◎2022.6.8
〇兄が移設したお墓
先日の記事にも書いたように、長崎県の長与に住んでいた長女の紘子の指示で長男の利彦はそれまでは佐世保にあったお墓を2021年に熊本へ移設します。元々、このお墓は父が没した際、母の考えでそれまでは父の里である柳川の地にあったものを分墓する形で佐世保の相浦公設霊園に移していたもの。
この相浦にある公園墓地は九十九島の風景の中に包まれるような素晴らしい立地環境にあって私はとても気に入っていました。母は短歌や川柳以外にも生花やちょっとした挿絵にも才があり、九十九島を望める一角に父のお墓を・、そして、自身もいずれは此処に・と考えたんだろうと思っていました。
母が佐世保に分墓したものは柳川にある父方の本家である高橋家のお墓に比せばその4割にも満たない広さですが、それでも畳3枚ほどですから一坪半。この佐世保の公営墓苑ではすべてのお墓スペースが一坪半に分轄され、墓石にしても幾つかの種類があるだけですべてが同じデザインでしか作る事の出来ないように配慮されたものでした。勿論、納骨スペースは通常の骨壷の大きさで8~10個程度は十分に入るものでした。
熊本へのお墓の移設を姉から指示された兄はひたすら責任感だけで長男としての務めを果たそうと考えたのか、熊本の幾つかの霊園を見学した挙句に現在地への移設を決断したのでしょう。でも、お墓ってそんなに頻繁に参るものではないはずですね。
いずれ私が佐世保へ移り住む計画を持っていた事は私だけの勝手な都合です。だから、佐世保のお墓を姉や兄の都合で引越しをさせても、それに対して俺は嫌だとは私は決して言えません。そのことは私は自覚してはいます。
それは兎も角、兄が見つけてお墓を移設した熊本の私設霊園では見栄を競い合うかのような派手なお墓が立ち並ぶ所でした。数年前に開発された霊園ですから、どのような雰囲気の霊園になっていくのかをもう少しだけ様子を観察する期間を設けても良かったんではないかと・、私は思ったんです。亡き母が佐世保の相浦を選んだ背景を考えて欲しかった・なと思ったわけです。
それに、・・兄には言い難いことですが、兄が移設した熊本のお墓は畳半分程度の0.5坪。納骨スペースは通常サイズの骨壷で3個しか入らないものでした。恐らく、我が兄は自分と嫁とバツ一の長男、独身の次男分があればいいという思いで選択したんだろうと・・。
つまり、兄が行なった墓の移設は単なる引越しではなく己の家族しか入れないお墓に縮小させて移設させていたんです。
「直裕! 入魂式があるからお前も一緒に来い」と言った兄の言葉を思い浮かべながら、私はお坊さんの唱える曹洞宗のお経に合わせるよう首を傾げて「どゆこと?、ドユコト?ハハカラノオカネはドシタノ?」と呟いていましたよ。我が母が没した際、後見人を務めていた姉は遺産分与として佐世保の相浦公営霊園換算で数十年分の借地料と兄に対する墓守分を渡していたはずだからです。
処で、この兄が熊本で見つけた霊園は某曹洞宗のお寺さんと地元の数社の不動産会社、それに墓石屋さん達が共同で開発したものですが、ご存知のように曹洞宗は別称で禅宗であり、法事の際には旗を掲げて笛に太鼓の鳴り物入りで村中を練り歩く宗派だったらしく、因みに我が母方の総帥である濱野家はこの曹洞宗ではありますが。。私の作品の中には《♪母の童歌》というのがあって、その中で母の母、つまり、48歳の若さで腎臓病で亡くなった私の祖母のお葬式の模様を「笛に太鼓にかき消され私のかあちゃま何処行った?・・」という詩で表現していますが、我が母ツヤさんは大正2年生まれ、そのツヤさんが10歳の頃に母親のライさんが亡くなっていますが、大正12年頃には今風の焼き場もそんなにはなく、村の広場の一角に亡き人を固定してその周囲に沢山の薪を積み上げて火葬をしていたようです。この《♪母の童歌》という作品の詩の内容のすべてが存命の頃の母が私に伝えた北松浦郡にある歌が浦時代の畑仕事や葬儀の様子、渡し舟で平戸の女学校へ通う母達姉妹の当時の様子を書いています。皆さんにはこの《♪母の童歌》をYOUTUBEで是非聴いて欲しいと思います。
♪:https://www.youtube.com/watch?v=GC0Uiro4BEw&t=12s
♫:母の童歌
おじちゃん・あそこに連れてって 小さな祠のある所
貴方は教えてくれたでしょ? ここから昔に戻れる・と
だったら・私は帰りたい 自分が誰だか聞きにいく
おじちゃん・訊ねていいかしら 私のふる里どこかしら
海の綺麗な・とこでした 緑の綺麗なとこでした
私の母ちゃま・いるかしら 今日も畑で草むしり
HU HU・・
父ちゃま・自慢の菊作り 母ちゃま隣で針仕事
飴玉・一つおくれませ せめて砂糖のひと摘み
くれたら私は庭先で 海でも眺めていますから
ああ・沖合に船が来る 私の姉しゃま連れて来る
せめて艀で行けたなら 手荷物持ってあげるのに
HU HU・・
母ちゃま・逝って禅宗の 笛に太鼓にかき消され
私の涙は・どこ行った 私の母ちゃまどこ行った
酒に溺れる・父ちゃまの 帰りが遅いと泣きました
母の代りと・姉しゃまは 毎日せっせとご飯炊き
歌が浦から・平戸まで やがて通った女学校
あれほど焦がれた・寄宿舎の壁に凭れて泣きました
HU HU・・
おじちゃん・教えてくれまっせ 深江は遠いとこですか
イサム兄しゃま居るかしら 私を待っているかしら
深江に私を連れてって もう一度一緒に暮らすから
ああ・船が出る 平戸まで 姉しゃま乗せた船が出る
姉しゃま・今度はいつ帰る シケたら平戸は遠い島
HU HU・・
おじちゃん・あそこに連れてって 小さな祠のある所
貴方は教えてくれたでしょ? ここから昔に戻れると
だったら私は帰りたい 遠いあの日に帰りたい・・
HU HU・・
〇我が兄に言いたいこと
我が兄は周囲には神経質な一方で自身に対してはズボラな面があって、一言言いたい。まず移設した新しい墓碑に刻まれた内容が間違っていること。母が没したのは2014年3月7日、101歳で没したから行年102歳であること。しかし、兄が墓石屋さんへ依頼した文字は間違っていて、母の行年101歳だと墓碑に刻まれている事。これは絶対に正してくれ。 それに、母の実家は曹洞宗であっても、我が家系は浄土真宗のお東さんだという事。因みに、ナモアミダブツと発音しようがナミアムダブツと発音しようが、お線香は西は立て、東は寝せて置くってこと知っているか?。でも、皆さんも意外にご存知ありませんよ・ね?。もう、そんな事はどうでもいいよって・いうお袋の声が聴こえたような気もします。
アーティスト名で濱野裕生こと高橋直裕は母没後の現在でも今を彷徨っているようです。しかし、私としては、「母が間違いなくこの世に存在し、それなりに生きていた」という事実に対し、姉や兄がどれほどの重きを置いて母を弔っているかが問題なんです。亡き故人から受けた恩に対してどれほどのリスペクトを感じ、それを行動として起こしているか否かが人として大事なことなんです。それに・・、高橋家としては浄土真宗の東本願寺派だから、本来はその筋のお坊さんに入魂式の儀を依頼すべきことだし、こうした処が周囲の迷惑を全く気にしない我が兄貴のズボラな点であり、全く信頼を置けない根拠なんです。
〇しかし、私はお墓の建立自体に然程の意味を感じていない。
私が日常的に抱える疑問を少し話せば、仮設住宅で朝起きて「母ちゃん、お早う。今日は会社からの帰りにお墓参りに行くよ」と言い、会社の帰りにバイク飛ばして花屋さん経由で墓苑へ行き「母ちゃん来たよ。そっちはどうですか?。親父と仲良くしていますか?」等々と話しかけ、墓碑の周辺を念入りに掃除して「では、母ちゃん、また来ますよ」と再びバイクに跨っては仮設住宅へ戻る訳ですが・、帰宅したらしたで・、仏壇に向かって「母ちゃん、お墓参りから今、帰ってまいりました」と報告するわけです。。
皆さん、これって、何かおかしくないですか。それに・、私の首にはお風呂に入る時以外は常に母のお骨入りペンダントが下がっているんです。
裕生(直裕)!、何を朝から夕方まで私の周りをあっち行き、こっち行きして、チョロチョロしとるとね!。 私はいつもあんたと一緒に居るじゃないか。そうだろ?」、という母の声が一日中聴こえてきます。こうした疑問が皆さんにはありませんか?。結局、我が日本人はこうした矛盾に気付いていながら昔から続く習慣だからと延々と現在でも続けているんです。少子高齢化の中、全国的に放棄墓碑が問題になっています。
自宅には立派な仏壇を祀っていながら、わざわざ高額な利用料の墓苑を探し、数百万を掛けて墓碑を建て、そのローンに追われて残業稼ぎで深夜遅くに電車に乗って帰宅途中、脳梗塞に倒れて読経どころかお線香もあげられない、車も運転できない、お墓参りにも行けない身体になって、それであなたの亡き父や母が喜ぶと思いますか?。それが本当の信心深さ、これが唯一の弔いだと思っているんですか?。まず、貴方は貴方自身の子供を大切に育てましょう。そして、その貴方の背中を見て大きくなった子供が今度は自分の子供を大切に育て、その連鎖が幸せな家系作りへと繋がっていくものと考えれば、お墓の存在意味に対して私たちは一度立ち止まって考える必要があると思ってしまいます。
〇献花はカサカサに枯れ、蜘蛛の巣に枯れ葉が乗ったままのお墓。
前述した我が兄が見つけた熊本の私営墓苑ですが、私は父母が眠るお墓の周囲10mを必ず清掃して帰ります。お隣さんを始めとして周囲のお墓は蜘蛛の巣が張り過ぎて悲惨な状態だからです。雑草は生え誇り、供花は枯れてビール缶は破裂して墓石は鳥や虫の糞だらけ・・。墓石に深く彫られた〇〇家の文字の所にはカマキリの巣が何個も・・。お墓をこんな状態にしてまで貴方にはお墓が必須ですか?。せっかく作ったお墓は護れていないじゃないですか!。
「私達の為にこんな汚いお墓を建立してローンに苦しむより、お前達の子供に美味しいものを食べさせておくれ。そのほうが私達は余程嬉しいよ」と貴方の亡きご両親が言っているはずです。
〇母の言葉で車を棄て、バイク生活に切替えたことで別の角度から人生が見えるようになった。
前述したように、私はお骨ペンダントに母の骨片を入れて日常的に首に下げています。生前の母ですが、朝夕の老人施設への母の通所、退所の送迎は私が行なっていました。その途中でバイクが私達が乗った車を追い越しでもしたら、「エーイ、あんたはバイクに追い越されて悔しゅうはなかとネ。ハヨ、追い掛けなさい!」、と叫ぶほどにバイクが好きな母でした。「エーイ。私がバイクに乗れたらネーッ」とよく言ったものです。凄い人でしょっ?これは96歳の頃の母の言葉です。
そして、私はその母没後に母との約束を果たす為に大型バイクの免許をとりました。そして、首には母のお骨を入れたペンダントを下げ、車を棄てて1200ccのバイクに乗り始めたのです。「ハアーッ、気持いいねェ。バイクはいいねェ」という母の声が聴こえるようです。
父母の弔い方、或いは貴方の恩人に対する弔いの形は様々だとは思いますが、私の考え方としては常に我が心と身体がその亡き人達の傍に共に居てあげれるか、今を生きる自分が亡き人へ向かって合掌や読経するだけではなく、同じ方向を見て同じ風を受けれるか、同じ日常を過ごせるか?、私はいつもそのような思いで亡き母と共に今を生きています。母が存命中の私は母をあくまでも我が母として敬う一方、ある時は我が妹のように接しました。それ故に、我が兄や2022年3月に彼の地へ逝った我が姉には母に対する彼らの勘違いや弔いに対する幾つもの矛盾を感じるのです。こうした私の考え、皆さんはどのように思われることでしょう。