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プロフィール
濱野裕生
濱野裕生

2020年12月18日

〇.始めに・②

蝉しぐれ~老いゆくいのち

デビュー後、一年でのコンサート活動中止について。

 この件ではテイチクエンタテインメントを含む各方面へは大変なご迷惑を掛けてしまい、申し訳なく思っています。その他、 デビュー前から活動していた西日本各地の福祉団体さま関連で決まっていたコンサートも完全には消化できなかったことに対し、現在でも申し訳なく思っています。また、テイチクエンタテインメント以前、介護録を本で出版し、その巻末にCDをつけて売るという企画を持ち込んで戴いた某出版社系の放送局に対しても非常に申し訳なく思っています。結局、当時の私は母親の介護という籠の中で暮らし、その籠の外の世界が見えてなかったし、吸っている空気さえもメディアの皆さんとは違う空気を吸っていた訳です。

 デビューの約3週後には日本有線放送総合チャート1位になりながら、その後のコンサート活動をコンスタントに継続できなかった理由は明らかでした。母の傍に付き添ってこその濱野裕生であって、母に対する己の誓いを破ってまで世に出る必要は全く感じていなかったこと。  そして、そのことはスカウトを受けた時点でテイチクエンタテインメントに対しても明確に申し上げていたこと。テイチクからのお言葉は「活動はできる範囲で構わない。しかし、貴方の作る音楽だけは西日本地域だけではなく、北海道から沖縄に至るまで響き渡らせたいとは思いませんか?」だったことです
 
 「大ヒットしていながらCDは全く売れない。何故、濱野裕生はコンサート活動をしない?」、とずっと思われ続けたはずです。 少なくとも、母が没した2014年以降は活動ができる状態ではありました。しかし、地元メディア界では著名なある方は「♪:蝉しぐれ~老いゆくいのち、 に関しては必ずしも介護ソングのイメージは強くなく親孝行ソングだ。しかし、濱野裕生のコンサート会場を覘く限りで言えば、♪:施設にて、♪:いのち、♪、母よ・、♪:ホッホ、に代表されるように非常に聴く者を重く辛い気持にさせる作品ばかりだ」、と言われます。
 結局、濱野裕生の作る音楽は商業音楽の世界には不向きだったのかも知れないと自虐的に納得しています。 元来、福祉団体の主宰する各種資格取得者に対する講習会や研修会の場に呼ばれて活動していた訳ですからノホホンとして暮らす一般世間に聴いて貰えるような種類の音楽ではなかったのだと思うしかありませんね。でも、私の作品が注目を集めた頃はまだそれぞれの家庭ではさして大問題視されてはいない頃・、まだまだ1km先のお宅の問題でした。しかし、この2020年には介護問題は制度だけでは語れないほどに肥大化しては老々介護どころか老々自殺が当たり前のように起きる時代になっています。・・、大変な時代になったものだと感じています。

 私の作る音楽は母との暮らしがあってこそ。そこへの理解とサポートがなければ全国的なコンサート活動は無理だという事はデビュー前から分かっていた事です。私のデビュー前というものは母の体調のいい日を選び、私が母の傍を離れる代わりに私の近所に住む兄嫁が、長崎からは実姉が、時には介護師2名が出張で自宅へ来てくれて母の傍につく、という状態で私のコンサートが成立していました。 
 例えば、早朝の8時過ぎに新幹線で熊本から博多へ25分、コンサートが終わるのが14:00としても夕方の15:30には私は母の傍に戻る事ができました。逆に天草の牛深の介護家族の会からコンサート依頼があっても列車も通わない為に車で行くとして、コンサートを終えて熊本市内に帰ってくるには大変なことです。こんな無理なコンサートでは私と嫁の二人でCD売って帰ってくるなど絶対に出来ません。つまり、母親の介護と私の音楽活動は最初から矛盾があったんです。それとも、「歌手になれる」と私が飛び跳ねて喜び、母の介護を放棄するとでも思われていたのでしょうか?。

 当時、ある福祉関係の方がこんなとんでもないことを言われたことがありました。「もう、貴方をメジャーの世界へ送り込んだのだから、私の役目を終わった」と・。私は「えっ?」と・、全く意味が理解できませんでした。「私は今夜も明日も・ずっと母の傍に居続けますが・」、と応えれば、その方は「えっ?・」と・。


勿論、デビューが決まる一ヶ月前にはマネージャー兼音響機器の操作係としてUという男性が名乗りを上げてくれました。ギャラ+会場売りCD+介護録の売り上げの中から燃料費、フェリー代金等の経費を差し引いた残りを等分するという取り決めです。 最初はいい感じでした。 Uを全面的に信頼した私は毎日のように我が家へやってくるUに対して指示をし、母中心ではありますが柔らかい食事を多めに作ってはUを含めて母と嫁、私とUの4人で夕食を囲む事が多くなり、「ほら、Uさん!これも食べなさい」と母とUとの関係も非常に良好だったんです。

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Posted by 濱野裕生 at 16:00│Comments(0)☆.はじめに・
 
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