるにつれ、反省する事ばかりです。あの時の俺に対する母の言葉はあんな意味ではなく、実はこんな思いを伝えたかったのかも知れない、あの時の母の表情・・、この子には何を言っても無理、私の気持は通じていない。そんな日々ではなかったんだろうかと思うことが多いものです。

 母が90歳を迎えた春から始めた母との同居。私は母の介護を介護だとは思わず、これは母との楽しい同居だと思うようにしていました。歩くのに不自由であれば腰に手を当て片手を支え、母に寄り添って歩けばいい。母が何かの言葉を発するのが困難な時には先回りして幾つかの言葉を与えればいい。その為には常に母の話す内容に関心を持つようにしよう、と努めました。何故なら、母は「あの落合さんが・・、」と突然に言い出す日があったからです。この落合さんという人は歌が浦時代の母の知人なんですが、母の独身時代の話で合って、この落合さんの事は母以外、父も、母の子の姉も兄も知りません。母没後8年を経ても私は落合さんのことを記憶していますが、その理由は私と暮らすようになった母が折に触れて話す昔話の中で落合さんが度々登場していたからです。でも、歳を重ねた母は悲しいかなこの落合さんの名前が徐々に思い出せなくなっていくのでした。だから、私が憶えておく必要があったのです。

♪:https://youtu.be/YhWqd26SmPM



貴女に聴こえるかしらあの声が 岩倉台の貯水池あたり
ほら蝉が鳴いてるよ 貴女は分かるかしら 一緒に暮して八度目の夏
短命を知るや知らずや蝉しぐれ いつか貴女が詠んだ詩
古い団扇の裏に自分で書いた詩を 誰の詩だ?と貴女は聞く
車椅子で散歩をしますか 陽射しの弱い朝のうちに
思い出すかしら佐世保に暮した頃 それとも伊万里の夏を
だけど貴女は応えない ただ私に微笑むだけ
移りゆく季節の中で ただ老いを急ぐだけ
せめて蝉しぐれ 母の傍で鳴け

そして髪を切りましょ陽のあるうちに 髪を切ったらシャワーを浴びましょう
風呂場の窓を開ければ聴こえるはずさ 今年最初の蝉しぐれ
短命を知るや知らずや蝉しぐれ いつか貴女が詠んだ詩
古い団扇の裏に自分で書いた詩を 今の貴女は思い出せない
ほら蝉がまた鳴き始めたよ 貴女にとって97度目の夏
ほら聴こえるでしょうあの蝉しぐれ 貴女を励ましているよ
だけど貴女は応えない ただ私に微笑むだけ
移りゆく季節の中で ただ老いを急ぐだけ
せめて蝉しぐれ 母の傍で鳴け

行ってみますか山が色づく前に 貴女が育った歌が浦まで
今が盛りかもあの百日紅 姫神社の傍にあったね
ミチエさんから贈り物がきたよ 貴女が好きな平戸恋しやがね
少し身体が弱ってこの夏が辛いと 添え書きがあったよ
ミネコさんが亡くなったってさ 昨日電話があったよ
貴女に伝えましょうかそれともそっとしときましょうか 窓の外は蝉しぐれ
  

Posted by 濱野裕生 at 15:32Comments(0)☆母没後の呟き